第一話 出会いの夜




 おおさくは二十二さい、生物学上の分類は女で、やたらとマイペースな性格をしている他には特筆するべき個性も何もない、ごくぼんような人間だとにんしていた。

 美人としようされることは多いが、残念と称されることはもっと多い。そしてどちらにせよ、咲弥にとっては関心の外である。咲弥は何より、他者からの評価というものに重きを置けないしようぶんであったのだ。

 いっぽう咲弥の両親というのはきわめて厳格なひとがらで、社会的な成功と洗練された生活と、それにまつわる他者からの評価というものを何より重視していた。それに感化された弟などは順当にエリート街道をすすんでいたのだが、咲弥はそういった事柄にもまったく関心を持てなかった。それで、両親の厳しい目をこそこそとかいくぐりながら、ひとりのほほんと生きてきたのだった。

 そんな咲弥にとってゆいいつの生きは、キャンプである。十歳のころに祖父から手ほどきを受けて以来、咲弥はキャンプの楽しさにどっぷりかることになったのだ。

 小学校を卒業するまでは長期きゆうのたびに電車とバスで三時間かかる祖父のもとに通いつめ、デュオキャンプを楽しんだ。中学校にあがってからは自転車で近場のキャンプ場まで出向き、高校からは原付バイク、十八歳になってからは中古の軽ワゴン車と、移動手段をグレードアップさせるとともにキャンプギアのじゆうじつをはかり、どんどんキャンプにのめりこんでいった。咲弥の青春はキャンプと資金集めのアルバイトがすべてであったと言っても決して過言ではなかった。

 そんな咲弥の人生に暗雲が垂れこめたのは、二十歳はたちの頃である。咲弥は一生フリーのアルバイターでもかまわなかったのだが、厳格なる両親がそんな気ままな生活を許すはずがなく、高校の卒業後はウェブデザインの専門学校に入り、そちらの卒業後にはそこそこ名の通った会社に就職することになったのだ。

 入社当初は、それでも問題なく過ごせていた。会社はそれなりにいそがしかったが土日の休みは確保できたので、週末にはとどこおりなくキャンプを楽しむこともできたのだ。アルバイト時代よりは収入もいいし、いずれは有給も取れるようになるはずであるし、そんなに悪いことばかりではないかなと思えるほどであった。

 そうしてゴールデンウィークには田舎いなかの祖父のもとをおとずれて、二人で存分にキャンプを楽しみ――それから会社に出勤してみると、現場の主任がゆくをくらませていた。咲弥も前々から主任の生けるしかばねのような顔色を心配していたのだが、どうやらかのじよは退職願も出さずにしつそうしてしまったようであった。

 それからは、もうごくの日々である。これまで主任が一身に背負わされていた苦労が、均等に配分されることになったのだ。咲弥などは入社二ヶ月目の新米社員であったにもかかわらず、身に余る大きな仕事を次から次へと丸投げされてしまったのだった。

 毎日の残業と休日出勤が当たり前の話となり、現場の社員が馬車馬のように働いても仕事が尽きることはなかった。そうして毎週のお楽しみであったキャンプがかくしゆうとなり、月イチとなり、かくげつとなり、ついにはシーズン中に一回行けるかどうかという有り様に成り果てて――咲弥は、肉体以上に心をけずられることになってしまった。

 それでも咲弥が退職しなかったのは、親の目をはばかってのことである。三年も待たずに転職なんてとんでもない、というのが両親のるぎない美意識と価値観であったのだ。咲弥は幼少の頃から親を失望させ続けてきたという負い目があったため、なかなか真っ向から歯向かう心持ちになれなかったのだった。

 そうして咲弥は「三年間だけがんろう」という指針を打ち立てて、会社の仕事にぼつとうした。三年後にはまた存分にキャンプを楽しめるのだという思いだけが、咲弥の心のよすがであった。

 それから時間は、ナメクジがいずるようにのろのろと過ぎていき――入社二年目の年明けに、祖父がたおれたという一報が届けられた。

 祖父とは一昨年おととしのゴールデンウィーク以来、会っていなかった。時おり電話をかけることはあったが、あんまりへたばった声を聞かせたくなかったので、それもえんになりつつあったのだ。そんな矢先にやってきた、きようほうである。咲弥はものぐるいで仕事の山を片付けて週末の休みを確保し、祖父が入院した病院にけつけることになった。

「なんだ、ひどい顔色だな。きちんと食べているのか?」

 それが、病室における祖父の第一声であった。ベージュ色の病院着で白いベッドに横たわった祖父は、存外に元気そうである。それで咲弥はその場にへたりこみそうになるのをけんめいにこらえながら、あんの思いをみしめることになった。

「じっちゃんは元気そうだねぇ。いきなり倒れたとか聞かされて、びっくりしちゃったよ」

「うむ。わしはもともと、心臓が悪かったからな。それでも七十まで生きられたのだから、もう十分だ」

「なに言ってんのさぁ。仕事のほうが落ち着いたら、またじっちゃんとキャンプを楽しむつもりだったんだからね。百まで生きて、いつしよに楽しもうよ」

 咲弥がそのように言いつのると、祖父はもともとねむたげな目を細めて「そうだな」と微笑んだ。

「そういえば、お前さんにわたしたいものがあったのだ。そこの引き出しを開けてくれるか?」

 咲弥がベッドテーブルの引き出しを開けると、そこには奇妙なペンダントがぽつんと置かれていた。紐の部分は黒いレザーで、トップには炎をふうめたかのような真紅のかざりがつけられている。ちゆうるいの鱗みたいなデザインであったが、こんな巨大な鱗を持つ生き物はこの世に存在しないのではないかと思われた。

「そいつは、けのお守りだ。お前さんがキャンプに出向くときは、そいつをつけていくといい」

「へえ。じっちゃんがそんなゲンかつぎをするなんて、めずらしいね」

 祖父からプレゼントをもらったのは、中学時代におさがりのキャンプギアをいただいて以来となる。ぼうな日々で心がもうしていた咲弥は、うっかりなみだをこぼしてしまいそうだった。

「ありがとね。でも、キャンプに行くときは、じっちゃんも一緒だよ?」

 祖父はまた眠たげな目を細めて、「そうだな」と微笑んだ。

 そして――その三日後に、祖父は他界してしまったのだった。



「――で、じっちゃんは田舎の家とこの山を遺産として、あたしに残してくれたわけだよ」

 咲弥がそのようにめくくると、ドラゴンは「なるほど」とうなずいた。

「おおよそは、トシゾウから聞いていた話といつする。無事に其方そなためぐりあえたことを、トシゾウのたましいに感謝するとしよう」

 としぞうとは、祖父のファーストネームである。ワークキャップをかぶっていた咲弥はそれを外してから、自分の頭を引っかき回した。

「やっぱりキミは、じっちゃんと顔見知りだったわけね。こいつのおかげで、なんとなく察してたけどさ」

 咲弥は防寒ジャケットのえりもとから、真紅の鱗のペンダントを引っ張り出した。

 ドラゴンは、ゆうようとしてせまらず「うむ」としゆこうする。

「我の鱗を身につけていれば、他なるものおそわれる心配もない。それで親愛のあかしとして、トシゾウにおくることにしたのだ」

「……他なる魔物?」

「うむ。この山にも、いくらかの魔物が暮らしているのでな」

 咲弥は頭をかきながら、周囲に視線を巡らせた。すっかり宵闇に包まれているので、あまり判然としなかったが――明らかに、これまでと様相が異なっている。空き地を取り囲む木々はうねうねとしたかいなシルエットをえがき、そのすきには正体の知れないひとだまのようなものが行きっていた。耳をすませば人とも獣ともつかない不気味なうなり声が響き、鼻には南国の果実を思わせるあまい香りがねっとりとしのび込んできて――心なしか、ただでさえ低かった気温がさらに下がったように感じられた。

「……キミが現れるまでは、こんな感じじゃなかったと思うんだけど」

「うむ。そちらの世界の住人は、我が許可を与えた者しかこちらの世界の要素を感知できないのだ。……今この山は、二つの世界が同期しているのでな」

「なるほど、わからん」とためいきをついてから、咲弥は上目づかいにドラゴンの顔を見た。

「まあとりあえず、キミはじっちゃんにプレゼントを贈るようなあいだがらだったわけね。それでその……じっちゃんのことは……」

「うむ。トシゾウとは、別れのあいさつを済ませている。……トシゾウは、まことに気の毒なことであったな」

 ドラゴンは深い悲しみをこらえているようなまなしで、咲弥の視線を受け止めた。

「我もトシゾウにあらゆるの術式をほどこしたのだが、生来のびようやわらげることはかなわなかった。力およばず、無念の限りである」

「ああ、うん。そんな風に言ってもらえるだけで、じっちゃんも喜んでると思うよ」

 鼻のおくがつんと痛くなった咲弥は、それをはらうために頭をもたげた。

「それじゃあお次は、そっちが説明してもらえるかなぁ? キミはどこからやってきたの? 二つの世界って、どういうこと? じっちゃんとは、どういうご関係?」

「うむ。その前に、ひとつかくにんさせてもらいたいのだが……どうして其方は、これほど早々に参ずることができたのであろうか?」

 その言葉に、咲弥は首をかしげることになった。

「早々にって? もうじっちゃんのそうしきから、ひと月ぐらいはってるよね。相続の手続きってあれこれややこしいから、こんなに時間がかかっちゃったんだよ」

「しかし、其方がやってくるのは数年後か、あるいは数十年後になるやもしれんと聞いていた。それがわずかひと月でやってきた理由を聞かせてもらいたく思う」

「……それって、そんなに重要なこと?」

「うむ。トシゾウのみが外れていたのなら、その理由は知っておきたく思うのだ」

 ドラゴンの黄金色のひとみには、きわめてしんな光が宿されている。

 咲弥はひとつ溜息をついてから、説明した。

「まあ、あたしにとっても予定外だったことは認めるよ。実はあたし、じっちゃんの葬式のしゆを受け持ったんだけど……あ、喪主ってわかる?」

「うむ。とむらいのしきの取り仕切り役であるな」

「そう、それそれ。で、喪主を務めるからには、数日ばかり仕事を休むしかなかったんだけど――」

 咲弥は無理を言って、会社を欠勤した。そうして祖父を見送ったのち、重い足を引きずって出勤してみると――会社の社長が「こんな忙しい時期にくたばるとは、まったくはためいわくなじいさんだな」と暴言を吐きかけてきたのだ。

「だからまあ、その場で退職願を書きなぐって、馬鹿社長の顔面に叩きつけてきたわけだよ」

「なるほど……それは、いかりを禁じ得んな。我も思わず、火炎の息吹を吐いてしまいそうだ」

「そうしたら、あたしが灰と化すだけだねぇ」

「うむ。よって、懸命に自制している」

 咲弥が見上げると、ドラゴンの目にはいくぶん楽しげな光がともされていた。どうやら、じようだんぐちの類いであったようである。

「しかし、其方は気の合わない親との和を保つために、私心をはいしてこくな労働に従事していたのであろう? そちらに問題は生じなかったのであろうか?」

「えー? じっちゃんは、そんなことまでバラしてたのぉ? 案外、口が軽いんだなぁ」

「否。こちらもわけあって、さいを聞いておく必要があったのだ。トシゾウは、決して其方の存在をかろんじてはいなかった。それだけは、信じてもらいたい」

 ドラゴンの瞳が、にわかにしんけんな光を帯びる。

 咲弥は「ああそう」と、もういっぺん頭をかき回した。

「まあ別に、かくすような話じゃないけど……お察しの通り、あたしが勝手に仕事をやめたもんだから、親どもははつてんいてらっしゃったよ。じっちゃんの遺産も相続ほうさせようとやつになってたから、余計にね」

「なに? それは、なる話であろうか?」

「えーっとね。じっちゃんはくなる前に持ってる畑をみーんな売っぱらったから、家と山の他にもけっこうな遺産をのこしてくれたんだよ。でも、家とか山とかって所有してるだけで税金がかかるからさ。数十年単位で考えると、決してお得なだけの話ではないし……そもそも両親は大の田舎いなかぎらいだったから、そんなもんは絶対に相続するなっていうスタンスだったわけよ」

 ドラゴンはいっそう真剣な眼差しで、ぐっと身を乗り出してくる。

 そのれいな黄金色の瞳を見つめ返しながら、咲弥は言いつのった。

「でもさ、あたしだって頭にきてたんだよ。いくらじっちゃんと折り合いが悪かったからって、入院にも葬式にもノータッチなんて、ありえないっしょ? それでまあ、家庭内に大戦争がぼつぱついたしまして……あたしは家族とえんりして、じっちゃんの家に引っしてきたってわけ」

「では其方は、トシゾウの家に移り住んだのであろうか?」

 ドラゴンの目が、びっくりしたように見開かれる。

 それが妙に愛くるしく思えて、咲弥はつい笑ってしまった。

「うん。あれこれめんどうな手続きにひと区切りついたから、今日の昼過ぎに引っ越してきたんだよ。で、しんぼうたまらなくなって、この山にまで出向いてきたの。何せこっちは、半年以上もキャンプをまんしてた身だからさぁ」

「そうか……そういうわけであったのだな」

 ドラゴンは大きく見開いていた目を細めて、また微笑むような仕草を見せた。

「相分かった。立ち入った話まで聞きほじってしまって、申し訳なかったな。読心の術をかけることは容易たやすかったが、其方の口から事情を聞かせてほしかったのだ」

「なんかこわいことをさらっと言われた気がするけど、なつとくしてもらえたんなら何よりだよ。……じゃ、そっちの話を聞かせてもらえる?」

「うむ。もちろん、すべてを語って聞かせたく思うが――」

 と、ドラゴンは大きな体を小さく揺すった。何かにじらっているような挙動である。

「ただ……其方と相対していると、我は空腹感をかきたてられてならんのだ」

「えええええ? この流れで、あたし食べられちゃうのぉ?」

「否。我は人間の作る料理というものを、こよなく好ましく思っているのだ。トシゾウからも、何度となくそうしてもらったので……そのまごむすめたる其方と相対していると、どうにも期待の思いをおさえられなくなってしまうのだ」

「あらそう」と、咲弥はだつりよくした。

「まあ今日はひとりでうたげのつもりだったから、食材はがっぽり積んできたけど……でも、さすがにキミの巨大なぶくろを満たせるほどではないかなぁ」

「大事ない。ぞくにとっての食事というものは、心を満たすための行いであるのだ。生存に必要なりよくは大地や大気からせつしゆしているため、物質としての食事は人間と同程度で事足りる」

「ふーん。だったらまあ、何とかなるか。実はあたしも、腹ぺこだったからさぁ。すっかり暗くなっちゃったし、とりあえず準備を始めますか」

「ありがたい。其方の温情に、心から感謝をささげよう」

 そのように言い放つなり、ドラゴンの巨体が真紅の輝きに包まれた。

 咲弥は「どひゃー」と言いながら、目もとを手で覆う。それから、そろそろと手をどけてみると――体長五メートル強であったドラゴンの姿が、シベリアンハスキーていどのサイズに縮んでいた。

「わー、なになに? いきなりかわゆくなっちゃってぇ」

「人間の食事というものは、食感が重要であろう? 本来の大きさではその食感を正しく味わうことも難しいため、食事の際にはこの姿を取ることにしている」

 サイズが縮んでも、そのダンディな声音や立ち居いに変わりはなかった。

 咲弥は「そっか」と、また笑ってしまう。

「じゃ、こっちも準備を始めるよぉ。お口に合えば幸いだねぇ」



 大型犬サイズのドラゴンに見守られながら、咲弥は調理の準備を始めた。

 とはいえ、必要な物資はすべて手もとに集めていたので、こしを上げる必要すらない。基本的に、キャンプの場ではすわったまま調理を進めるのが咲弥のりゆうであった。

 座面高四十センチのローチェアに対して、二台のローテーブルも高さは三十センチ弱となる。かたやウッド、かたやスチールで、後者は本来焚火の火にかけるグリルスタンドであったが、そちらは専用の焼きあみたるグリルグレートを所有しているので、咲弥はテーブルとしてのみ活用していた。スチール製であれば火のそばでも安心して使えるし、熱した器具をそのまま置くこともできるので、なかなかに便利であるのだ。

 あとは、巨大なコンテナボックスとクーラーボックスに必要な物資はすべてめ込まれている。グリルスタンドにはすでにバーナーをセットしていたので、焚火台に焼き網を設置すれば、もう事前準備はかんりようであった。

「でもさ、今日はおそいスタートだったから、手軽にバーベキューで済ませる予定だったんだよねぇ。それで問題なかったかなぁ?」

「うむ。トシゾウも、バーベキューは数多く手がけていた。この地では塩もこうしんりようも希少であるため、十分な馳走であるのだ」

「あー、じっちゃんはキャンプ料理もシンプル志向だったもんねぇ。じゃ、今日のメニューでもそれなりにご満足いただけるかなぁ」

 咲弥はコンテナボックスから、コッヘルを取り出した。直径十五センチほどの丸い容器に持ち手のついた、キャンプにおいてはもっとも基本的な調理器具である。深さ八センチていどのポットはなべとして、深さ四センチ弱のフタはミニフライパンや皿としても活用できる。さらにふたを開いたならば、ひと回り小さいスモールサイズのひとそろいが収納されていた。

 咲弥はラージサイズのポットにウォータージャグから水を注ぎ、バーナーの火にかける。丸いガスかんの上にゴトクを設置する、きわめてコンパクトなガスバーナーコンロである。この丸いガス缶はOD缶と呼ばれる寒冷に強いタイプの燃料であるため、火力の安定も申し分なかった。

「寒いから、スープぐらいは準備するねぇ。そのお口だと食べにくそうだけど、だいじよう?」

「大事ない」と、ドラゴンは細長いしつせんたんを咲弥の鼻先に突きつけてきた。そこに巻き取られていたのは、スプーンの先端が四つに割れていてフォークとしても活用できる、とても便利な食器カトラリー――いわゆるスポークであった。

「あれー? それって、じっちゃんのスポーク?」

「うむ。トシゾウからの贈り物となる。我にこちらをさずけたのち、また同じものを買い求めたのだそうだ」

「そっかぁ」とほおをゆるめつつ、咲弥はコンテナボックスから同じ品を引っ張り出した。今度は、ドラゴンが目を丸くする番である。

「其方も、同じ品を所有していたのであろうか?」

「うん。こいつはチタン製でちょっぴり値が張るんだけど、じっちゃんに借りたらすごく使いやすかったからさぁ。けっきょく同じのを買っちゃった」

「左様であるか」と、ドラゴンは丸くしていた目を細める。

 咲弥はいよいよかいな気分で、食事の準備を進めることになった。

「じゃ、ちゃちゃっと準備するから、ちょっとだけ待っててねぇ」

 咲弥はテーブルにカッティングボードとタマネギの準備をして、腰のベルトにさげていたブッシュクラフトナイフをさやからいた。そのステンレス製のやいばでタマネギの頭としりを落とし、皮をいて、うすりにする。数ヶ月ぶりのキャンプに備えてナイフの刃をぎなおしておいたので、切れ味もばつぐんだ。あとはニンジンをスライサーで薄くぎ、それらとともにりゆうのコンソメをコッヘルの湯にしずめれば、スープの準備は完了であった。

「よしよし。お次は……こいつらか」

 咲弥は数ある食材の中から、ジャガイモとナスとニンニクを引っ張り出した。ジャガイモは芽を取り、ナスは縦に真っ二つ、ニンニクは頭と尻を落として皮を剥き、余りのニンジンは小さめの乱切りだ。それから一考して、ジャガイモを厚めにスライスした。丸ごと焼きあげるのも捨てがたいが、それではあまりに時間がかかってしまうのだ。

 しかるのちに、テーブルの上にアルミホイルを広げ、らしたキッチンペーパーをいたのち、スライスしたジャガイモをのせていく。バターの持ち合わせはなかったのでオリーブオイルをひと回しして、キッチンペーパーごとアルミホイルを固く巻けば、完了だ。ナスとニンニクとニンジンは、そのままアルミホイルに包み込んだ。

「……それは、如何なる準備であろうか?」

 そわそわと身を揺すっていたドラゴンが、興味深げに問うてくる。

 咲弥は火ばさみを手に取りながら、にっと歯をこぼした。

「この焼き網ひとつじゃ、スペースが足りないっしょ? だからこうして、同時進行でホイル焼きを仕上げるのさぁ」

 咲弥は火ばさみでアルミホイルの包みをつかみ、焚火台で燃える薪と炭のかたわらにえていった。

「よーし。いよいよ本丸だねぇ」

 咲弥は、残る食材を引っ張り出した。新たなタマネギ、あらきウインナー、ピーマン、シイタケ、キャベツというラインナップである。ウインナーとシイタケはそのままてつもうの上に並べていき、それから二つに割って種を除去したピーマンと輪切りにしたタマネギを追加した。キャベツはスペースを取るので、あとのお楽しみだ。

「……塩やしようは、まだ使用しないのであろうか?」

 ドラゴンが真剣な声音で問うてきたので、咲弥はつい「ぬっふっふ」と笑ってしまった。

「準備はあるから、心配めされるな。……ところで、そっちの話もぽつぽつ聞かせてもらえないかなぁ? よくよく考えたら、まだあたしはキミの名前も知らないんだよねぇ」

「名前か……名前は、百年ほど前に捨ててしまったのだ」

「ええ? どうしてさぁ? 名前がないと、不便でしょ?」

「その時代の大きな戦いで、我はすべてのどうほうを失った。この世に火竜族は我ひとりとなったため、個体を識別する名は不要となったのだ」

 そのように語るドラゴンは、とてもおだやかな眼差しをしていた。

 咲弥は「そっか」と頭をかく。

「じゃ、そっちのみんなは、キミをなんて呼んでたのかな?」

「我は、りゆうおうと呼ばれていた。その戦いに勝ち抜いた我は、こちらの世界の玉座に座ることになったのでな」

「……わお」

「しかし今は、玉座を捨ててしゆつぽんした身だ。我のことは、其方の好きなように呼んでもらいたい」

「ふーん」と、咲弥は思案を巡らせた。

「じゃ、ドラゴンくんでいいや。竜王くんは、なんかかたくるしいからさ」

「…………」

「おやおや? ご不満でありましょうか?」

「いや……トシゾウもそのように我を呼んでいたので、いささかおどろかされただけだ」

 咲弥は、ドラゴンと一緒に目を細めることになった。

「安直なのは、血筋かねぇ。……あ、あたしも自己しようかいしてなかったけど、名前はじっちゃんから聞いてるのかな?」

「無論である。我もトシゾウと同じように、サクヤと呼ぶことを許されようか?」

 咲弥はますます心がなごむのを感じながら、「うん」とうなずいた。

「ほんで? ドラゴンくんは、なんで王様をやめちゃったのかな?」

「それは、戦乱の絶えない世のありようにいやがさしたためとなる。百年の昔に我が王となり、すべての種族が平等の立場となったはずであるのに、魔族も人間族もじん族も決して争いをやめようとしなかった。それを制圧するには、我も武力を行使する他なく……我は、自分が玉座についている意義を見失ってしまったのだ」

 そう言って、ドラゴンはいくぶん憂いげに目を伏せた。

 咲弥はトングで、焼き網の食材をひっくり返していく。

「そうして我は、別なる世界に旅立とうと決意した。そのために、新たなほうの術式を考案し……こうして、異界への門を開くことがかなったのだ」

「ふむふむ。で、この山は二つの世界が重なってるって話だったっけ?」

「うむ。異界への門を開くには、たがいの世界の一部を同期させるしかすべがなかった。言わば、この山そのものが門であるのだ。現在この山は、二つの世界の要素がゆうごうしている。そのかんきようを安定させるのに、半年ばかりの時間がかかってしまったが……今では過不足なく機能しているはずだ」

「うーん。聞けば聞くほど、頭がこんがらがりそう……だけどまあ、ドラゴンくんたちの姿は、ドラゴンくんが許可した人間にしか見えないって話だったよね?」

「うむ。こちらの住人の姿ばかりでなく、変容し果てた動植物の姿も正しく感知することはできん。感覚の鋭い人間であれば、多少のかんを覚えることになろうが……何せそちらでは、魔法の文明が発展していないのでな。魔力を扱えないのであれば、我の結界を見破るすべもなかろう」

「うん。魔法だの魔物だのってのは、ファンタジーの世界だねぇ。ドラゴンくんは、まさしくファンタジー世界の住人ってことかぁ」

「うむ。しかし、ほんのわずかな差異でぶんしたへいこう世界に過ぎないのであろうな。そちらでは科学の文明、こちらでは魔法の文明が発展したが、ほんの数千年前まではさして変わらぬ歴史を歩んでいたのだろうと推察される」

「うーん、そっかぁ。……まあとにかく、ドラゴンくんも色々と大変だったんだねぇ」

 咲弥がそんな言葉で締めくくろうとすると、ドラゴンはいささかならず驚いた様子で身じろいだ。

「我はそちらの世界の住人にとって常識外の話ばかりを口にしているはずであるが……其方はまったく動じる気配も見せないのだな」

「あー、リアクションが薄くってごめんねぇ。自分で聞いておいて何だけど、あたしって細かいことは気にしないタイプだからさぁ」

「それでも、限度をえているように思うが……しかし今にして思えば、それはトシゾウも同様であったな」

「あはは。じっちゃんだったら『そうか』のひと言でおしまいにしちゃいそうだねぇ」

 祖父のおもかげを追いながら、咲弥はげつく寸前になっていたウインナーを焼き網のはしに寄せた。

「それじゃあお次は、じっちゃんとのめなんかを聞かせてもらいたいところだけど……その前に、ごろになっちゃったねぇ」

 咲弥はコンテナボックスに手を突っ込み、とどめの品を取り出した。

「じゃじゃーん。こちらが本日のメインディッシュをいろどる最終兵器、アウトドアスパイスの『ほりこし』でございますぅ」

「……それは、我の知識にない存在であるようだ」

「うんうん。じっちゃんって、あんまりニンニクが好きじゃなかったみたいでさぁ。こいつに対しても、反応がにぶかったんだよねぇ」

 咲弥はにまにま笑いながら、『ほりこし』のびんをマラカスのように振ってみせた。

「キャンプってのは、いかに装備を減らせるかが重要だったりするからさぁ。それでこういうアウトドアスパイスってもんがったみたいだねぇ。色んなスパイスに塩やらうまみ成分やらも配合されてるから、これひとつで料理の味が格段にね上がるんだよぉ」