「よし、ちゃんと来てくれたな。約束、すっぽかされたらどうしようかと思ったぞ」
「約束っていうか……カインさんが一方的に言い出しただけじゃ……」
私とカイウス様は、学園を出て少し進んだところの街角で話していた。
あの後、料理同好会が後片付けを済ませ、魔法研究会の平屋を引き上げようとした時、カイウス様がそっと耳元でささやいてきたのだ。『寄り道して、もう少し遊ぼう。学園を出てすぐの十字路を左に曲がったところで待ってる』と。
訳が分からないまま学園に戻り、寮の厨房を片付けて。そうしてみんなが解散していったのを見計らってから、言われた場所に向かっていった。
学園の門をくぐると、貴族の屋敷が立ち並ぶ区画に出られる。どの屋敷の門にも門番が立っているし、兵士たちがたくさん巡回しているから、学園の生徒たちも安心して自分の足で屋敷まで帰ることができるのだ。……というか、いちいち迎えの馬車とか使用人とかを受け入れていたら帝城周囲の道が大混雑してしまうから、こうして警備を厳重にして、徒歩で通学させているらしい。
そんな訳で、ちょっとくらいなら寄り道できなくもないのだ。土地勘がないし危ないのでやらないだけで。
首をかしげながら歩く私に、カイウス様が上機嫌で笑いかける。黒い髪に青い目、研究生の制服のまま。
「寄り道って、どこにいくんですか? おそくなるようなら、両親に連絡しておかないと……」
「ああ、大丈夫だ。今日は早めに出てこられたし、遠出はしない。それにお前は、俺がきちんと送り届け……いやちょっと待て、お前の両親は『我』に会ったことがあったな。……まあいいか、気づかれたらその時はその時だ」
「開き直っちゃった……」
うちの両親、気づくかなあ。ほんわかしているようで結構鋭いし、でも妙なところで大らかだから、気づいても知らん顔をするかもしれない。ちょうど、今の私のように。
うんうんうなりながら、せっせと足を動かす。このまま進んでいくと、城下町の中心のほうに出ちゃうけれど、いいのかな?
「しかし、さすがはジゼルだな。昔からそうだったが、面白いくらいに肝が据わっている」
夕方まではまだ少し時間があるということもあって、まだまだ辺りは明るい。空を見上げて、カイウス様が唐突につぶやく。
「何のことですか、カインさん?」
「そう、その口調だ。ごく普通に、先輩に接する時のような口調と態度を保っているだろう?」
彼はそう言って、にっと笑いかけてきた。いたずらっぽい、楽しそうな笑みだ。
「こんな風に変装してあちこち出歩いていると、側近や重臣やらの俺の顔を知る者たちに、ばったり出くわすこともあってさ。ま、たまになんだが」
「……さっきのわたしみたいに、ですね。あれは驚きました」
「そうなんだ。驚くだけならいいんだが、みんな笑えるくらい挙動不審になるんだよな。どう見てもただの研究生でしかない俺に様付けしたり、過剰な敬語を使ってしまったり。しかも、ぎくしゃくした動きで。怪しいにもほどがあるじゃないか、なあ?」
その様を想像してしまって、つい笑いが漏れる。確かに、それはかなり挙動不審だ。もっともそれって、全部カイウス様のせいだけど。
くすくすと笑っていたら、彼はふと足を止めた。それから目を細め、すっとかがみ込む。整った顔に浮かぶ表情が、生き生きとしたものから威厳を感じさせるものに、一瞬で変わる。
「……だが、そちは瞬時に状況を理解し、今の我の姿にふさわしい対応をしてみせた。我の臣下たちの誰よりも、見事であったぞ」
「は、はい……あの、その口調、誰かにきづかれたら大変ですよ……?」
見間違いようのない、皇帝そのもののたたずまいに、思わず飛び上がって周囲を見回す。幸い、近くを歩いている人たちは誰もこちらに注目していなかった。
ほっと胸をなでおろしていたら、カイウス様がけろりとした声で笑う。
「意外に心配性だな、お前は。たとえ聞かれてたって大丈夫だよ。『今度学園の演劇で、皇帝陛下の役をやることになったんです』とか何とか言っておけば、怪しむ奴なんていないさ」
そのとんでもない言い訳に、今日何度目になるのか分からないため息をつく。この人って、つくづく常識外れだ。おかげでさっきからずっと、驚いてばかりだ。
こっそり口をとがらせていたら、上のほうからカイウス様の明るい笑い声が聞こえてきた。
「そうふてくされるな。ほら、目的地に着いたぞ」
休みの日なんかは、両親と一緒に城下町をお散歩することもある。それに夏休みには、セティも一緒にサーカスに行った。その時に歩いたのは、城下町の中でも比較的帝城に近い、貴族の邸宅や裕福な平民たちの住まいが並ぶ治安のいい区画だった。
けれどカイウス様は、そういったところからはずっと離れた細道を歩き続けていたのだ。そうしていたら、いきなり広い道に出た。細道と広い道、二つの道が交差する角に立ったまま、きょろきょろと辺りを見回してみる。
そこには普段見慣れたものよりもずっと粗末な建物が並び、質素で動きやすそうな、飾り気のない服装の人たちが盛んに行きかっている。馬車はほとんど見かけず、代わりに人やロバが引く荷車があっちこっちをゆったりと進んでいた。
通りの両脇には、物売りたちがずらりと並んでいる。何かを詰め込んだ木箱や、何かがずらりと並べられた机が、所狭しと並べられていた。客を呼び込む声があっちこっちから聞こえていて、とてもにぎやかだ。
「ここは、平民たちが集まる市場なんだ。ここはまだぎりぎり治安もいいが、通りの向こう側には行くなよ。あっちは下町だから、さらわれるかもしれないぞ」
その言葉に、思わず身構える。確かにここの通りでは、きっちりとした制服姿の私とカイウス様はとっても目立つに違いない。って、それよりも。
「……帝都に、人さらいなんて出るんですか?」
「俺は聞いたことないけどな。でもどこにだって、悪い奴ってのはいる。お前みたいな可愛い子供は、特に人の目を引くから気をつけないと」
私の目をまっすぐに見つめて、カイウス様が静かに微笑む。
「なあに、俺がきっちりと守ってやるから大丈夫さ。だから俺のそばを離れるなよ……って、うわ、何だ!?」
「あ、ルル」
カイウス様が私の肩にぽんと手を置いたと思ったら、次の瞬間驚きの声を上げている。その声に、私までちょっとびっくりしてしまった。背負っているカバンからするりと出てきたルルが、しっかりとカイウス様の手にしがみついていたのだ。
「もしかしてこれが、お前が連れてるっていうネズミの召喚獣か?」
「はい。耳がウサギみたいなので、ウサネズミって呼んでます。一番大きなこの子は、ルルって名づけました」
そういえばカイウス様は、ウサネズミを見るのは初めてだった。目を輝かせているカイウス様に、ルルのことを紹介する。
「へえ、名前まであるのか! よかったな、ルル。いい名前じゃないか。俺はカイン、ジゼルの先輩だよ」
にこやかに名乗ったカイウス様だったけれど、すぐにいぶかしむような表情で首をかしげた。
「……なんだかこいつ、俺のことを警戒してないか?」
「そうですね。珍しいなあ……? この子、いつもはおっとりしていて人懐っこいんですけど」
ルルは大きな耳をこれでもかというくらいに伏せて、細めた黒い目でじっとカイウス様をにらみつけていたのだ。
さっきから、背中がもぞもぞする。たぶんカバンの中のノートから、ぞくぞくとウサネズミが出てきているのだろう。今カバンを開けたら、ウサネズミでいっぱいになっているような気がする。目立っちゃうから、人の多いところではあんまり出てこないでねって、普段からそう言い聞かせてはいるのだけど……どうして、急にこんなに出てきたんだろう。
カイウス様は青い目を真ん丸にして、きょとんとした顔でルルを見つめ返している。けれどやがて、朗らかな笑みがその顔いっぱいに浮かぶ。
「あ、分かったぞ! ルル、お前、人さらいの話が出てきたからあわてて駆けつけたな?」
「えっ!? あの、どうしてそう思うんですか!?」
実のところ、私も同じ結論にたどり着いてはいた。ルルのちょっとぴりついた雰囲気が、前に嫌がらせをしてきた子をとっちめた時のものと似ていたから。ルルは私を守ろうと、頑張っているように見えるのだ。
でも、ルルとは初対面のカイウス様が、こんなにあっさりと同じ考えに至るなんて。
「そう考えると、一番筋が通るだろう。そんな危ないところにお前を連れ出した俺のことを、ルルは警戒してるんだよ」
ぽかんとしている私をよそに、カイウス様はルルに話しかけている。まるで、一人の人間を相手にしているかのように。
「お前、小さいのに立派だな。大丈夫だ、俺はこの辺りなら歩き慣れてる。どこが危険で、どこが安全かまで、全部頭の中に入ってるよ」
カイウス様の手にしがみついたままのルルが、ひこひことひげを動かして小首をかしげた。
「ジゼルを危険な目にあわせたりしない。俺の全力で、彼女を守る。だからどうか、敵視しないでもらえるとありがたいんだが」
ちっ!
相槌を打つかのように一声鳴いて、ルルがカイウス様の肩にぴょんと飛び乗った。
「分かってもらえて嬉しいよ。……というかこいつ、かなり賢くないか?」
「みんな、そう言うんです。わたしたちの言葉がわかってるみたいだね、って」
「俺もそんな気がする。こっそり言葉とか、教えられないかな?」
「成功したら、召喚魔法の研究者がねこんでしまうんじゃないですか? 召喚獣にそんな知性はないはずだ、って、みんなそう言ってます」
「常識ってのは、一度疑ってみるものだろう。研究者たち、あれで意外と頭固いからなあ」
そんなことを話しながら、背負ったカバンをそっと胸元に抱え直してそっと中をうかがってみる。案の定、ウサネズミのちっちゃな顔がみっちりと詰まっていた。何だか心配そうだ。
「ほら、そういうことだからみんなも一度帰ってね」
そう呼びかけると、カバンがまたもごもごと動き出す。けれど、やがて静かになった。どうやらみんな、帰ってくれたらしい。
元通りカバンを背負い直したら、カイウス様がそっと私の手を取った。
「よし、じゃあ行こうか。そこの屋台だ」
人波を縫うようにして、二人一緒に道の反対側に移動する。そこでは、中年の女性が机の上の小さな薪ストーブにフライパンを載せ、何かを焼いていた。ほんのりと甘い香りがするから、お菓子かな。身長が足りなくてよく見えないのだけれど、その手つきはちょっとクレープを焼く時のそれに似ているような。
そしてカイウス様は、慣れた様子で女性に声をかけていた。
「ようおばちゃん、二つくれよ。それと生地の切れ端、こいつにも分けてやってくれ」
女性は顔を上げ、私たちを見てにっこりと笑う。どうやら、カイウス様……というか、カインさんとは顔なじみらしい。
「おや、あんたかい。好きだねえ。ところで、肩のそれは、ネズミ……? にしちゃ妙な感じだね」
「はるばる遠くからやってきた、珍しい生き物なんだとさ。人馴れしていて可愛いんだ」
間違ってはいない。ここで「召喚獣なんです」って正直に言ったら、この人を混乱させかねない。それにしてもカイウス様の言い訳は、本当に見事だ。慣れている。
「で、そっちのお嬢ちゃんは……見ない顔だけど……」
などと考えていたら、女性の視線がこちらに向いた。私たちは似た雰囲気の制服をまとっているけれど、友人というには年が離れているし、兄妹というにはあまりにも似ていない。そんな私たちの関係を、決めかねているのだろう。女性はさっきから、盛んに首をひねっていた。
そんな彼女にお金を渡し、カイウス様はクレープを二つ買った。その一つを私に渡すと、ついでにもらった皮の切れ端をルルに渡している。
そうして彼は、茶目っ気たっぷりに片目をつぶってみせた。
「俺の将来の奥さんだよ。じゃ、また」
あれまあ、と楽しげに微笑む女性に手を振って、カイウス様は私をさっき立っていた街角まで引っ張っていった。
そうして、クレープを手に顔をほころばせている。
「これな、俺のお気に入りなんだ。お前たちの差し入れもとってもうまいが、これはまた一味違ううまさがあるんだ」
彼の肩の上では、ルルがとっても上機嫌でクレープの皮にかぶりついていた。それを見やってから視線を落とし、手にしたクレープを見つめる。同好会で作ったものよりもくすんだ色の皮には、小さな粒々が混ぜられているようだった。
確かにおいしそうだ。しかしその前に、一つ言っておきたいことがある。そっと上目遣いにカイウス様をにらみ、小声でつぶやく。
「……さっきの、何ですか?」
「何って、どれのことだ?」
彼は私が何を言いたいのか分かった上で、とぼけているらしい。青い目が楽しげに、ついとそらされた。ちょっと気恥ずかしさを覚えつつ、具体的に言い直す。
「将来の奥さんって、どういうことなんですか」
「ああ、あれな。一応冗談だ、気にするな。お前さえよければ、いつでも本当にしてやるぞ? 俺には婚約者もいないしな」
「もう、年齢にも身分にもむりがありますよ。冗談になってません」
私は彼より十二歳も年下で、ごくありふれた伯爵家の娘だ。過去には、もっと年の差のある皇妃がいたという記録は残っているけれど……こんな子供相手に、何を言っているのだか。
思いっきり呆れている私をよそに、彼は大きく口を開けてクレープにかぶりついた。
「それより、ほら、お前も食ってみろよ」
それ以上考えるのを止めて、無言でクレープを食べてみる。そうして、ぱっと驚きに目を見張った。しっかりとした歯ごたえに続いて、素朴な甘さが口に広がったのだ。
「あ、おいしい……」
「だろ?」
とても嬉しそうなカイウス様を見上げて、ちょっと照れながら答える。
「生地の歯触りが楽しいです。中のジャムも甘さひかえめで、やさしい味です。わたし、これ好きです」
素直な感想を口にしたら、ふっとカイウス様が目を細めた。嬉しそうな、でも切なそうな顔だ。何かを思い出しているような、そんな顔でもある。
「気に入ってもらえてよかったよ。……この菓子な、貧乏だからこそ生まれたんだ」
思いもかけない言葉に、ぽかんと彼の顔を見つめる。けれど彼は、こちらを見ることなくつぶやいていた。
「小麦粉があるなら、主食のパンにできる限り回したい。お前たちが作っているような小麦粉ばかり使った菓子は、平民にとってはそもそも贅沢品なんだよ」
やけに実感のこもった声で、カイウス様は続ける。
「けど、それでも菓子を食いたい時もある。だからこうやって、アワとかヒエとかの安い雑穀でかさ増しするんだ。そのおかげで、この食感が生まれてる」
アワやヒエって、小鳥の餌だって聞いたことがある。必死に節約をしていた前世でも、食べた覚えはない。……でも、これはこれで、おいしいかも。
「そして、精製された白い砂糖は高価だ。だから野で採れる甘い実や蜂蜜を合わせて、じっくりと煮込むんだ。色んな材料を使ってるからか、味に深みが出てる」
「そうだったんですか……初めてしりました……」
「だろうな。普通の貴族なら、一生知ることのない味だ。……けれど俺にとって、これは懐かしい味なんだよ」
カイウス様は、貴族たちよりもさらに上に位置するお方だ。皇族として生まれ育ち、四年前、十四の歳で皇帝として即位された。
いつからこうやって魔導具で姿を変え、お忍びでふらふらするようになったのかは知らない。けれど、平民の菓子を「懐かしい味」などと呼ぶのはちょっとおかしい気がする。
ずっと昔、小さな子供の頃によく食べていた、とか? ううん、それもあり得ない。
「やっぱり、お前もおかしいって思うよな。お前くらい賢い子供なら、そんなはずないって思うよな」
ひどく静かな声に、ばっと顔を上げる。日の光を受けたカイウス様の黒い髪が、ほんの少し夕暮れ色に染まっていた。
彼は微笑んでいた。青い目を細めて、悲しそうに。けれどどこか、期待するように。
「……ジゼル、お前は前世って、信じるか?」
突然のことに、何も言えない。
前世。それは私の、隠し通さなくてはならない秘密。女王エルフィーナが死んで、まだ七年。私がその生まれ変わりだと知られたら、どんな目にあうか分からない。だからこの秘密は、セティにしか明かしていない。
湖月の王国の騎士団長ヤシュアの面影をどことなく残した、けれど記憶はほとんど残っていないセティ。彼以外に、私はあの王国の生まれ変わりと出会っていない。
けれどこんなことを言い出すからには、まさかカイウス様もあの王国の?
呆然としたままカイウス様の顔を見つめ、必死に記憶をたどり続ける。湖月の王国の貴族たち、大臣たち、騎士たち、使用人たち。その記憶の中に、彼を思わせる顔はない。……ううん、けれど何かが、記憶の片隅に引っかかっているような……何だろう、これ……。
カイウス様は、そんな私を愛おしげな目で見守っていた。そして、かすかな声で続ける。
「俺には、カイウスとして生まれるより前の記憶、もっと別の自分だった記憶があるんだよ」
それはほとんど吐息だけの、ささやき声にも満たないものだった。けれどその声は、市場の喧騒にもかき消されずにはっきりと私の耳に届いていた。
そうして彼は、静かに語り出した。彼がかつて歩んでいた、もう一つの人生の思い出を。
「前の俺は、貧しい農民の子として生まれた。帝国のど田舎の、ちっちゃな村に」
彼は通りを行く人々を眺め、とても懐かしそうに微笑んでいる。自分もあんな風に、質素な服を着て歩いていた頃があるのだということを、思い出しているような顔だった。
「物心ついた時には、もう農作業を手伝ってたよ。家族みんなで、猫の額みたいな農地を耕して暮らしてた。気候のいい地域だったのが、唯一の幸いだったな。そこそこ作物が実ってくれてたから、どうにかこうにか飢えずに済んだ」
普通の人なら、まずこんな話を信じたりしないだろう。でも私は、信じる。だって私も、前世の記憶を持っているから。
「貧しかったけど、幸せだった。親父がいてお袋がいて、弟たちもいて。年に一度の祭りの日には、さっきの菓子と似たようなものを食べたよ」
彼の前の人生は、確かに貧しいものだったのだろう。けれど、少なくとも私のそれよりは幸せだったのだろうな。だって、前世のことを思い出しながら、あんな風に笑えているのだから。
うらやましいな。ふと、そんな思いがわき上がる。私にとって前世の記憶は、思い出しただけで胸が苦しくなるものだったから。
湖月の王国では、父王の時代に、まともな臣下は追放されるか、処刑されるか、逃げ出してしまっていた。残っていたのは、頼りにならないおべっか使いばかり。
女王となってからは毎日、泣きたいのをこらえながら必死に執務をこなしていた。騎士団長ヤシュアが時々訪ねてきてくれるわずかなひと時だけが、唯一の息抜きだった。
そっとそんなことを思い出していたら、カイウス様の顔からすうっと笑みが消えた。
「でも、そんな暮らしは長く続かなかった」
さっきまでとは打って変わった暗く沈んだ表情で、彼は言葉を紡ぐ。
「俺が十の歳の時、たちの悪い風邪が流行ったんだ。……呆れるくらい、たくさん死んだよ。俺たちの両親も、近所のおじさんおばさんも。子供は、割と生き残ったんだが」
たったの十歳で両親を失う。その言葉に、自分の境遇を重ねてしまった。前世の私も十四歳で父王を亡くし、たった一人で国を背負ったのだ。
けれどカイウス様の次の言葉は、私のそんなちょっとした共感を振り払うようなものだった。
「両親を失った俺と弟たちは、ちっちゃな農地すら奪われた。何がどうなってるのか理解するよりも先に、領主に持ってかれた。土地も、家も、全部。その地では、そういう法律になっていた」
「えっ、でも、そんなはず……」
この翠翼の帝国では、皇帝を頂点として、たくさんの領主がそれぞれの土地を治めている。我がフィリス家の当主であるお父様も、そんな領主の一人だ。他にも、帝国領でありながら同時に王国を名乗る地域や、王を持たない自治領などもある。そういったところでは王や首長が、領主同様にその土地を治めているのだ。
そういった領主や王たちは、その土地ごとの事情に応じて、様々な法律を作ることができる。自分の領地内でだけ通用する、そんな法律だ。もっとも当然ながら、その法律は帝国法に反してはならない。親を失った子供たちから全てを巻き上げるような法律は、無効になるはずだ。そんな無茶苦茶をやっていたら、帝都から派遣されている監査官によってすぐに是正されるはずで……!
「ま、当時のその地方は、そんな感じだったんだよ。この帝国、やたらと広いからな。皇帝の目が行き届かないこともある」
かすかに震える私を励ますように、カイウス様が優しく笑いかけてくる。そうして、彼はさらに話し続けた。全てを失ってなお、諦めなかった子供たちのことを。
「そうして俺は、弟たちや身寄りのない子供たちを連れて村を離れ、近くの町に向かった。人の多いそこでなら、子供たちにも稼ぐ方法があるだろう。そんな、賭けに出たんだ」
あまりのことに、言葉が出ない。
「荷物運び、ドブ掃除、薪運び……やれることは何でもやった。俺は年の割に体が大きかったから、思ったよりは稼げたな」
彼の語る世界が、想像できない。ただ、とんでもなく悲惨なことだけは分かった。
「昼は働いて、夜は町外れの物置に忍び込んで、悪い連中に見つからないよう息を殺していた。少しでも寒くないよう、身を寄せ合って」
けれど、悲惨そのものの思い出を語るカイウス様の目は、やはり懐かしそうに細められていた。
「一日一日を必死に乗り切る、そんな暮らしだった。俺のような大きい子供は小さい子供を守り、小さい子供はもっと小さい子供を守って。か弱い者同士、助け合う日々だった。大変だったけど、やりがいはあったよ」
しかしその時、カイウス様がふっとうつろな目をした。今までに見たことのない表情に、思わず目が釘付けになる。
「……あれは、俺が十四になってすぐのことだった。うっかり馬車の前に飛び出してしまった小さい子をかばおうとして、自分が馬車にはねられたのは」
どこまで続くんだろう、この不幸は。前世のカイウス様が必死に頑張って、前に進もうとあがいても、どこまでも不幸が追いかけてくる。
「領主が乗っていたその馬車は、一瞬たりとも止まることなく、そのまま屋敷に帰っていったよ。俺はその様を、石畳に横たわったままぼんやりと見ていた」
「そんな、そんなのって……」
「不思議と、痛みは感じなかった。俺を囲んで泣き叫ぶみんなの声が、どんどん遠くなって。みんなの顔も、どんどんぼやけていって。ああ、俺、このまま死ぬんだなって思った」
彼の声が、どんどん弱くなっていく。苦しそうに、震えている。
「でもさ、自分が死ぬってことよりも、みんなが泣いていることのほうが、よほど辛くてさ……」
ひんやりとしたものが、頰を転げ落ちていくのを感じる。たぶん、私は泣いているのだろう。
「最後の力を振り絞って、みんなに呼びかけたんだ。『泣かないでくれよ』って。ちゃんと声になってたかどうかは、怪しかったけどな」
「きっと、ううん、絶対に聞こえてたと思います……」
涙でぐしゃぐしゃの声で、つっかえながら答える。そうであって欲しいという、祈りをこめて。
「ありがとう、ジゼル。お前にそう言ってもらえると、ちょっと救われた気分だ」
ぽんと頭の上に、手が置かれる。その感触に、また涙がこぼれた。
「そうして、ゆっくりと目を閉じて……次に目を開けたら、ものすごく豪華な部屋が見えた。何とびっくり、俺は皇族の赤子に生まれ変わってたんだ」
彼は私の頭をぽんぽんと優しく叩いて、大きく笑った。悲しそうに眉を下げたまま。
「……なんてな。よくできた作り話だろう? ……だからもう、泣くな。戸惑わせて悪かったな」
そう語る彼の声も表情も、もう元通りの軽やかなものに戻っていた。
カイウス様がどうしてこんなことを打ち明けてくれたのか、それは分からない。
もしかしたら、ちょっと誰かに話したくなっただけなのかもしれない。私はセティと秘密を分かち合えているけれど、カイウス様はきっと、たった一人で生まれ変わってきたのだろうから。ただ、その話し相手に私が選ばれた、その理由はやっぱり分からないままだけれど。
そして今、彼は『作り話』だと言った。今の話を信じてもらえなくてもいい、この市場で一緒にお菓子を食べて、ちょっと不思議な話を聞いた、そんなささやかな思い出にしてくれればいいと、見上げた青い目は雄弁に語っていた。
「わたし、覚えておきます。昔、けんめいに生きた少年がいたことを。でも他の人には信じてもらえないかもしれないから、内緒にしておきます」
袖でぐいと涙を拭って、カイウス様をじっと見つめる。彼は一瞬目を見張って、それからくしゃりと笑った。
「ああ、そうしてもらえると一番嬉しい……ありがとう、ジゼル。お前に話してよかった」
ゆっくりと暮れていく街角で、ただ見つめ合う。どちらも、無言のまま。
「……っと、話し込んでいたら遅くなってしまったな」
どれくらいそうしていただろう、不意にカイウス様がにやりと笑った。
「それじゃあ、約束通り屋敷まで送り届けようか、ジゼル」
「あの、道はおぼえてますし、大丈夫ですよ?」
「だがそろそろ夕暮れだ、悪い人に出くわしたら大変だろう?」
「そうなったら、召喚獣におねがいします。ハチの群れなら、すぐ呼べますから」
「この街中にハチの群れなんて出たら、騒ぎになるぞ? 天才少女の名が、城下町まで知れ渡りそうな気がするな」
ぽんぽんとそんな具合にやり合って、同時に口をつぐんだ。そしてまた、同時に口を開く。
「なんだジゼル、一人で帰ることにやけにこだわるな? 俺はもう少し、お前と話してたいんだが」
「……だってカインさん、パパとママに挨拶する気まんまんですよね。ばれたらどんなことになるか……」
「気にするな、何とかなるさ。さっきも言っただろう、気づかれたらその時はその時だって」
「大丈夫かなあ……」
カイウス様に背中を押されるようにして歩き出しながら、ちらりと彼を見上げる。
エメラルドグリーンの髪に明るい金色の目の、古めかしい口調でゆったりとふるまっていた皇帝カイウス様。
黒い髪に青い目の、ごく普通の青年として生き生きとふるまっている研究生カインさん。
ぱっと見の印象は、かなり違う。でもどちらかと親しくしている人間なら、あるいはかなり勘のいい人間なら、すぐに同一人物だと見抜くだろう。……気づかなければよかったと思った人も、たくさんいたんだろうなあ。
うちの両親は、どんな反応をするんだろうか。気づかなければ普通に歓迎するだけで済みそうだけれど、気づいてしまったら。
「大丈夫だと思うぞ。お前の両親も、中々の変わり者……というか、肝が据わってたからなあ」
考え込んでいると、頭上から明るい声が降ってきた。
「あれは二年前、お前を帝都に呼んだ時のことだ」
人のいない裏通りに差し掛かったのをいいことに、カイウス様が重々しく話し始める。呆れるほど見事に、この人は雰囲気を切り替えている。
「我を目の前にして、あの二人は少しも動じていなかった。ただひたすらに、己たちの幼い娘が皇帝に召し
ふっと皇帝の顔になって、カイウス様が笑う。気まずさにうろたえながら、小声で答えた。
「あの、その……うちの両親、わたしのこととなるとちょっと見境がなくなるというか……すみません……」
次の瞬間、彼はまた『カインさん』の笑顔をこちらに向けてくる。
「なあに、だからこそ大丈夫だろうって言ってるんだよ。愛娘の友人、って紹介してくれれば、あの二人はすんなり受け入れてくれるさ」
彼がさらりと口にした言葉に、つい眉間にしわを寄せてしまう。
「……友人、というには年齢差が……カインさん、わたしより十二歳も年上じゃないですか」
「友情に年齢なんて関係ないだろう」
堂々と言い切ったカイウス様を見上げながら、こっそりとため息を押し殺す。本当に、この人といると退屈しないなあ。良くも悪くも。
そうこうしているうちに、見慣れた通りまで戻ってきた。周囲に立ち並ぶのは、大きくて豪華な貴族の屋敷ばかり。
「……あのさ、ジゼル。お前を連れ出した理由はもう一つあるんだよ。ほら、これ」
すると唐突に、カイウス様が何かを渡してきた。近くに誰もいないことを確認しながら、手早く、こっそりと。
それは私の片手にすっぽりと収まってしまうような、小さな巾着袋だった。中に、何か丸くてころんとしたものが入っている。
「そっと中身を見てみろ。ただし、絶対に他の奴には見せるな」
やけに真剣なカイウス様の声に首をかしげつつ、慎重に巾着袋を開いた。そうして、はっと息を吞む。
袋の中にしまわれていたのは、大人の親指の爪くらいあるエメラルドがはめ込まれた、純金の指輪だった。とても細かな模様の浮き彫りが全体に施されていて、薄暗い袋の中にあるというのに見事なきらめきを見せていた。
「……あの……もしかして、これって……皇族の持ち物なんじゃ……見た感じ、女性ものみたいですが……だれのですか……?」
この翠翼の帝国では、緑が高貴な色とされている。だからこんなに大きなエメラルドを身につけられるのは、それこそ皇族だけだ。
「今のところ、持ち主はいない。で、俺としては、その指輪が予期しない相手の手に渡るのだけは阻止したいんだ。俺ももう十八歳だし、そろそろ大臣たちなんかが余計な気を回しそうでな」
さっぱり話の筋が見えてこない。カイウス様の年齢と、大臣たちの思惑と、この指輪。どうつながるんだろう。それはそうとして。
「あの、これをどうしろと……?」
「お前が預かっていてくれ。そうだな、十年くらい」
カイウス様はさらりと、そんなことをつぶやいている。まるで、ちょっとの間本の貸し借りをするかのような軽い口調だ。
「む、無理です!! 万が一のことがあったら、責任とれません!!」
しっかりと巾着袋を握りしめて、力いっぱい首を横にぶんぶんと振る。
「ああ、その時はその時だ。もし失くしたとしても、お前は責任なんて取らなくていいぞ。そうなったら俺が、いくらでも言い訳をこしらえてやるから」
カイウス様は、やたらと言い訳がうまい。それは今日一日で、たっぷりと思い知った。だったら、大丈夫かな……?
私の心が揺らぎかけたのを見て取ったのか、カイウス様が頼もしく胸をどんと叩き、それから妙に優しく微笑んだ。
「とにかく、その指輪をお前が受け取って、大切に保管してくれたら、それでいいんだ。俺が欲しいのは、その事実だけだから」
「は、はあ……」
「本当は、肌身離さず身につけていて欲しいところだが……それだと目立つしなあ」
困惑しっぱなしの私をよそに、カイウス様は何やら考え込んでいる。
「そうだ、ルルに預けておくというのはどうだ?」
「はあ!?」
即座に、そんな叫び声が飛び出した。皇帝陛下に対して失礼だと分かってはいたけれど、こらえ切れなかった。
「こいつはお前の魔法陣を通って自由にこの世界と異世界を出入りできるし、とにかく俊敏だ。それにお前の力になりたいと、そう考えているみたいだし。なあルル?」
軽やかに述べるカイウス様の肩の上で、ルルがちちいっ!! と声を上げた。とっても張り切った声だ。まずい。ルルがやる気になっている。
「おお、お前も頑張ってくれるか。この帝国で一番大切な
ちいちいっ!!
「ええっと、さすがにそれには無理が、というか、だめです!」
どうにかして彼らを止めないと。そう思って割り込んだら、カイウス様が急に真面目な顔になってこちらを向いた。
「なあジゼル、帰還の魔法陣に永続化の魔法をかけられるか? それも、かなりちっちゃいやつ」
言いながら、カイウス様は親指と人差し指で輪を作っている。ウサネズミの中では大柄なルルでも、楽々通り抜けられるくらいの輪だ。
「は、はい。それくらいなら、ほとんど魔力はつかいませんし……」
突然がらっと話が変わったことに戸惑いつつも、素直に答える。
「だったら、ルルの故郷につながる帰還の魔法陣を永続化付きで小さな紙に描いて、それをルルに持たせておけばいい。そうすれば、何かあったらすぐに異世界に逃げ込める。しかも、追っ手をまくのも簡単だ。そして頃合いを見て、お前のノートの魔法陣からこっちに戻ってくればいい」
筋は通っている……かもしれない? 確かにそうすれば、ルルはとても小さな魔法陣を通って、二つの世界を股にかけて逃げ回れる。少なくとも、私が持っているよりは安全かも……?
あれ、でもちょっと待って。いつの間にか、ルルが指輪を預かるのが本決まりになっているような?
何か言わなくちゃと口を開きかけたその時、カイウス様が声をひそめて付け加える。
「それと、その袋の中身が指輪であることについては内緒にしておいてくれ。『皇帝陛下の勅命で、とあるものを預かることになりました』とか何とか言っておけば、誰もそれ以上追及してはこないだろう」
「あ、はい……?」
「よし、そうとなったら、この袋をルルが背負えるよう加工してやらないとな。紐を縫い足すか……それとも、リュックか何かを作ったほうが……」
ちちいっ!
上機嫌なカイウス様とルル。そんな彼らを見ながら、そっとこめかみを押さえた。駄目だ、頭が痛い。
成り行きに流されて、とんでもないことになってしまった。もういいや、ほかならぬカイウス様がああ言ってるんだし、これ以上深く考えないようにしよう。
そう開き直ろうとしたその時、見慣れた我が家の前にたどり着いていた。いよいよ、両親とカイウス様との対面だ。またしても、背中に変な汗が流れる。
私の姿を見かけた門番の一人が、屋敷の中に駆けていく。すぐに、笑顔の両親が姿を現した。
「お帰り、ジゼル。……おや、そちらの方は?」
「学園の方みたいね?」
両親は、私の隣にいるカイウス様を見て首をかしげている。えっと、この反応、どっちだろう。気づいたのかな、気づいていないのかな。
「初めまして、フィリス伯爵、フィリス伯爵夫人。俺、カイン・ユースと言います。学園の研究生で、お嬢さんとは親しくさせてもらっています」
明るい声で、カイウス様がけろりとそんなことを言い放つ。丁寧さと人懐っこさをぎりぎりのところで釣り合わせた、絶妙な声音だ。
親しくも何も、『カインさん』と出会ったのは今日が初めてなんだけどな、という言葉を吞み込みつつ、こくんとうなずく。
きっと私は微妙な表情をしていると思う。しかし両親はカイウス様に、それはさわやかに笑いかけたのだった。
「そうなのか! よろしく、カイン君。私はレイヴン、こっちは妻のプリシラだ」
「まあ、研究生の方がジゼルのお友達……カインさん、うちの娘が迷惑をかけていないかしら?」
「いいえ、ジゼルといると楽しいですよ。とても賢くて、いい刺激になっています」
「あらそうなの、どうぞこれからもジゼルと仲良くしてあげてね」
そうして三人、明るく笑い合っている。
やっぱり気づいてないのかなあ。さっき一瞬だけ、二人そろって目を見張ったような気もする。けれどもうすっかり、カイウス様と打ち解けてしまって……私と『カインさん』の年の差も、全く気にしていないみたいだし。
「そうだ、カイン君。もうすぐ夕食なんだが、一緒にどうだい? 今日はたまたまビーフシチューで、多めに作らせていたから、君の分も用意できるよ」
「それはいいわね! ねえカインさん、私たちあなたともっとお話もしたいし、どうぞ寄っていって」
押し黙っていたら、お父様がとんでもないことを言い出した。すぐに、お母様も笑顔で同意している。ちょ、ちょっと待って、その展開は予想してない!
「えっ、あの、パパ、ママ?」
「いいんですか? ぜひ、ご一緒させてください!」
ひっくり返った声を出す私と、すかさず目を輝かせるカイウス様。
「よし、じゃあ決まりだな。どうぞ、上がってくれ」
「私たちはおもてなしの準備をしてくるから、ジゼルはカインさんと応接間で待っていてね」
両親はそう言い残すと、そのままさっさと屋敷の奥に消えていってしまった。
「な、大丈夫だったろ?」
二人で屋敷の廊下を歩きながら、カイウス様がにっと笑う。
「……いつかばれそうな気もしますけど」
「その時はその時だ。というか、うっすら気づいてるかもな、あの二人」
「わたしもちょっと、そんな気はします……あの、パパもママも陛下に無礼をはたらくつもりはなくて、単にわたしのおともだちって考えちゃってるだけで……」
カイウス様は気にしないだろうけれど、一応弁明しておく。
「ははっ、いい両親じゃないか」
思った通り、カイウス様は明るく笑うだけだった。けれど彼の前世の話を振り返ると、その笑顔はとても意味ありげなもののように思えた。
「はい。わたしの、大切な両親です」
だからそう答えて、笑顔でうなずいた。カイウス様も無言で、力強くうなずき返してくれた。
そうして、にぎやかで和やかなひと時を過ごし……なんとカイウス様は、そのままうちに泊まっていくことになった。両親のお誘いに、カイウス様も快く応じてしまったのだ。
ちなみに『ちょっと外泊してくる、朝には戻るから探すな』という恐ろしいことづてを帝城まで運んだのは、私の召喚獣だ。さすがにうちの使用人に、帝城の奥まで伝言を運ばせるのはかわいそうだし。
何とも言えない微妙な気分で夕食の席に着き、まるでここが自分の家であるかのように堂々とくつろいでいるカイウス様をちらちらと見る。
カイウス様は気持ちいい食べっぷりで食事を平らげ、夜の庭を散歩しながら両親とお喋りし、軽やかな足取りで客室に向かっていった。
次の朝も、彼はとってもさわやかな顔で起きてきて、嬉しそうに朝食を食べていた。そうしている様は、本当にごく普通の十八歳の青年にしか見えなかった。両親も、とても優しい目でカイウス様を見守っていた。
……皇帝だとかどうだとか、そういうことって、気にしなくってもいいのかな。カイウス様たちのふるまいを見ているうちに、そんなことをふと思った。
前世の私は、ただ女王としての任を全うすることしか考えていなかった。だから、忘れていた。女王である前に、私も一人の人間だったのだということを。もしかしたら、ささやかな日常の幸せくらい、追いかけてもよかったのかもしれない。もうちょっと、わがままを言ってもよかったのかもしれない。
ちょっとしんみりしながら、朝の身支度を整えていく。制服に着替えて、髪をくくって、カバンを背負って。
「……カインさん、寝ぐせついてますよ」
「なぜか知らんが、ここの一房だけいっつも跳ねるんだよ。……普段は帝冠で押さえてごまかしてる」
こそっとささやかれた一言に、絶句した。冠って、そういう用途のものだったかな……?
そうしていたら、両親がまた朗らかにカイウス様に話しかけてきた。
「カインさん、どうぞこれからも、気軽に遊びにきてくださいね」
「ああ。ジゼルの友人なら、私たちにとっても家族のようなものだ。いつでも大歓迎だよ」
「パパ、そこは『私たちにとっても友人のようなもの』が正しいとおもうよ……」
あわててお父様の言葉を修正すると、カイウス様が楽しそうに笑った。
「俺は家族で構いません、むしろ嬉しいです。素敵な家族が増えました」
「もう、カインさんまで!」
困ってしまってため息をつく私を見て、私以外の三人が同時に笑った。楽しげに、声を上げて。さわやかな朝の空気に、その声はとてもよく合っているなと、ぼんやりとそう思ってしまった。

「……と、そんなことがあったの。昨日魔法研究会に差し入れにいってから、今朝までずっと大騒ぎだった」
カイウス様にさんざん振り回された次の日、私はセティとアリアに昨日のできごとについて語っていた。前世の話と指輪については伏せて。ちなみにあの指輪は、袋に入れたまま両親に預かってもらっている。今度革職人を呼んで、ルル用のリュックを作ってもらうことになったのだ。
「……なんだか、すっごく疲れた。常識外れのできごとが多すぎて……」
今日は図書室ではなく、アリアお気に入りの三階のベランダ席に集まっていた。秋にしてはちょっと暑いので、いい風が吹くここで過ごすことにしたのだ。
「しかし、とんでもない方がとんでもないことをなされていたのですね。今まで気づかれずにいたのが、すこし不思議です」
セティが機械弓の部品をかちゃかちゃと組み上げながら、しみじみとつぶやく。相変わらず何がどうなっているのか分からないけれど、細かな部品がきれいに組み合わさっていくのは見事だと思う。
それってどう動くの、と尋ねると、セティは嬉しそうな顔で部品の一部をちょっとだけ動かしてくれるのだ。その動きが、あっという間にあちこちの部品に伝わっていく様は面白い。やはり仕組みは理解できないけれど。
彼はある程度機械弓の図面が引けたので、こうして試作品を作っているのだ。帝城の隣にある工房の研究員たちに協力してもらったおかげで、必要な部品はほぼできているらしい。試作品の合金を譲っていただけたのは助かりましたと、セティは顔をほころばせていた。
「変装する時は、堂々としていたほうが気づかれないって、歴史書にもかいてあるよ……」
分厚い本を手にしたまま、アリアがくすくすと笑う。
「でも……あの方の雰囲気がどれくらい変わるのかは、きになる……」
まだ人見知りで引っ込み思案なアリアだけれど、以前のような極端な怖がりはもう直ったようだった。私たちと一緒なら、こんな風に年相応の好奇心をのぞかせることもある。
けれどそのアリアの言葉を聞いたセティが、ふっと難しい顔になった。
「アリア、もし『カインさん』がその言葉を聞いたら、たぶん大喜びでやってくるとおもいますよ」
「わたしもそう思うわ。カインさんって、こう言ったらなんだけど……ちょっと子供みたいなところのある人だから。行動力もすごいし」
「行動力……おかしなかんじの……」
何か考え込んでいるような表情で、アリアが胸元を押さえた。制服の下に、学期末試験の時にもらった忠誠の首飾りを着けているのだ。私たち三人、こっそりとおそろい。イリアーネにばれたら面倒だから、内緒にしているけれど。
「ええ、おかしいですね……こんなものを子供にほいほい与えるなんて、あの方はなにを考えておられるのか……」
おかしそうな声で、セティがつぶやく。それから三人で、顔を見合わせた。呆れたような、困ったような、でもちょっぴりおかしそうな顔を。
「とにかく、あの人は本当に自由な人だから……振り回されたくなかったら、魔導士の塔のほうには近づかないほうがいいとおもう。セティもアリアも、顔はおぼえられてるはずだし」
「大丈夫……もともと、あっちには用事がないから。でも、きをつける……」
神妙な顔でうなずき合った時、セティがふと視線をさまよわせた。
「ところで、ルルはどこにいったのでしょうか?」
私たちが特別研究に励んでいる時はいつも、ルルも机の上に絵本を広げて眺めていた。まるで、一緒に勉強しているかのように。他のウサネズミたちがいない時は、ひたすらに黙々と。他の子たちがいる時は、まるで読み上げているかのように小声で鳴きながら。
今朝方の騒動を思い出して頭を押さえながら、セティの疑問に答える。
「パパとママのところ。二人とも昨晩、カイウス様とすっごくもりあがっちゃって……どうも三人で、ルルの話をしてたみたいなの」
本当は、私もその話をきちんと聞いていたかった。けれど体が子供のせいなのか、それとも昼間カイウス様にさんざんびっくりさせられたからなのか、途中で眠りこけてしまったのだ。
「今朝、『ルルにお願いしたいことがあるから、この子を借りてもいいかな』ってパパに言われたの。ルルもやけに張り切ってたから、おいてきた」
最近、ルルがどんどん行動的になっている気がする。最初は可愛くてのんびりした子だなと思っていたのだけれど……学園に来てたくさんの人たちを見てきて、あの子も変わったのかもしれない。ちょっぴり、行動的になり過ぎてる気もするけど。
「ルルにお願い……? なんだろう……」
「気になりますね。ジゼル、またそのうち、教えてくださいね」
「うん。……なんだか、とんでもないことになってるきもするけど」
その件については、また両親に聞いてみる。二人にそう約束して、いったんこの話は終わりになった。そしてまた、それぞれの研究に移る。
セティが機械弓を組み立てるかちゃかちゃという音と、アリアが本のページをめくる音。それらを聞きながら、私もノートにペンを走らせ……。
「……うう、やっぱりだめだわ。こうじゃない」
紙に書きつけていた覚え書きを、ぐしゃぐしゃと荒っぽく線で塗りつぶす。二人が手を止めて、こちらを見た。
「どうしたんですか? もしかして、行き詰まっている、とか」
「うん。セティのおかげで、魔法陣を描いてから大きさを広げられるようになった。でも、やっぱり限界があるみたいで、がんばっても二回りくらいしか大きくならないの」
私が何の工夫もせずにそのまま魔法陣を描けば、呼び出せるのはキツネくらい。描いてから線を動かす方法を使えば、オオカミくらいまで呼べる。
もちろん、前にルルにもらった木の棒を使えば、簡単に大きな魔法陣を描くことはできる。でもかさばるし、生木だからかちょっとずつしんなりとしてきた。だから最近では、ほぼ屋敷に置きっぱなしになっている。うっかりすると、折っちゃいそうだし。
でもどうせなら、もっと大きな魔法陣を描きたい。そうして、見たこともないような召喚獣を呼んでみたい。それが、私がこの特別研究を始めた理由、ううん、召喚魔法を初めて使った時からの夢の一つ。だけど。
……大きな召喚獣は、小さな召喚獣よりもより多彩な姿と能力を持つ傾向があり、そのため戦の道具として用いられることも多い。とびきり大きな魔法陣を描き、特に強力な召喚獣を呼ぶために、複数名で協力して魔法陣を描く方法なんてものも存在する。魔導士の塔に出入りしてさらに詳しい資料を読むにつれ、そんなことも分かってきた。
私は、戦になんて協力する気はない。ゾルダーは「帝国の力となってくれ」と言っていた。もしかしたら遠い未来、私はそういった道を、帝国を支える者となる道を歩むかもしれない。けれど絶対に、戦にだけは加担しない。したくない。
もし私が、一人で大きな魔法陣を描き上げる方法を見つけたとして。その方法が戦に活用される可能性があると思えたら、私はその方法を隠して、何にも気づかなかったふりをすると決めていた。
でも、昨日カイウス様と話して確信した。あの方は、戦なんて望まれないんだってことを。あの方は、一番下で
そんな訳で、私は心置きなく大きな魔法陣の描き方を追求できるようになったのだけれど。
「もっと線を大きく動かせればなあ……でも、動かしすぎると線と線のつながりがぐちゃぐちゃになっちゃうし……」
ぶんぶんと頭を振って、それからぺたんと机に額をつける。どうも、これまでと同じようなやり方ではうまくいかないような気がする。もっと根本的な方向転換が必要な気がするんだけど、それが何なのか分からない、思いつかない。
「……がんばって、ジゼル……えっと、これ、あげる……応援になるかな、って……」
おろおろしながら、アリアが何かを差し出してきた。机に突っ伏したままそちらを向くと、彼女の小さな手に何か綺麗なものが載っているのが見えた。
その何かを手に取って、じっくりと見てみる。
それは、丸くて平べったい、私の手のひらくらいのメダルのようなものだった。でも、とても軽い。そして、とっても美しい。セティに見せてもらったオルゴールみたいに、小さな部品? が複雑に組み合わさっていて……もっともこれは、オルゴールと違ってぺったんこだし、動きそうにはないけれど。
「あのね、それ……わたしの故郷の、お守りなの……」
アリアがもじもじしながら、説明を始めた。なんでもこのお守りは、色とりどりの紙を折って重ねて作るもので、手間暇かかるため他の地方ではあまり知られていないらしい。
「紙を折ってたたむ……それだけで、こんなに複雑なかたちになるのね、すごい……」
お守りに見とれていたら、アリアがまたごそごそし始めた。そうしてカバンから取り出したのは、お守りよりも二回りくらい大きな、正方形の紙。普段見慣れたものよりも薄手の、張りのあるものだ。
「簡単なものなら、わたしにも折れる……」
そう言って、アリアが紙を折りたたみ始めた。四つの角を内側に折り込み、一部を袋状に持ち上げたと思ったら、またぺたんとつぶして。見る見る間に、一枚の紙が何層にも折り重なっていく。
そうしてできあがったのは、元の紙の四分の一くらいの大きさの、平べったいお花。
「ほどくと、またもとの紙に戻るの……いがいと、簡単……」
ちょっぴり得意げに説明して、アリアはあっという間にお花を紙に戻してしまった。たくさんの折り目がついた紙を見ていたら、ぴんときた。
「アリア、そっちの紙も貸して!!」
最初にもらったお守りと、折り跡のついた紙。その二つを交互に見て、考えて。
「そっか、それぞれの線を滑らせるようにうごかしてたから、線のつながりがずれちゃってたんだから……折った紙を開くみたいに、立体的にぱたんとうごかせば……」
またノートとペンを手に取り、全速力で描きまくる。
ただ線を動かすのではなく、最初から複数の紙が重なったような魔法陣を描く。そうして重なり合った魔法陣を、紙を開くようにしてふわりと広げていく。今までの線を動かす方法と、同じ要領だ。ただ、動かす対象と、動かす方向が大きく変わっただけで。
「……これなら、いけるかも……」
ペンを置き、書き込みだらけになったノートを見つめる。深呼吸して、右手の人差し指ですっと空中に魔法陣を描く。描き慣れた、私の手のひらよりも少し大きなものだ。ルルたちウサネズミや子猫くらいしか呼べない、小さなもの。
けれど今その魔法陣の中には、たくさんの線が重なり合い、ひしめき合っていた。セティとアリアがそれを見て、目を丸くする。
「いつものものより、ずっと複雑ですね?」
「線が……ごちゃごちゃに、かさなってる……?」
「これ、二つの円が重なってるの。こうして、片方の円を切り開いて……」
そう説明しながら、ついと指を動かす。片方の円が中心から放射状に裂けて、果物の皮をむくようにべろんと外側に広がっていく。それからするすると線が滑るように動いて、隙間を埋めていった。
「よし、大きくなった!」
元の大きさの倍くらいになった魔法陣から、何かがぽんと飛び出してきてどいんと机に着地した。ごくありふれた、ウサギ。ただし、とびきり大きい。抱きかかえるのは難しそう。
「……魔法陣、一気に大きくなりましたね」
「……もしかして、わたしのお守りと紙……役にたった……?」
「うん、とっても!」
今は、円を二つ重ねて、そのうちの片方を単純にぱたんと開いただけだ。でももっと細かく折りたたんだものを描けるようになれば、開いた時にもっともっと大きな魔法陣を完成させられる。
目の前でずっと閉ざされていた重い扉がちょっとだけ開いたような感覚に、思わずぴょんぴょん飛び跳ねていた。そんな私を、セティとアリアは優しく見守ってくれていた。
そうしてとっても明るい気分で、のんびりと帰路に就く。昨日はばたばたしてたから、ようやくのんびりできる。いつも通りの日々っていいなあ。そんなことを思いながら屋敷に戻り。
「おかえり、ジゼル。ほら、見てくれよこれ!!」
「やっぱりルルって、すごいのよ!!」
……昨日と同じくらいはしゃいでいる両親に出迎えられた。
二人は居間のテーブルを囲んでいて、テーブルの上にはこの上なく得意そうな顔のルル。その背後には、何やら大きな紙が一枚置かれていた。
「……文字と数字が、全部かかれた紙? パパ、ママ、これ何?」
何となく、いやものすごく嫌な予感がするのを抑え込みつつ、できるだけ無邪気な顔で尋ねてみる。
「答えは、ルルから聞いてみるといいよ!」
お父様がそう言ったとたん、ルルがぴょんと跳んだ。紙の上の、一つの文字を踏みしめるように。そうしてさらに、ぴょんぴょんと跳んでいく。
「『おはなし』……まさか、ルルがわたしたちとおはなしする、ってこと?」
呆然とつぶやいたら、ルルはこくこくとうなずいていた。……この半日の間に、いったい何があったのか。
「パパ、ママ、いったい何をしたの……?」
くるりと振り向いて、両親を問い詰める。その答えを聞いて、頭を抱えた。
この事態には、やはりカイウス様がからんでいた。昨夜私が眠ってしまった後、三人はまだ話していた。そうして誰からともなく、言い出したのだ。ルルに言葉を教えられないかな? と。
ルルは賢く、こちらの話していることを理解しているように思える。だったら文字や言葉を教えれば、意思疎通もできるのではないか、と。
そうして三人は、ああでもないこうでもないと、ルルに言葉を教える方法を相談したのだそうだ。で、この方法に行き着いた。そして両親は二人がかりで、朝からルルを特訓していたらしい。
「
「簡単な言葉のつづりも、既に知っていたみたいだね」
「きちんとした文章はまだ無理だけれど、ちょっとしたことなら伝えてくれるようになったわ」
うきうきの両親からそっと視線をそらして、頭を抱える。
あーあ、ついに、やっちゃった。人の言葉を解する召喚獣って、前代未聞なのに。このことがばれたら、間違いなく魔導士の塔が大騒ぎになるのに。私、これ以上注目されたくないのに。ごく普通の子供……でいるのはちょっと難しそうだから、ちょっと優秀な子供……でいたいのに。だからあえて、ルルのことはひた隠しにしてたのに。
というかカイウス様、私のそんな思いも全部分かっててやっている気がする。お前なら、これくらいうまく切り抜けるだろ? という彼の声が聞こえてきた気がした。どうせなら、ルルと話せたほうが楽しいだろう? という面白がっている声も。
「……ルル、やっぱり絵本で勉強してたの? 人間のことば」
