焚火台の下には、防熱シートが敷かれている。焚火の熱で地面に悪い影えい響きようを与えないための配はい慮りよである。直じか火びが許されているキャンプ場でなければ、そのように取り計らうのが原則であった。

(そういう話も、みんなじっちゃんが教えてくれたんだよなぁ)

 祖父は寡か黙もくな人ひと柄がらであったが、キャンプの話題では雄ゆう弁べんであったのだ。それは祖父が心からキャンプを楽しんでいた証しよう拠こであろうし――それと同時に、孫まご娘むすめに正しいキャンプの知識を育んでもらいたいという思いであったのだろう。おかげで今、咲弥は思うさまキャンプを楽しむことができていた。

 焚火の炎ほのおが元気に燃えあがるのを見届けて、咲弥はチェアの背もたれに身を預ける。二月の外気は冷たいが、その冷たさも心ここ地ち好よい。焚火の炎がパチパチとはぜて、濃密なる花と緑の香りに煙けむりの匂いも入り混じり――三日前と同じように、咲弥の心を深く満たした。

(あー……なごむなぁ……)

 咲弥がそのように考えたとき、タープのシートが大きくゆらめいた。

 次の瞬しゆん間かん、空き地の真ん中に巨大なドラゴンの姿が出現する。大きな翼つばさをはためかせたドラゴンが、天空から舞い降おりたのだ。その勇ゆう壮そうなる姿に向かって、咲弥はぐっとサムズアップしてみせた。

「グッドタイミングだねぇ、ドラゴンくん。キミに負けないぐらい首を長くして待ってたよぉ」

「うむ。そちらも息災なようで、何よりである」

 大きな翼を背中にたたみつつ、真しん紅くのドラゴンは微笑ほほえむように目を細めた。


3


「今日はもっとも西側に位置する峰まで見回っていたので、参じるのが少々遅くなってしまった。サクヤを待たせてしまったのなら、詫わびよう」

 ドラゴンがそのように言いつのったので、咲弥は火ばさみで薪を動かしながら「いやいや」と手を振った。

「待ち合わせの時間を決めてたわけでもないんだから、謝あやまる必要なんてないよぉ。でもほんとに、あたしが来たことはわかるんだねぇ」

「うむ。鱗うろこの所有者が足を踏み入れれば、眠っていても感知できる。……実のところ、我もあちらの峰で身を休めているさなかであったしな」

「あらら、お昼ひる寝ねのお邪魔をしちゃったの? こっちこそ、申し訳なかったねぇ」

「それこそ、詫びる必要はない。サクヤと無事に再会できたことを、心から喜ばしく思う」

 本日も渋しぶみのきいたダンディな声こわ音ねで、ドラゴンはそう言った。

 これが二度目の交流であるし、相手は人間ならぬ存在であるわけだが――咲弥は、心から安らいだ気分である。もしかしたら、咲弥はこのドラゴンに亡き祖父の面おも影かげを重ねているのかもしれなかった。

(ドラゴンくんって、包容力がムンムンだもんなぁ。伊だ達てに百年以上も生きてないよなぁ)

 咲弥がそのように考えていると、ドラゴンは不思議そうに小首を傾かしげた。そうすると、たちまち愛くるしさが発はつ露ろする危険な生き物である。

「ところで、斯か様ような器具は初めて目にした。これは、簡易的な屋根であるな?」

「うん。そういえば、じっちゃんはタープを持ってなかったっけ。ドラゴンくんとのキャンプで、不便はなかったのかなぁ?」

「うむ。雲行きのあやしい日は、ブルーシートなるものを張っていたな」

 ドラゴンの言葉が、咲弥のシナプスを刺し激げきした。祖父は移動に軽トラックを使っており、その荷台にはいつもボロボロのブルーシートが積まれていたのだ。

「じっちゃんのキャンプギアはまるまる残されてたけど、ブルーシートは見当たらなかったなぁ。ずいぶん年代物だったから、軽トラと一いつ緒しよに処分しちゃったんだろうねぇ」

「ふむ。トシゾウが使用していたあの車は、処分されてしまったのであるか」

「うん。あたしの面倒にならないように、自分で処分したっぽいよ」

 咲弥が喪も主しゆとしてひさびさに祖父の家まで出向いた際、すでに軽トラックは影かげも形もなかった。それに、冷蔵庫などもすっかり空っぽになっていたのだ。それらもすべて、家を受け継つぐ咲弥への配慮なのだろうと思われた。

「まったく、手回しがよすぎるよねぇ。最後ぐらい、自分のことを一番に考えればいいのにさ」

「うむ。しかしそれこそが、トシゾウという人間なのであろうな」

 そのように語るドラゴンの声は、とても優やさしい。その優しさに胸を満たされながら、咲弥は「さて」と声をあげた。

「何はともあれ、こっちの準備は万ばん全ぜんだからさぁ。ちょっと早いけど、食事の準備に取りかかろっかぁ」

 咲弥の言葉に、ドラゴンはもじもじと巨きよ体たいを揺ゆすった。

「それは我にとって、限りなくありがたい申し出だが……サクヤは腰を落ち着けたばかりであろう? 我のために無理をさせるのは、忍びない」

「あはは。無理なんてしてないし、あたしもそこそこお腹なかは空すいてるからさぁ。のんびり準備したら、ちょうどいいっしょ」

 ということで、咲弥は調理の準備を始めることにした。

「この前は簡単なバーベキューだったから、今回はちょっと気合を入れるよぉ。ほどほどに期待して待っててねぇ」

「うむ。そのような言葉を聞かされると、期待はつのるばかりであるな」

 そのように告げるなり、ドラゴンの姿は真紅の輝かがやきに包まれた。また何らかの魔ま法ほうによって、大型犬ぐらいのサイズに縮んだのだ。

「うーん。何回見ても、愛くるしいねぇ。さあさあ、それでは我わが城にどうぞぉ」

「うむ。招待に感謝する」

 ドラゴンはしなやかな足取りで、タープの下に踏み入ってきた。小さくなっても風格に変わりはないが、ただその瞳ひとみは料理に対する期待にきらめいている。

「ま、今日の献こん立だてもそこまで時間がかかるわけじゃないから、まずは前菜でも準備しよっかぁ。実は行きがけに、ご近所さんからこいつをいただいたんだよねぇ」

 咲弥がコンテナに仕舞い込こんでおいたダイコンを引っ張り出すと、ドラゴンは「なるほど」と首しゆ肯こうした。

「トシゾウもたびたび、そちらのダイコンなる野菜を持ち込んでいた。ハツ・タナベなる女によ人にんからの贈おくり物であるな?」

「おー、ドラゴンくんは、田辺のばっちゃんのことも知ってたんだぁ?」

「うむ。山さん麓ろくの村落に住まう人間については、すべて解かい析せきさせていただいた。近在に悪あしき人間がいたならば、放置してはおけんからな。……しかし、こちらの村落にはきわめて善良な人間しか存在しないようだ」

「ほほー。ほんじゃあ、あたしのことはどういう評価なのかなぁ?」

 咲弥が何気なく問いかけると、ドラゴンは神しん妙みような雰ふん囲い気きでまばたきをした。

「……解析とは、対象者の思考や心のありようをくまなく精査するという意味である。サクヤに対して、解析の術式を施すことは控ひかえたく思う」

「あ、そーなの? じゃ、じっちゃんのことも解析しなかったのかなぁ?」

「否いな。トシゾウはこの地で初めて対面した相手であるので、解析せずに済ませることはできなかった。ただ、トシゾウは……何も後ろめたいことがなくとも、心を覗のぞかれるのは落ち着かないものだと申し述べていた。ゆえに、同じ過あやまちは繰くり返すまいと考えている」

 咲弥はきょとんとしてから、「そっか」と笑った。

「そりゃまあ、じっちゃんのほうが正論なんだろうね。それでもじっちゃんはドラゴンくんと仲良くなれたんだから、なんも気にすることないよぉ」

「うむ。トシゾウの度量には、何度となく救われている。サクヤもまた、同様である」

「あたしなんて、じっちゃんの足もとにも及およばないさぁ。……じゃ、前菜の準備を始めちゃうねぇ」

 咲弥は綺麗に洗い清めたブッシュクラフトナイフで、ダイコンを十五センチほどの長さで切り分けた。それをニンジンとともにスライサーで千切りにしたならば、水気を絞しぼってコッヘルの蓋ふたに盛りつける。あとはポン酢ずで和あえて小分けパックのかつおぶしを振りかければ、もう完成であった。

「はい、どうぞ。あくまでおまけの前菜だから、そのつもりでねぇ」

「うむ。サクヤの心こころ尽づくしに、感謝する」

 どこからともなくスポークを取り出したドラゴンは、それを器用に扱あつかってダイコンとニンジンの千切りサラダを口にすると、満足そうに目を細めた。

「簡素ながらも、清せい涼りようにして瑞みず々みずしい味わいである。前菜には相応しきひと品であるな」

「うんうん。田辺のばっちゃんに感謝だねぇ」

 それなりの量であった千切りサラダは、あっという間になくなってしまう。余ったダイコンをラップでくるもうとした咲弥は、「うーん」と思案した。

「ドラゴンくんは人並みの量で十分だって言ってたけど、あたしよりは食くいしん坊ぼうだよねぇ。残りのダイコンも、削けずりたおしてあげよっかぁ?」

「しかしそちらは、サクヤにとっても貴重な食材であろう?」

「いやいや、食べきれないぐらいもらっちゃったから、なぁんも気にする必要ないよぉ。でも、どうせだったら別の料理に仕上げたいけど……ダイコンって、煮に込こむのに時間がかかるからなぁ」

 咲弥の独白に、ドラゴンは小首を傾げた。

「確かにトシゾウもダイコンを煮込む際は、長きの時間をかけていた。手早く仕上げたいときは、焼いていたな」

「えー? ダイコンを焼いて食べるのぉ? ドラゴンくん、その手順を覚えてたりする?」

「うむ。それほど入り組んだ内容ではなかったので、記き憶おくに留とどめている」

 ダイコンは二センチていどの輪切りにして、断面に十字の切れ込みを入れたのち、ゴマ油で両面を四、五分ずつ焼いていく――それが、ドラゴンの記憶していた焼きダイコンのレシピであった。

「なお、焼きあげる際には鍋なべに蓋をかぶせていた。トシゾウは、そちらと同種の器具を使っていたはずであるな」

 ドラゴンが尻しつ尾ぽの先で指し示したのは、メスティンであった。アルミ製で、丸みのある長方形をした、取っ手のついた弁当箱のような調理器具だ。煮に物ものや焼き物はもちろん、飯はん盒ごうの代わりとして米を炊たいたり、付属品の網あみを使えば蒸むし料理にも活用できる。こちらもコッヘルと並んで、アウトドア用調理器具の代表格であった。

「よーし、それじゃあチャレンジしてみよっかぁ。あたしもお初の料理には、興味をかきたてられちゃうからねぇ」

 斯様にして、自宅ではずさんな食生活を送っている咲弥も、キャンプの場ではきわめて能動的であるのだった。

 まずはバーナーを点火して、そこにメスティンをセットしてゴマ油を投入する。しかしメスティンでは輪切りにしたダイコン二枚でいっぱいになってしまうため、けっきょく焚火台とラージサイズのコッヘルで同じ調理に励はげむことにした。

「焚火だと、火力を一定に保つのが難しいんだよねぇ。ま、焦こがさないように気をつけましょ」

 メインディッシュの調理に備えて焚火台に炭を追加してから、咲弥は「うーん」と大きくのびをした。

「あー、楽し。ダイコン一本で楽しめるもんだねぇ」

「うむ。咲弥は調理そのものを楽しんでいるのだな。それを目にしているだけで、我も楽しき心地を得ることができている」

「それは何よりでございます」と、咲弥はまたチェアの背もたれに身を預けた。

 そうして沈ちん黙もくが下りても、まったく気き詰づまりになることはない。料理の完成を待ちわびて瞳を輝かせているドラゴンの姿を眺ながめているだけで、咲弥は何やら温かな心地であった。

(こういう時間も、なんかじっちゃんとのキャンプを思い出させるんだよなぁ)

 もとより咲弥は、祖父以外の相手とキャンプに取り組んだ経験もなかった。咲弥はなるべく自由気ままにキャンプを楽しみたかったので、誰だれかを誘さそう気にもなれなかったのだ。出会ったばかりのドラゴンとこんなにくつろいだ心地を共有できるというのは、今さらながらに不思議な話であった。

(きっとドラゴンくんがこういう人柄だから、じっちゃんもすぐに仲良くなれたんだろうなぁ)

 咲弥がそんな想念にひたっていると、やがてキッチンタイマーが鳴り響ひびいた。

「よーし、どんな感じかな?」

 咲弥がメスティンの蓋を開けて確認してみると、ダイコンの裏り面めんにはなかなかいい感じに焼き目がついていた。

「おっと、コッヘルのほうは焦げる寸前だ。危ない危ない」

「うむ。やはり調理とは、一いつ瞬しゆんの油断も許されないのであるな」

「あはは。あたしなんて、油断の合間に生きてるようなもんだけどねぇ」

 適当な冗じよう談だん口ぐちを叩きながら、咲弥はコッヘルの蓋を閉ざした。そうしてさらに四分ばかりをかけて裏面も焼きあげたならば、それぞれのダイコンを蓋に移して、ブラックペッパーを挽ひき、カツオブシをのせて、醤しよう油ゆを垂らす。これにて、焼きダイコンの完成であった。

 然して、その味わいは――なかなかの仕上がりである。

「へー。しんなりした食感が、なんか独特だねぇ。ゴマ油の香こうばしさもいい感じだなぁ」

「うむ。まさしく、この味わいである。ただ、胡こ椒しようの風味がいっそう豊かであるようだ」

「あー、じっちゃんはいちいちミルを使ったりしないもんねぇ。でも、じっちゃんの料理も豪ごう快かいで好きだったなぁ」

「うむ。トシゾウとサクヤの料理には、それぞれ異なる魅み力りよくが備わっているように思う。サクヤの料理は、力強さの中に華はなやかさを感じてやまん」

「もー、お上手なんだからぁ。じゃ、ぼちぼちメインディッシュに取りかかりますかぁ」

 二人で四枚の焼きダイコンを食べ終えたのち、咲弥はクーラーボックスの中身をまさぐった。そこから取り出された品を見て、ドラゴンはまた瞳を輝かせる。

「それは、肉であるな」

「そー、ぶつ切りのステーキ肉に『ほりこし』をすりこんで、寝ねかせておいたんだよぉ。今日のメインディッシュは、牛ステーキのアヒージョでございます」


4


 ファスナー付きのプラスチック・バッグに詰め込まれたステーキ肉をテーブルに置いた咲弥は、コンテナボックスから新たな調理器具を取り出した。

 コッヘルとメスティンに続く、第三の調理器具――鋳ちゆう鉄てつ製せいのどっしりとしたフライパン、スキレットである。咲弥が所有しているスキレットは直径十五センチ強であったが、深さは四センチ以上もあったため、さまざまな料理で活用することができた。

「まずはこいつにどっぷりオリーブオイルを注いで、弱火でじっくり温めます」

 ドラゴンのために口頭で説明をしながら、咲弥は作業を進めた。

「その間に、具材のマッシュルームとニンニクを切り分けます。マッシュルームは石づきを落として真っ二つ、ニンニクは頭と尻しりを落として皮を剥むき、半分はみじん切り、半分は丸ごと投入いたしましょう。そしてこちらが陰かげの立役者、ローリエ殿どのにてございます」

「ふむ……察するに、香こう草そうの類いであるな? それもまた、初めて目にする食材である」

「あはは。じっちゃんは、ハーブの類いにも関心が薄うすかったもんねぇ。豪快というか子供舌というか、塩・胡椒・醤油・ソース・ケチャップ・マヨネーズで、だいたい満足してたっけぇ」

 祖父の面影を追いながら、咲弥はニンニクとローリエをオリーブオイルの海に投じ入れた。そちらに熱が通って香りが出たならば、ステーキ肉とマッシュルームも投入である。

「ま、偉えらそうなこと言いながら、こっちもこれでおしまいなんだけどねぇ。あとは具材に熱が通るのを待つばかりでございます」

「なるほど。しかし、これほど大量の油を使う料理を目にしたのは、初めてであるな」

「うんうん。アヒージョってのは、オリーブオイルで具材を煮込む料理なんだよぉ。キャンプ飯としては、定番のひとつみたいだねぇ」

 薪の量を抑おさえて炭を活用したため、焚火台には熾おき火びが明々と灯ともっている。そこから発せられる遠赤外線が、料理にじっくりと熱を入れてくれるのだ。さらに、分厚い鋳鉄でできたスキレットも熱伝導と蓄ちく熱ねつ性せいに優すぐれているので、均等に熱を入れたい料理ではとても頼たよりになるのだった。

「お次はドラゴンくんもお馴染みの、ホイル焼きだよぉ。今日はあくまで副菜なので、タマネギとニンジンのみでございます」

「ふむ。そちらはアヒージョなる料理の具材には不向きなのであろうか?」

「そんなことはないだろうけど、具材を増やすと肉の割合が少なくなっちゃうからねぇ。限られた容量でがっつり肉をいただこうという所存にございます」

 ドラゴンは心から納なつ得とくしたように、「なるほど」と深くうなずく。そんなドラゴンの真面目くさった所作に心を和なごませつつ、咲弥はアルミホイルで巻いたタマネギとニンジンを炭のかたわらに押おし込んだ。

「で、お次はパスタの準備だけど……ドラゴンくんは、麺めん類るいも大だい丈じよう夫ぶ?」

「うむ。トシゾウから、うどんやカップラーメンを馳ち走そうになった経験を有している」

「へー。じっちゃんも、カップラーメンなんて食べるんだぁ?」

「うむ。他なる料理で足りなかった際は、そちらを供して我の心を満たしてくれたのだ」

 と、ドラゴンは羞しゆう恥ちを覚えたようにもじもじとした。

 食いしん坊のドラゴンに、咲弥は「にひひ」と笑ってしまう。

「カップラーメンはないけど鯖さば缶かんとかだったら常備してるから、足りなかったときは遠慮なく声をかけてねぇ。……おっと、もうお湯が沸わいちゃったよ」

 パスタはお湯が余らないように、必要最低限の水しか使わない。食材の成分が混入したお湯を山中に捨てることはご法はつ度とであるし、排はい水すいを持ち帰るのはきわめて面めん倒どうであるためだ。少量のお湯でパスタを茹ゆであげる方法は、インターネット上にいくらでも情報が出回っていた。

 キッチンペーパーでゴマ油をふき取ったメスティンでパスタを茹でている間に、スキレットのステーキ肉もじわじわと色づいていく。五分もあれば、食たべ頃ごろに熱が通るはずであった。

「おっと。蓋のほうも綺き麗れいにしておかないと。あたし、余分な皿は持ってないからさぁ」

 バーナーでパスタを茹で、焚火台の火加減もチェックしながら、咲弥はキッチンペーパーでコッヘルとメスティンの蓋を拭ふき清めた。

 なかなかの慌あわただしさであるが、その慌ただしさも楽しい限りである。自宅では事務的に感じられるそういった作業が、キャンプの場では楽しく感じられてやまないのだ。自宅よりも不自由な環かん境きよう下かで、美お味いしい料理のために手て間ま暇ひまをかける――それもまた、キャンプの醍だい醐ご味みのひとつであるはずであった。

(今さらながら、これってどういう心理なんだろ)

 キャンプとは、自ら不自由を背負うようなものである。自宅にこもっていればテントやタープを設営する必要もないし、ガスコンロのスイッチをひねるだけで火をつけることができる。雨風や寒暖や虫の襲しゆう来らいに悩なやまされることもなく、のんびり安楽な時間を過ごすことができるのだ。ひときわ面倒ごとを嫌きらう咲弥がキャンプに魅み了りようされたというのも、あらためて考えると不思議な話であった。

(だけどまあ……だからこそって話なのかなぁ)

 料理ひとつ取っても、咲弥は自宅だと気合が入らない。食事などは生存に必要な栄養とカロリーを摂せつ取しゆするだけの話であり、そこに手間暇をかける意義を見いだせないのだ。

 しかし現在の咲弥は、大いなる意欲でもってキャンプ料理の調理に取り組んでいる。この苦労の末に美味しい料理が待っているかと思うと、胸が弾はずんでならないのだ。一枚のローリエを添そえてアヒージョらしさを演出しようなどという考えは、自宅では決して思おもい浮うかばないはずであった。

(こういう楽しみがないとどんだけ心がささくれるかは、この二年弱でがっつり証明されたもんなぁ)

 咲弥がそのように考えていると、ドラゴンはまた大型犬サイズの体をもじもじとさせた。

「我は細かな作業を苦手にしているため、こういう際には見守ることしかできぬのだ。何か力仕事が必要な際は、遠慮なく申しつけてもらいたい」

 我に返った咲弥は、「あはは」と笑ってみせた。

「あたしもたいていの力仕事はこなせるつもりだけど、いざというときにはよろしくねぇ」

「うむ。その機会が巡めぐってくることを、心待ちにしている」

 そのように語るドラゴンは、ずいぶん神妙な面おも持もちであった。

 もしかしたら――ドラゴンは楽しい気分ばかりでなく、苦労も分かち合いたいと思ってくれているのだろうか。そんな風に考えると、もともと浮き立っていた咲弥の心がいっそう浮き立ってしまった。

「よーし。パスタは、こんなもんかな」

 気づけばメスティンのパスタは、すっかり水気がとんでいる。それを一本すすりこんでアルデンテの仕上がりを確かく認にんした咲弥は、メスティンを焚火台のほうに持ち運び、熱々のオリーブオイルをスポークで何なん杯ばいか移うつし替かえた。そうしてパスタ同士がひっつかないようにオリーブオイルを全体に馴染ませてから、メスティンとコッヘルの蓋に取り分けた。

「よしよし。あとはアヒージョの完成を待つばかり……って、見るからにもう食べ頃だなぁ」

 グローブを装着した咲弥は熱いスキレットをスチール製のグリルスタンドに移して、空いたばかりのメスティンに四割ぐらいの見当で具材とオリーブオイルを取り分けた。あとはホイル焼きの包みを開けば、イブニングディナーの支し度たくも完かん了りようである。六割ていどを残したスキレットのほうは、もちろんドラゴンの取り分だ。

「ほんでもって、今日のお供は赤ワインでございます」

 咲弥がコンテナボックスから赤ワインのボトルを引っ張り出すと、ドラゴンはいっそう瞳を輝かせた。

「また異なる酒を馳走してもらえるのか。我はどのようにして、サクヤの温情に報むくいればいいのであろう?」

「そんな水みず臭くさいこと言わないでよぉ。こっちは楽しくてやってるんだからさぁ」

 咲弥が心からの笑え顔がおを届けると、ドラゴンはもじもじしながらマグカップを差し出してきた。

 スクリューキャップを開けたボトルをその上で傾かたむけると、宝石のように輝く液体がこぽこぽと流れ落ちる。掛かけ値ねなしに安物のテーブルワインであるが、そのきらめきの美しさに遜そん色しよくはない。それを見つめるドラゴンの瞳は、子供のように期待感をあらわにしていた。

「ではでは。無事な再会を祝して、かんぱーい」

「乾かん杯ぱい」と復唱してから、ドラゴンはかぱっとひと息にマグカップの中身を飲み干した。口の構造上、そうする他ないのだ。前回のキャンプでその事実を知った咲弥も、ひと口分しかワインを注いでいなかった。

「こちらは先日のビールという酒よりも、遥はるかに酒気が強いようだ。……きわめて、美味である」

「うんうん。蓋は開けておくから、あとはご自由にどうぞぉ。それじゃあ、料理をいただこうかぁ」

 咲弥はドラゴンとおそろいのスポークを取り上げて、まずはメインのステーキ肉をすくいあげた。オリーブオイルにねっとりと濡ぬれた、実に背徳的な美しさである。それを口に放り入れると、期待通りの味が口内に躍やく動どうした。

「おー、上出来上出来。やっぱ、『ほりこし』の下味がきいてるねぇ」

 こちらは『ほりこし』をまぶした肉を、オリーブオイルで煮込んだだけの料理である。あとはローリエとニンニクとマッシュルームしか使用していないため、それ以外の味が生まれる道理はない。そして、それ以外の味など必要がないぐらい、力強い仕上がりであった。

 これこそが、手間暇をかけた成果である。なおかつ、自宅であればもっと簡単に作りあげることもできるはずだが、こんなに心が満たされることはないはずであった。

「これは……油に広がったニンニクの香りが『ほりこし』なる調味料と深く絡からみ合い……またとない調和を果たしているようだ」

 ドラゴンも、黄こ金がね色いろの瞳を星のように輝かせている。咲弥がこれまで目にしてきた中で、最大級のきらめきだ。それで咲弥も、達成感と充じゆう足そく感かんにいっそうの拍はく車しやを掛けられることに相成った。

「喜んでもらえて何よりだよぉ。あ、パスタやタマネギやニンジンも、オリーブオイルにひたすと美味しいと思うよぉ」

「おお……こちらも、素す晴ばらしい。基本の味は同一であっても、食感の違ちがいがまた異なる趣おもむきを生み出すようだ」

「うんうん。ちっちゃくなった甲か斐いがあったねぇ」

「まったくである」と、ドラゴンは微笑むように目を細めた。赤ワインでほろ酔よい気分の咲弥は、ますます満ち足りた心ここ地ちである。

 そういえば、咲弥はアルコール類も自宅では飲むことがない。三日前のビールなどは、実に半年ぶりのアルコールであったのだ。咲弥はそれなりにアルコールに強い体質であるし、今も赤ワインの味わいに心から満足しているが――やっぱり自宅では、アルコールを摂取する意義を見いだせなかったのだった。

(たとえソロキャンでも、焚火を眺めながら楽しむお酒は最高の味わいだもんなぁ。ほんでもって……)

 ドラゴンと語らいながら楽しむ酒は、それ以上の味わいである。

 咲弥がそんな想念を浮かべながらにやついていると、ドラゴンは不思議そうに小首を傾げつつ、優しく目を細めてくれたのだった。


5


 咲弥とドラゴンが楽しいイブニングディナーの時間を過ごしていると、頭上のタープに何かがぽつんと弾はじけ散った。

 ドラゴンは優美なラインを描えがく首をのけぞらしつつ、「ふむ」と神妙な声をあげる。

「どうやら、雨のようであるな」

「ありゃりゃ。今日は夜まで快晴の予報だったのになぁ。やっぱ、山の天気は変わりやすいねぇ」

「うむ。これは、こちらの世界の雨であるようだな」

 ドラゴンのそんな返答に、咲弥はきょとんと目を丸くした。

「あー、にゃるほど。この山は、二つの世界の天気に左右されるってこと? 晴れてるときは、どっちの世界も晴れてるってわけだぁ」

「左様。ただし、こちらの世界のこちらの区域は、雨が降ることも稀まれである。こちらの山は、砂さ漠ばく地帯の中央に位置しているのでな」

「えー? 砂漠のど真ん中に、こんな立派なお山がそびえたってるのぉ?」

「うむ。よって、こちらの世界では『魔まの山』として恐おそれられている。なおかつ、大地の魔ま力りよくも潤じゆん沢たくであるため、魔ま族ぞくにとっては楽園のごとき地であるのだ」

「あはは。あたしにとっても、楽園そのものだけどねぇ」

 咲弥はいっそう楽しい心地で、食事を進めた。

 が――アルコールで火ほ照てった体の熱が、じょじょに外気に奪うばわれていく。雨が降ったことにより、ずいぶん気温が下がってきたようであった。

「うひゃー。二月とはいえ、なかなかの冷ひえ込みだねぇ。砂漠地帯ってことは、そっちはあったかいんじゃないのぉ?」

「否。砂漠地帯でも夜は寒冷が厳しいものであるし、そもそもこちらも時節は冬である。それでも緑が枯かれないのは、ひとえに潤沢な魔力の恩おん恵けいであろう」

「ついでに気温も上げてほしかったなぁ。……まあ、四季おりおりを楽しむのもキャンプの醍醐味だけどねぇ」

 すっかり暗くなってきたので、咲弥はタープのポールに設置しておいたLEDランタンで明かりを灯した。そうすると、ますます周囲の薄うす暗ぐらさが際きわ立だつようである。見慣れぬ樹木や花は奇き怪かいな黒いシルエットと化し、雨の勢いで枝葉が揺れるためか、それこそ闇やみの中で魔ま物ものが踊おどっているような風ふ情ぜいであった。

 しかしまあ、それしきのことで怯ひるむ咲弥ではない。見慣れない光景というのは、やはりキャンプの楽しみのひとつであるのだ。見慣れているはずの山で見慣れない光景を見られるならば、むしろお得なぐらいであった。

 ただし、寒さのほうだけは如何いかんともし難がたい。パスタとアヒージョを食べ終えると、いっそう冷気が五体にしみいってきた。

「あー、これはちょっと、暖を取らないとダメなやつだ。いったんテントに避ひ難なんしよっかぁ」

「うむ。それでは我は、こちらで待機していよう」

「いやいや。タープがあっても、ばんばか雨が吹ふき込んできてるじゃん。そのサイズだったら問題ないから、ドラゴンくんもご遠えん慮りよなくどうぞぉ」

「しかし……そちらの世界には、男女七歳さいにして席を同じうせずという格言が存在するのであろう?」

 真しん剣けんな眼まな差ざしでそのように語るドラゴンに、咲弥は「あはは」と笑ってしまった。

「それって格言なのかなぁ? まあ何にせよ、めっちゃ古い言葉のはずだし……たぶん、思春期の人間に対する戒いましめなんだと思うよぉ。百歳オーバーのドラゴンくんと二十歳はたちオーバーのあたしには無む縁えんな話さぁ」

「左様であるか。我もその言葉にどのような含がん蓄ちくが存在するのか、今ひとつ測りかねていたのだ」

 そのように語りながら、ドラゴンは鉤かぎ爪づめの生えた右の前まえ肢あしを持ち上げた。

「しかし我は、このように汚よごれてしまっている。これではサクヤの寝ね床どこを汚してしまうのではなかろうか?」

「そんなもんは、タオルでちょちょいと拭けば大丈夫さぁ。じゃ、焚たき火びの火を落としちゃうねぇ」

 さらに咲弥はバーナーをコンテナに仕し舞まい込み、ローチェアともどもテントの前室に運はこび込んだ。さらにクーラーボックスも移動させれば、ひとまずの避難は完了だ。

「あとは、雨がやんでから片付けるよぉ。さあさあ、ずずいとどうぞぉ」

「うむ。失礼する」

 前室までは足もとも地面であるため、ドラゴンはそこまで歩を進めた。咲弥はひと足先にシューズを脱ぬぎ、LEDランタンを設置しなおしてから、テントの内部でタオルを構える。

「では、おみ足を拝借」

「うむ。爪で手を傷つけないように、十分注意してもらいたい」

 今は大型犬サイズであるため、鉤爪も相応に縮んでいる。しかしおそらく、これでも虎とらやライオンよりは立派な爪であるのだろう。ドラゴンの忠告に従って、咲弥は慎しん重ちようにタオルを押し当てて――そして、小さからぬ驚おどろきにとらわれた。

「ありゃ。ドラゴンくんって、ずいぶん体温が高いんだねぇ。もっとひんやりしてるんじゃないかって思い込んでたよぉ」

「うむ。我は、火か竜りゆう族であるからな。不快ではなかろうか?」

「不快どころか、湯たんぽみたいにぽかぽかだねぇ。いいなぁ。羨うらやましいなぁ」

 そんな言葉を交かわしながら、咲弥は四本の立派な足先を清めていった。

 かくして入室の資格を得たドラゴンは、テントの片かた隅すみに身を落ち着ける。いっぽう咲弥は大急ぎで二枚のフォームマットを広げて、シュラフを袋ふくろから取り出した。

 シュラフの下に敷しくフォームマットというのは、クッション性の確保と地熱を遮しや断だんするための準備である。暑さにせよ寒さにせよ、肝かん要ようなのは地熱を遮断することであるのだ。

 ただ昨今は、コットと呼ばれる簡易ベッドを使用するのが主流であるのかもしれない。コットを使えば地面から浮くため、おおよその地熱から解放されるのだ。さらにその上にフォームマットを敷けば、いっそうの効果が期待できるはずであった。

 ただしコットというのは、それなりにかさばる器具である。十八歳になるまで自転車や原付バイクで移動していた咲弥はコットを購こう入にゆうする決断を下せず、二枚のフォームマットを重ねることで暑さや寒さをしのぐことに決めたのだ。そして現在は、それらのフォームマットを無む駄だにするのが惜おしく思えて、けっきょくコットの購入に踏ふみ切れていなかった。

 あとはキャンプの定番アイテムとして、薪まきストーブというものも存在する。天てん井じよう部分にあいた穴を使えば焚火台と同じように調理に活用することができるし、そこに煙えん突とつを設置すればテント内に持ち込むこともできるのだ。ただし、煙突をインストールできるタイプのテントでなければずいぶん手間を食うことになるし、煙けむりの排はい出しゆつや適切な換かん気きにしくじると一酸化炭素中毒の危険を招くことになる。そういった点を鑑かんがみて、咲弥は手を出していなかった。

(そもそもあたしは、けっこう寒さに強いからなぁ)

 しかし、そんな咲弥にしてみても、本日の寒さは厳しかった。防寒ジャケットを着き込こんだままシュラフに下半身を突つっ込んでも、じわじわと体温を奪われていくのだ。もしかしたら、異界の雨というものがいっそう厳しい寒さをもたらしているのかもしれなかった。

「あー、ドラゴンくんドラゴンくん。ちょっとご相談があるのですが……火竜族としての温ぬくもりというやつを、ちょっぴりおすそわけしていただけないでしょうか?」

「うむ? 先日にも説明したかと思うが、我の炎ほのおは対象物を塵ちりに帰す役にしか立たぬのだ」

「いやいや。テントで火を吹けなんて言わないよぉ。そのお肌はだの温もりだけで、あたくしには十分なのでございやす」

 ドラゴンは、不思議そうに小首を傾げた。

「言葉の意味が、よくわからないのだが……もしや、我の身を湯たんぽの代用にしようという目もく論ろ見みであろうか?」

「あー、やっぱり失礼な申し出だったかしらん?」

「否。それでサクヤの苦痛が少しでもやわらぐのであれば、安いものだが」

 ドラゴンはしなやかな足取りで、咲弥のほうに近づいてくる。というか、狭せまいテントの内であるので、三歩も歩くスペースはないのだ。そうして咲弥がその背中にぺたりと手の平を押し当てると、たちまち心ここ地ち好よい温もりがしみいってきた。

「えーと、あたしが風邪かぜとかひいちゃったら、ドラゴンくんは悲しい?」

「うむ。風邪は万病のもとと聞く。サクヤには健すこやかに生きてほしいと願う」

「では、遠慮なく」と、咲弥はドラゴンの身を横合いから抱だきすくめた。

「あいやー、これはいかん。悦えつ楽らくの至りでございまする」

「ふむ。サクヤはまるで、幼子にかえってしまったかのようであるな」

 ドラゴンは笑いを含ふくんだ声で言いながら、その場に身を伏ふせた。するといっそう抱きつきやすい角度となったため、サクヤの満身に温もりが流ながれ込んできた。

「あー……もしも焚火の炎が固形物だったら、絶対にシルクやサテンみたいにすべすべの質感だと思うんだよねぇ。炎って見るからにやわらかそうだし、すっごくきめの細かい感じがするからさぁ」

「ふむ。その心は?」

「あたしの妄もう想そうが現実化したかのようで、悦楽の思いは増すいっぽうでございまする」

 咲弥はまぶたを閉ざして、ドラゴンのなめらかな首に頬ほおをすりよせた。呆あきれているのか楽しんでいるのか、ドラゴンは小さく息をついている。しかし何にせよ、咲弥が満ち足りた思いであることに変わりはなかった。

(そういえば……ちっちゃい頃ころは、じっちゃんのシュラフに無理やりもぐりこんでたっけ)

 そんな追つい憶おくにひたると、咲弥の心はいっそう深く満たされた。

 テントに当たる雨あま粒つぶの音までもが、ひどく優やさしく感じられる。そうして咲弥は、またとない温もりと安らぎに包まれて――その日は早々に寝ね入いることになってしまったのだった。