電子書籍特典 皇帝陛下と、右腕と
我は皇帝カイウス。即位して四年になる。我が願うは、民が幸せに、つつがなく暮らせることだ。
……なんて、な。四年経っても、まだこの口調には慣れないんだよなあ……どうにもこうにも、背中がむずがゆくなるんだよ。
という訳で、今日もお忍びで城下町に出かけることにした。皇帝らしくふるまうことに疲れたから休憩だとか、断じてそういうのではない。
民たちの暮らしぶりを直接この目で見ることも、統治者には大切なことだからな。そう、だからこれはれっきとした執務の一環なんだ。決して、さぼりではない。
以前ジゼルにそう主張したら、「へりくつじゃないですか?」「どう言い換えても、息抜きであることに違いはないですよね」などという、遠慮のない言葉をもらってしまった。
あいつ、思っていた以上にずばずばものを言うようになったんだよな。初対面の時は、あんなに緊張していたのに。
でも、それだけ心を許してもらえているってことだ。まずは、あいつと仲良くなれたことを喜ぼう。
それはそうとして、今日はどこに行こうか。
この時間帯ならまだ魔法研究会も活動しているだろうし、そちらに顔を出すのもいいな。それとも市場のおばちゃんに挨拶がてら、おやつを食べにいくのもいいな。
「ともかく、ここを抜け出して、と……」
皇帝の私室には、代々皇帝だけが受け継いでいる隠し戸棚とか秘密の通路などがある。この帝城が建てられた時から、それらはここにあるらしい。
帝国最初の皇帝はたった一人でこの部屋を作り上げ、『皇帝以外のものにこの部屋の秘密を明かすことを禁ず』と言い残した。
とんでもない話だが、あの皇帝には色々と妙な伝説があるからなあ……。これくらいなら、余裕でやりそうだ。
ともかく、俺はこれらの遺物を全力で活用して、ちょくちょくお忍びに出かけているのだった。臣下に見られたら困るものをこっそりしまっておける、そんな場所があるだけでとてもありがたい。
そんなことを考えつつ、隠し戸棚から研究生の制服を取り出す。ちなみに、汚れたら学園の寮に持ち込んでいる。自分で洗えれば楽なんだが、どうもしわしわにしてしまいそうな気がする。
そして当然ながら、着替えるのも自分一人で、だ。実のところ、制服を着るよりも、皇帝の服を脱ぐほうがよほど難しい。威厳を保つためとはいえ、こうも豪華な服を着ているのは、疲れる。
制服に着替えて、さわやかな気分で入り口の扉を見た。
「さて、この時間だと兵士たちはあの辺にいるはずだから……よし、あっちから行くか」
これでも俺は皇帝だ。帝城を守る兵たちの配置は全て頭に入っている。だから、裏をかいて脱走することも容易だ。
秘密通路を使ってもいいんだが、普段から気軽に使うと、何かの拍子に存在がばれてしまわないとも限らない。だからあれは、いざという時のとっておきだ。
部屋を出て左に進み、二つ目の角を右に曲がって、その先の無人の部屋を通り抜け……ようとして、ぱっと足を止める。
「ん、なにかおかしいぞ……?」
無人の部屋から廊下に出ようとしたその時、がちゃんという鎧の音が聞こえてきたのだ。おかしい。今この辺りは無人のはずなんだが。
部屋の中で息をひそめて、扉に耳を当てる。そうして、耳を澄ませた。……まちがいない。騎士が数名、うろうろと歩き回っている。
ついてない。今日はもう、あきらめたほうがいいだろうか。それとも一度戻って、改めて出直すか。
その時、また別の足音が聞こえてくる。かつんかつんという異様に規則正しいこの足音、ゾルダーだ。
あいつ、今日は執務が詰まっていて忙しいとか言っていた。だからこそ俺も、今のうちに出かけようと思ったのに。こんなところで、何してるんだ。
「みな、例の人物は見かけたか」
ああやっぱり、この声はゾルダーだ。
「いいえ、見かけておりません」
騎士らしき声がそう答えると、今度はため息が聞こえてきた。
「私が多忙であると知れば、抜け出そうとするかと思ったのだが……罠は不発、か」
そんなゾルダーに、騎士の声がためらいがちに問いかけている。
「あの、帝城の奥に単身で侵入している研究生を捕らえよ……とのことですが」
「研究生であれば、所用で出入りすることもあるでしょうし、こうして私たちが目くじら立てて追い回す必要もないのでは?」
彼らに答えたのは、苦々しいゾルダーの声だった。
「訳あってその研究生に、少々説教をしてやりたいのだ。……しかし本来であれば、堂々と説教ができる相手ではないのでな」
……やっぱり、ゾルダーにはお忍びがばれてたか。賢くて勘のいいあいつのことだ、謎の研究生の目撃情報から、俺という答えにたどり着いていてもおかしくないとは思っていたが。
「まさか、俺に説教をしようと罠まで張るとはな」
しかし、どうやら俺は見つからずに済んだ。このために、兵士たちの巡回経路を必死に覚えたんだからな。そう簡単に捕まってたまるか。
「しかし、ゾルダーが俺に説教したがっている、か……想像しただけで、頭が痛くなってきた」
彼には、誰もが一目置いている。もちろん俺も、頼りにしてはいるのだが。
「……あいつが本気でお忍びの邪魔をしてくるとなると、問題だぞ。こちらも、対策を練る必要がありそうだ」
こんなところで隠れたままでは、じっくり考えようがない。仕方ない、今日はもう戻ろう。
忍び足で部屋に戻り、また皇帝の服に着替える。脱ぐ時よりも着る時のほうが、さらに面倒だ。
どうにかこうにか着替え終わったまさにその時、部屋の外からゾルダーの声がした。
「陛下、緊急の案件です。書類の確認をお願いいたします」
「ああ、入れ」
とっさに皇帝らしい口調で、そう返す。ゆったりと椅子に座り、ゾルダーを出迎えた。おっと、間一髪だった。
さっきまで学生を追い回していたとは思えないくらいに落ち着き払った態度で、彼は書類を差し出してくる。
こちらもさっきまで逃げ回っていたなどはかけらほども見せずに、そしらぬ顔で書類に目を通していった。なるほど、確かにこれは緊急の案件だな。
と、ゾルダーの静かな声がした。
「陛下にも、息抜きは必要でしょう。ですが、どうかお忘れなく。あなたのその肩には、この帝国の未来がかかっていることを」
「……ああ。ひと時たりとも、忘れたことはない」
俺は、皇帝だ。俺には民を守る義務があり、大切な人たちを守る力がある。そして、そのことを誇りに思っている。
ただ俺は、同時に一人の人間だ。ずっと孤高の皇帝として存在し続けるのは、息が詰まる。そう思っているのも、確かだった。
「……ゾルダー。そちがもし皇帝であれば、きっと完璧な皇帝となったのであろうな」
ふと思ったそんな言葉を口にすると、ゾルダーはふっと悲しげに目を細めた、ような気がした。
「お戯れを。至高たる皇帝は、カイウス様ただお一人です」
「そうだな」
ゾルダーのこんな表情は、初めて見た。
思えば俺は、こいつのことはよく知らない。とびきり有能で、いつも帝国のことを想っている。知っているのは、それだけだ。
俺が皇帝になってから四年、ゾルダーはずっと俺を支えてくれた。でも、俺と彼の間には、いかんともしがたい距離がある。
……いっそ今度、遊びに誘ってみるのもありかもしれないな。書類を読みながら、ちらりとゾルダーを見た。相変わらず表情の読めない、そんな顔を。