特別書き下ろしショートストーリー アレクサンダー
王宮を出た馬車は、ゆっくりと静かな郊外へと進んでいた。その行先は、シュトルツ家の領地であるジュール。
ジュールには壮大な活火山が聳え立っていて、その恩恵を受けて湧き出る温泉で、観光業も盛んだ。その大地は代々火魔法を操る家系であるシュトルツ家の誇りであり、ルーツでもある。
フェルディナンド、メリアン、ルカ、リリスを乗せた馬車の周りは、第二王子付きの騎士団が各自乗った馬が並列している。
馬車の窓からは草木の香りが風に乗って流れ込む。子供たちは窓に顔を近づけ、懐かしそうにはしゃいでいた。
そんな子供たちの様子を微笑みながら見守っているメリアンの横で、フェルディナンドも子供たち同様外を眺めていたが、皆とは少し違う趣だ。
先日メリアン発見の知らせを聞いたメリアンの父、シュトルツ公爵には王宮で会った。しかし今回、シュトルツ家の他の者とは久しぶりに顔を合わせる。
その中でも特にメリアンの兄との再会には多少の緊張が伴っていた。
馬車がシュトルツ家の領地にある公爵の敷地に入ると、広大な庭と荘厳な屋敷が目の前に広がった。
屋敷の門が開くと、シュトルツ家の人々やその家臣たちが敬意を込めて迎え入れる姿が見える。
騎士団長のエリオットに手を添えられ、フェルディナンドとメリアン、そしてふたりの子供たちが彼らの前で馬車から降り立つ。
「おかえり、メリアン!」
我が先にとメリアンに駆け寄り、彼女を強く抱きしめる男がいた。
それは何を隠そうメリアンの五歳年上の兄であるアレクサンダーだ。
メリアンと同じ赤髪の青年は、火魔法の使い手としても名高い。
メリアンも嬉しそうに笑いながら「兄さん!」と、アレクサンダーの背中をさする。
その光景を目にしたフェルディナンドは一瞬眉を顰めたが、すぐに表情を整える。だが、どこか面白くない。
シュトルツ公爵家の長男・アレクサンダーは、次期当主として王都での評判は高く、魔法だけではなく剣術の腕前にも定評がある。
だが、アレクサンダーが本当に注目を集めていたのは、その異常ともいえるほどのメリアンへの溺愛ぶりだった。
それは貴族だけではなく、王族であるフェルディナンドの耳にも入っていた。
メリアンが貴族の集まりに参加するたびアレクサンダーは妹に付き添い、周囲の男が少し一ミリでも近づこうものなら、たとえ王族であっても厳しく睨みつけた。そして彼らの身元や家柄を逐一確認していたという。
またフェルディナンドとの婚約話の際も、シュトルツ公爵家にとっては大変名誉なことだったが「まだ早い」と唯一反対したらしい。
フェルディナンドが、それが単なる噂ではなく事実であることを直接知ったのは十七歳の時だった。
メリアンとの婚約後、王宮で行われた貴族間の剣術の大会の決勝戦でアレクサンダーと剣を交えた日だ。
アレクサンダーはさすが剣術の腕を評価されているだけあり、その動きは速く、力強く、それでいて無駄がなかった。一手一手が的確で、フェルディナンドは防御に回るのが精一杯だった。
試合は激しさを増していくが、やがてアレクサンダーの一撃がフェルディナンドの剣を弾き飛ばし、試合は終わった。
汗を拭いながら立ち上がるフェルディナンドを見下ろして、アレクサンダーが低く呟いた言葉が今でも忘れられない。
『王子様でもこの程度ですか。メリアンを任せるには頼りないですな』
そしてさらに追い打ちをかけるように、アレクサンダーは付け加えた。
『まあ、安心してください。私が傍にいる限りメリアンに何か起こることはないので』
その微笑みには絶対的な自信が宿り、兄としての威厳と守護者としての意志をはっきりと示していた。
その余裕ある態度に、フェルディナンドは内心反発を覚えながらも、自分の未熟さを痛感し、悔しさを噛み締めるしかなかった。
(いつか、この男に認めさせてみせる――必ず)
フェルディナンドは唇を引き結び、アレクサンダーを睨むように見据えた。
アレクサンダーという存在を、義兄となるかもしれない男としてだけでなく、自分が越えるべき大きな壁として強く意識した瞬間だった。
しかし、アレクサンダーに認めさせる前に、メリアンと愛を誓い合い、既に婚姻の準備を進める段階に至っていた。
ましてやもう子供もいる。そんな順序が前後した状況だが、フェルディナンドは婚姻の報告を直接伝えるため、今回シュトルツ家を訪れたのだった。
アレクサンダーはメリアンとの抱擁を終えると、隣に控えていたルカとリリスに目を向けた。彼らの存在に気づいた途端、アレクサンダーは柔らかな表情で膝をつき、ふたりと視線を合わせる。
「君たちが私の愛らしくキュートな甥っこと姪っこだね?」
子供たちはテンションが高い大人に圧倒されたような様子で戸惑っていた。
「ふふ、怖がらないで。私は君たちのおじさまだよ。君たちのとっても美しくてアメージングなおかあさまのお兄さまだ」
満点の笑顔でふたりを見つめるアレクサンダーをびっくりした顔で見つめ返す。
「じゃあ、たくさんあそんでくれる?」
ルカは不安そうに聞くと、リリスも続けて首を傾げた。
アレクサンダーはその反応を見て悶絶した。
「うぅ……可愛すぎる! たくさん遊ぼう! 屋敷の中でも、外でも! どこでもだ! おじさまが君たちのためにとっても楽しくてワンダフルな時間を作ってあげるからね!」
その熱烈な態度にルカとリリスは驚きながらも、顔を見合わせて「やった!」と声を揃えた。
メリアンはそんな兄の様子に、少し困ったように苦笑いを浮かべながら肩を竦める。
「もう、お兄様ったら。少し落ち着いてください」
その瞬間フェルディナンドの後ろに立っていたエリオットが控えめに咳払いをした。するとアレクサンダーは「はっ」と我に返り、浮かれていた自分の態度に気づく。
「そうだったな」
彼は低く呟くと、気持ちを切り替えるように背筋を伸ばし、フェルディナンドの前で跪いた。
その表情にはまだ何かに納得していない様子が残っていたが、シュトルツ家の長男としての品位を保とうとする努力は見て取れる。
「ご無沙汰しております、王子殿下」
やや渋々ながらも、アレクサンダーはフェルディナンドに向かって堅苦しく挨拶をした。
フェルディナンドはアレクサンダーを見下ろし、顔を引き締めた。
「相変わらず元気そうだな、アレクサンダー」
どこか探るような響きに、アレクサンダーは「はい、おかげさまで」と形式的に応じる。その時にふいに見せたフェルディナンドに敵対するような一瞬の視線を、王子は感じ取っていた。
一行がシュトルツ公爵や他の家族との挨拶を終えた後、メリアンは子供たちがウトウトし始めたことに気づき、彼らを寝かせるために寝室へと向かった。
王宮とは違い完全にアウェイな状況で暇を持て余すフェルディナンドに、アレクサンダーは屋敷を案内したいと誘った。
フェルディナンドは少々警戒しながらも、エリオットを引き連れアレクサンダーの誘いに乗ることにした。
「それでは、王子、こちらからご案内を」
アレクサンダーはひと部屋ひと部屋、詳細に屋敷を案内した。
豪華な絵画が飾られた食堂、温かな光が差し込む図書室、広々とした客間……随所で屋敷の歴史や装飾の由来を説明し、フェルディナンドも、その後に控えていたエリオットもその話に耳を傾けた。
そしてようやく屋敷の最も奥に位置する武道場に到着した。
アレクサンダーはその大きな扉を開けると、内部に広がる剣術の練習場に目をやり、満足げに笑みを浮かべた。
「こちらが当家の武道場です」
広いスペースには木製の練習用の剣や防具、いくつかの木の盾が整然と並べられており、森林を彷彿させる香りが漂っている。室内の明かりは窓から差し込む日光だけで、静けさの中に威圧感を漂わせていた。
「そういえば、王子殿下には感謝の言葉を述べておりませんでした。メリアンを見つけていただいたこと、感謝申し上げます。ですが五年もかかるとは、いかがなものかと……」
フェルディナンドは一瞬言葉を飲み込み、エリオットも顔を顰めたが、アレクサンダーは続けて言った。
「剣術大会以来、一度もお手合わせをしていないですね。噂ではあれからかなりの実力をつけられたと聞いております。ですので、どうか今一度お手合わせをお願い申し上げます。メリアンを本当にお任せできるか私なりに確かめておきたいのです」
その視線はまっすぐにフェルディナンドを捉えており、どこか挑発的であった。
「お待ちください。アレクサンダー殿」
忠実な騎士であるエリオットの声が割って入る。
「殿下に対し失礼ですぞ。我々は先ほどこちらに着いたばかりで、殿下もお疲れです」
アレクサンダーは冷ややかな微笑みを浮かべた。しかし、その視線はすぐに再びフェルディナンドへと戻る。少しの躊躇もなく、フェルディナンドの決断を待っているようだ。
「心配は無用だ、エリオット。アレクサンダー、手合わせ願おうか」
メリアンとは異なる茶色の目をしっかりと見返したフェルディナンドは冷静に答えた。頭の中では剣術大会の記憶が蘇り、その時の屈辱感が体中で燃え上がっている。
アレクサンダーはその反応に満足そうに微笑み、静かに言った。
「ではさっそくお手合わせをお願い申し上げます」
フェルディナンドは無言で頷き、ふたりは武道場に足を入れた。
アレクサンダーは一歩前に進み手元の道具棚から木の剣を手に取るとフェルディナンドに渡す。木製の剣は重そうに見えたが、実際には意外と軽く手に馴染みやすかった。
「それでは、よろしくお願いいたします」
アレクサンダーはそう言いながら、すぐに構えに入る。
フェルディナンドも相手の構えを見据えながら、ゆっくりと剣を握り直す。
その瞬間、アレクサンダーが一歩踏み出し剣を振りかざした。
(速い)
フェルディナンドは思わず心の中で呟いた。
その動きは、剣術大会での勝敗を超えて決して忘れられない記憶となっていた。
しかしあれから長い間鍛錬してきたフェルディナンドはその動きを読み、右手で受け流しながらも左手で反撃を狙って剣を振り下ろす。一方のアレクサンダーもそれを軽くかわし、彼の後ろに回り込む。
だが、フェルディナンドも負けてはいない。
すぐに反転し、アレクサンダーに向けて一気に突進した。
アレクサンダーはその攻撃を受け流すも、そのまま数歩下がり、隙を作らせないように立ち位置を調整した。
「悪くないですな、王子様」
「まだまだだ」
口元を引き締めながら言い返し、再び攻撃に転じた。
エリオットは心配そうにその様子を見守るが、主の意向もアレクサンダーに対してのコンプレックスも理解しているため、今はふたりの戦いが終わるのを見届けるしかないと思っていた。
武道場内はふたりの剣の音と足音が響き渡っている。
どちらも手に汗を握りながら、互いに一歩も譲らぬ攻防を繰り広げている。
アレクサンダーの動きは速く攻撃的だが、フェルディナンドはそれを冷静に読み取っていく。
アレクサンダーが再び剣を振りかざすと、フェルディナンドは瞬時にその隙を見つけた。身をひねり高速攻撃を避けると同時に反撃のチャンスを掴む。
その一撃が見事にアレクサンダーの剣を弾き飛ばし、彼の体勢を崩した。
「くっ……!」
アレクサンダーはよろめきながらもすぐに体勢を立て直そうと足を踏み出す。
しかし、その一瞬の隙を逃さず、フェルディナンドは鋭い動きで間合いを詰め、剣を振り下ろす。その切っ先がアレクサンダーの無防備な顔のすぐ手前で止まった。
静寂が訪れ、両者の呼吸音だけが響く中、アレクサンダーは微笑みながらゆっくりと両手を上げ静かに言った。
「降参です」
フェルディナンドはその言葉に応じて剣を下ろし、ひと息ついた。
試合の余韻が残る中で、王子はまっすぐにアレクサンダーを見つめた。
「まだまだ修行が足りんな、アレクサンダー」
軽い冗談めかした響きに、アレクサンダーは立ち上がり服の埃を払うと、真剣な表情で深く礼をした。
「見事でした、殿下。その腕前を見て、私の疑念は晴れました」
「安心しろ。メリアンと子供たちはこの手で必ず守り抜く。彼らの安全と幸福を何よりも優先し、誓いを果たすつもりだ」
「私はもう何も言うことはありません」
ふたりの間に静かな理解が生まれたような空気が漂う中で、エリオットが一歩進み出て、穏やかな声で口を開いた。
「おふたりとも、お見事でした」
エリオットの言葉に、フェルディナンドとアレクサンダーは互いに短く目を合わせ、軽く頷き合った。
その夜、屋敷の客間の寝台に寄り添うフェルディナンドとメリアンがいた。
子供たちはメリアンが昔使っていた部屋で既に眠りについている。
昼寝後、みんなと夕食を取ったが、その後またふたりとも眠ってしまった。長旅がそうとう小さな体には堪えていたようだ。
「殿下、今日は本当に申し訳ありませんでした。兄上があんなふうに……」
夕食の場で武道場でのことを聞かされたメリアンは、ずっと落ち着かない様子だった。彼女の声は申し訳なさと心配が入り混じっている。
アレクサンダーの挑戦に応じたフェルディナンドが見事な勝利を収めたと聞いても、彼女の心の中では複雑な思いが渦巻いていた。
「謝る必要はない。アレクサンダーの気持ちは理解している。彼にとってお前は大切な存在だ。そのために私を試したいと思うのは当然だ。今日の一戦を通じてお前と子供たちを守りたい、そして守らなければならないという気持ちもより一層強くなった」
メリアンはフェルディナンドの手を取り、その手のひらに目を向けた。
そこには大小のまめがいくつもできており、指先は王族のイメージからはかけ離れ、荒れている。
今のフェルディナンドのように、魔法も剣術も、どちらも最高峰のレベルになるにはそうとうな鍛錬が日々必要なのだ。
「私も殿下の力になりたいです」
メリアンの言葉に、フェルディナンドはメリアンの手を包み込んだ。
(お前はただ私に守られてればよいのだ……)
フェルディナンドは内側から湧き上がる感情に身を任せ、何もためらうことなくメリアンに顔を近づけた。可愛いことを言う口に、そっと、そして深くキスをする。
露わになったフェルディナンドの筋肉質な体にメリアンは手を当て、ところどころにある古傷をなぞる。するとフェルディナンドは呟くように言った。
「醜いだろう。この傷は全て、お前を失った後、訓練中自暴自棄になった時につけたものだ」
治癒魔法を使えば傷はすぐに癒せる。しかし、その傷をあえて残しているのは、彼自身への戒めだった。
メリアンを逃亡へと追い詰めるまで傷つけてしまった。心にはきっと目には見えない傷をたくさん負っているだろう。そう思うと自分の肉体的な傷なんてどうでもよかった。
メリアンは左右に首を振った。
「醜いなんて、そんなこと思ったこともありません。でもこれからは、そんな傷をつけるようなことをしないでください」
メリアンはそう言いながら、手を置いていた部分に唇を軽く触れさせる。
腕、肩、そして胸元。傷一つひとつを労わるように唇を落としていく。
その大胆な行為にフェルディナンドは思わず息を呑みながら、メリアンの手をそっと取る。そしてその細くて華奢な指先にキスをした。
強く握ったら折れてしまいそうなこの手で、どれだけのことを乗り越えてきたのだろう。
そう思うとメリアンを守りたいと思うと同時に、彼女の強さも感じて余計愛しい気持ちになる。
フェルディナンドはメリアンを真似るように腕、肩、そして胸元にかけて、優しく唇を重ねた。メリアンの体は小さく波打ち、息が熱を帯びて漏れる。
無意識のうちにその先にある快楽を求めて抱き合う。
甘い感覚がふたりを支配し、今にも燃え上がってしまうような熱が混ざり合った。
次の日、まだ朝日の柔らかな光が厚いカーテンの隙間から差し込む中、メリアンとフェルディナンドはお互いに寄り添って眠っていた。
だが突然、寝室のドアが勢いよく開かれアレクサンダーが顔を覗かせた。
「おはようございます! 早起きは三文の徳って言いますからね、王子、メリアン!」
フェルディナンドは一瞬で目を開け、アレクサンダーに向けて呆れたように目を細めた。
「お前、何をしているんだ……?」
アレクサンダーは全く気にした様子もなく、にっこりと笑う。
「起こしに来ました! 朝の訓練ですよ!」
メリアンは半分目を開け、顔を手で隠した。
「お兄様、静かにしてくれませんか? こんな早朝に……」
「そんなこと言わずに……でも、まぁ可愛くてビューティフルなメリアンはまだ寝ててよいか。ほら、王子、早く起きて行きますよ!」
「お前は本当に邪魔するのが好きだな」
「え、なんのことで――」
とぼけるような口調のフェルディナンドを遮るように、扉が再び開く。
「おかあさん、おとうさま、朝だよ!」
「朝だよ!」
フェルディナンドとメリアンは次から次へとくる訪問者に、もうしょうがないなと顔を見合わせた。
ルカは部屋にいたアレクサンダーに気づくとすかさず彼に向かって迫った。
「あ! おじさん、きのうあそんでくれるっていったよ!」
「えっ、あー、そうだったね! でも、今は王子との……」
アレクサンダーが今は無理だと言いたげな雰囲気を出すと、リリスも加勢してきた。
「あそんで! あそんで! おうちのなかでも、おそとでも、どこでもっていった!」
四つの小さな手が、アレクサンダーの服をぐいぐい引っ張る。
「わかったわかった! ちょっと待て……!」
アレクサンダーは自分の朝のルーティーンである訓練を欠かさないために一旦ふたりから逃げようとするが、エネルギー溢れる子供たちの攻めにとうとう根負けした。
そのまま、ふたりに引っ張られるようにして寝室を出て行く。
メリアンは微笑みながらフェルディナンドに目を向けた。
「ふふ、今日はお兄様に負けないくらい子供たちも朝から元気ですね……」
「そうだな、でもおかげでしばらくふたりだけの時間だ。思う存分、ゆっくりしようか」
そして、ふたりは静かな朝のひとときをゆったりと過ごし始めた。
おわり