「手旗信号、でしたか……確かに、文字を書いた紙を使うより、はるかにらくですが……」

「ルル、いつの間におぼえたの? そしてアリア、どうして知ってたの?」

「『こっそり、れんしゅう』だって……わたしは、前によんだことがあったから……暗号や信号に関する本……ほら、こういうの……」

 そう言いながら、アリアは一冊の本を広げる。両手に持った旗の向きの組み合わせで文字を表現する、そんなものだった。

「これなら、もっとかんたんに意思疎通ができますね。すこし頑張れば、ぼくたちもおぼえられそうです」

「……でも、ほかの人に、ルルが話せることがばれちゃう……?」

「だったらこれまでみたいに、ほかの人のいるところでは話さないか、こっそり話す……ってことにしたらどうかな?」

 ちっ!

 私の提案に、ルルが元気よく鳴いた。ちっちゃな片手を、まっすぐに挙げて。満足げに、ひげをひこひこさせて。



 ルルがリュックを背負って跳ね回るようになってから、どことなくセティの様子がおかしいようだった。特別研究の途中で手を止めて考え込んでいたり、みんなでお喋りしていてもどこか上の空だったり。

 それがどうにも気になってしまったので、学園が終わった後に彼を寄り道に誘ってみた。といっても、子供だけだから遠くには行けない。だから行き先は、貴族の屋敷が集まる区画にある静かな公園だ。ここなら学園からも、私の屋敷からもそう遠くない。

「……あのね、セティ」

 木の長椅子に並んで腰かけて、ためらいがちに切り出す。すると、彼はこちらを見ないまますぐに答えた。私、まだ何も言っていないのに。

「ぼくの態度のせいで心配をかけてしまい、もうしわけありません。ルルを見ていたら、かんがえずにはいられなくて……」

 そのルルは長椅子の背にちょこんと座って、心配そうにセティを見ていた。

「皇帝陛下の勅命を受け、重大な任務を遂行する……そんなルルをみていたら、騎士のようだなっておもえてしまって」

 ちっ、とルルが励ますように鳴いた。手旗信号で話せるようになったルルだけれど、普段は今まで通りに鳴き声や身振り手振りで返事をしていることが多い。

「……ルルは立派です。それにくらべて、ぼくは何をしているんだろうって、そうおもえてしまって」

 なぜそこで、ルルと自分を比べるのか。首をかしげていたら、セティがうつむいた。

「ぼくの特別研究は、ひとまず形になりました。女性や子供でも取り回せる、小型で軽量な機械弓ができたんです。でもこれではまだたりません」

「どうして? 護身用の武器としては、いいものができたのに」

「そうですね。一人一人が、ちょっとした危機から身を守る。そんな用途でなら、やくにたつかもしれません」

 セティの声は、消え入りそうになっていた。

「でも、もし戦になってしまったら……あんなもの、ただのおもちゃです」

「戦になんてならないわ。ここは、あの王国とは違うもの。だいじょうぶよ、絶対!」

 彼を元気づけようと、一生懸命そう主張する。脳裏に、色んなものがよぎっていくのを感じながら。私たちを慈しむような、カイウス様のまなざし。帝国の明るい未来を思う、ゾルダーの声。学園の、平和そのものの日々。六年間ずっと笑顔の、パパとママ。

「……エルフィーナさま」

 けれど不意にかつての名を呼ばれて、我に返る。

「ぼくは、あなたを守れなかった。ぼくがだれだったのかすら思い出せないのに、そのことだけはおぼえています。その苦しみだけが、胸に焼きついているんです」

 小さな手で、彼はぐっと自分の胸を押さえている。

「自分をみとめてやれるくらいに、ぼくが強くなれたら……その時ぼくは、やっと解放されるのかもしれません。この、無念から」

「……やっぱりあなたは、ヤシュアではないの?」

 セティがヤシュアだったらいいな。そんな思いは、今でも私の胸の中にあった。

 湖月の王国の騎士団長ヤシュア、無口でぼくとつだった彼とのささやかなお喋りは、かつての私にとって数少ない、くつろげるひと時だった。あんなことがなかったら、彼は将来私の配偶者になっていたかもしれない。彼に恋していた訳ではないけれど、彼は安らげる人だった。

「その名前に、聞き覚えはあります。ですが、それが自分のことなのかどうかは……やっぱり、わかりません」

「……そうなんだ。もしそうだったら、わたしももっとあなたの力になれたのかなって思ったのだけれど……」

 もどかしいものを感じながら、思いを巡らせる。セティがヤシュアなのか、それとも他の誰かなのか、そこのところはまだ分からない。けれど彼は今もなお、前世の記憶に囚われている。そこから逃れようと、あがいている。

 同じように前世の記憶を持つカイウス様は、その記憶を大切な、愛おしい思い出として抱いている。その思い出は、間違いなく今の彼に影響を与えている。

 私は、どうなのだろう。生まれ変わった直後とは違い、もう前世のことを思い出しても嫌な気分にはならなかった。ただ私にとって、エルフィーナはもう別の人間だった。私は彼女とは違うのだと、彼女を否定して今の自分を生きている。

 前世との関わり方一つとっても、人それぞれだ。セティも早く、折り合いをつけられるといいのにな。

 そう思いながら、声を張り上げる。

「……ううん、前世がなにだとか、関係ないわ。だってわたしたち、友達だもの!」

 驚いたように、セティも顔を上げた。目を丸くして、こちらを見ている。

「ね、約束! これからもずっと、友達よ」

 そう言って、彼に軽く握った右手を差し出した。小指だけを立てて。セティはちょっぴり頰を赤く染めていたけれど、やがて同じように右手を差し出してきた。

 そうして二人、小指をからめる。誰もいない公園で、子供同士の約束だ。

 セティの指は、私の指と同じようにちっちゃくて、柔らかかった。


 そんなことのあった、次の日の放課後。私はたった一人、校舎裏に呼び出されていた。イリアーネに。

「ジゼル・フィリス! ききましたわよ。昨日、セティさまをつれだして二人きりで、そ、その……い、いいっ、いちゃ」

「……もしかして、いちゃいちゃって言おうとしてる?」

 彼女の豪快な言い淀みっぷりに、大体何を言いたいのか察した。そのまま口にしてみたら、彼女は真っ赤っかになってしまった。すごい。トマトみたい。

「ちがうよ。あれは、ただの悩み相談だから」

「そ、それでも、セティさまを独占していたことにかわりはありませんわ!」

 相変わらずだなあ、この子。今でも剣術同好会に差し入れに行くたびに、私とセティを引っぺがそうとやっきになっているし。一生懸命なところがまた、とても可愛い。

 ……ん? 剣術同好会……あ、そうだ。

「ねえイリアーネ、あなたにおりいってお願いがあるの」

「ちょっ、あなたがそんなことを言い出すなんて、どういう風のふきまわしですの!?

「まあまあ、聞いて。あのね、セティのことなんだけど」

 そう口にした瞬間、彼女はぴたりと黙った。真剣な顔で、必死に耳を傾けている。

「セティ、強くなりたいんだって。だったら、本気でけいこできる相手がいればいいのになって思わない? やる気と体格が、おなじくらいの」

 料理同好会の活動のついでに、剣術同好会の活動をちょっと見学したことがある。その時セティは、一人で黙々と素振りをしていた。貴族のたしなみとして和気あいあいと剣術に励んでいる他の子とは、どうもそりが合わないようだった。かといって上級生相手だと、体格差のせいで軽くあしらわれてしまうし。

「……つまりわたくしに強くなれと、そうおっしゃりたいの?」

 イリアーネは、一年生の女子の中では背が高い。本人はどうもそのことを気にしている節があるけれど、だからこそセティとも正面からやり合える可能性がある。まだ六歳だから、男女の筋力差も気にならないし。

「うん。手合わせとかができるようになったら、セティももっと強くなれるよね。そうしたらセティ、きっと喜んでくれるとおもうんだ」

 さらに追い打ちをかけてやると、イリアーネがきらきらと目を輝かせ始めた。本当に一途だなあ、この子。

「ただ、本気で手合わせをするとなると、打ち身なんかも増えるだろうし……騎士志望の子とかならともかく……」

「打ち身くらい、耐えてみせますわ!! こうなったら、もっともっと鍛えなくては!!

 そう言い残して、イリアーネは駆け去っていった。きっと彼女は、セティのいい稽古相手になってくれるだろう。彼が強くなる後押し、ちょっとだけできたかな。

 鼻歌を歌いながら、学園の門に向かっていった。とてもすがすがしい気分で。



 それから少し経ったある日の夕方、私とセティ、それにアリアは三人一緒に学園を後にしていた。今日は、前から計画していたお泊まりの日なのだ。

 セティは夏休みに泊まりにきたことがあるし、カイウス様がこないだうちに押しかけてきた。それを知ったアリアが「自分もお泊まりしたい」と言い出したので、改めてみんなでうちに集まることになったのだ。

 私たちは子供だし、日程はいつでもいい。ただうちの両親がちょっと忙しくしていたので、少し先延ばしになっていたのだ。

「きみの屋敷におじゃまさせてもらうのは久しぶりです。あの時は、たのしかったなあ……」

「わたしも、すっごくたのしみ……ちゃんと、おかあさまには言ってきたから……」

「アリアは親戚の屋敷に、おかあさまと一緒に引っ越してきたのよね? こないだは、付き合ってもらってたすかったな」

「……うん。学園を卒業したら、故郷に帰るの……ジゼルたちともおわかれ……」

 その時のことを考えてしまったのだろう、アリアがふっと暗い顔をする。

「あ、先にいっておくけど、パパもママも、ものっすごくやる気だからね? 二人をもてなすんだって、朝からはりきりっぱなしで!」

「それって、とんでもないことになりそうですね……ちょっとしたパーティーになりそうな……」

 アリアを元気づけようと声を張り上げた私に、セティが目を丸くして相槌を打つ。

「そう、そんな感じ! たぶん、ほんとにパーティーになっちゃうと思う!」

 私たち二人の言葉に、ようやっとアリアも気を取り直したようだった。

「……パーティー……すごい……でも、本当に?」

「うん、本当なの」

「十分にあり得ます、あの方々なら」

 そんなことを話していたら、屋敷の門の前に着いた。いつものように、門番の一人が門を開け、もう一人が両親を呼びにいく。きっと二人とも、うきうきした足取りでやってくるんだろうな。

 こっそり笑いを嚙み殺しながら、玄関に向かう。そんな私たちの前で、扉が勝手に開いた。

「ええっ!?

 そうして、私たちは同時に声を上げたのだった。

「よう、子供たち。まっすぐ帰ってきたみたいだな。偉いぞ」

「カインさんが、どうしてここにいるんですか!?

 まだ呆然としたままのセティとアリアの代わりに、カイウス様に尋ねる。玄関の扉の向こうに立っていたのは、今ではもうすっかり見慣れてしまったカインさんの姿だったのだ。

「どうしてって、俺は前にもお世話になったことがあるだろう。あれ以来、フィリス伯爵夫妻とは時々連絡を取り合う仲だぞ」

 それ、聞いてない。でも、納得はいく。うちの両親とカイウス様、馬は合いそうだし。

「『ジゼルの友人たちがうちに泊まるから、よければカイン君もどうぞ』と伯爵じきじきに招待されたんだ」

 二人とも、本当にこの人が皇帝陛下だって分かってるのかな……分かっててやってそうな気もするのが怖い……。

「驚くかと思って、俺が来ることは伏せてたんだが……うん、いい感じの驚きっぷりだ」

 そしてカイウス様はカイウス様で、いたずら心が顔を出しているようだった。本当にもう、この人は。

 ……でも、あんな前世の記憶があるのなら。貧しくともたくさんの家族や仲間に囲まれ、温かな日々を過ごしていたのなら。皇帝としての今の暮らしは、恐ろしく肩が凝るだろう。

 だから彼は、こうやって学園の人たちや私たちとにぎやかに過ごすことで、少しでも息抜きしようとしているのかもしれない。

 そんな感じで自分に言い聞かせていたら、セティがカイウス様をじっと見つめてつぶやいた。

「……ぼくは、やっぱり納得がいかないんですが……どうしてこれで、ばれないんでしょう……?」

 カイウス様はすっと目を細め、声をひそめる。

「人間とは案外、ものを見ているようで見ておらぬ。皇族の証である緑の髪を隠しただけで、我の姿が目に留まらなくなるようだな。おかげで、我もこうして息抜きに出られる」

 一瞬にして雰囲気を変えたカイウス様に、アリアが目を丸くする。そういえばこの二人、カインさんにはちょくちょく会っているけど、この早変わりを見るのは初めてだったかも。

 しかし次の瞬間、カイウス様は満面に笑みを浮かべた。おごそかさは消え、人懐っこさが戻ってくる。

「さらにこうやって軽やかにふるまっていれば、もう誰も俺が皇帝陛下だなんて思わない。感づかれそうになっても、にっこり笑いかけてやれば他人の空似で済む。おかげで、素晴らしく自由だ。我ながら、いい方法を見つけたと思ってるよ」

「……やっぱり、とんでもない人……」

 私の斜め後ろに隠れながら、アリアがぼそりとつぶやく。それを聞いたカイウス様が、さらに嬉しそうに笑った。

「褒め言葉と受け取っておくよ」

 そんなことを話しながら、ひとまず全員を応接間に連れていく。

「それじゃあ、みんなはここで待ってて。わたし、パパとママの手伝いをしてくるから」

「……お手伝い……何、するの……?」

「料理。うちのパパとママ、ちょっとだけ料理ができるの。親しい人を招く時だけの特別な料理を、いまつくってるところなんだ」

 フィリス家の人間は、なぜか代々料理同好会に入りがちだった。どうも、料理に惹かれる血筋らしい。そうして一族の者は学んだ料理にさらに創意工夫を加え、そのレシピを一冊の本にまとめたのだった。さほど難しくはなく、それでいておいしく作れるものばかり。その本は親から子へ、そして孫へと受け継がれながら、少しずつ改良され、また書き足されていった。

 だからうちでは、当主夫妻と、跡継ぎの子は料理を覚えることになっている。私も、もう数年したら両親から料理を教わることになっていたらしい。もっともそれより前に、やっぱり私が料理同好会に入ったのだけれど。お父様もお母様も「やっぱり私たちの子だね」とか何とか言いながら笑い合っていたのだとか。

 今日の夕食は、本に記されたレシピの一つ。『友人たちとの温かな夕べに』と題されたものだ。

 そう説明したら、カイウス様がにやりと笑った。あ、嫌な予感。

「ただ待ってるだけってのもなんだし、ちょっと面白いことを思いついたんだが」


 制服を普段着に着替えて、厨房に向かって。既に料理に取りかかっていた両親を手伝い始める。

「ふふ、こんなに早くあなたと一緒にこのシチューを作れるなんて思わなかったわ。ご先祖様も、きっと喜んでおられるわね」

 私とお母様が担当しているのは、大鍋いっぱいのシチュー。野菜と肉を切って、ちょっと炒めて、水を加えてひたすらことこと煮るだけ。こう言ってしまうと簡単そうだけれど、おいしく作るには気をつけなくてはならない点がいくつもある。ご先祖様のレシピ本には、その辺りの注意もしっかり書かれていた。

「わたしも、料理同好会の一員だもの。あとは焦げつかないよう、気をつけてまぜればいいんだよね」

「ええ、そうよ。おいしくなあれ、って思いをこめながら、ね」

 踏み台の上に乗ってシチューをゆっくり混ぜながら、ちらりと背後をうかがった。厨房の真ん中にある、大きな作業台のほうを。

 作業台の隅のほうでは、セティとアリアがナッツを砕いている。二人ともこういう作業をするのは初めてだとかで、おっかなびっくり、でも楽しそうに手を動かしていた。それは、とても微笑ましい光景だった。

 問題は、その隣だ。

「おや、中々筋がいいじゃないか。もしかして君の家でも、こんな風に料理をするのかい?」

「昔、ちょっとだけやってたんですよ。自分で自分の食べるものを作るって、楽しいですね」

 談笑しながらパン生地をこねているのは、お父様と……カイウス様。二人とも、とっても慣れた手つきだった。……カイウス様、その『昔』って、前世のことですよね……?

「そうだろう。今日の夕食は、とびきりおいしいものになりそうだ。なんせ、こうやってみんなで作ったんだから」

「俺もそう思います。声をかけてくださって、ありがとうございます」

「君なら、いつでも大歓迎だよ。年齢も立場も関係なく、友人だと思っているから」

 その会話に、別の作業に取りかかっていたお母様が加わる。

「ええ、私もよ。カインさんといると、とても楽しいの。こうやって一緒に料理をしていることもだけれど、次々と驚かせてくれて、退屈する暇すらないわ」

 ……やっぱり二人は『カインさん』の正体、分かってる気がする。発言が、どことなく思わせぶりだ。それとも、ただの偶然かな?

 ただ、両親が彼のことをとても気に入っていることだけは確かだった。いつもなら客がいようとお構いなしに私を甘やかしまくる二人だけれど、彼がいると、ちょっとだけそっちに意識がそれている。

 カイウス様は、不思議と人を惹きつける魅力のある人だ。皇帝としてふるまっていても、研究生としてふるまっていても。両親のあの反応は、たぶんそのせいもあるんだろうなという気がする。

 などと考えていたら、セティがそろそろと近づいてきた。私だけ踏み台に乗っているので、彼を見下ろす形になる。

「……あの、ジゼル。もしかして寂しかったりしますか? その、ご両親がカインさんと仲良くされていますから……」

「ううん、逆。パパとママも、これならちゃんと子離れできそうだなって思ってた。……わたし、じつはずっと心配だったの。わたしが大人になっても、パパとママが甘々のままだったらどうしよう、って」

 声をひそめてつぶやくと、セティは何とも言えない顔になり、それからそっと苦笑した。

「……そうですね。たしかにその可能性は否定できません」

「……わたしにも分かる。ジゼルのおとうさまとおかあさま、甘い……」

 同じようにアリアもちょこちょこと歩み寄ってきて、力強くうなずいている。

 うちの両親は、とっても素敵な人たちだ。この二人の娘として生まれ変わることができて、本当によかったと思っている。

 ただ、やっぱりちょっと……私のことを甘やかしすぎるのも事実だった。愛されている証なんだと分かってはいるけれど、それでも時々恥ずかしくなってしまう。私は見た目こそ子供だけれど、中身は立派な大人なのだし。

「すっごく甘いけど……わたし、パパとママのこと、だいすきなんだ」

 小声でこう付け加えたら、二人はにっこりと笑った。


 そうやってばたばたしているうちに、夕食の準備が整った。

 今日の夕食は、シチューとパンだけ。といっても、シチューはじっくりと煮込んだうまみたっぷりのものだ。ふわんと漂ってくる香りをかいでいるだけで、お腹が鳴ってしまう。

 そしてパンも、焼きたてのぱりぱりだ。男性二人が力いっぱいこねた生地に、セティとアリアが丁寧に砕いたナッツが混ぜ込まれている。こっちも、とてもおいしそう。

 ちゃんとした料理人が作るものよりずっと質素な、飾り気のない料理。けれど気心の知れた友人たちとお喋りしながら食べるにはぴったりの、肩肘張らないものだ。

 みんなでわいわい騒ぎながら料理を皿によそって、ワゴンに載せて隣の食堂まで運んでいく。これもまた、このレシピの決まり事らしい。初めてだけれど、すっごく楽しい。

 いつもは三人だけの長机に、今日は六人。せっかくだからと椅子を動かして、片方の端に寄り集まってご飯を食べることにした。無作法、というか貴族の常識からはかけ離れたそんなふるまいに、さっきからわくわくしっぱなしだ。

 みんなも同じように思っているのか、全員ちょっとはしゃいでいた。いつも引っ込み思案なアリアですら、いつもよりたくさん喋っていた。

 ご飯はおいしくて、みんな笑っている。幸せだなあとしみじみ思ってしまうような、そんな時間だった。

「……懐かしいな」

 ふと、にぎやかなざわめきを縫うようにして、そんな声が聞こえてきた。私にだけ聞こえるようなかすかな声で、隣のカイウス様がつぶやいていたのだ。

 そっとそちらに視線を向けると、彼は目を細めて笑いかけてきた。今は青いその目が、ちょっぴり揺らいでいる。

 泣きそうな顔だな、と思ったとたん、自然と声を張り上げていた。

「パパ、ママ、みんな、楽しいね!」

 私の明るい声に、みんながこちらを向く。そうして、笑顔でうなずいてきた。

「だからまたこうやって、みんなでお泊まりしようよ! わたしたちだけでもいいし、他のお友達もよんでもっともっと大騒ぎしてもいいし!」

 そうね、そうだねという同意の声が、次々と上がる。その声に笑顔で応えて、こっそりカイウス様にささやきかける。

「ひとりのご飯が寂しくなったら、いつでもあそびにきてくださいね」

 彼は皇帝で、当然ながら食事は一人きり。それに、友人なんて作ることはできない。たくさんの人たちに囲まれて過ごした温かな記憶を持つ彼には、それはあまりに寂しすぎるのだろう。さっきの表情を見て、気づいた。

「ああ、そうさせてもらうよ」

 穏やかな声で、カイウス様が答える。その言葉はとても短かったけれど、とてもたくさんの思いがこめられているように思えた。