◆◆◆ 追憶の日
どうしてその年まで顔をあわせる機会がなかったかというと、咲弥の母親が祖父の存在を
そんな母親が、どうしていきなり祖父の存在を明かしたかというと――これはのちになって判明したことだが、家庭内に不和が生じたためであった。咲弥の父親の
いきなり祖父の存在を打ち明けられた咲弥としては
咲弥たちの自宅から祖父の家までは、電車とバスを乗り継いで三時間という道のりとなる。小学生の
やがて
しかしその地は、まだ終着点ではなかった。咲弥と弟がバスを降りて
「……お前さんがたが、咲弥と
運転席の窓から顔を
当時の祖父は
「遠いところを、よく来たな。家まで案内するから、乗りなさい」
咲弥は「はぁい」と応じながら、弟ともども後部座席に乗り込んだ。
軽自動車は、いかにもくたびれたエンジン音を響かせながら動き始める。後部座席には
「じっちゃんは、かわいいのが好きなの?」
咲弥がそのように問いかけると、祖父は一
「この車は、近所の知り合いからの借り物だ。わしの車は、二人しか乗れんのでな」
「ふーん、そうなんだ。……あ、これから一週間、よろしくお願いします」
「うむ。こんな田舎では
その後は、無言のまま道を辿ることになった。
後から思い返すと、初対面の
まあ、弟はゲームに夢中であるし、咲弥もべつだん無理に口をきく必要を感じなかった。車内にはとても穏やかな空気が満ちており、
祖父の家は、大きな山の
ひとりで住むには、ずいぶん大きな家である。ただし、どこもかしこも恐ろしいほどに古びていて、都会育ちの咲弥にはまったく見慣れない造りをしていた。
しかし、そんな
「子供には、退屈な場所だろうねぇ。スイカでも食べるかい?」
なおかつ祖父も、農作業には取り組んでいなかった。祖父も祖父で持病があるとかで、
しかし、やることがないのは咲弥も同様である。咲弥はこのような折に夏休みの宿題を持ち込むほど勤勉な子供ではなかったし、リュックの中には
「いっそのこと、子供たちをお山に連れていってあげたらどうだい? 三日も閉じこもっていたら、歳三さんだってうずうずしちまうだろう?」
田辺老婦人がそのように呼びかけても、祖父は「いや」としか答えなかった。祖父は誰に対しても、言葉が少ないのだ。老婦人はにこやかな
「歳三さんはね、しょっちゅう裏のお山でキャンプを楽しんでるんだよ。あたしはよくわからんけど、家に閉じこもってるよりは楽しいんじゃないかねぇ?」
「へえ。キャンプなんて、したことないや。キャンプって、楽しいの?」
そんな咲弥の問いかけには、「うむ」という言葉が返される。「いや」ではなく「うむ」であるから、
「せっかく田舎に来たんだから、田舎の楽しさを教えてやりゃあいいじゃないのさ。歳三さんが一緒だったら、何も危ないことはないだろう?」
「うむ。……しかし、子供のほうが
「そんなことないさ。みんなだって、行ってみたいだろう?」
すると、ゲームに熱中していた弟がひさかたぶりに「いえ」と声をあげた。
「山は虫がいるから、
ゲーム機の画面を見つめたまま、弟は
すると、いつも眠たげな祖父の目に残念そうな光が灯り――それが、咲弥の心を動かしたのだった。
「あたしは、行ってみたいなぁ。家に帰ったら、一生キャンプをやるチャンスなんてないだろうしね」
「ほらほら、咲弥ちゃんは興味があるってよ。典哉ちゃんの
「うむ。しかし、そろそろ昼の
「
「え? 山なのに、魚が釣れるの?」
咲弥がびっくりして声をあげると、老婦人は「そうさね」と微笑んだ。
「山の中に川が流れてるから、イワナやヤマメが釣り放題なんだってよ。キャンプに行くと食費が浮くって、歳三さんはいつも言ってるもんねぇ」
「へえ、すごいなぁ」
と、咲弥が感心しながら声をあげると、初めて祖父の表情が動いた。もともと眠そうな目がさらに細められただけのことであるが、それだけで微笑んでいるように見える仕草であった。
「……咲弥は、釣りに興味があるのか?」
「んー? よくわかんないけど、楽しそうじゃん」
祖父は「そうか」とつぶやきながら、迷うように灰色の頭をかいた。そこで背中を押したのは、やはり老婦人である。
「せっかく咲弥ちゃんたちと会うことができたんだから、思い出ぐらい作ってあげなよ。この先、またいつ会えるかもわからないんだからさ」
それでも祖父はしばし
そうして咲弥が連れていかれたのは、祖父の
「わー、何これ? キャンプって、こんなに荷物が必要なの?」
祖父は「うむ」と答えながら、いくつかの荷物を
それらの荷物は、すべて軽トラックの荷台に移される。そして、
田辺老婦人に見送られながら、軽トラックは母屋の裏手へと進んでいく。そうして
十五分ほど山道をのぼると、それなりの大きさをした空き地に到着する。
祖父はその空間をも踏み
到着したのは、
それなりの
「ほんとに山の中に、川が流れてるんだねぇ。すごいなぁ」
「うむ。……山に川はつきもののはずだが、そんなに
「うん。だって、山に入ったのも初めてだからねぇ」
咲弥が知る川というのは、コンクリートの
軽トラックの助手席から川辺に降りると、いっそうの迫力が咲弥の身に迫ってくる。この場所はいっそう
「……まずは、設営だな」
と、祖父が軽トラックの荷台から小さからぬナイロン製の包みを引っ張り出した。その包みに封入されていたのは、どうやらテントの一式である。
「テントを張るの? 夜には帰るんでしょ?」
「うむ。しかし、山の天気は変わりやすいからな。雨に備える必要があろう」
「雨が降ったら、車に
「車では、魚を焼けまい?」
咲弥の問いかけを的確な返答で打ち返しつつ、祖父は地面にシートを
「ねえねえ。あたしもそれ、やってみたいなぁ」
祖父は眠たげな目で咲弥のほうを見やってから、小ぶりなハンマーを
咲弥はそれなりに胸を
「ペグは垂直に
「ふーん。これぐらい?」
「それでは、傾けすぎだ。張ったロープと直角ぐらいの角度が望ましい。力む必要はないので、ハンマーの重さを利用して打つのだ」
祖父の指南のもと、咲弥は地面にペグを打ち込んだ。小石の下は土の地面であったので、さしたる苦労もなくペグはうずまっていく。しかし咲弥にとってはハンマーを
そうしてテントが完成したなら、入り口のシートを前にのばしてポールを立てる。それが、雨よけの屋根であったのだ。祖父はその下に新たなシートを敷いて、
「釣りの前に、米を
祖父は薪の束を下ろすと、
咲弥がうずうずしていると、また眠たげな目を向けられてくる。
「子供に手斧を扱わせるわけにはいかんからな。こればかりは、我慢しておけ」
「わかってるよぉ。だから、なんにも言ってないじゃん」
「しかし、そんなねだるような目で見られてはな」
眠たげな目をいっそう細める祖父の姿に、咲弥は「ちぇっ」と舌を鳴らしつつ笑った。
やがて
「焚火を見たのも、初めてだなぁ。昼間でも、けっこうきれいなんだねぇ」
「うむ。でなければ、苦労をして薪を割る
祖父もまたしばし焚火の炎を堪能してから、その上に
「では、釣りだな。釣れなければ、
「あはは。同じ魚でも、ずいぶんな差だねぇ」
祖父は荷台から釣り
「浅い川だが、昨日の雨で少し水量が増しているようだ。川遊びは
そんな言葉を語りながら、祖父は釣り竿の扱いをレクチャーしてくれた。
この数分間だけで、ここまでの二日半を
祖父の指示に従って、咲弥は釣り竿をスイングさせる。ルアーと
「いささか川の流れが激しいので、ルアーの動きをよく見ておくのだぞ。手応えがあっても、
そうして祖父は、
しかしその椅子は一
咲弥も同じ方向に視線を飛ばしつつ、時おり祖父の横顔をうかがう。
祖父は釣り竿も
「……じっちゃんは、しょっちゅうキャンプを楽しんでるの?」
「うむ。それ以外には、
「ふーん。……あんな大きな家にひとりで、さびしくない?」
「うむ。べつだん今に始まったことではないからな」
そんな風に言いながら、祖父はいっそうやわらかく目を細めた。
「……咲弥はわしを、じっちゃんと呼んでくれるのだな」
「ええ? 今さら何を言ってんのさぁ。初めて会ったときから、そう呼んでるでしょ?」
「うむ。だから、驚かされたのだ。お前さんはこれまで、わしのことを聞かされていなかったのだろう?」
「うん。いきなりじっちゃんができて、びっくりしちゃった」
「わしもいきなり孫ができて、たいそう驚かされたぞ」
祖父がこちらを振り返ったので、咲弥は一緒に目を細めることになった。
「ねえねえ。せっかくテントを張ったんだから、やっぱり夜までここにいたいなぁ」
「しかし、典哉を放っておくわけにもいくまい? 田辺さんだって、心配するだろうからな」
「うーん、そっかぁ。……夜の焚火も見てみたかったんだけどなぁ」
「それはまた、いずれ機会があったらな」
祖父のそんな返答に、咲弥は身を乗り出すことになった。
「それじゃあさ、次はあたしひとりで来るよ。そしたらまた、一緒にキャンプしてくれる?」
「うむ? こちらはまったくかまわんが……しかし、お前さんの母親が許さないのではないか?」
「
祖父は「そうか」と、困っているような顔で微笑んだ。
「あまり親に心配をかけんようにな。……そら、
「え? あれ? うわー、なんか、逃がしちゃったっぽい」
「べつだん、
そうして焚火台の米が炊けるまで、魚が釣れることはなかったが――咲弥はその日、キャンプの楽しさを骨の
◇
それから、十二年の日が過ぎ去って――咲弥はひとり、祖父の寝室にたたずんでいた。
葬式は午後からであるので、家にはまだ咲弥しかいない。咲弥はひとり祖父の寝室で山積みにされたキャンプギアを眺めながら、追憶にひたっていたのだった。
祖父が
無茶な勤労で頭が
この家も、七首山も、これらのキャンプギアも、主人を失ってしまったのだ。
軽トラックは庭から消えて、冷蔵庫の中身は空っぽであった。咲弥は何の準備もできていなかったのに、祖父のほうは準備
(じっちゃんは、なんでもぬかりがなさすぎるんだよ。少しはあたしの苦労を残していってくれればよかったのにさ)
そんな考えをぼんやりと浮かべながら、咲弥は
そうして咲弥は、もうひとたび室内に視線を
咲弥は半ば無意識の内に歩を進めて、座卓のそばに膝をつく。そうして手をのばして、その平たい何かを引っ張り出してみると――それは、古びた写真立てであった。
その中で、咲弥と祖父が笑っている。
これは咲弥がスマートフォンで
咲弥は十歳、祖父は六十手前である。釣り竿を握った咲弥は、その釣り
これは、咲弥が初めて祖父とキャンプに出向いたときのワンシーンであった。咲弥は米が炊けた後も
咲弥は珍しく、大口を開けて笑っている。乳歯の生えかわりで前歯が一本欠損しているため、とても間の抜けた
この写真が
(だから……こういうのは、いいんだってば……)
咲弥は
それと同時に、どうしようもなく