ちいっ。

 手の中のウサネズミが、ひょこっと立ち上がり小さく鳴いた。可愛いなあ……じゃなくて、何を見てるんだろう。

 ウサネズミの視線を追いかけるようにして、くるりと振り返る。そこにいるものに気づき、絶句した。

「ああ、ジゼル……君はやっぱり、天才だったんだね……」

「いいえ、素質だけじゃないわレイヴン! この子はずっと魔法の本を読んでいたじゃない! あのたゆまない努力が今、こうして実を結んだのよ……」

 少し離れた木の陰には、こちらを見ている両親の姿。二人とも、感涙にむせんでいる。

 えっと、もしかして、この子を呼ぶところ、見られた? そういえば魔法陣を描くのに夢中で、背後なんて気にしてなかった……。

 とっさにウサネズミを抱きしめて、隠そうとする。しかしその時、足元の地面で淡く光ったままの魔法陣が目に入った。……あ、これ、言い訳できそうにない……。

 結局私は、大はしゃぎの両親にしっかりと抱きしめられてしまった。三歳の子供が魔法の教本を理解しただけでなく、勝手に部屋を抜け出して魔法を使ってしまった。そんなとんでもない状況にも、二人はまるで動じていない。ただ、私が魔法を使えたことだけを、純粋に喜んでくれている。

 本当に、素敵な人たちのところに生まれてきたなあ。そんな幸せな思いと、胸元でちっちっと鳴いているウサネズミの温もりに、ふわんと微笑んだ。



 それ以来、ウサネズミは私の屋敷に住み着いてしまった。召喚獣を元の世界に帰してやる方法は、大きく二つ。呼び出した時の魔法陣がまだ残っていれば、そこを通ってもらうだけで済む。もしそれが消えていても、改めて『帰還の魔法陣』と呼ばれるものを描いてやれば、そこから帰れる。

 最初に描いた魔法陣はじきに消えてしまったので、改めて帰還の魔法陣を描いて、「おうちにかえらないの?」と尋ねてみた。けれどウサネズミは、聞く耳を持たないようだった。大きな耳を両手でつかんで引っ張り下ろし、耳当てみたいにしてそっぽを向くのだ。

 召喚獣を呼んでいる間、召喚主は魔力を消費し続ける。あの魔法の本にはそう書いてあったけれど、いまいち実感がわかない。たぶんウサネズミがちっちゃいから、それほど魔力を消費しなくて済んでいるのだろう。

 いちいちウサネズミと呼ぶのも何なので、ひとまず呼び名をつけることにした。両親と三人で考えて『ルル』という名前にした。この子が雄なのか雌なのかは分からないけれど、この名前は気に入ってくれたらしい。呼ぶとちゃんと、返事をしてくれる。

 そして私は、屋敷の裏庭で堂々と召喚魔法の練習に励むようになった。それも、両親とルルに見守られながら。見られているとちょっぴり落ち着かないのだけれど、こっそり子供部屋を抜け出さなくていいし、魔法の本の読み直しも手伝ってくれるので、とりあえず気にしないことにした。

「おお、今度は子猫……尻尾が二本あるんだな。人懐っこいなあ」

「こちらは……針山? じゃなくて、よく見ると顔と手足があるわ、可愛いわね!」

「昔、図鑑で見たことがあるよ。たぶん、ハリネズミという生き物だね。……図鑑に載っていたものは、こんなにぎらぎらした銀色をしてはいなかったけれど」

 私が召喚獣を呼び出すたびに、両親は子供のように目を輝かせている。ルルは私の頭の上に跳び乗って、ずっとそこでくつろいでいた。

 嬉しそうな両親を見ながら、思いをはせる。しっかり練習したおかげで、ああいった小さな子たちは難なく呼べるようになっていた。何度も呼んだ子たちとは、ちょっと仲良くなることもできた。

 ただ、全てが順調という訳でもなかった。

 魔法陣の描き方には、大きく二通りある。地面や紙なんかにあらかじめ魔法陣を描いてからそこに魔力を注ぎ込む方法と、指や杖などに魔力をこめて、空中などに魔法陣を描き上げるという方法だ。

 前者はゆっくり落ち着いて魔法陣を描けるという利点があるし、後者は魔法の発動が速いという利点がある。急いで魔法を使う必要がないのと、そもそも指に魔力をこめる感覚がうまくつかめていないという理由から、私はもっぱら前者だった。

 だったら大きな魔法陣を描けば、もっと大きな子を呼べるのではないか。ふとそう考えて、先日試しに描いてみることにした。慎重に、丁寧に、時間をかけてゆっくりと。私の身長より大きなそれは、我ながら中々のできばえだった。

 ところが、それに魔力を注ぎ込もうとして大騒ぎするはめになった。描いた線にそっと触れて、そこから魔力を流し込んだとたん、魔力があっちこっちに偏ってしまったのだ。薄くなっているところに手を置いて、また魔力を注いで。そうしたら、今度は反対側の魔力が足りなくなって。気づけば、魔法陣の周りをぐるぐると走り回ってしまっていた。

 すっかり息が上がってしまって、近くの地面にぺたんと座り込む。肩に乗ったルルが、せっせと汗を拭ってくれていた。いつの間にか、私のポケットから取り出したハンカチで。

 この魔法陣を起動させるには、圧倒的に腕の長さが足りない。というか、そもそも私の体格が小さすぎる。悔しい。

 ちょっぴりふてくされて、空を仰いで。それからくすりと笑った。

 まあいいか、焦らなくても。私には、たっぷり時間があるのだから。もし前世の私にこの力があれば、国を守るのに役に立つ召喚獣を呼ぼうとやっきになったかもしれないけれど。

 でも、もう関係ないの。全部終わったことだもの。

 あの時の、空虚なのにどこか奇妙に晴れやかな気分を思い出しながら、頭の上のルルをなでる。そうしていたら、お母様がすっと立ち上がった。さっきまで一緒に遊んでいた銀ハリネズミも、のそのそと元の魔法陣に戻っていった。

「さあ、そろそろおやつの時間よ。今日のお菓子はいいできだって、料理長が言っていたわ」

「おや、それは楽しみだな。ほらジゼル、パパと手をつなごう」

 お父様も二本尻尾の子猫を魔法陣の上に置くと、同じように立ち上がった。

「ああーっ! ジゼル、ママとも手をつないでちょうだい!」

 そうして三人と一匹で、屋敷に戻っていく。右手をお父様と、左手をお母様とつないで。頭の上では、お菓子のおすそ分けに期待しているルルがそわそわしている。

「今日のおやつ、なにかな。たのしみだな」

 大好きな人たちに囲まれて、思い悩むことなくのびのび過ごせる。自然と、足取りも軽くなっていた。


 魔法の練習の合間に、少しずつ情報も集めていった。今私が暮らしている翠翼の帝国について。

 屋敷の中を探検するのだと宣言して、あちこち歩いて回った。「ぱぱのしごと、みせて」と主張して、地図や書類にも目を通した。「魔法の本を理解したジゼルなら、この仕事も分かってしまうかもしれないね」と言いながら、お父様は快く説明してくれた。

 そうして、知った。この帝国はとても豊かで、平和なのだということを。伯爵家の当主が領地の統治に振り回されることなく、のんびりしていられるくらいに。かつて私が命を懸けて目指していた、誰も飢えずに済む、戦いのない世界。それが、ここに存在していた。

 衝撃の事実は、もう一つあった。かつて翠翼の帝国は、周囲の小国に積極的に働きかけては自国に併合し、領地を拡大し続けていた。ほんの、数年前まで。

 最後にこの帝国に併合されたのは、湖月の王国だった。王家が滅んだ今、あそこは帝国の庇護のもと民たちの合議でまつりごとを行う、そんな自治領になっているらしい。

 女王の私が死んだのは、たった四年前のことだった。あの時私を守ってくれた数少ない配下たち、彼らが無事に逃げ延びていたとしたら、今どこにいるのだろう。

 湖月の王国について調べたいという気持ちが、ふと浮かんでくる。あわてて、その思いを押し込めた。心の一番奥深くにまで。

 もう、関係ない。全部、終わったことだ。うっかり知ってしまって、あの地に近づきたいなんて思ってしまったら。憎い女王の生まれ変わりがここにいるなんて知られたら、元王国の人間たちがどんな反応をするか。

 両親が治めるこのフィリスの領地は、元王国からは遠い。よほどのことがなければ、元王国に近づく必要なんてない。

 そう断定して、不毛な考え事を打ち切った。


 湖月の王国のことを忘れようとすればするほど、何かの拍子に思い出しそうになる。そんな状況から目を背けるように、私はさらに熱心に召喚魔法の練習にのめり込んでいった。それに、こうやってできることが増えていくというのは、単純に嬉しかったから。

 両親とルルに見られているのにももう慣れたし、のびのびと練習できる。

 ……はずだったんだけど、なあ。

「ほら見て! あの見事な魔法陣の描きっぷり!」

「わたくし、召喚魔法を間近で見るのって初めてなんですの」

「まああ、可愛らしいわあ。召喚獣もだけれど、お嬢さんのほうも」

 ……とてもやり辛い。

 背後の木の陰に、数名の貴族たちの姿がある。彼ら彼女らはそこに隠れながら、召喚魔法を使う私をじっと見守っていた。ちっとも隠れられていないし、とっても騒がしいけれど。

 事の始まりは、両親が友人たちの前でうっかり口を滑らせてしまったことだった。うちの娘は召喚魔法が使えるみたいなんだ、と。

 当然ながら友人たちは、一度見せてもらえないか、と言い出した。召喚魔法を使う三歳児は、かなり……いや、とんでもなく珍しい存在だから。

 恥ずかしかったので私は全力で拒否したのだけれど、ちょっとだけだからと両親に説得されて仕方なく折れた。「何よりも愛おしい大切な娘の特技を、友人たちにも見てもらいたいんだ」などと言われてしまっては、もう反論のしようもなかったのだ。

 だから腹をくくって、両親の友人たちの前で、一度だけ召喚魔法を披露したのだ。

 そうしたら、そこから一気に噂が広がってしまった。フィリス伯爵家の一人娘ジゼルは、まだ三歳ながら素晴らしい魔法の才を秘めている、とか何とか、そんな感じの。そしてその噂を聞いた他の貴族たち、両親とはもともと親交のなかった貴族たちまでもが、うちの屋敷を訪ねてくるようになってしまったのだ。もしかしたら平和すぎて、みんな暇なのかな。

 今私の背後できゃあきゃあ言っているのは、その噂を聞きつけて見学にきた貴族たちだ。魔法を見せるのはいいとして、いちいち挨拶をするのは大変だったので、こうして私の練習を離れて見てもらうという形にしてもらった。

「……しゅうちゅうできない……」

 小声でつぶやいたら、頭の上からちっ、という小さな返事があった。ルルだ。ルルは最初のうちこそ客たちにちやほやされていい気になっていたようだけれど、あまりの熱心さに圧倒されて逃げ回るようになっていた。最近では、ずっと私にべったりだ。

 もっとも、帝国中の貴族が見学に来る訳ではない。遠くで暮らす者や、格上の家の者などはまずやってこないから。だからこの騒動も、じきに落ち着くだろう。

 そう自分に言い聞かせて、周囲のざわざわを一生懸命無視しながら魔法の練習を続ける。そうして数日、一週間、一か月……やがて読み通りに客が減り、元の静かな日常が戻ってきた。

 ああ、これでやっと集中できる。ルルと顔を見合わせて、久々の平穏を嚙みしめた。……この騒動はまだ終わっていなかったのだということに、気づくこともなく。



「お誕生日おめでとう、ジゼル!!

「もう四歳なのね、大きくなって……ママ、嬉しいわ……」

 そうして、私は四歳になった。たくさんのごちそうに、子供部屋の床に積み上げられたプレゼントの山。両親は私の誕生日を毎年祝ってくれているけれど、今年は特に盛大だった。二人が用意してくれたものだけでなく、召喚魔法を見せた人たちからのお祝いの品も並んでいたのだ。お祝いの言葉を添えた、可愛らしい品々が。

「パパ、ママ、ありがとう……! ほかの人たちにも、おれいをいわないと」

「そうね、あとでお礼状を書きましょう。みんなで一緒にね」

 そんなことを話しながら、みんなで和やかにプレゼントを開ける。そうしていたら、執事がうやうやしく近づいてきた。やけに豪華な、手紙のようなものを持って。

「おや、どうしたんだい? ……これは!?

 手紙を受け取ったお父様が、顔色を変える。そうして私の隣にひざまずいた。

「ジゼル、君宛ての手紙だよ。……差出人は、魔導士長ゾルダー様」

 魔導士長は、皇帝に仕える魔導士たちの頂点に立ち、彼らを束ねる者だ。そして、皇帝の側近でもある。どうしてそんな偉い人が、たかが伯爵家の四歳児に手紙を出すのか。

「わたしあてなら、わたしも見ていいの?」

「ああ、もちろんだよ。読んであげよう」

 戸惑いながら、三人で手紙をのぞき込む。すると、ちょっぴり気取った美しい文字が目に飛び込んできた。ぎようぎようしい飾り言葉を外すと、内容はだいたいこんな感じだった。

『わずか三歳にして召喚魔法を、それも独学で身につけた子供がいるという噂は、陛下の耳にも届いている。どうか陛下の御前で、その魔法を披露してもらいたい』

 予想だにしていなかったその内容に、呆然としたまま手紙を見つめる。すごいわ、陛下からお声がかかるなんてなどと騒いでいる両親の声が、頭をすり抜けていく。膝の上に乗ったルルが、私の手に小さな手をかけて、心配そうにちぃちぃと鳴いていた。

 権力になんて、もう関わりたくなかった。私の前の人生は、望みもしない権力を持たされて、そのせいで終わりを迎えた。もし私がただの町娘だったら、あんな死に方をせずに済んだだろうに。

 だから、貴族として生まれ変わったことを知った時は、ちょっとだけ困惑した。でもこの帝国は平和そのもので、私の家は権力闘争とも無縁そうだった。だから、もう大丈夫だと安心していたのに。まさかこんな形で、皇帝と顔を合わせることになるなんて。

「……パパ、ママ、わたし……こわい……」

 震えながらそうつぶやいたら、お父様がぽんと私の頭に手を置いてきた。

「おや、ジゼルは行きたくないのかな。陛下は怖い方ではないよ。こうして目下の者ともきさくに触れ合う、大らかなお方だ」

「でも……」

 それでもためらっていたら、今度はお母様が私をぎゅっと抱きしめた。

「だったら、陛下にお手紙を書きましょうか。もっと大きくなるまで待ってくださいって。そうよね、ジゼルはまだ四歳だもの。知らない大人も、帝都も、怖いわよね」

「無理をしなくてもいいんだ。ジゼルは私たちの大切な娘だからね。無理強いはしないさ」

 レイヴンも優しく笑い、頭をなでてくる。どうやら二人は、私の意思を尊重してくれるようだった。その思いが嬉しくて、じわりと涙がにじんでくる。

 けれど、帝国の統治者である皇帝に逆らって大丈夫なのだろうか。いくら大らかなお方だといっても、命令を断ったら気を悪くしないだろうか。それに皇帝が許してくれても、魔導士長に目をつけられるかもしれない。その結果、両親が大変な目にあうようなことになったら。

「……こわいけど、行く。パパとママがいっしょなら、がんばれる」

 私のことを愛してくれる両親を守りたい。そのためなら、怖いのくらい我慢しよう。大丈夫、いつも通りに召喚魔法を使うだけなのだから。これでも元女王だし、礼儀作法には自信がある。

「そうか。偉い子だ。もちろん、何があってもパパがついているからな」

「ママもいるわよ!」

 ちちっ!

 両親に続けて、ルルも元気よく叫ぶ。その様がなんとも可愛くて、三人一緒に声を上げて笑った。そうしていると、胸の中の不安も薄れていくような気がした。


 書状が届いてから一週間後、私は両親と共に馬車に乗り、帝都に来ていた。街道が整備されているということもあって、とても快適な馬車の旅だった。途中泊まった町も、大きくて豊かだったし。

「ていと、大きいね」

 靴を脱いで座席に膝立ちになり、馬車の窓に張りついて食い入るように外を見つめる。街道も立派だったけれど、帝都の道はさらにしっかりしている。大きくて固い石が丁寧に敷き詰められていて、これなら普通の馬車どころか、大型の軍用馬車だって楽々通れる。

 道の両脇には、古くて大きな建物が整然と並んでいる。長い間大切に使われ続けてきたのが一目で分かる、そんな姿だった。そんな街並みに溶け込むようにして、やはり古い防壁があちこちに見えている。

 ここは、いい街だ。人々が暮らす場所としても、人々を守る場所としても。前世で私が暮らしていた王都がこんな場所だったら、外から押し寄せる民を食い止めることもできたかも……って、また昔のことを考えてしまっている。

 私は、皇帝陛下に召喚魔法を披露するためにやってきた。それだけなんだから。謁見が終わったらまた家に帰って、両親と一緒にのんびり過ごすの。それに、ルルと。

 ルルは、屋敷でお留守番だ。あの子には、というか今まで呼んだ子たちには、制約の魔法をかけていない。そのことがばれたら、問題になってしまうかもしれない。そう言って、どうにか説得した。

 そんなことを考えながら、徐々に近づいてくる帝城に目をやる。

 すごく大きい。とっても古い。怖いくらいに武骨だ。それが、帝城の第一印象だった。とにかく頑丈そうで、優美さはかけらもない。どちらかというと……砦とか要塞といったほうが正しいかも。

 もうすぐ、皇帝と顔を合わせることになる。お父様は、怖くないきさくな人だって言っていたけれど。いったいどんな人なのだろうか。

 急に緊張してきた私に、両親は優しく微笑みかけてくれた。


 重々しくいかめしい城門をくぐり、馬車を降りる。案内の者に従い、城の中を進んでいった。一生懸命に足を動かしても、私だけ歩くのがとっても遅い。けれどその足取りに、みんな合わせてくれていた。

 城の中はやっぱり武骨で、防衛を重視しているのか窓は小さく、数も少ない。けれど辺りは、思いのほか明るかった。壁や天井のいたるところに、魔法の光がたくさんきらめいていたのだ。ホタルの群れを思わせる光景の中を進んでいると、ちょっとだけ気分も軽くなってくる。きっとうまくいく、そう思えた。

 しかし気分が上向いたのもつかの間、私たちはとびきり大きく豪華な扉の前にたどり着いてしまっていた。間違いない、この先が謁見の間だ。

「大丈夫よ、ジゼル」

 優しく微笑んで、お母様が手を差し出してくれた。その手をぎゅっとつかんだその時、大きな扉が音もなく開く。

 扉の向こうは、見上げるほど天井の高い、とても広い部屋だった。廊下と同じように壁や天井がきらめいているけれど、ずっと光が多く、強い。

 圧倒されるような荘厳さを感じさせるその光景は、肌がひりつくほど寒い、よく晴れた冬の夜空を思い出させるものだった。湖月の王国にも謁見の間はあったけれど、こんなに大きくはなかったし、幻想的でもなかった。

 ふかふかのじゅうたんを踏みしめて、ゆっくりと部屋の奥に向かっていく。突き当たりの一角が数段高くなっていて、豪華な玉座が置かれているのが見えた。その玉座を守るように、美しい鎧をまとった騎士たちが整列している。兜のめんぽおをきっちりと下ろしているせいで、顔は見えない。

 そして玉座のすぐ隣に、明らかに騎士ではない人物が立っていた。金の髪に青い目の、たぶん三十歳くらいの男性だ。細身ですらりと背が高く、優美な飾りのついた、丈の長いコートのような服をまとっている。彼は自信にあふれた、しかしちょっと気取ったところのある笑みを浮かべて、まっすぐに私を見ていた。もしかしてこの人が、魔導士長ゾルダーかな。

 さらに視線を動かして、玉座に座った人をそろそろとうかがう。そうして、目を見張った。

 こんな大きな帝国を順調に治めているのだから、皇帝はきっと男盛りの、いかにもやり手といった雰囲気の男性なのだろうなと、勝手にそう想像していた。

 けれどゆったりと玉座に腰かけているのは、まだ年若い男性、というか少年だった。

 十五、六歳くらいか、一人前の大人というにはまだちょっぴり若い。きりっとした意志の強そうな顔立ちに、エメラルドグリーンの髪がこの上なく目を引く。悠然と座っているだけなのに、彼は周囲を圧倒するような威厳を放っていた。

「よくぞ参った、ジゼル。我はカイウス、この翠翼の帝国を治める皇帝だ。こちらは魔導士長のゾルダー、我が側近だ」

 その言葉に、隣の男性が優雅に会釈する。あ、やっぱりこの人がゾルダーだったのか。

「幼子を呼びつけてしまってよいものか少々悩みはしたが、どうしてもそちの魔法を見てみたくてな、我慢ができなかったのだ。許せ」

 古風な口調でそう言って、カイウス様は微笑む。その口調もその表情も、彼によく似合っていた。そしてそれ以上に、皇帝がこんな小さな子供に謝罪したことが驚きだった。

「フィリス伯爵家のむすめ、ジゼルともうします。どうぞ、いごお見知りおきを」

 お母様の手を放して、スカートをつまんでお辞儀をする。これでも一応元女王なのだし、礼儀正しい挨拶はお手の物だ。ただ、ちゃんと子供らしく見えるように気をつけないと。

「はは、いやつだ。よい、近う寄れ」

 楽しげに笑って、カイウス様がそう命じた。なのでゆっくりと進み出て、少し離れたところで止まる。

「ふむ? 子供ゆえに我のすぐ目の前まで来ると思ったが、意外であったな」

 あ、しまった。こういう場合、四歳の子供ならためらうことなく皇帝のすぐそばまで行ってしまうのが普通だろう。でも私は、周囲の騎士たちを警戒させない距離──私が一人前の大人だったとして──で足を止めてしまったのだ。

 陛下、他人をうかつに近づけないでください。かつて繰り返し聞いた、ぶっきらぼうだけれど私のことを気遣ってくれていた声。その記憶が、唐突によみがえってしまったのだ。きっと、この謁見の間の荘厳な雰囲気のせいで。

 いつも私にそう言っていたのは、湖月の王国の騎士団長。彼は、私の身辺警護を担当してくれていた。私が無防備に他人に近づくのを、いつも止めてくれていた。いつどこで、陛下に危害を加えんとする者が現れるか分かりません。俺のそばを離れないでください。他の者に、気を許さないでください。それが、彼の口癖だった。

 あの内乱で彼は「敵を迎え撃ちます、陛下はここで待っていてください」と言い残して出ていき、それきり戻ってこなかった。彼は強かったけれど、民たちの勢いに押されて負けてしまったのだろうか。それとも、無事に逃げることができたのだろうか。

 ついそんなことを考えてしまって、口ごもる。

「そう緊張せずともよい。ジゼル、そちの魔法を見せてはくれぬか」

 しかしカイウス様は、そんな私の態度を緊張のせいだと受け取ったらしい。気を取り直して、深呼吸する。いけない、ちゃんと集中しないと。

「おそれながらもうしあげます。へいかは、苦手な動物などおありでしょうか」

 召喚魔法を披露するのなら、これだけは先に尋ねておかないとならない。今までたくさんの貴族たちが私の魔法を見物にきていたけれど、たまに叫んで逃げていく人もいた。ネズミが駄目だとか、鳥が怖いとか、そんなことを言いながら。

 私の問いに、カイウス様は黄金色の目を真ん丸にした。それから、心底おかしそうな笑みを浮かべる。

「はは、よく気の回る子供だ。心配するな、我は動物が好きだ。それに、少々恐ろしげなものが呼び出されたとて、ゾルダーと我が騎士たちがおればすぐに片が付く。遠慮なく、存分に魔法を使ってみるがよい」

 彼の言葉に、周囲の騎士たちが背筋を伸ばす。ゾルダーも、悠々とした表情でかすかに肩をすくめていた。確かにこれだけいれば、何かが起こっても問題はなさそう。

「わかりました。……それでは、はじめます」

 そう宣言して、床に座り込む。あらかじめ魔法陣を描いておいた紙を広げ、魔力を注ぎ込んだ。……今回だけは、制約の魔法も付け加えてある。お願いだからちょっとだけ、いつもよりいい子にしていてね。そんな思いを込めた、ささやかなものではあるけれど。

 魔法陣が淡く輝き、その中から真珠のように輝く白いハトが十羽、次々と飛び出してきた。風切り羽だけが鮮やかな虹色の、とびきり美しいハトだ。

 私が手を挙げると、それを合図にしたようにハトたちが玉座の間を飛び回る。右へ、左へ、くるりと輪を描いて。この子たちとはよくこうやって遊んでいたから、私も落ち着いて指示を出せた。

 その場の全員が、軽やかに舞うハトたちを目で追う。抑え気味の感嘆の声が、あちこちから漏れていた。

 最後に、すっと手を振り下ろす。ハトたちが列になって、カイウス様の前の床にずらりと着地した。

「……ふむ、確かに見事なものだ。ゾルダー、これだけの魔法を四歳の子供が身につけている。しかも独学で。それについて、そちはどう思う?」

 カイウス様は目を丸くして、ハトたちを眺めていた。ゾルダーはゆったりと笑うと、胸を張って朗々と答える。まるで、この場の全員に聞かせようとしているかのように。

「彼女は召喚魔法のたぐいまれなる素質を持っており、かつその素質を花開かせるに十分なだけの聡明さをも備えています。そして、恐ろしく早熟でもあります。これまで、召喚魔法を会得した最年少記録は十一歳でしたが、彼女はその記録を大幅に塗り替えてしまいました。おそらく、この記録を更新する者は現れないでしょう」

 そんな言葉に、すうっと背筋が冷たくなる。魔法を使う子供は珍しいんだろうなってことには気づいていたけれど、どうやら私は思っていた以上にめちゃくちゃなことをやらかしてしまったらしい。それなら、皇帝や魔導士長が目をつけるのも当然だけど……どうしよう、ここからどうなるんだろう。

 不安になってぎゅっとスカートを握る私を見つめ、ゾルダーは続ける。

「しかし彼女は、まだ四歳の子供です。彼女が今後その力をいかんなく発揮するためには、私たち大人の導きが必要となるでしょう」

「導き……か」

 ゾルダーの言葉に、カイウス様は何事か考えているようだった。けれどすぐに私を見て、にっこりと笑った。

「そうだ、ジゼル。褒美を取らせねばな。ここまで来るがよい」

 親しみを感じさせる表情で、カイウス様が手招きしてくる。

「よし、来たな。手を出すがよい」

 彼はそう言って、私の手に何かを握らせてきた。ぺこりと礼をして、手を開いてみる。

 それは鎖のついた、金色の小さなコインのようなものだった。たぶん、首飾りだろう。そしてそのコインの表面には、緑の目をした白いワシが白銀とエメラルドで描き出されている。このワシって、確かこの翠翼の帝国の象徴だったような。

「それは忠誠の首飾り。皇帝が、直属の配下に与えるものだ。持ち主が皇帝の忠実なるしもべであり、皇帝の庇護下にあることを意味する」

 カイウス様の説明を聞いていると、どんどん鼓動が速くなっていく。

「……わたしは、へいかの配下ですか? へいかはわたしに、何をめいれいされるのですか?」

 私の声は、震えていた。もう権力になんて関わりたくないと思っていたのに、よりによって皇帝その人からこんなものを渡されてしまった。今度こそ自由に、幸せに生きようと思ったのに。

 嫌だ。受け取りたくない。子供のわがままに見せかけて、どうにかして返せないかな。

 何も言えずに震えていたら、ぽんと頭の上に手が置かれた。いつもお父様がよくこうやって、私を励ましてくれる。でもこの手の感じは、お父様のものじゃない。それに、何だか辺りがやけに騒がしい。

 不思議に思って顔を上げたら、カイウス様と目が合った。……あろうことか皇帝陛下が、私の頭をなでていた。周囲の人間が騒ぐ訳だ。

 しかしカイウス様は金色の目を柔らかく細め、穏やかに語りかけてきた。

「ジゼル、そうではない。これは、我がそちを守るという意思表示だ。だからそちは様々なものに触れ、学び、立派な大人になれ。心身共に健やかな、美しき乙女に。そうして我の配下として働くもよし、他の職業に就くもよし。あるいは、どこぞに嫁いで子をなし、幸せな家庭を築くもよし」

 初対面とは思えないほど優しい、どことなく切なげな声に、思わずカイウス様の顔をじっと見つめる。

「いずれも、我が帝国を支える大切な役目だ。そちは好きな道を選ぶといい。……もう、自由なのだから」

 この首飾りは決して、私を縛るものではない。そのことだけは理解できた。でも、どうしてカイウス様はあんな表情をしているのだろうか。

 そもそも彼は、私の魔法を見たくて私をここに呼んだ。そして、私がずば抜けた魔法の素質を持っていることを確認した。それなのに、なんでも好きな道を選べって……てっきり、「もっと魔法の修練に励むがよい」とか言われるかと思ったのだけれど。

 考え込んでいたら、カイウス様はまた元通りに堂々と微笑んだ。そうしてゆったりと宣言する。

「そちが我のもとで働きたいと思ったのなら、いつでもその首飾りと共に訪ねてくるがいい。我はいかなる時も、そちを歓迎する」

 分からないことはたくさんあるけれど、カイウス様は私のことを気に入ってくれているらしい。権力に近づくのはやはり怖いけれど、彼のことは嫌いになれなかった。むしろ、好ましく思えた。

「ありがとうございます。がんばります!」

 だから背筋を伸ばして、精いっぱい元気よく答えた。四歳の子供らしく見えているといいな、と思いながら。



 カイウス様への謁見を終えて、屋敷に戻ってきて。お父様がほっとしたように、深々と息を吐いた。

「ああ、やっと戻ってこられたね。陛下がジゼルとの謁見を望まれただけでも驚いたのに、まさかジゼルが忠誠の首飾りをいただくなんて……」

「ええ、驚いたわね。でもジゼルなら、これくらい当然かもしれないわ。まだこんなに小さいのに、陛下の前でも立派に魔法を使って……私、感動の涙をこらえるのが大変だったのよ」

「実は、私もなんだ。陛下の御前でなければ、きっと拍手をしていたよ。あのハトたちの動きときたら、いつも以上に華麗で、整然としていて……」

 ちちいっ!!

 帰ってくるなりいつもの調子ではしゃぎ始める両親に、ルルがぴょんと跳び乗った。もうすっかりお留守番に飽きてしまっていたらしい。構って構ってと言わんばかりに、両親の肩やら頭やらを、ぽんぽんと跳びながら鳴いている。

 ああ、やっとこれでいつもの日常が戻ってきた。見慣れた屋敷の見慣れた光景に、私もようやく肩の力を抜くことができた。


 それからルルを頭に乗せて、とことこと一人で子供部屋に戻っていく。そうして真っ先に、忠誠の首飾りを自分の宝石箱に大切にしまい込んだ。カイウス様のことを思い出しながら。

「こわい人じゃなかったし、悪い人でもなかったけど……」

 宝石箱の中で輝くコインを見つめ、独り言のように話しかける。

「どうして、あんな目でわたしをみていたのかな? うれしそうなのに、さびしそうな、ふしぎな顔……」

 ルルが顔を上げて、ちゅいっ? と鳴いた。

「……ここで考えていても、わからないよね。うん、今は気にしないでおこう。おいで、ルル。なでてあげる」

 その言葉に応えるように、ルルがじゅうたんの上にぺたんと伏せた。ぽやぽやの毛が生えた尻尾をぴんと立てて。

 ふわっふわの背中を優しくなでていたら、胸の中にわだかまっていたもやもやが消えていくように思えた。


 と、安心するにはまだ早かった。

 私たちが屋敷に帰って数日後、またしても私宛ての豪華な手紙が届いたのだった。さらに三日後、びっくりするほど大きな鳥が屋敷の前に舞い降りた。

「突然の来訪、すまない。長居はしないので、大目に見てくれるだろうか」

 そんな言葉と共に鳥から降りたのは、なんとゾルダーだった。彼は『ジゼル君と二人で少し話したい』という手紙をよこし、そして本当にこの屋敷に来てしまったのだ。

「ようこそ、いらっしゃいました。しかし、その……」

 フィリス伯爵家の当主として出迎えに当たったお父様が、何とも言えない顔をしている。それも当然だ。普通、来客があればまず馬車と馬を預かり、客を屋敷の中に案内する。でも、馬じゃなくて鳥……どう預かればいいんだろう?

「この鳥はここで待たせておいてくれ。配下から借りてきた召喚獣だから、特に悪さはしない。水と穀物を少し与えてくれれば助かる」

 その言葉に、お母様が大急ぎで屋敷の奥に向かっていった。いつになく、あわてた足取りで。

 皇帝陛下に呼ばれただけでなく、その片腕たる魔導士長がわざわざ訪ねてくる。それだけでもとんでもないのに、彼は召喚獣に乗ってやってきた。あまりのことに、さすがの両親も少し動揺しているようだった。もちろん、私も。

 それにしても、大きな鳥だ。足を隠すようにしてちょこんと座っているのに、私の背よりずっと大きい。これなら確かに、人を乗せて飛ぶこともできるだろう。綺麗な空色の羽毛は、まるで金属のようにつやつやと輝いている。鳥は澄ました顔で、つんと明後日の方向を見ていた。

「やはり、召喚獣が気になるかね?」

 鳥に見とれていた私に、ゾルダーが朗らかに声をかけてくる。

「あ、はい!」

 あわてて姿勢を正し、そう答える。そもそも彼は、どうして鳥に乗ってやってきたのだろうか。

「帝都からここまで、馬車だと時間がかかる。しかしこの鳥であれば、帝都の北東にある山脈を越えることで、数時間程度でここまでたどり着けるのだ」

 私にとって召喚魔法は、ちっちゃなお友達を呼び出すものだった。まさか、そんな使い方があったなんて。

 感心している私に、ゾルダーは少し楽しそうに言った。

「さてジゼル君、手紙に記したように少し君と話したいのだが」

「はい、では応接間にご案内します」

 お父様が礼儀正しく申し出たものの、ゾルダーは何事か考えているようだった。

「いや、それよりも……そうだな、ジゼル君がいつも魔法を練習しているところに、案内してもらえるだろうか?」

 魔導士長というだけあって、彼は他人に命令し慣れているようだった。元女王の私ですら、ちょっと圧倒されかけた。

 仕方なくお父様をその場に残し、ゾルダーを連れて歩き出す。聞き慣れない、ゆったりと落ち着いた足音がすぐ近くから聞こえてくる。たったそれだけのことで、ひどく落ち着かない。

 自然とうつむきがちになりながら、裏庭の一角にある空き地にたどり着いた。土がむき出しになったその真ん中で仁王立ちしていたものを見て、青ざめる。

「あ、ルル!」

 ゾルダーが訪ねてくると聞いたので、ルルにはひとまず隠れていてもらうことにしたのだ。普段ルルが寝床にしている木箱に押し込んで、そのまま物置にしまってきた。特別なお客様が来るからちょっとだけここで待っててねと、家族三人でそう言い聞かせて。

 それなのに、ルルは物置から逃げ出してしまっていた。あんなところに閉じ込められたのが嫌だったのか、それとも客とやらを見てみたかったのか。物置の窓も扉も、全部閉めてたのに。どこから出てきたんだろう。

「おきゃくさまだから、今はあっちにいっていて!」

 ぢゅっ!

 あ、駄目だ。絶対に譲れないって顔をしている。誰が何と言おうと自分はここにいるんだって、そう全力で主張している。大きな後ろ足を、だんだんと踏み鳴らして。

「おねがいだから、ね?」

 もう一度頼み込んだけれど、ルルはそっぽを向いてしまった。何とかして説得しようと頑張っていたら、くっくっという小さな笑い声が後ろから聞こえてきた。

「見たところそちらも、召喚獣か。何とも元気のいいことだ」

「あ、あの、その、これは」

 まずい。ルルに制約の魔法がかかってないこと、ばれてしまうかも。しどろもどろになっていたら、ゾルダーが悠然と微笑んだ。ちょっぴり意味ありげな目つきで。

「ふむ、取り立てて害はなさそうだからな、あれこれ騒ぐのも無粋だろう」

 ……たぶん、気づかれている。どうやらその上で、見逃してくれるらしい。よかった。

 そしてゾルダーは、周囲をじっくりと観察している。整えられている裏庭の、真新しい土がむき出しになっている辺りを見つめてつぶやいた。

「君は、いつも地面に魔法陣を描いているのだな?」

「はい。まちがえても、すぐになおせる……なおせます、から」

 不自然にならない程度に子供っぽくふるまうのって、難しい。どうにかこうにか取りつくろっている私に、彼はさらに尋ねてきた。

「描き上げた魔法陣に、後から魔力を注ぎ込む。今使えるのは、その方法だけだろうか?」

 こくりとうなずくと、彼は納得したように言葉を続けた。

「なるほど、それで先日は紙に描いた魔法陣を持参したのか。しかし君の腕前なら、宙に魔法陣を描く練習をしてもよい頃合いだろう。私が手本を見せてやれれば良かったのだが、あいにくと私は属性魔法が専門なのだ」

 そう言って彼は、懐から小ぶりの革袋を取り出した。飾り気のない、でも明らかに上質な革を使った袋だ。その袋を私に差し出して、彼はにっこりと笑う。

「これを、君にあげよう、召喚魔法の触媒となる特殊な粉だ。この粉を指先に少量つけることで、空中に魔法陣を描く助けをしてくれる。通常は、新米の魔導士が練習のために用いているものなのだが……ひとまず、試してみたまえ」

 袋を開けると、真珠を細かく砕いたような綺麗な粉が入っていた。光の加減で虹色に輝いて、つい見とれてしまう。……新米の魔導士の練習用って、そんなものをこんな子供に気軽にあげてしまっていいのかな。こういった魔法の品々は、そこそこ貴重なはずなんだけど。

 などと思いつつ、右手の人差し指に粉を少しだけつけて、それからすうっと宙を走らせる。魔力のこもった、淡く光る線がその後に残った。びっくりしながら、手早く魔法陣を描いてみる。卵くらいの大きさしかない赤い小鳥が、すぐに中から飛び出してきた。

「あれだけの説明で、あっさりと宙に魔法陣を描いたか。何とも末恐ろしい才能だ」

 ゾルダーは心底愉快そうだ。腕組みをしたまま、青い目を糸のように細めている。

 ……ここはもうちょっと、てこずったふりをするべきだったのかな。頭の上でくつろいでいる小鳥のぬくもりを感じつつ、内心焦る。

「……だが、帝国の未来のためには、その力はこの上なく頼もしいものとなるだろう」

 ゆっくりと、彼は顔を上に向けた。遠くを見つめるような目をして、話し始める。

「陛下は、君に自由に生きろとおっしゃった。だが私は、君のそのたぐいまれなる力を帝国のために活かして欲しいと、そう思っている」

 その声は、とても静かだった。今までのちょっと気取ったものではなく、ひどく真剣で、どことなく沈痛な響きを帯びていた。

「君は、ご両親のことが大切だろう」

 私のほうを見ないまま、ゾルダーはつぶやく。私が答えるより先に、彼はまた続けた。

「君が帝国のために力をふるうことで、君のご両親はより安全に、より豊かに暮らすことができる。君たちは、もっと幸せになれるのだ」

 どう答えていいか分からなくて、彼に並んで空を見上げる。

 とびきり青い空に、白い鳥の群れが飛んでいた。妙に胸が苦しくなる、そんな風景だった。


 結局ゾルダーは、その後すぐに帰っていった。元通りの堂々とした態度で、あの大きな鳥に乗って。

 空のかなたにどんどん遠ざかる彼の姿を見送って、ぼんやりと考えた。

 権力には近づきたくない。私は一人の人間として、自分のために生き、自分の幸せをつかみとる。そう決めたから。もう、国だの何だのに巻き込まれたくない。

 でも、ゾルダーの言葉を聞いたせいか、ほんの少し心が揺らいでしまっていた。カイウス様の力になって帝国をより栄えさせる、そんな未来もいいかなと思えてしまう。

「……まだ、じかんはあるもの。今、きめなくていい」

 そうつぶやいて、ルルをぎゅっと抱きしめた。小さなその鼓動を感じていたら、やっと気持ちが落ち着いてきた。


 しかしゾルダーのおかげで、格段に魔法が上達したのも事実だった。最初こそ魔法の粉の助けを借りていたものの、じきに魔法の粉も使わずに、魔法陣を空中に描けるようになったのだ。

 もう、いちいち裏庭に行かなくても魔法の練習ができる。子供部屋でも、寝室でも。そのせいで、つい夜更かしをするようになっていた。

「ジゼル、もう寝なさい。子供は寝るのも仕事だよ」

「そうよ。こないだも、こっそり夜中に起きて魔法を使っていたでしょう」

 寝間着姿の両親が、たしなめるような顔をして私の寝室までやってきた。そうして、寝台にちょこんと座った私を囲んでいる。私の膝の上では、ルルがお腹を出して熟睡していた。

「でも、もうちょっとだけ……」

 甘えるようにお願いしてみたら、お母様がさっとルルを抱き上げた。次の瞬間、私もお父様に抱き上げられていた。

「駄目だ。君がこれ以上夜更かしできないように、今日はみんなで一緒に寝よう」

「パパの寝台でなら、三人で寝られるわ。ルルにはクッションを貸してあげましょう」

 抵抗する間もなく、レイヴンの寝室に連れていかれる。そのまま、大きな寝台の真ん中に寝かしつけられた。

 枕元に置かれたクッションには、仰向けでぷうぷうと寝息を立てているルル。私の両隣には、笑顔の両親。大切な人たちに囲まれて、みんなで一緒に眠る。こんな幸せなことって、そうそうない。

「……わくわくする。パパ、ママ、またいっしょにねようね」

 そうして私たちは、楽しくお喋りしながら眠りについた。


 しかし両親のそんな努力も空しく、私の夜更かし癖はさらにひどくなってしまっていた。五歳の誕生日にカイウス様から届けられた、一冊の魔導書によって。

 お父様の書斎には、初心者向けの魔法の本しかなかった。というか、どこの貴族の家でもそんなものらしい。魔法の素質のある子供が生まれた時に備えて最低限の教本は置いてあるものの、より複雑で難解な内容については、学園で学ぶのが一般的だ。ちなみにこの帝国では、貴族の子女はみな学園に通う。

 ところが三歳にして召喚魔法を会得してしまった私に、カイウス様は召喚魔法についてより詳しく書かれた魔導書をくれたのだ。学園に入学するまで待つのは退屈だろうと、そんな言葉を添えて。

 おかげで、召喚魔法についてたくさんのことを知ることができた。今までなんとなく勘でこなしていたことのあれこれが分かるたび、ああそうだったのかと楽しくてたまらない。

 今夜もちょっと夜更かしして、こっそりと魔導書を読む。ルルも付き合ってくれているのか、珍しく遅くまで起きていた。

 召喚魔法に用いる魔法陣は、私たちがいるこの世界と、召喚獣たちがいる異世界とをつなぐ扉としての役割を果たす。

 その異世界は複数あるらしい、そこまでは知っていた。しかし異世界の数がとても多く、そして異世界ごとに特徴があるということは初めて知った。比較的穏やかな召喚獣が暮らす世界や、逆に恐ろしい召喚獣がかつする世界など、分かっているだけでもかなり色々なものがあるらしい。

 初心者向けの本に記されていた魔法陣、ルルの故郷につながるその魔法陣は、その中でも特に穏やかな気質の召喚獣たちが暮らす異世界につながるものだった。

 さらに魔導書には、魔法陣に追加で描き込む魔法についても詳しく書かれていた。制約の魔法や呼び出す召喚獣の種類を指定する魔法のほか、召喚獣の見ているものを召喚主も見ることができる魔法、召喚主の言葉を召喚獣の口を借りて遠くに運ぶ魔法なんてものもあるらしい。

 制約の魔法については、とくにしっかりと説明されていた。様々な能力を持つ召喚獣を安全に使うために、この魔法については習熟しておくようにとの言葉と共に。

「あんぜんにつかう……この言いかた、きらい」

 ぢいっ!

 ルルと二人で魔導書に文句を言いつつ、読み進める。

 私は、召喚獣に無理やり言うことを聞かせる制約の魔法が嫌いだ。でも私だけではなく、召喚獣たちもあの魔法は嫌っているようだった。

 カイウス様の前で魔法を披露した時、仕方なく制約の魔法を描いた。そうしたらその後しばらく、ハトのみんなが冷たかった。呼び出すなりばっと距離を置いて、目も合わせてくれなかったし。

 さんざん謝り倒して、それから生米と干したトウモロコシをごちそうしたら、みんなはようやく機嫌を直してくれたのだった。仕方ない、今回だけは大目に見てやるか、そんな態度だった。

 ……そういえばゾルダーの前で描いた魔法陣、制約の魔法を描いていなかったような……まあいいか。魔法の粉に驚いた子供が、うっかり描き忘れたって思ってくれてるだろうし。

 魔導書には、召喚獣についての説明もあった。この世界の生き物とほぼ変わらないものから、驚くほど違う姿形を持つものまでいる。とはいえ、その生態はほとんど明らかになっていないらしい。召喚魔法の使い手が少ないということもあって、召喚獣そのものの生態を深く調べることよりも、召喚獣を活用する研究のほうが優先されがちなのだとか。ただ、召喚獣はおしなべてさほど知性が高くなく、この世界にいる獣たちと大差ないであろうと記されていた。

「しょうかんじゅうって、なぞがいっぱい……なんだなあ……」

 読んでいるうちに、眠くなってきた。明かりを消すのも忘れて、ぱたりと横になる。魔導書を抱き枕のようにぎゅっと抱きしめて。


 次の朝。目が覚めて、違和感に気づく。昨日うっかり燭台の火をそのままにして寝てしまったから、ろうそくは燃え尽きているはずだった。でも、蠟燭は長いまま残っている。

「……だれか、よなかに消してくれたのかな?」

 たぶん、両親が様子を見にきてくれたのだろう。それにしては、寝台の上に魔導書がそのまま残されているのがちょっと不思議だった。ついでに片付けそうなのに。

 首をかしげていたら、ルルが得意げにぴんとひげを立てていた。



 今日は、ピクニックだ。このところとってもいい天気で過ごしやすい日が続いていたので、親子三人でお出かけすることにしたのだ。私の、六歳の誕生日のお祝いを兼ねて。

「お弁当と敷物は用意できたよ!」

「他の荷物も準備できたわ!」

 動きやすい格好に着替えた両親が、荷物を背負って明るく笑う。

「パパ、ママ、こっちもじゅんびできたよ!」

 私の隣には、額に角の生えた小ぶりの白馬──つのうまが三頭、のんびりと立っていた。


 やっぱり、大きな召喚獣を呼んでみたい。体が大きくなるのを待っているだけなんてもどかしい。そんな思いから、私はずっと試行錯誤を繰り返していた。

 あらかじめ大きな魔法陣を描いておく方法は、やはり駄目なようだった。ならばと、今度は両手を使って、空中に大きな魔法陣を描こうとした。でもそうしたら、魔法陣がゆがんで使い物にならなかった。やっぱり、腕の長さが悲しいくらいに足りない。

 魔導士は杖を使って、大きな魔法陣を描くことがあるらしい。でもその杖には、何やら特別な材料を使うらしい。その辺の棒で代わりにならないかなと試してみたけれど、やっぱり無理だった。普通の木の棒だと、魔力がうまく流れてくれない。腕の延長としては使えないのだ。

「まほうの杖……ゾルダーさまにおねがいしたら、もらえそうな気はするの。でも、これ以上あの人にかかわるのも……ちょっとね……」

 裏庭でそんなことをルル相手にぼやいていたら、ルルが突然走り出した。ちちっと鳴いて、ちらちらとこちらを振り返りながら。

 どうしたのかなと思いながら、ひとまずルルを追いかけていく。やがてルルは、裏庭の奥まったところに生えている木の前で立ち止まった。

 それからぴょんぴょんと木の上のほうに登っていき、みずみずしい葉をつけたままの枝をかじって落とす。そしてあっという間に、細かな枝葉を全部食いちぎってしまった。後に残ったのは細い木の棒。ちょうど、私の手首から肘くらいまでの長さだ。

 ルルはその木の棒の端っこをつかんで、一生懸命もがいている。どうも、私にその棒を渡そうとしているらしい。訳が分からないながら、その棒を受け取り……驚きに目を見張った。

 あれ、この棒……魔力を通しやすいような気がする。せっかくだから、ちょっと魔法陣を描いてみようかな?

 ふとそう思い、空中にくるりと魔法陣を描いてみた。指で描くのと同じように、魔力をこめながら。

「わあ、できた!」

 空中には、いつもより大きな魔法陣が一つ。そこから、桃色のシカの子供がぴょんと飛び出てきた。すごい、ちょっとだけ大きな子を呼べた!

 さっき食いちぎった木の葉をのんびりと食べながら、ルルがちいぃと満足げに鳴いていた。


 という一幕を経て、私は杖の代わりになる木の棒を手に入れたのだった。今隣にいる角馬たちは、その成果だ。

 ……とはいえこの木の棒を使っても、自分の身長よりちょっと大きいくらいの魔法陣が限界だった。なので、角馬たちにはかがんで魔法陣をくぐってもらった。三頭とも、なんでこんな狭いところを通らなくちゃいけないんだと言わんばかりの不満そうな顔をしていたけど、ひとまず見なかったことにした。ごめんね。

 それから、一人ずつ角馬の背に乗っていく。くらも手綱もないけれど、この種族は温厚で人馴れしているから大丈夫だって、そう魔導書に書いてあった。

「召喚獣に乗って出かけられる日が来るなんて、思いもしなかったわ。……魔法を覚えただけでも驚きなのに、こんなことまでできるようになるなんて……ジゼルはどんどん成長するのね」

「ああ、私たちの自慢の娘だね。もっとも、魔法が使えなかったとしても、やっぱり世界一素敵で可愛い娘だけれど」

「ええ、当然よレイヴン。そんなまなむすめと水入らず、最高の日だわ!」

「何を言うんだプリシラ、この子が生まれてきてくれてから、毎日が最高じゃないか!」

「そうね!」

 両親はいつも以上にわいわいとはしゃいでいる。私の右にお母様、左にお父様。いざという時、私を守れるように。……それは分かっているんだけど、両側から交互に褒め言葉が飛んでくるのはくすぐったい。

「ジゼル、乗馬は初めてだけれど大丈夫? 無理そうなら、ママと一緒に乗りましょう?」

 よたよたと角馬を歩かせている私に、お母様が朗らかに声をかけてきた。

「うん、ありがとう。まだ……だいじょうぶ」

 気遣いは嬉しかったし、母親と一緒に乗馬というのも楽しそうだと思った。でも今は、自分で馬を走らせるという喜びに浸っていたかった。この子供の体はたぶんすぐに疲れてしまうだろうから、帰りは二人に甘えよう。

 前世の私は、馬に乗ったことなんてなかった。そもそも、王宮から出ることすらめったになかった。草原を渡る風も、温かくしっかりとした馬の体の感触も、とても新鮮で気持ちいい。

 私はどうして、生まれ変わったのだろう。その疑問の答えは今でも出ていないけれど、この二度目の人生がとっても楽しいことだけは確かだった。優しい両親、平和な日々。魔法を使えるようになったし、こうして馬にも乗れた。

「う、わわっ!」

 感慨に浸っていたら、角馬がぶるりと体を震わせた。振り落とされそうになって、あわててしがみつく。

「ジゼル!」

「大丈夫か!?

 ぢぢいっ!

 たちまち左右から腕が伸びてきて私を支える。肩の上のルルが抗議するように鳴いた。

「……びっくりした」

 どうも角馬は、わざと私を振り落とそうとしたような……? 制約の魔法をかけていないから、そういうこともあるかもしれない。この子たち、普通の馬よりはずっと小さいから、うっかり落ちても大怪我はせずに済みそうだけど。

 そこからは、三頭をぴったりとくっつけるようにして、両親に支えられながら進んだ。緩い上り坂になっている草原を進み、やがて目的地にたどり着く。

 そこは馬車が数台、余裕を持って停められるくらいの草地になっていた。左手側は岩肌がむき出しになっている高い崖になっていて、右手側のずっと下には、海が広がっている。今までに何度も、両親に連れてきてもらったことがある場所だ。

 角馬から降りると、両親が草地の真ん中まで私の手を引いていった。そうしてあっという間に、ピクニックの準備を整えてしまう。

 お父様が敷物を広げ、崖のそばから拾ってきた石で四隅を押さえる。その間にお母様がお昼の入ったバスケットを広げ、食器を並べていた。

「さあどうぞ、私たちの可愛いお姫様」

「六歳のお誕生日、おめでとう。今日はあなたの大好物ばかりよ」

 そんな声をかけられながら、靴を脱いでいそいそと敷物に上がる。ぺたんと座り込んだ次の瞬間、両親は満面の笑みで次々と料理を勧めてきた。

「ほらジゼル、あなたの好きなレーズンのパンよ? バターも挟み込んでもらったの」

「育ち盛りだから、やっぱりお肉を食べないとな! ほら、お肉たっぷりのミートボールだ。一口で食べられるように、小さめに柔らかく作ってもらったんだよ」

 二人が差し出している料理以外も、全部私の好きなものばかり。何が好きなのか覚えていてくれたのも嬉しいし、私を喜ばせようと料理を考えてくれたことも嬉しい。

「ありがとう、パパ、ママ! いただきます!」

 それから三人で、和やかにお喋りしながら料理を平らげていった。ああ、すっごくおいしい。角馬たちは近くでのんびりと草をはんでいる。ルルはバスケットの中にもぐりこんで、食べられそうなものを物色している。やがて、ナッツのパンをひとかけら手にして出てきた。

 それにしても、おいしいなあ。幸せだなあ。にこにこしていたら、ふとあることを思いついた。

「パパ、あーんして?」

 フォークに刺したミートボールを、お父様の口元に差し出してみる。親子や恋人など、特に親しい間柄の人間には、こんな風に食べさせることがあるのだと、そんなことを聞いたことがあったのだ。もちろん、前世では縁がない行動だったけれど。

「む、娘に……あーんしてもらえた……我が人生、最良の日だよ……」

 しかしお父様の反応は、すさまじいものだった。ミートボールをぱくりと食べて、涙を流しながら感動している。両手を祈りの形に組み合わせて、天を仰いで。

「ああ、あなたばっかりずるいわ! ジゼル、次はママもお願い!」

 そうして今度はお母様に食べさせて、お返しに別の料理を食べさせてもらって。するとお父様が、さらに別の料理を食べさせてきて。

 気がつけば、みんなで大騒ぎしながら料理を食べさせ合っていた。何だかめちゃくちゃだけれど、とっても愉快だ。まねをしているのか、ルルが干しリンゴをよいしょと口の中に押し込んできた。それを嚙みながら、全身を揺らすようにして笑い転げた。

「あのね、パパ、ママ」

 笑い過ぎて涙がにじんだ目元を拭って、両親に呼びかける。

「わたしね、パパとママのこどもでよかった」

 六歳の子供らしくないかなと思ったけれど、今、伝えておきたかった。

「そうだね。君が私たちのところに生まれてきてくれてよかった。本当にありがとう、ジゼル」

「あなたが生まれてから、私たちは毎日が幸せいっぱいなのよ」

 すると両親は私をしっかりと抱きしめて、口々にそんな言葉を返してくる。両側からぎゅうぎゅうと押されてしまっているせいで表情は見えないけれど、二人ともちょっと涙ぐんでいるようにも思える。

 本当に二人とも、大げさだなあ。そう思いながらも、さらに大きな笑みが浮かぶのを感じていた。


 にぎやかな食事を終えて、一休みして。まだまだ帰るには早いので、もう少し遊んでいくことにする。草地の端のほうには、岩肌を削って作られた階段がある。そこを下っていくと、小さな砂浜に出られるのだ。

 とはいえ、今の私があの階段を自分で歩いていくのは怖い。ゆっくり一段ずつ、慎重に下りていかないと危ないから。いつもは、お父様に背負われていく。

 でもせっかくなので、また召喚魔法を使ってみることにした。ルルに見つけてもらったあの特別な木の棒を持って、くるりと大きく回しながら魔法陣を描いて。

「おお、何か出てきたぞ!」

「あら可愛い、ワシが歩いているわ」

 地面の近くに描かれた魔法陣からは、大きな青いワシが三羽出てきた。窮屈そうに身を縮めて、大きな足でよちよちと歩いて。どうせならさっそうと飛んで登場したかったのに、なんでこんなに狭いところを歩いて通らないといけないんだ。そう言いたそうな様子だった。

 少し離れたところから、角馬たちのいななきが聞こえる。気のせいか、ワシたちに同情しているような?

 狭くてごめんなさい、とひとまずワシたちに謝って、それから用件を伝える。どういう理屈なのかは判明していないけれど、召喚獣は召喚主の意思をある程度理解できる、らしい。でもルルを見ていると、召喚主以外の意思も理解しているような気がするのだけれど。よくお父様におやつをねだったり、お母様に耳の後ろをかいてもらったりしてるし。

 ともかく、ワシたちは私のお願いを聞いてくれた。私たちはワシの足につかまって、滑空するように降りていったのだ。ちょうどワシたちの足と握手しながら、ぶら下がっているような格好だ。

「すごいな、空を飛べるなんて! でもちょっと高いな……」

「大丈夫よレイヴン、落ちても下は海か砂浜よ! ふふっ、最高の気分!」

 どことなく腰の引けているお父様と、とっても楽しそうなお母様。そして私も、初めての体験にどきどきしていた。遥か足の下に広がる白い砂浜と、きらきら輝く青い海。それらが少しずつ近づいてきて、真下を見ると砂浜が……あれ、違うな、海?

 首をかしげたその時、いきなりワシたちがぱっと足を開いた。つかまっていた手が宙をかいて、体が落ちていって。見上げたワシたちの顔は、笑っているように思えた。

 ばしゃん。水しぶきを上げて、海に落ちた。ぎりぎり足が着くけれど、波がくるたびに、顔に水がかかって辛い。私の服の胸元にもぐり込んでいたルルが、飛び出してきて頭の上によじ登る。

「ジゼル、ルル、無事か!」

 すぐに、お父様が抱き上げてくれた。両親も、すぐ近くに落とされていたらしい。ルルはお父様の肩の上にぽんと跳んで避難すると、猛烈な勢いで毛づくろいを始めた。

「突然どうしたのかしら。召喚獣がこんないたずらをしたのは初めてね?」

 やはり頭からずぶ濡れのお母様が、前髪をかき上げながらざばざばと駆け寄ってくる。

 すると、砂浜に降り立ったワシたちが高らかに鳴いた。それに合わせるように、上の草地に残してきた角馬たちも盛んにいなないている。その声を聞いていたら、ぴんときた。

「……たぶん、しかえしされた」

「仕返しって、何の?」

「……まほうじんがちっちゃくって、通りにくかったから」

 そう言いながら砂浜のワシたちをにらみつけたら、ワシたちがまたにやりと笑った。間違いない。そういえば、角馬も私を振り落とそうとしていた。たぶん、あれもそうだ。

 なるほど、制約の魔法を使わないとこういうことになるのか。そう納得しつつも、やはりあの魔法は使いたくないなと、そうも思ってしまった。驚いたけれど、角馬もワシたちも、私たちに怪我をさせないよう手加減していたし、笑うワシなんてめったに見られない。

 ぢいぢいと抗議するようなルルの声を聞きながら、三人で砂浜に上がっていった。ワシたちは澄ました顔で、三羽並んでくつろいでいる。

「ふふ、意地悪なワシさんね。ジゼル、大きくなったら見返してあげなさい」

「そうだな。大人になったらうんと大きくて立派な魔法陣を描いて、ワシたちを驚かせてやればいいさ」

 両親はずぶ濡れのまま、そんなことを言っている。どうやら二人も、ワシたちのいたずらは水に流すことにしたらしい。

「大人のジゼル……きっと、とびきりの美女になっているんでしょうねえ」

「きっと、じゃないよ。間違いなく、だ。だって、今でもこんなに可愛いんだから」

「パパ、ママ、ほめすぎ……ちょっとはずかしいよ……」

 本当にこの二人は、私のこととなるとすぐ浮かれてしまう。普段はフィリス家の当主夫妻としてきちんと領地を治めているみたいなのだけれど、ちょっと信じられない。

 まあ、いいか。二人は私の大切な両親で、私は今とっても幸せなのだから。

 靴を脱ぎ捨てて、裸足はだしで波打ち際に駆けていく。心からの明るい笑い声を上げながら。