「女王を殺せ!」

「あの女を処刑しろ!」

 処刑台に縛りつけられた私を取り囲んで、民たちは叫んでいた。熱に浮かされたような声で、高らかに。どことなく、嬉しそうに。


 私は、げつの王国の女王だった。つい、この間までは。

 そもそもの始まりは、父王がおかしな妄想に取りつかれたことだった。父王は、周囲の国が攻めてくるのだと、自分の命を狙っているのだとことあるごとに口にするようになった。

 のみならず父王は、国の守りを固めるために防壁や砦を山ほど作り、兵士を補充するために過酷な徴兵を続けた。その結果、この湖月の王国はあっという間に傾き、民の間には怨嗟の声が満ちるようになってしまった。私がいくら進言しても、父王は聞き入れてはくれなかった。

 しかしそんな状況は、ある日突然急変した。父王が、眠ったまま息を引き取ったのだ。そうして私が、新たな女王となった。

 それからというもの、私はひたすらに頑張り続けていた。傾いた国を立て直し、民が安らかに過ごせる日々を取り戻すため。自分のことは二の次にして、七年もの間、必死に。


 けれど、私のそんな思いは何一つ民たちに届いていなかった。私の苦悩は、全て無駄だった。

 どうやって示し合わせたのか、各地の民たちがゆるやかに、密かに王都に集まっていた。そうして彼らは、一斉に蜂起したのだ。内乱、だった。

 徴兵により苦しんだ民を解放するために、私は最低限の兵士しか残していなかった。そうやって守りが薄くなった王宮に、民たちは攻めてきたのだ。

 あまりにもあっけなく捕らえられた私に、民たちは非難の声を叩きつける。

「重い税を取り立てやがって、俺たちが飢えて死ねばいいと思ってたんだろ!」

 違う。父王の頃よりも、税は下げた。ほんの少しではあるけれど。それに私は取り立てた税を、より貧しい人々を救うために使ったのだ。一人でも多くの民が飢えずに済むよう、生き延びられるよう、必死に配分を考えて。

「厳しい法をいくつも定めて、俺たちを苦しめて楽しんでやがった!」

 それも違う。私は父王が好き勝手に作った法を廃して、まともな法を定めただけで。

「あげく、たくさんの人間を処刑して……血も涙もない女だ!」

 違う、違う! この国が傾いたせいで、悪だくみをする者がはびこってしまっていた。私は法にのっとって、そういった人間を処罰しただけなのに!

「お願い、話を聞いて……! あなたたちは、勘違いしているの! この七年、少しずつだけれどこの国はよくなってきた、そうでしょう!?

 必死に訴えたけれど、彼らは顔をしかめたまま鼻で笑うだけだった。何度叫んでも、民たちは私の言葉に耳を傾けようとはしなかった。

 そうして、地下牢に放り込まれる。数少ない大臣たちも騎士たちも、周囲にはいない。今ここに捕らえられているのは、どうやら私一人のようだった。もしかしたら、彼らは陥落しつつあった王宮から逃げ切ることができたのかもしれない。それは喜ばしいことだけれど、同時に、寂しくてたまらなかった。誰も、私のそばにはいてくれない。助けてくれない。あんなに頑張ったのに、何も、誰も残らなかった。

 薄暗い地下牢で、声を殺して泣いて。そうして、あきらめた。もう、どうでもいい。もう、何もかもに疲れてしまった。こんな下らない人生、終わってしまえばいい。

 民の歓声に満ちた処刑台に連れていかれる間、私は少しも抵抗しなかった。

 処刑人の刃が風を切るひゅんという音を聞きながら、私はそっと絶望の笑みを浮かべた。



 あうー。

 そんな間の抜けた声を聞きながら、記憶をたどる。私はあの時、確かに死んだ。首に感じたあのおぞましい衝撃も、まだはっきりと覚えている。

 あうあー、うあー。

 なのに気がついたら、私は柔らかな寝台に寝ころんでいた。知らない天蓋がぼんやりと見えている。色とりどりの装飾がされていて、中々に豪華だ。おそらくここは、貴族の屋敷の一室だろうか。

 訳の分からない事態に混乱し、ひとまず立ち上がろうとして。

 ううー。

 動けなかった。手足を動かしてもがくのが精いっぱいだった。さらにもがいていたら、ぼやけた視界の端にちっちゃな手が見えた。私の手であるはずのそれは、見知ったものとはまるで違っていた。とても小さくて柔らかで、傷一つなくて……これ、赤ちゃんの手だわ。

 その時、気がついた。さっきから聞こえている間の抜けた声もまた、赤ちゃんのものだということに。どういうこと、とつぶやこうとしたら、うあうーという声が漏れた。……信じたくないけれど、これ、私の声みたいね。

 もしかして私、赤ちゃんになっているの? まさか、そんなはずが。

 呆然としていたら、部屋の扉がそっと開いた。続いて、人影が二つ入ってくる。その二人は私のすぐそばまでやってきて、幸せそうに笑った。

「プリシラ、ジゼルが目覚めたよ。私たちを見ているね」

「まあ、本当。とっても可愛いわねえ、レイヴン」

「できることなら、一日中でも眺めていたいよ」

 私を囲んでそんなことを言い合っているのは、若い男女だった。金の髪を短く整えた、おっとりとした茶色の目の男性がレイヴンで、明るい茶色の髪を編み込んで、生き生きとした紫の目で私を見つめている女性がプリシラだろう。

「ほーらジゼル、パパでちゅよー。あっ、こっちを見たよ!」

「あなたばっかりずるいわ! ジゼル、ママもいるでちゅよー」

 そうして二人は、てんでにそんなことを呼びかけてくる。どうやらこの赤ちゃんの私は、ジゼルというらしい。女王だった私の名前とは、まるで違う。

 生まれ変わり、というのを聞いたことがある。一度死んだ者が、その記憶を残したまま新しい人間として生まれてくるという、そんな現象だ。私もそうやって生まれ変わったのだと考えれば、つじつまは合う。今の私はジゼル、レイヴンとプリシラの娘。

 そこまでは、どうにか納得できた。というか、無理やり納得した。それはそうとして。

 お父様、お母様。その赤ちゃん言葉は止めてください。恥ずかしいです。

 一生懸命、そう主張してみる。けれど当然ながら、私の口をついて出るのはあうあーという声だけで。

「まあ、今この子私たちに話しかけてきたわ。どうちたのジゼル、もっとお喋りちまちょう?」

 少しでも意思を伝えられないかと、声を上げたり手を振ったりしてみる。しかし私がそうやって頑張るたび、両親の顔がどんどん緩んでいく。この上なく嬉しそうだ。

「ああ、ジゼルが返事をしているよ。この子は賢いなあ。将来は学者かな、皇妃かな」

「魔導士になるかもしれないわね。こんなにちっちゃいのにとても利発そうで、ちょっと謎めいた雰囲気で……」

「私も同感だ。けれどこの子が将来どんな道を選んでも、全力で応援してあげよう。そうだろう、プリシラ」

「もちろんよ、レイヴン」

 相変わらず甘ったるい両親の声に耳を傾けながら、また考え込む。『皇妃』というからには、ここは前世の私が暮らしていた湖月の王国ではない。そんな呼び方をするのは、皇帝が治める帝国だけだ。

 ……そういえば、湖月の王国の隣に帝国があった。もしかすると、そこに生まれ変わったのかな。両親に尋ねることができれば、すぐに分かるのだけれど……またちょっと無理みたい。もうちょっと大きくなったらあちこち調べて回れるから、それまで辛抱しよう。

 もう一つ、気になる言葉があった。どうやら、この帝国では魔導士と呼ばれる存在がいるらしい。魔法についても、広く知られているようだった。……そのうち、魔法を実際に見られるかも。

 湖月の王国の人々は、魔法について何も知らないも同然だった。よその国には、魔法を使う人間がいるらしい。そんな不確かな噂だけが、ひっそりと語り継がれていただけで。

 そして前世の私は、密かに魔法に憧れていた。いつか国を立て直すことに成功したら、周囲の国との国交を深め、魔法について知りたい。できることなら、この目で見てみたい。そんな、ささやかな夢を抱いていた。結局その夢は、かなうことはなかったけれど。

 そうやってあれこれ考えていたら、ふと気づいた。女王だった私は死んだ。今の私は、ただの貴族の子供だ。優しい両親に守られた、ちっちゃな赤子。

 ……そうか、私、自由なんだ。もう、傾いた国のために必死に働かなくてもいいんだ。

 だったら今度こそ、自分の好きなように生きよう。何一つ報われなかった前世の分も、やりたいことをやるんだ。前世のことなんて、全部忘れて!

 子供らしく、たっぷりと遊んでみようかな。それに、魔法についても知りたい。あと、友人を作ってみたい。もしかしたら、恋だってできるかも。どれもこれも、前世では無縁のものだった。

「あうー!」

 ちっちゃく柔らかなこぶしを突き上げて、元気よく叫ぶ。これが私の決意表明だ。今度こそ、幸せになってやる!

 そんな私を見て、両親は手を取り合って笑み崩れていた。


 とはいえ、私はやっぱり赤ちゃんなので。

 眠い。とにかく眠い。食事とかそういったことの不便さには目をつぶるとしても、このものすごい眠気だけはどうしようもない。

 体もまだ育っていないから、立つこともできない。おまけに周囲の風景が、全部ぼやけて見える。これではどうしようもない。なのでうとうとと眠りつつ、時間が過ぎるのをひたすら待つことにした。

「ジゼル、今はおねむかな?」

「お顔を見せてくだちゃいねえ」

 今日も今日とてぼんやりしていたら、そんなひそひそ声が聞こえてきた。私を起こさないように気遣っているものの、とても浮かれた両親の声だ。よし、来た。

 甘い甘い赤ちゃん言葉にさえ慣れてしまえば、二人のお喋りを聞いているのは割と楽しい。

 目を開けて寝返りを打ち、とびっきりの笑みを両親に向ける。さあ、今日は何の話を聞けるかな。

「起きちゃったの、ジゼル。あらあ、いい笑顔でちゅねえ」

「ああ……天使のほほみだ!!

 そうやってひとしきり私のことを褒めそやして、両親は私の頭をなでる。

「髪が伸びてきたわね。柔らかくてふわふわで、夕焼けの雲みたいで……」

「若葉色の目と、よく合っているね」

「また、この子の肖像画を描かせましょう。こないだの絵師はいい腕をしていたから」

「そうだね。その時々のジゼルの愛らしさを、しっかりと残しておかなくては!」

 二人の言葉に、首をかしげる。夕焼け色の髪に若葉色の目、それは前世の私と同じだ。そしてその色は、両親どちらにも全く似ていない。もっとも二人は、そのことを少しも気にしていないようだけど。

 それはそうとして、せっかくだから二人をもうちょっと喜ばせてみようと思う。いつも可愛がってもらっているから、たまにはお返しだ。

 ころんと寝返りを打って、そのままうつ伏せになる。それから両手を使ってふんばって……できた! 座れた! こっそり練習してはいたけれど、うまくいってよかった。

「きゃあー!! 座ったわっ!!

「ジゼル、素敵だよ!!

 そして二人は、予想通り……いや、予想よりもずっと激しく喜んでいた。歓声を上げながら手を取り合って、ぴょんぴょん跳ねている。大げさだなあと思いながらも、嫌ではなかった。ううん、嬉しかった。


 それから私は、積極的に動き回るようになっていた。ずっと寝台の上というのも退屈なので、早く歩けるようになろうと思ったのだ。そもそも私は普通の赤ちゃんと違って、立ち方や歩き方は知っている。だから必要なのは、筋力だ。

 まずは、はいはいで筋肉を鍛えることにした。子供用の寝台の上をせっせと這っていたら、両親が別の子供部屋まで運んでくれた。靴での立ち入りが禁止された、柔らかいじゅうたんがびっしりと敷かれた特別な部屋だ。

 寝台の上より動きやすいし、転んでも怪我をすることはない。私は喜び勇んで、子供部屋で鍛錬し続けた。はいはい、つかまり立ち、つたい歩き、一人歩き。そんな私の成長を、両親はいつも大はしゃぎで見守ってくれた。

 あっという間に、私は三歳になっていた。まだ時々転ぶけれど、好きなところに歩いていける。食事も、大人と同じものが食べられる。まだちょっと舌が回らなくて幼稚な口調になってしまうけれど、そこは気にしない。

 そうやって成長していく私を、両親はさらに愛してくれた。それこそ、目に入れても痛くないくらいに。

 子供部屋には、たくさんのおもちゃが並んでいた。職人の手による、おもちゃというより美術品のようなぬいぐるみや積み木、それに美しい絵本の数々。両親はおもちゃを使って一緒に遊んでくれたし、絵本も読んでくれた。

 ……こんな風に親と過ごしたのは、初めてだ。

 前世の私の母は、私が幼い頃に亡くなった。そして前世の私の父は、ずっと私のことをほったらかしにしていた。周囲の国が攻めてくるという妄想に取りつかれてからは、ひたすら自分の身を守ることしか考えていなかった。愛情なんて、一度も注いでもらえなかった。

 そんなことを思い出してしまって、気分がずんと重くなる。くまのぬいぐるみを笑顔で振っていたお父様が、おろおろしながら私の顔をのぞき込んできた。

「どうしたんだいジゼル、この遊びに飽きたのかな? それとも、お腹が痛いのかな?」

「……だいじょうぶ」

 そう短く答えて、お父様の首にすがりつく。背中をとんとんと叩いてくれる大きな手の感触に、ちょっぴり泣きそうになってしまった。この人たちの子供に生まれてきてよかったなと、そんな思いを嚙みしめながら。



 そうしてのどかに過ごしていたある日、私はついにかねてからの計画を実行に移すことを決めた。身動きできない赤ちゃんだった頃からずっと温めていた、そんな計画だ。

 昨日お母様が贈ってくれた可愛い子供服を着て、とことこと廊下を歩く。満面に笑みを浮かべた両親がすぐ後ろをついてきているけれど、いつものことなので気にしない。

 ……こうして動き回るようになって気づいたのだけれど、両親はしょっちゅう私のところに顔を出している。というか、入り浸っている。

 貴族の子供の子守りは、普通乳母の仕事だと思う。お父様はここフィリス伯爵家の当主で、お母様は伯爵夫人。執務もあれこれとあるはずなのだけど、子供にばかり構っていて大丈夫なのかな。

「ああ、やっぱりよく似合うわ、新しい子供服……」

「君の見立ては完璧だよ、プリシラ。腰のリボンの色なんか、特に……」

 うっとりとした声を背中で聞きながら、小さな足を動かしてせっせと歩く。すると、通りすがりのメイドが足を止めて微笑みかけてきた。さらにもう少し進んだら、今度は執事と出くわした。彼も目元にしわが寄るくらいはっきりと笑って、私たちに会釈してきた。

 ……この屋敷、使用人たちものんびりとしている。前世の王宮では、みな疲れた顔をしていたのに。やっぱり、ここは平和なんだろうな。

 安堵と少しの寂しさを覚えつつ、書斎の扉の前で足を止める。まだ歩けない頃から、両親が私を抱っこしてあちこち散歩させてくれていたので、屋敷の間取りはもう頭に入っている。

 本当はもっと早くここに来たかったのだけれど、子供の未成熟な目では大人向けの本を読むのは難しそうだった。なので仕方なく、見送っていたのだ。でも、今なら。

「ここ、あけて。はいりたい」

 振り返って、両親にそう頼む。本当なら「この扉を開けてくれませんか」くらいは言いたい。ただ、まだ舌がよく回らないのだ。それに、ごく普通の幼児はそんなことを言わないし。なので開き直って、しばらくの間は子供らしい話し方をすることにしたのだ。

 重厚な扉の取っ手は私の背丈より上にあって、うんと手を伸ばしても取っ手に触れるのがやっとだ。どうやっても、自分では開けられない。

 すると、さっとお父様が扉に歩み寄り、細心の注意を払いながら扉を開けてくれた。

「ぱぱ、ありがとう」

 きちんとお礼を言ってから部屋に入り、辺りを見渡す。そびえ立つような大きな本棚が、四方の壁際にびっしりと並べられている。私の体が小さいということもあって、かなりの迫力だ。

 そこに収められているのは、どっしりとした革の表紙に、金文字で題が記された大きな本だ。本自体、決して安いものではないけれど、これは一目で高級品と分かるしろものだった。

 ……私が生まれ変わったこのフィリス家は伯爵家、貴族の位としては中くらい。でも、最初に寝かされていた子供用の寝台も、私のためだけの子供部屋も、おもちゃや子供服も、みんなとても贅沢なものだった。正直、前世のほうが質素な暮らしをしていたくらい。

 この家が特に裕福なのか、それともこの帝国そのものが裕福なのか。ともかく、これだけ本があるのなら、目的のものも見つかるかも。

 手近な本棚に歩み寄り、本の背表紙を見てみる。『すいよくの帝国、その歴史』『帝国領、及び近隣諸国の領地変遷について』などという文言が目に飛び込んできた。

 この帝国は、どうやら翠翼の帝国と言うらしい。その名前には聞き覚えがあった。前世で暮らしていた湖月の王国の東隣に、そんな名前の国があったのだ。一度だけ、視察の使者がやってきた覚えがある。

 私、思ったより近くに生まれ変わったみたい。……あの王国は、今どうなっているのだろう。この本に、書かれているかな。

 ふとそんなことを考えて、大きな本に手を伸ばし……そうになって止まる。

 耳の奥に、あの日の声がこだました。ぼろぼろの農具や斧などを振りかざして、王宮に攻め寄せてきた民たちの叫び声。あの民たちはまだ、今もあの王国で暮らしているのだろうか。

 手をぎゅっと握りしめて、立ち尽くす。

「あらあらどうしたの、泣きそうなの?」

 お母様がそう言って、私の隣に膝をついた。両腕を差し伸べて、しっかりと抱きしめてくれる。その温もりと甘い香りに、ほっと息を吐いた。

 今の私には、優しい両親がいる。前世のことなんて、もう気にしない。考えない。新しい人生を目いっぱい幸せに生きるって、そう決めたんだから。

「まま、だっこして。うえ、みたいの」

 気を取り直して、お母様にお願いする。下のほうの本、歴史とか地理とかの本については、しばらく無視しよう。それより、今日はどうしても探したいものがあるのだ。そのために、わざわざここまで来たのだし。

「もちろんよ。ジゼルはご本に興味があるのねえ」

 にこにこしているお母様に抱え上げられて、今度は上のほうの本をじっと見ていく。『地方の伝承』『気候が服飾に与える影響について』……ここでもないか。

「まま、まほうのごほん、ないの?」

 ここには、うなるほど本がある。この小さな体で一つ一つ確認していてはらちが明かない。お母様に尋ねると、彼女は興味深そうに目を見張って、別の書棚に連れていってくれた。

「もちろんあるわ。私たちは魔法を使えないけれど、魔法について知っておくのは、大切な教養なのよ」

「魔法が使える者は、魔導士として皇帝陛下にお仕えすることができるんだよ。それは我が帝国の者にとって、とても光栄なことなんだ」

 お父様も近づいてきて、二冊の本を取り出した。片方は可愛い絵本で、もう片方は飾り気のかけらもない本だった。それぞれ『まほうについて知ろう』『初学者のための、基礎から学ぶ魔法』と書かれている。あ、それ、読みたい! 二冊目のほう!

 身を乗り出して手を伸ばし、気になったほうの本の端っこをしっかりとつかむ。

「おや、こちらが読みたいのかい? これは、もっと大きな子のための本だけれど……それこそ、学園の高等科に入ってから……」

「いいじゃない。ジゼルはその本が読みたくてたまらないみたいよ。二冊とも、子供部屋に持っていきましょう」

「うん、よみたい! ぱぱ、おねがい!」

 にっこり笑っておねだりしたら、お父様が笑み崩れた。というか、でれでれしている。

「そうか、よしよし、それじゃあパパが読んであげるからな!」

 浮かれた様子の両親に連れられて、書斎を後にする。そのまま子供部屋に戻り、私用のちっちゃな椅子に腰かけた。すぐにお母様が子供用の机を運んできて、お父様が絵本を広げる。

「それでは、こちらの絵本を読もうか……え、やっぱりそっちなのかい?」

「えほん、ひとりでよめるの。だから、こっちをよんで」

 胸を張って、難しいほうの魔法の本に触れる。お父様はふふっと笑い、本を開いた。

「『本書は、魔法について学び始める者の助けとするために、時の魔導士長の命においてじようされることとなったものである……』……ジゼル、分かるかい?」

「レイヴン、この子ったらとても真剣な顔で本を見つめているわ。このまま続けましょう」

 戸惑いがちのお父様に、乗り気のお母様。そして私は、目の前の本に釘付けになっていた。

 なるほど、この魔法の本は小さな子供にはちんぷんかんぷんな代物だ。でも私なら自力で問題なく読めるし、たぶん理解できる。でも、こうやって本を読んでもらうのは好きだった。前世では一度も体験したことのない、そんな時間だから。

 両親が交互に本を読み上げてくれる声に聞き入りながら、魔法についての知識を頭に叩き込んでいった。ああ、幸せだなあと、そんなことを思いながら。



 何度も両親に付き合ってもらって魔法の本を読み、両親がいない時は自分一人でじっくり読み。そうして一冊きっちりと読み切ることで、何となく魔法について把握することができた。ちなみに、絵本のほうもちゃんと読んだ。意外と面白かった。

 魔法を使うには、素質が必要だ。しかしその素質があるかどうかは、一度魔法を学んで、魔法を使う練習をしてみないと分からない。素質があれば魔法が発動し、なければ発動しない。それだけ。何だか効率が悪いなと、そう思わなくもない。

 そして魔法は、大きく二種に分けられる。詠唱により自然そのものを操る属性魔法と、魔法陣を描くことで異なる世界の生き物を呼び出す召喚魔法だ。そして私は、属性魔法の基礎理論も、召喚魔法の魔法陣の描き方も覚えた。あとは試してみるだけ。

 子供部屋で一人、魔法の本を読み返しながらちらちらと窓の外に目をやる。太陽があの木の枝にかかったから……うん、そろそろかな。

 この部屋にほぼ入り浸っている両親だけれど、さすがに最低限の執務はちゃんとこなしているらしい。毎日この時間だけは、ここにやってくることはない。

 とはいえ、私はまだ三歳の子供だ。普通なら、乳母か誰かに見張らせておくだろう。しかし私は、「ひとりでごほん、よむの。ぱぱとまま、まってる」と主張して、無事に一人の時間を勝ち取っていた。普段はとてもいい子にしているから、両親もすんなりと私のわがままを聞き入れてくれたのだった。

 でも今は、ちょっとだけ悪い子になる。注意深く入り口の扉を開けてきょろきょろし、誰もいないのを確認する。よし、今だ。

 大急ぎで靴を履き、魔法の本をしっかりと抱えて、裏庭に向かって大急ぎで走っていった。


 裏庭の、一番奥まった一角。背の高い木々がまばらに生えたその間に、小さな空き地のようになっている場所がある。

 これから私は、いよいよ魔法を使う練習をするのだ。両親がいると集中できそうにないので、こうしてこっそりと。すぐそばの木の根元に魔法の本をそっと置いて、空き地の中心まで歩いていった。

 まずは、属性魔法から。意識を集中して、魔力の流れを意識して……。

「エクサウディ・ヴォーチェム・メアム」

 これが、最初の詠唱。この言葉で、周囲の自然に呼びかける。……詠唱の文言を覚えることよりも、きちんと発音できるように練習することのほうが大変だった。

 次の言葉で、もっと具体的な指示を出す。

「イニス・ナッシ!」

 えっと、何も起こらない。成功すれば、火花が散ったり火の玉が浮かんだりするらしいのだけれど。気を取り直して、次。

「アークア・コリジーテ!」

 ……やっぱり、何も起こらない。こう、水が現れるはずなんだけど。辺りを見渡してみたけれど、地面はからっからに乾いたままだ。

 私、どうやら属性魔法の素質はないみたい。しっかりと練習したら、才能が開花する……なんてことも、たまにあるらしいけれど。

 仕方ない、今度は召喚魔法を試してみよう。でも召喚魔法のほうが難しいという話だし、素質を持っている人間はさらに少ないとのこと。だから駄目でもともと、気軽な気分で。

 木の下に落ちていた小枝を拾って、柔らかい土がむき出しになったところまで歩いていった。地面に膝をついて、小枝をしっかりとにぎりしめる。ちょっぴりわくわくしながら、地面に小枝を突き立てた。

 まずは大きく丸を描く。これが、魔法陣の外枠になる。その中に、さらにあれこれと線を描き込んでいくのだ。たくさんある異世界の中から一つを指定して、その世界とこの世界をつなぐ。それが、魔法陣の基本の役割。

 でも細かいことはよく分からないので、本に紹介されていた初心者向けの魔法陣をそのまま描いてみることにした。円の内側に接するように多角形を描いて、さらにその中につる草のような模様を付け加えていって……。

「む、むずかしい……」

 魔法陣の形は完璧に覚えているけれど、いざ描くとなったら中々うまくいかない。円はいびつになるし、多角形は妙に偏った形になるし。

 描き損じては足で消し、また描いて。そんなことを何回か繰り返したところで、ようやく納得のいくものができあがった。そこで、ふと手を止める。

 今地面に描かれている魔法陣は、実はもう完成と言えなくもない。召喚獣を呼ぶだけなら、これで十分なのだ。特定の種類の召喚獣を呼びたい、などの追加の効果を持たせる時は、この上からさらに追加で魔法を描き足していけばいい。

 ……そういった追加の魔法の中に、必須とされているものがある。『制約の魔法』と呼ばれるもので、召喚獣を召喚主の命令に従わせるという効果があるのだ。

 命令に従わせる。魔法の本を初めて読んだ時から、その言葉がずっと引っかかっていた。

 召喚獣は人ではなく、獣だ。けれどそれでも、無理やり言うことを聞かせるのは嫌だった。強くそう感じてしまうのは、ただ父王に振り回され、仕方がなく女王になり、それでも守ろうとした民に殺された、そんな前世の記憶のせいなのかもしれない。

「……たぶんしっぱいするし、いいよね」

 制約の魔法を描き足さずに、召喚獣を呼び出してしまったら。その召喚獣は暴走して、人に害をなすかもしれない。あの魔法の本には、そんなことも書かれていた。

 でも、今目の前にあるのは私の手のひらくらいの大きさの、ちっちゃなちっちゃな魔法陣だ。召喚獣は魔法陣をくぐり抜けてこっちの世界にやってくるから、こんなに小さな魔法陣で呼べるのはやはり小さな召喚獣だけだ。せいぜい、子猫くらい。

 子猫が暴れても、別に危なくないよね。もう一度自分に言い訳をして、魔法陣に手をかざして意識を集中した。そのまま、魔力を注ぐ……。

 けれど魔法陣は、静まり返ったままだった。残念な気持ちとほっとした思いを抱え、手を下ろしたその時。

 ふわっと、地面に描かれた魔法陣が光りだした。とても優しい光だなと、そんなことを思う。

 って、そうじゃなくて。危ないものが出てきたらどうしよう!?

 おろおろしている私の目の前で、魔法陣の中から小さな塊がぽいんと跳ね出てくる。

 最初、バッタか何かが出てきたのかと思った。でもバッタにしては大きくて、丸くて、ふわふわだ。

「あ……かわいい……」

 それは砂色の毛皮の、ネズミのような生き物だった。体は丸っこくて、後ろ足がネズミにしては大きい。長い尻尾は、体と同じ色の毛に覆われていた。黒い目はちょっと小さめで、くりくりしていて可愛い。

 そして何より目を引くのは、その大きな耳。ウサギそっくりで、ぱたぱたとよく動いている。

 とっても可愛い。触りたい。でも、触っていいのかな。制約の魔法をかけていたら、触らせてもらえたかもしれないけど。

「わ、ひゃあ!」

 立ち尽くしていたら、その何かがこっちに向かって跳ねた。体は小さいのに、驚くくらい高く跳ぶ。そうして私の頭の上に、ぽすんと着地した。

 うわあ。軽い。温かい。その感触に感動していると、その何か……ウサギみたいなネズミだから、ウサネズミでいいのかな……がずるりと額のほうに滑り落ちてきた。

 とっさに両手を出して、ウサネズミを受け止める。

「ふわふわ……かわいい……」

 ウサネズミは私の両手にすっぽりと収まって、まっすぐにこちらを見つめていた。ひこひこと動き続けている鼻も、その周囲にぱらぱらと生えているひげも、全部しっかりと見えるくらい近くで、ウサネズミはくつろいでいた。

 そろそろとなでてみて、それから頰ずりしてみた。それでもウサネズミは抵抗しない。目を細めて、気持ちよさそうな顔をしている。

 魔法が使えたという喜びと、ウサネズミの猛烈な可愛らしさに圧倒されて、しばらくそのままうっとりとする。しかし少しして、ふと我に返った。

 両親に見つかる前に、この子を異世界に帰しておいたほうがいい。でないとあの二人は、これでもかってくらいに驚いて、大喜びしそうだから。喜んでもらえるのは嬉しいんだけど、それ以上に照れくさい。私が召喚魔法に成功したことは、もうちょっとだけ秘密にしておきたい。