第七章 五年の想い
「殿下、あなたはただ気持ちよくなっていればよいのです」
二十歳になる前日、フェルディナンドは初恋の人に跨られ、そう告げられた。
可愛らしかった赤髪の少女は、美しく色気のある女性に成長していた。
頬は色づき、動きはぎこちなく、わずかに震えている。おそらく彼女にとっても大胆な行動だったのだろう。
そんなメリアンに九年間も拗らせた恋心を抱いてきたフェルディナンドは、彼女の誘惑に抗えるわけもなく、ひたすら一生懸命なメリアンが可愛くて、愛しくてしょうがなかった。その上、なんとも良い眺めだった。
今日この場にメリアンを呼び出したのは、彼女に全てを明かすつもりだったからだ。
明日の舞踏会でエレオノーラと兄上の恋路を邪魔しようとする侯爵を断罪するにあたり、メリアンにも真実を告げ共に闘うつもりだったのだ。
エレオノーラに嫉妬し、子供の悪戯のような嫌がらせを行う彼女も真実を知ればきっと協力してくれる。メリアンは本来弱っている動物や虫、植物までもを放っておけないほどの正義感の強い女性だ。そんなメリアンが愛しくて堪らないのだ。
フェルディナンドは無意識のうちに彼女の腰に手を回していた。その触れた先の温もりに、長い間持て余していた想いが
気づけばそれ以上言葉を交わすことなく、ふたりの距離は完全になくなっていた。
フェルディナンドが目を覚ますと、メリアンの姿はいつの間にか消えていた。
そこには、熱い情熱を微かに思わせるシーツの乱れだけが残されている。
王子はそれをぼんやりと見つめ、胸の奥に言葉にならない感情が渦巻くのを感じた。
本当は、彼女と朝を迎えたかった――その願いを口にすることさえできない自分に苛立ちながら、ひとりバルコニーへと足を運んだ。そこには澄んだ夜空が広がり、月が冷ややかな輝きを放っている。
夜風を浴びながら、フェルディナンドはメリアンのことを思い出していた。
彼女の笑顔、怒りに燃える瞳、涙を浮かべた顔……感情豊かな彼女の表情の一つひとつ、どれもが特別で唯一無二の存在だ。
二歳年下のメリアンのことは、十一歳の時中庭で初めて会った時から可愛いと思っていた。
恥ずかしそうに隠す赤髪はまるで紅葉のように美しく、金色の大きな瞳は星屑が鏤められたように光っていた。大人ばかりの王宮で育った彼にとって、こんなに純粋で愛くるしい人間がこの世に存在するのかと衝撃を受けた。
それどころかメリアンは年を重ねるにつれどんどんと美しくなっていき、周りのメリアンを見る目も色っぽいものになっていく。
国王である父に懇願しメリアンとの婚約を取り付けたのは、王宮だけではなく、王国の者みなに、メリアンは自分のものだと分からせたかったからだ。
フェルディナンドの独占欲など露知らず、メリアンは無邪気な子犬のようにただ一途に自分を追いかけてくれた。
自分のために必死になるメリアンがどうしようもなく可愛かった。
少しでも優しくすれば世界一幸せな人のように喜び、少しでも冷たい態度を取ればこの世の終わりのような顔をする。年下のメリアンの前では常に余裕ぶりたくて、ついクールな態度を取ってしまう。
メリアンは、王宮の若い女性たちに対してしばしばヤキモチを焼いていたが、特にエレオノーラが現れてからは、その嫉妬心がさらに強くなった。
ある日、フェルディナンドのために王都で話題のケーキを持ってきたメリアンは、ルンルンで王子の下へ向かおうとする時に不注意でエレオノーラに激突してしまった。
ぐちゃぐちゃになったケーキを目にし、泣きそうになっているところで、ぶつかった相手がエレオノーラだと知り「あなた、わざと私にぶつかったのね」などと言いがかりをつけた。
その後フェルディナンドの下へと向かったメリアンはケーキの箱を差し出しながら「ケーキを持ってきたのですが……エレオノーラが突然前にきて……」とわざとエレオノーラの名前を出した。
しかし、実はその一部始終は、宮殿内でメリアンのことを見守らせている近衛兵たちによってすぐにフェルディナンドの耳にも届いていた。
フェルディナンドは微かに眉を顰め、メリアンを見つめながら穏やかながらも鋭い視線を向けた。
「お前がエレオノーラにぶつかったと聞いたが」
メリアンは少し動揺し、目を少しだけキョロキョロさせながら、「え、えぇっと……そ、そんな、偶然でして! ほんとに、突然でしたから……ああっ、でも……!」と慌てふためく。
まるで慣れない言い訳を必死に口にしながら、手に持っていたぐちゃぐちゃになったケーキの箱をどうしていいか分からず、あたふたとしていた。
その様子は、まるで子供が叱られているかのように見え、フェルディナンドは思わず口元を緩める。
「……そうか。次からはちゃんと注意するように」
フェルディナンドはその無邪気な動揺を前に、メリアンに気づかれぬようほんのり微笑んだ。彼女が焦っている姿は、予想外に可笑しくも愛おしい。
メリアンはフェルディナンド限定の「構ってちゃん」だった。
しかしもちろん、メリアンのこの行為を放っておいたのには正当な理由がある。決して、婚約者の可愛い姿を見続けたいから、ではないのだ。
当時、兄ハンネスとエレオノーラの関係は隠しておく必要があった。
エレオノーラが第二王子の婚約者であるメリアンから目の敵にされているとなれば、まさか第一王子と通じ合っているなどとは誰も思わないだろう。
メリアンの行為は、ちょうどいい目隠しになっていたのだ。
とはいえ、常にそんなことでメイドの仕事を妨害したり、迷惑をかけてしまっていることを心苦しく思っていたフェルディナンドは、その都度エレオノーラに謝罪をしていた。
しかしエレオノーラは、四人姉妹の長女で妹たちのいたずらを見慣れているせいか、あまり気にしていないようだった。
それどころかメリアンの一途な愛の表現を見て、むしろ微笑ましく思っていたらしい。
身分の差がありながらも第一王子に恋心を寄せるエレオノーラにとっては、誰にも隠さず、誰に対しても自分の気持ちを素直に表現できるメリアンの姿がとても新鮮で羨ましかったのだそうだ。
フェルディナンドにとって、エレオノーラは兄のハンネスの「運命の人」であり、自分の相手としての意識が一切ない分話しやすいという存在なだけであった。お互い、よき相談役だったのだ。
明日フェルディナンドは二十歳を迎える。メリアンももう十八歳だ。
今まで未婚であった第一王子である兄を立て、婚約者であるメリアンとの婚姻を先に進めることはなかった。しかし明日、ハンネスはエレオノーラにプロポーズをする。
フェルディナンドも一度感じてしまった肌をもう手放すことはできない。毎日この可愛い存在を腕に抱いて眠りたい。
(メリアンとの婚姻を早急に進めよう)
……フェルディナンドはそう決心した。
しかし次の日の早朝、シュトルツ公爵家からの急報が宮殿に届いた。
「メリアンが行方不明」という一報を耳にした瞬間、フェルディナンドの頭は真っ白になった。
落ち着け、と自分に言い聞かせても、その言葉だけが頭の中で反響する。
彼女がどこかで危険にさらされているかもしれないという想像が、胸の奥に重くのしかかっていた。
もしや舞踏会での陰謀を企てていたミュラー侯爵の仕業か……? こちらが彼の企みを見抜いていることに気づいたか? なんにせよ早くメリアンを見つけなければ――。
「急いで捜索の準備を! できる限りの人員を集めてくれ!」
フェルディナンドの指示のもと騎士団が迅速に動き出す。
フェルディナンド自身も捜索の先頭に立ち、馬を駆って王都中を捜し回った。
どれだけ走り回っても、どんなに聞き込みをしても、メリアンの手がかりは一向に掴めない。ミュラー侯爵の周りも密偵に調べさせたが、彼に関してこの件で怪しい行動は見つけられなかった。
昼を過ぎ、夕方が近づく頃、王宮へ戻るようエリオットに説得される。
「どんな理由があれ、殿下がご自身の舞踏会を欠席するわけには参りません」
捜索を続けたいという気持ちが胸に渦巻くが、王家の責務は避けられない。
「……分かった。だが、騎士団には引き続き捜索を命じる。メリアンが戻るまで、何があっても捜し続けてくれ」
彼は信頼する部下たちに背を預け、国中から貴族たちが集まる自身の誕生日舞踏会の準備のために王宮へと向かった。
宮殿に戻ると、兄であるハンネスが静かに言葉をかけてきた。
「フェルディナンド、事情は聞いた。俺の騎士団も半数を捜索に出そう。心配するな、見つからないはずはない」
兄の頼もしい声が、ほんのわずかながらフェルディナンドの不安を和らげた。
「ありがとうございます、兄上……」
それでも、時が過ぎてもメリアンの行方は依然として分からなかった。
やがて、舞踏会の開始時刻が迫る。
闇の魔法を打ち消す能力のある火魔法を使うメリアンがいなかったので、危険回避のためエレオノーラを舞踏会に参加させることは取りやめることとなった。
華やかな会場では、貴族たちが贅を尽くした衣装に身を包み、祝賀の言葉が次から次へと送られる。
「殿下、お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう。今日は楽しんでくれ」
何事もないかのように振る舞う自分が、ひどく虚しく感じられる。
「メリアン様の姿が見当たりませんが、どちらにいらっしゃるのでしょう?」
そんな問いかけがあれば、「体調を崩していて、今日は控えさせている」と嘘をついた。詳細が分からない以上、この場で大事にはできなかった。
(メリアン……どうか無事でいてくれ)
舞踏会が終わり自室に戻ったフェルディナンドを待ち構えていたのは、騎士団からの報告だった。
「殿下……申し訳ありません。どこを捜しても、メリアン様の行方は掴めませんでした」
報告を聞いた瞬間、フェルディナンドは静かに目を閉じ、深い息を吐いた。それは怒りでも絶望でもなく、ただ抑えきれない焦燥感だった。
「分かった」
言葉を短く切り、フェルディナンドは夜の王都へ再び繰り出すことを決意する。
夜の街は相変わらず賑やかで、通りには明かりが溢れ、人々の喧騒が響いていた。
「どんな小さな情報でも構わないから見つけてくれ」
フェルディナンドは騎士団と共に宿や店を一軒一軒回り聞き込みを続けた。しかし、どれだけ捜しても誰からも手がかりは得られなかった。
「……メリアン、お前は一体どこにいるんだ」
囁くように呟いた声が、冷たい夜風に消え、フェルディナンドの中で何かが欠けたような感覚だけが残った。
次の日、フェルディナンドは騎士団を連れてシュトルツ公爵家を訪れた。
「娘のことで、殿下にここまでご尽力いただいていることに感謝いたします」
メリアンの父親であるシュトルツ公爵は深く頭を下げた。その表情には疲れが滲んでいる。
フェルディナンドはすぐさま本題に入る。
「メリアンの足取りは掴めたか?」
公爵の返答は期待とは程遠いものだった。
「メリアンの行動を調べたところ、誘拐の可能性は極めて低いと考えられます」
その言葉にフェルディナンドの眉がピクリと動いた。
「どういう意味だ?」
「娘は用意周到だったようです。大切にしていたものや金品を自ら選び、持ち出しています。そして何より……」
公爵は深く息を吸い込み、言葉を選ぶように一瞬目を伏せた。そして意を決して言葉を紡いだ。
「殿下、メリアンはあなたのことを心底慕っておりました。あなたの下を訪れた後、自分自身であなたの下を去ったということは、どのような意味なのか、どうか深くお考えくださいませ」
娘を思う父親の気持ちと、フェルディナンドへの問いかけ。その重みを受け止めるようにフェルディナンドは拳を握りしめた。
その手は、自らの無力さを噛みしめるように震えていた。
一ヶ月が過ぎると、周囲の空気は諦めに染まり始めた。
メリアンが燃やしたドレスは、未だにフェルディナンドの部屋にそのまま残されていて、メイドたちが何度も片付けようとしたが、フェルディナンドはそれを許さなかった。
まるで自分への戒めのように置かれたドレスが目に触れるたび、メリアンをここまで追い詰めていたことに対する深い罪悪感と悔いが胸を締め付けていた。
「殿下、騎士団の捜索もこれ以上続けるのは――」
そんな言葉を耳にするたび、フェルディナンドは心の中で叫んでいた。
(まだだ。メリアンを諦めるなんて、できるわけがない)
そして、とうとうシュトルツ公爵が重い口を開いた。
「殿下、メリアンの父としては、殿下が娘のために尽力していただいていることに感謝しております。ですが、この国の大臣として申し上げます。どうか娘との婚約を破棄していただき、新しい妃探しを始めてくださいませ」
フェルディナンドはしばし黙った後、静かに立ち上がった。
「私は、メリアン以外を
その声は低く、けれど揺るぎない意志が込められていた。
(メリアン、お前を見つけるまでは、私は絶対に諦めない――)
それからも、フェルディナンドはメリアンを捜し続けた。範囲を広げ、周辺の町や村を巡った。
フェルディナンドの心を占めるのは、メリアンがどこにいるのか、彼女が無事であるか、それだけだ。
時間があれば地方へも訪問した。外交と称し、国外へいくことも。しかし、どんなに捜してもメリアンの行方は分からないままだった。
王宮にはいつでもメリアンを迎えられるようにと、メリアンのための部屋を設けた。同時に、フェルディナンドの周りのメイドはメリアンがヤキモチを焼いていた若い者から年増の者に総入れ替えをした。
メリアンのために用意した部屋はメリアンが好きなイランイランの香りでいっぱいだ。メリアンが御用達にしていた服屋には、メリアンが好きそうなデザインの服を頻繁に作らせ続け、クローゼットを埋めていく。
王族としての執務や役割はこなしていたが、それ以外のことに関しては心を閉ざしていたフェルディナンドにとって、メリアンのために何かをしている時間だけが唯一心休まる時間になっていた。
だがメリアンが戻ってくることを信じる者は日に日に減っていく。
「メリアンのことは忘れ、新たに妃選びをしろ」
三年も経つと、国王である父からもそう告げられた。
しかしそれに応じることは一切なかった。
王宮の中でもフェルディナンドが婚姻することを諦める者が増えたが、彼の兄ハンネスやエレオノーラ、そしてふたりの王子の騎士団と側近たちは彼を支え続けた。
ハンネスは、あれからエレオノーラを狙うミュラー侯爵率いる保守派の勢力が拡大し、それを鎮めることに日々尽力していた。
にもかかわらず、フェルディナンドの決意を尊重し、精神的な支えとなり続けていた。彼はまた、あらゆる手段でフェルディナンドを助けることを惜しまなかった。
「弟よ、お前が諦めない限り、私も協力を続ける」
兄の力強い言葉が、フェルディナンドの胸に灯る小さな希望の火を守り続けた。
宮殿では日々の執務に追われながらも、メリアンを捜すこと、それだけがフェルディナンドの生きる原動力となっていた。
◇ ◇ ◇
「殿下、先日ボルタス国から不法入国してきたという男が、赤髪の美女について話していたというのを看守が聞いたと言っております。国境沿いにあるワーテルという小さな村でだそうです」
この五年間、フェルディナンドの下にはこのような目撃情報が多数寄せられたがどれもハズレだった。期待する分、落胆してしまう。
エリオットが得た今回の情報も、もしかしたら違うかもしれない。けれど、小さな可能性でも信じることしか、今はもうできないのだ。
「そして……」
エリオットは言いにくそうに口を開いた。
「その男が話していたのですが、その女性は銀色の髪の小さな双子を連れている、と」
「双子……?」
フェルディナンドの表情が一瞬だけ固まる。その胸に、疑念と希望が入り混じった奇妙な感覚が広がった。
「きっと何かの間違いでしょう」
エリオットは慌てて補足するように言った。
「赤髪の女性など、珍しいわけではないですし……」
「いや、今すぐに出る準備をしろ」
フェルディナンドの声は低く、しかし揺るぎないものだった。
「は、はい!」
エリオットが敬礼をして退出すると、フェルディナンドは続けた。
「モーリス、お前はもしものための準備をしておけ。双子は……四歳であろう」
モーリスをはじめ、側近たちは驚きの表情を浮かべた。しかし、モーリスはすぐに頭を下げ、力強く答えた。
「かしこまりました、殿下」
その場の緊張感が高まる中、フェルディナンドは窓の外に目を向けた。
遠い空の向こうにいるかもしれないメリアンを想いながら、静かに拳を握りしめた。