◆◆◆ 追憶の日



 さくが初めて祖父と顔をあわせたのは、小学四年生の夏休みであった。

 どうしてその年まで顔をあわせる機会がなかったかというと、咲弥の母親が祖父の存在をいんぺいしていたためである。どうやら母親は田舎いなかで生まれ育ったという生い立ちに絶大なるコンプレックスをかかえていたらしく、祖父の存在も故郷の存在もひた隠しにして都会的な生活をまんきつしていたようであった。

 そんな母親が、どうしていきなり祖父の存在を明かしたかというと――これはのちになって判明したことだが、家庭内に不和が生じたためであった。咲弥の父親のうわが発覚して、大戦争が勃発したのだ。それで母親は心置きなく戦えるように、咲弥と弟を祖父のもとに預けようと思いたったわけであった。

 いきなり祖父の存在を打ち明けられた咲弥としてはこんわくするばかりであったが、当時の母親はにこにこと笑いながら冷たい怒りの波動をかもしだしていたので、疑問を投げかけることもままならなかった。また、咲弥は当時からマイペースな気性であったため、(ま、いっか)と気楽に構えて弟ともども祖父の家に向かうことに相成ったのだった。

 咲弥たちの自宅から祖父の家までは、電車とバスを乗り継いで三時間という道のりとなる。小学生のていだけでそんな場所に向かわせるというのは、母親もよっぽどせつまっていたのだろう。しかし咲弥は普段からきゆうくつな生活をいられていたので、親公認のちやな長旅にいちまつ以上の楽しさをいだしていた。いっぽう二さい年少の弟はどのような心境であったのか、移動中もずっとポータブルゲーム機のプレイにぼつとうしていた。

 やがてとうちやくしたのは、ひなびた田舎いなかまちである。

 しかしその地は、まだ終着点ではなかった。咲弥と弟がバスを降りてじやみちにたたずんでいると、やがて古びた軽自動車がしずしずと接近してきたのだった。

「……お前さんがたが、咲弥とのりか? わしは、としぞうだ」

 運転席の窓から顔をのぞかせた老人が、低い声音でそのように呼びかけてきた。四角く骨張った顔はいかついが、眠たげに細められた目にのんびりとした気性がにじんでいる。かみひげは半白髪で、一見は灰色に見えた。

 当時の祖父はかんれき手前であるはずであったが、十歳の咲弥にしてみれば立派な老人だ。ただし、咲弥の母親とは似ても似つかない。そして、十年ぶりにいきなりれんらくをよこした娘から二人の孫をしつけられても、まったくめいわくがっている様子は見られなかった。

「遠いところを、よく来たな。家まで案内するから、乗りなさい」

 咲弥は「はぁい」と応じながら、弟ともども後部座席に乗り込んだ。

 軽自動車は、いかにもくたびれたエンジン音を響かせながら動き始める。後部座席にははながらのクッションが置かれており、バックミラーには可愛らしいねこのマスコットがれていた。

「じっちゃんは、かわいいのが好きなの?」

 咲弥がそのように問いかけると、祖父は一ぱくおいてから「いや」と答えた。

「この車は、近所の知り合いからの借り物だ。わしの車は、二人しか乗れんのでな」

「ふーん、そうなんだ。……あ、これから一週間、よろしくお願いします」

「うむ。こんな田舎では退たいくつだろうが、ゆっくりしていくがいい」

 その後は、無言のまま道を辿ることになった。

 後から思い返すと、初対面のあいさつとしてはずいぶん不十分であったことだろう。咲弥たち姉弟と祖父は、この年になるまでおたがいの存在を知らされていなかったのだ。それでいきなり顔をあわせて、一週間もともに過ごすことになったというのに、おたがい何も込み入ったことをたずねようとしなかったのだった。

 まあ、弟はゲームに夢中であるし、咲弥もべつだん無理に口をきく必要を感じなかった。車内にはとても穏やかな空気が満ちており、ちんもくまりになることもなかったのだ。それで咲弥は窓からき込む夏の風に髪をなぶらせながら、見慣れない田舎の風景を楽しむことになったのだった。


 祖父の家は、大きな山のふもとにへばりつくようにしてちんましましていた。

 ひとりで住むには、ずいぶん大きな家である。ただし、どこもかしこも恐ろしいほどに古びていて、都会育ちの咲弥にはまったく見慣れない造りをしていた。

 れいぼう器具はせんぷう団扇うちわしか存在しなかったが、べつだん不都合は感じない。気温はそこそこ高いようであるのに、風がりようを帯びているのだ。広々とした家と相まって、それは咲弥にまたとない解放感をもたらしてくれた。

 しかし、そんなかんきようも三日もすればきてしまう。祖父の言う通り、この村落には何もなかったのだ。坂道をおりてもそこに広がるのはのどかな田園の風景のみであり、コンビニやスーパーはおろか商店のひとつも見当たらなかったのだった。

「子供には、退屈な場所だろうねぇ。スイカでも食べるかい?」

 もくな祖父に代わって声をかけてくれるのは、ご近所に住まっているという田辺たなべハツなる老婦人であった。彼女はこしを痛めて農作業を休んでいるそうで、ちょくちょく咲弥たちの様子を見に来てくれたのだ。例の軽自動車も、彼女のむすふうから借り受けたのだという話であった。

 なおかつ祖父も、農作業には取り組んでいなかった。祖父も祖父で持病があるとかで、いんきよ生活をめ込んでいたのだ。すいせんたくといった家事の他には、テレビを見るぐらいしかやることもないようであった。

 しかし、やることがないのは咲弥も同様である。咲弥はこのような折に夏休みの宿題を持ち込むほど勤勉な子供ではなかったし、リュックの中にはえとさいとスマートフォンしか入れていなかったのだ。そのスマートフォンも親に厳重に管理されているためゲームで遊ぶことも動画をえつらんすることもできなかったし、そもそも咲弥はそういった類いにそれほど興味を持ち合わせていなかったのだった。

「いっそのこと、子供たちをお山に連れていってあげたらどうだい? 三日も閉じこもっていたら、歳三さんだってうずうずしちまうだろう?」

 田辺老婦人がそのように呼びかけても、祖父は「いや」としか答えなかった。祖父は誰に対しても、言葉が少ないのだ。老婦人はにこやかなおもちで、咲弥に向きなおってきた。

「歳三さんはね、しょっちゅう裏のお山でキャンプを楽しんでるんだよ。あたしはよくわからんけど、家に閉じこもってるよりは楽しいんじゃないかねぇ?」

「へえ。キャンプなんて、したことないや。キャンプって、楽しいの?」

 そんな咲弥の問いかけには、「うむ」という言葉が返される。「いや」ではなく「うむ」であるから、こうていの意だ。咲弥もこの三日間で、だいぶん祖父の生態をあくできていた。

「せっかく田舎に来たんだから、田舎の楽しさを教えてやりゃあいいじゃないのさ。歳三さんが一緒だったら、何も危ないことはないだろう?」

「うむ。……しかし、子供のほうがいやがるだろう」

「そんなことないさ。みんなだって、行ってみたいだろう?」

 すると、ゲームに熱中していた弟がひさかたぶりに「いえ」と声をあげた。

「山は虫がいるから、きらいです。ぼくは家のほうがいいです」

 ゲーム機の画面を見つめたまま、弟はあいのかけらもない声でそう言った。

 すると、いつも眠たげな祖父の目に残念そうな光が灯り――それが、咲弥の心を動かしたのだった。

「あたしは、行ってみたいなぁ。家に帰ったら、一生キャンプをやるチャンスなんてないだろうしね」

「ほらほら、咲弥ちゃんは興味があるってよ。典哉ちゃんのめんどうはあたしが見ておくから、行ってきなさいな」

「うむ。しかし、そろそろ昼のたくを――」

そうめんぐらい、あたしだってでられるさ。咲弥ちゃんには、った魚でも食べさせておやりよ」

「え? 山なのに、魚が釣れるの?」

 咲弥がびっくりして声をあげると、老婦人は「そうさね」と微笑んだ。

「山の中に川が流れてるから、イワナやヤマメが釣り放題なんだってよ。キャンプに行くと食費が浮くって、歳三さんはいつも言ってるもんねぇ」

「へえ、すごいなぁ」

 と、咲弥が感心しながら声をあげると、初めて祖父の表情が動いた。もともと眠そうな目がさらに細められただけのことであるが、それだけで微笑んでいるように見える仕草であった。

「……咲弥は、釣りに興味があるのか?」

「んー? よくわかんないけど、楽しそうじゃん」

 祖父は「そうか」とつぶやきながら、迷うように灰色の頭をかいた。そこで背中を押したのは、やはり老婦人である。

「せっかく咲弥ちゃんたちと会うことができたんだから、思い出ぐらい作ってあげなよ。この先、またいつ会えるかもわからないんだからさ」

 それでも祖父はしばししゆんじゆんしたのち、ようやく腰を上げたのだった。

 そうして咲弥が連れていかれたのは、祖父のしんしつである。そこで待ち受けていた光景に、咲弥はまたおどろかされることになった。祖父の寝室には、正体の知れない荷物がところせましと山積みにされていたのである。

「わー、何これ? キャンプって、こんなに荷物が必要なの?」

 祖父は「うむ」と答えながら、いくつかの荷物をげんかんぐちに運び始めた。さらに、台所で大きな容器に水をみ、金属製の小さな容器に生米と水をふうにゆうし、冷蔵庫から取り出したペットボトルのお茶をクーラーボックスにほうんだ。

 それらの荷物は、すべて軽トラックの荷台に移される。そして、おもの横合いの物置から、ひと束のまきと炭も持ち出された。

 田辺老婦人に見送られながら、軽トラックは母屋の裏手へと進んでいく。そうしてうつそうとした山林をっ切っていく内に、咲弥の胸にはほのかなこうようが宿されていった。キャンプや釣りといったものにも興味を引かれていたが、祖父と二人きりで車に乗っているだけで楽しかったのだ。こんな際でも祖父は寡黙であったが、やっぱり気詰まりになることはなかった。

 十五分ほど山道をのぼると、それなりの大きさをした空き地に到着する。

 祖父はその空間をも踏みえて、道とも思えない樹林のはざに車をくぐらせた。すると今度は下り坂となって、車のしんどうが激しくなっていく。それから五分ほどが過ぎると、ついに川のせせらぎが聞こえてきたのだった。

 到着したのは、きようこくの川辺である。

 それなりのはばを持った川が、それこそ樹林をかきわけるようにしてどうどうと流れている。夏の日差しにとうめいかわがきらめいており、咲弥は思わず「うわあ」と声をあげてしまった。

「ほんとに山の中に、川が流れてるんだねぇ。すごいなぁ」

「うむ。……山に川はつきもののはずだが、そんなにめずらしいのか?」

「うん。だって、山に入ったのも初めてだからねぇ」

 咲弥が知る川というのは、コンクリートのかべにはさまれた暗緑色の流れでしかなかった。もちろん自然のけいりゆうというものもテレビか何かで見た覚えはあったが、本物のはくりよくには遠くおよばなかった。

 軽トラックの助手席から川辺に降りると、いっそうの迫力が咲弥の身に迫ってくる。この場所はいっそうすずしかったし、森のにおいと川の匂いが混然一体となって咲弥のきゆうかくをもげきした。

「……まずは、設営だな」

 と、祖父が軽トラックの荷台から小さからぬナイロン製の包みを引っ張り出した。その包みに封入されていたのは、どうやらテントの一式である。

「テントを張るの? 夜には帰るんでしょ?」

「うむ。しかし、山の天気は変わりやすいからな。雨に備える必要があろう」

「雨が降ったら、車にもどればいいんじゃないの?」

「車では、魚を焼けまい?」

 咲弥の問いかけを的確な返答で打ち返しつつ、祖父は地面にシートをいた。そしてその無骨な指先が、てきぱきとテントを組み立てていく。咲弥はだまってそのさまをながめていたが、祖父がテントを固定するためにロープを張ってペグを打ち始めたところで、まんの糸が切れた。

「ねえねえ。あたしもそれ、やってみたいなぁ」

 祖父は眠たげな目で咲弥のほうを見やってから、小ぶりなハンマーをわたしてきた。

 咲弥はそれなりに胸をはずませながら、小石の敷きめられた地面にしゃがみこむ。すると、祖父も隣にひざを折って、ペグの打ち方を教えてくれた。

「ペグは垂直にすと、簡単にけてしまうからな。テントに対して外側にかたむける角度で打ち込むのだ」

「ふーん。これぐらい?」

「それでは、傾けすぎだ。張ったロープと直角ぐらいの角度が望ましい。力む必要はないので、ハンマーの重さを利用して打つのだ」

 祖父の指南のもと、咲弥は地面にペグを打ち込んだ。小石の下は土の地面であったので、さしたる苦労もなくペグはうずまっていく。しかし咲弥にとってはハンマーをるうのも初めての体験であったので、そのにぶしようげきしんせんでならなかった。

 そうしてテントが完成したなら、入り口のシートを前にのばしてポールを立てる。それが、雨よけの屋根であったのだ。祖父はその下に新たなシートを敷いて、たきだいをセットした。

「釣りの前に、米をいておかなければな」

 祖父は薪の束を下ろすと、おのでそれをさらに細かく割り始めた。

 咲弥がうずうずしていると、また眠たげな目を向けられてくる。

「子供に手斧を扱わせるわけにはいかんからな。こればかりは、我慢しておけ」

「わかってるよぉ。だから、なんにも言ってないじゃん」

「しかし、そんなねだるような目で見られてはな」

 眠たげな目をいっそう細める祖父の姿に、咲弥は「ちぇっ」と舌を鳴らしつつ笑った。

 やがてまきりがかんりようしたならば、その成果が焚火台に移されて、ちやつざいにより点火される。そこからたちのぼる赤いほのおに、咲弥はまた胸を弾ませることになった。

「焚火を見たのも、初めてだなぁ。昼間でも、けっこうきれいなんだねぇ」

「うむ。でなければ、苦労をして薪を割るもないからな」

 祖父もまたしばし焚火の炎を堪能してから、その上にてつもうをセットして、生米と水が封入されている金属の容器をのせた。

「では、釣りだな。釣れなければ、さばかんがおかずだ」

「あはは。同じ魚でも、ずいぶんな差だねぇ」

 祖父は荷台から釣り竿ざおを取り上げて、咲弥を川のすぐそばまでいざなった。

「浅い川だが、昨日の雨で少し水量が増しているようだ。川遊びはひかえておけ」

 そんな言葉を語りながら、祖父は釣り竿の扱いをレクチャーしてくれた。

 この数分間だけで、ここまでの二日半をえるぐらい祖父の声を聞いているような気がする。そしてその声はいつでも落ち着いていて、とてもここかった。

 祖父の指示に従って、咲弥は釣り竿をスイングさせる。ルアーとと重しのついた針が山なりに曲線をえがいて、透明の川面に着水した。

「いささか川の流れが激しいので、ルアーの動きをよく見ておくのだぞ。手応えがあっても、あわてて引っ張る必要はないからな」

 そうして祖父は、の準備をしてくれた。テントと同じようにナイロン素材だが、背もたれのある大きな椅子である。家や学校の椅子よりもずいぶん低かったが、とてもすわり心地がよかった。

 しかしその椅子は一きやくしかなかったため、祖父は地面にレジャーシートを敷いて、その上にあぐらをかく。そうしてのんびりと、川面に浮かぶルアーへと視線を飛ばした。

 咲弥も同じ方向に視線を飛ばしつつ、時おり祖父の横顔をうかがう。

 祖父は釣り竿もにぎっていないのに、ひどく安らいだ面持ちだ。祖父は普段からおんこうであったが、この山に入ってからいっそう表情がやわらかくなっていた。

「……じっちゃんは、しょっちゅうキャンプを楽しんでるの?」

「うむ。それ以外には、しゆもないのでな」

「ふーん。……あんな大きな家にひとりで、さびしくない?」

「うむ。べつだん今に始まったことではないからな」

 そんな風に言いながら、祖父はいっそうやわらかく目を細めた。

「……咲弥はわしを、じっちゃんと呼んでくれるのだな」

「ええ? 今さら何を言ってんのさぁ。初めて会ったときから、そう呼んでるでしょ?」

「うむ。だから、驚かされたのだ。お前さんはこれまで、わしのことを聞かされていなかったのだろう?」

「うん。いきなりじっちゃんができて、びっくりしちゃった」

「わしもいきなり孫ができて、たいそう驚かされたぞ」

 祖父がこちらを振り返ったので、咲弥は一緒に目を細めることになった。

「ねえねえ。せっかくテントを張ったんだから、やっぱり夜までここにいたいなぁ」

「しかし、典哉を放っておくわけにもいくまい? 田辺さんだって、心配するだろうからな」

「うーん、そっかぁ。……夜の焚火も見てみたかったんだけどなぁ」

「それはまた、いずれ機会があったらな」

 祖父のそんな返答に、咲弥は身を乗り出すことになった。

「それじゃあさ、次はあたしひとりで来るよ。そしたらまた、一緒にキャンプしてくれる?」

「うむ? こちらはまったくかまわんが……しかし、お前さんの母親が許さないのではないか?」

だいじようだよぉ。母さんだってずっとかくごとしてたんだから、文句は言わせないさぁ」

 祖父は「そうか」と、困っているような顔で微笑んだ。

「あまり親に心配をかけんようにな。……そら、竿さおが引いておるぞ」

「え? あれ? うわー、なんか、逃がしちゃったっぽい」

「べつだん、あせる必要はない。釣りもキャンプも、のんびり楽しむものなのだからな」

 そうして焚火台の米が炊けるまで、魚が釣れることはなかったが――咲弥はその日、キャンプの楽しさを骨のずいまで刻みつけられることになったのだった。



 それから、十二年の日が過ぎ去って――咲弥はひとり、祖父の寝室にたたずんでいた。

 ななくびやまでドラゴンと出会うひと月前、一月ちゆうじゆんのことである。祖父のそうしきしゆを務めることになった咲弥は、大急ぎで新調したふくに身を包んでいた。

 葬式は午後からであるので、家にはまだ咲弥しかいない。咲弥はひとり祖父の寝室で山積みにされたキャンプギアを眺めながら、追憶にひたっていたのだった。

 祖父がくなってから、まだ数日しか経過していない。咲弥はまだ、祖父を失ったという実感を持てずにいた。

 無茶な勤労で頭がもうろうとしているためなのか、自分が悲しんでいるのかどうかもわからない。かすんだ頭の中に十二年間の思い出が浮かんでは消えて、咲弥をいっそうぼうようたるここにさせた。

 この家も、七首山も、これらのキャンプギアも、主人を失ってしまったのだ。

 軽トラックは庭から消えて、冷蔵庫の中身は空っぽであった。咲弥は何の準備もできていなかったのに、祖父のほうは準備ばんたんであったのだ。祖父の家はどこもかしこもれいせいそうされており、ほこりのひとつも落ちていなかった。

(じっちゃんは、なんでもぬかりがなさすぎるんだよ。少しはあたしの苦労を残していってくれればよかったのにさ)

 そんな考えをぼんやりと浮かべながら、咲弥はむなもとをまさぐった。喪服のブラウスの下には、祖父がのこしてくれた赤いペンダントが下げられているのだ。

 そうして咲弥は、もうひとたび室内に視線をめぐらせて――ひどく整然とした部屋の中で、一ヶ所だけ乱れを発見した。部屋のすみに追いやられたたくの下に、何か平たいものが落ちていたのだ。

 咲弥は半ば無意識の内に歩を進めて、座卓のそばに膝をつく。そうして手をのばして、その平たい何かを引っ張り出してみると――それは、古びた写真立てであった。

 その中で、咲弥と祖父が笑っている。

 これは咲弥がスマートフォンでさつえいして、コンビニエンスストアでプリントアウトしたのち、祖父にプレゼントしたものであった。

 咲弥は十歳、祖父は六十手前である。釣り竿を握った咲弥は、その釣りいとからり下げられた大きなイワナをまんそうに見せびらかしていた。

 これは、咲弥が初めて祖父とキャンプに出向いたときのワンシーンであった。咲弥は米が炊けた後もねばりに粘って、一時間がかりでようやくちようをあげたのだった。

 咲弥は珍しく、大口を開けて笑っている。乳歯の生えかわりで前歯が一本欠損しているため、とても間の抜けたがおだ。それを見守る祖父は、いつも通りの眠たげな目つきであった。

 この写真がかざられているところを、咲弥は目にした覚えがない。祖父もああ見えて照れ屋の一面があったため、咲弥がおとずれた折にはどこかに隠していたのだろう。それでこのたびは、後片付けをしそびれたのか――あるいは、座卓に飾っていたものがたまたま落ちただけであるのか――もはや、咲弥に真実を知るすべはなかった。

(だから……こういうのは、いいんだってば……)

 咲弥はたたみに座り込んだまま、その写真立てを胸もとにかきいだいた。

 それと同時に、どうしようもなくなみだがあふれかえってくる。祖父の死から数日を経て、咲弥はようやく泣くことができたのだった。