第六章 王子の帰還
メリアンは柔らかな朝の光に包まれて目を覚ました。
まだ少し夢の中にいるような、ふわふわとした感覚が残っていた。窓から差し込む明かりが顔に触れる。その温かさが心地よく、しばらくそのまま寝転んでいたが、少しずつ徐々に現実へと引き戻されていった。
「ああ……」
小さくため息をつき、目を細める。その時ふと隣に視線を向けると、昨晩のことが頭をよぎり顔が火照るのを感じた。
(どうしよう……どんな顔をして殿下と顔を合わせればいいのか、全然分からない……)
無意識に手で顔を覆い、布団に深く潜り込んだ。だがその布団の中で、すぐ近くから穏やかに響く声が聞こえてきた。
「……起きたのか?」
胸を叩く音がどんどん速くなるのを感じながら、恥ずかしさで身を縮こまらせていたその時、ふいに温かい腕がそっと彼女の身体を引き寄せた。
「顔を見せてくれないのか?」
「……なんだか、恥ずかしくて……」
メリアンは小さな声でそう呟きながら、さらに布団に潜り込もうとする。しかし、それを引き止めるように王子はそっと彼女の頭を撫でた。
「恥ずかしいことなんて何もないが、こうして隠れようとしている姿も愛おしくて仕方がない」
そのひと言にメリアンの胸は再び高鳴る。腕の中から逃れたいような、けれどずっとこのままでいたいような気持ちに押し流されながら、メリアンはもう一度ぎゅっと目を閉じた。
(エレオノーラがいるのにこんなこと……)
ふと思いながらも、フェルディナンドの熱に応える自分を止められなかった。彼の腕の中にいると、罪悪感や不安以上に幸せや安心感が勝ってしまう自分がいる。
「メリアン、お前に伝えなければならないことがある」
先ほどと比べて少し低いトーンの声が耳元に届くと、メリアンは体を小さく震わせた。
――すまない、あと少しなんだ。
昨日王子が言っていたことについてだろうかと思いながら、メリアンが布団から顔を出すと、青い瞳がまっすぐに彼女を見つめていた。その眼差しに、これから彼が口にする言葉の重さを感じ取る。
言いようのない不安が広がっていく。これから告げられるのは、もしかしたら自分にとって嬉しい言葉ではなく、受け入れるのが難しい内容かもしれない――。
「実は――」
その瞬間、部屋のドアがノックされた。控えめながらもはっきりとした音が響く。
フェルディナンドの眉がわずかに寄り、深い息をついた。
「誰だ」
「エリオットでございます。申し訳ありません、緊急の報告が……」
フェルディナンドは唇を引き結び、しばし沈黙した後メリアンの手を軽く握った。
「少しの間、待っていてくれ。また後で話す」
「……え、あ、はい。あの私はどうすれば……」
「ここにいてくれ」
メリアンは戸惑いながらも、彼の言葉に頷いた。
フェルディナンドの許可を得た後、エリオットが申し訳なさそうに扉を開く。
昨日、メリアンが抱かれながら図書室からフェルディナンドの寝室まで連れていかれた姿は数多くの使用人にも目撃されていた。
今、ここに自分がいることは筒抜けなのを分かっているため、メリアンは気恥ずかしくて狸寝入りをしながら毛布の中に隠れた。
エリオットは視線を
「殿下、失礼いたします。けれど、早いうちにお耳に入れなくてはと思いまして」
「構わぬ、なんだ?」
「早朝、早馬が参りまして、ハンネス殿下が保守派を無事制圧し、本日帰還されるとの報せが入りました」
「兄上が……そうか……ついに」
「お出迎えの身支度の準備がございますので、使用人をこちらに寄越したいと考えておりますが……」
「ああ、分かった」
「それでは、お邪魔いたしまして申し訳ございませんでした」
エリオットが扉を閉め部屋を出ていく音がし、メリアンは布団から顔を出した。
フェルディナンドは深い息をつきながら窓の外を少し眺め、呟くように言った。
「兄上の帰還か……準備をしなければならないな。お前と子供たちも」
メリアンは少し驚いた表情を浮かべた。まさか自分が一緒に出迎えに行くことになるとは思っていなかったからだ。
「え……私も?」
「それと、先ほど伝えたかったことだが……いや、それは……兄上が戻られる今、すぐに分かることだ。ひとまず準備を急いでくれ」
メリアンはフェルディナンドの言葉に戸惑いながらも静かに頷き、脱ぎっぱなしになっていた下着を身につけた。
宮殿前には、カタルニア王国国王の嫡男である第一王子・ハンネスを迎えるために多くの家臣たちが一列になり、彼の到着を待っていた。
メリアンが部屋に戻ると子供たちは既に起きていて、メイドに世話を焼かれながら、明らかにいつもよりも豪華に金色が多く入った服に着替えさせられていた。
「メリアン様はこちらのものを」とメリアンにも、ベースがラベンダー色でたくさんのフリルや宝石がついたドレスが用意されていた。
ゴージャスな服装の三人は、禁色である藍色と金色に包まれるフェルディナンドと共に最前列に加わった。
何を身に着けていても……身に着けていなくても美しい彼だが、普段よりも格上の服にドキドキする。
そんなフェルディナンドを挟んだところにいるのは、メリアンよりもさらに豪勢なドレスを身に纏ったエレオノーラだった。そんなエレオノーラの横顔を見てメリアンの胸はチクリと痛んだ。
昨日のことは褒められたことではない。
家臣たちも周りのものもみな、ふたりの情事を知っているかのように、メリアンとフェルディナンドのことをいつもよりもニヤけた表情で見てくるので、きっとエレオノーラの耳にも入っているだろう。
どんなに自分のフェルディナンドに対する気持ちが強くても、エレオノーラに対して申し訳ない気持ちと罪の意識が心を占める。そして自分はやはりヒロインを苦しめる役である悪役令嬢なのだということを思い知る。
けれどエレオノーラは隣にいるフェルディナンドに笑いながら話しかけている。
何も知らないのだろうか……それともこれは正妻の余裕なのだろうか。
やがて宮殿前に王家の家紋が彫られた馬車が現れた。
馬車は金箔で輝いており、それを引く白馬たちも美しく飾られていた。家臣たちは馬車が近づくにつれて静かになっていく。そして馬車が止まると一斉に頭を下げた。
カタルニア王国第一王子ハンネスは馬車から降り、集まる者たちに迎えられた。
フェルディナンドよりも少し濃い銀色の髪が風に靡いている。アメジストを
ハンネスはまず先に、自分の弟であるフェルディナンドの下に寄った。
「兄上、お疲れ様でございます」
「ああ」
兄弟は熱い抱擁を交わした。
ふたりはとても似ている兄弟だったが、ハンネスの方がひとまわり体が小さい。幼い頃流行病にかかり命をも心配されたらしいが、奇跡的に回復したという過去があり、彼の存在は国民にとってより尊いものとなった。
そんなハンネスは隣にいるメリアンと子供たちを見た。
「メリアン、久しぶりだな。あなたがこちらに戻って来たという知らせは聞いていた。弟が迷惑をかけていないかい」
「め、迷惑なんて、そんな……私も子供たちもとてもよくしていただいております」
「ほお」
興味深い様子でハンネスはフェルディナンドを見た。
「もういいではないですか、兄上。メリアンよりも、エレオノーラを」
何気ないその言葉にメリアンはどうしても敏感に反応してしまう。
けれどそれはしょうがない。
それも含めて、フェルディナンドを愛するということなのだ。
ハンネスはもうしばらく弟を
「殿下、お帰りなさいませ」
そしてエレオノーラが顔を上げると、彼は「我が妃」と言い、彼女の手にキスをした。
その瞬間、メリアンは何が起こっているのか分からなかった。
そしてハンネスはそのまま屈み、エレオノーラの腹部に顔を近づけ、「私の子は元気かな」と言い膨らみにキスをした。周りはそれを微笑ましそうに見ている。
(ど、どういうこと……)
メリアンはあまりの衝撃と混乱に囚われた。頭がクラクラする。
「メリアン、今まで真実を言えずすまなかったが……メリアンッ!?」
ぼんやりとしたフェルディナンドの声を微かに感じ取りながら、メリアンはそのままふらっと倒れてしまった。
メリアンは夢を見ていた。
いや、これは夢というよりも、メリアンの前世、早川弥生の記憶だ。
前世の記憶というものはやっかいなもので、いっぺんに全てが思い出されるわけではなく、細かい記憶などはこうして突如思い出される。
弥生は不妊治療の結果に落ち込み、家に帰り乙女ゲームをプレイしている。もちろん大好きな『ミスティック・ロイヤル』を。
魔法の国カタルニア王国の新人メイド・エレオノーラが主人公で、攻略対象はイケメンだがキャラに癖のある王子たちや貴族たち。
弥生は、好きな人にだけとことん素直になれない拗らせキャラの銀髪碧眼のフェルディナンド王子推しで、このゲームではずっとフェルディナンド王子ルートばかりをプレイしていた。
服の上からでも分かる肉体美も素晴らしい。夫にバレない程度にキャラクターの小さなフィギュアやグッズを集めたり、暇さえあればゲームの情報などを漁ったりしていた。
SNS上では、ハンネス王子が一番人気のようだった。
無自覚タラシで細身のハンネスは弥生の好みではなかったのでプレイをしたことはそれまで一度もなかったが、ハンネス王子ルートでは、「フェルディナンド王子が大活躍」するという情報を見て、フェルディナンドの活躍ぶりを見たいがためだけに、一度ハンネス王子ルートもプレイをしたことがあった。
ヒロインのメイドであるエレオノーラと攻略対象のハンネス王子は初対面で強く惹かれ合うも、ハンネスは第一王子という立場からふたりの恋には消極的だというストーリーラインだ。
『エレオノーラ、私から見ても兄上とお前は互いに惹かれ合っている。兄上は立場上お前を受け入れられないとしているが、いずれ国王になり、重い責務を果たさなければならぬあの方には、お前のような心から惹かれ、愛し合うことのできる女性が必要だ』
なんと、フェルディナンドは攻略対象としては拗らせキャラなのだが、こちらのルートでは兄の幸せを願う兄想いのキャラクターとして、エレオノーラの友人役となり活躍するのだ。
フェルディナンドのおかげで、エレオノーラとハンネス王子は何度も秘密裏に会う機会が巡り、少しずつ距離を縮めていった。
フェルディナンドの二十歳の誕生を祝う舞踏会のイベントももちろんある。
舞踏会は表向きはフェルディナンドのためのものだが、訪れる国中の令嬢の中から未だ婚約をしていないハンネス王子が婚約者候補を探すための場でもあった。
普段は明るく振る舞っているエレオノーラだったが、そのことを知ると落ち込んでいた。
『兄さんを驚かせよう』
フェルディナンドはそんな彼女を励ますように、エレオノーラに最上級のドレスを贈り、舞踏会への出席を後押しするのだ。
(ああ、そんな! 嘘でしょう?)
メリアンは目を覚ました。
視界の中には、心配そうにメリアンを見つめるフェルディナンドがいた。
「殿下……」
メリアンは自分がずっと勘違いしていたことに今になって気づいた。
今まで自分が転生したこの世界は、エレオノーラとフェルディナンドを中心に回っている世界だと思っていた。けれどここは、ハンネス王子が攻略対象の世界だったのだ。
ハンネス王子ルートのメリアンはマイナーな悪役令嬢だ。エレオノーラがフェルディナンドと親しくする様子を見るたびに嫉妬心を抱き、エレオノーラに嫌がらせをすることもあったが、フェルディナンド王子ルートに比べれば可愛いものだった。
舞踏会の前日、フェルディナンドはメリアンを燃えたドレスの件で呼び出す。ここまではフェルディナンド王子ルートと同じだ。しかしハンネス王子ルートでは、彼はメリアンに真実を告げるのだ。
第一王子ハンネスがエレオノーラを愛しており、明日の舞踏会で彼女に正式にプロポーズする予定であること。しかし、平民が王族の一員になることに反発する者たちが貴族の中には多いため、彼女の存在を公にすることができなかったこと。
加えて、今、その秘密をある貴族に嗅ぎつけられ、ハンネスとエレオノーラを引き裂こうとする陰謀が動き出しているという。これがハンネス王子ルートの真の悪役、ミュラー侯爵だった。
フェルディナンドから真実を聞いたメリアンは、その内容に驚きながらもエレオノーラが恋敵ではなかったことに安堵した。そして自分も協力することを決意する。
舞踏会当日、同志となったハンネス・フェルディナンド・エレオノーラ・メリアンは、それぞれの力を合わせてミュラー侯爵を追い詰め、国外追放へと導く。
兄弟揃って恋人、そして婚約者への愛を宣言し、ハッピーエンドへと繋がっていくのだった。
「メリアン……大丈夫か?」
フェルディナンドの優しい声が耳元に響き、メリアンははっと顔を上げた。
「ええ、……大丈夫です」
小さく頷くと、フェルディナンドの表情がほっと緩む。しかし強く握ったメリアンの手を離さなかった。
(あの日私が去らなければ、舞踏会の場で侯爵を追放する機会を失うこともなく、物語が拗れることはなかったのかもしれない)
前世の記憶が正しければ、メリアンは闇の魔法に操られそうになったエレオノーラを救う役割を担うはずだった。ミュラー侯爵が使う闇の魔法は人の心を操るもので、唯一それを打ち消せるのがメリアンの持つ火魔法だったのだ。
メリアンは堪らなくなって体を起こした。そして美しすぎる青い瞳を見つめた。
「殿下」
「なんだ」
状況を理解した今、自分がここまで事態を拗らせた原因なのだから謝らなければならないと思った。でも、前世の記憶を持っているとは言えないし、言ったとしても理解はしてもらえないだろう。
彼にとってはこの世界が唯一の真実なのだ。
自分のせいで大きく進路を変えたストーリーは、前世の記憶とは違うものになっていて、メリアンにとってもこれが今の現実だ。
ただそれは希望でもある。
あの時の自分の行動で、この世界の全てが変わってしまったのなら、自分次第でこれからの展開をどうにでも変えることができるはず。彼と共に未来を作り出すことだってきっとできる。
メリアンはぎゅっと目を閉じた後、再びフェルディナンドを見上げた。
(それならばこの気持ちを伝えたい……ちゃんと)
「私は……、私はあなたをお慕い申し上げております」
フェルディナンドは思いもよらぬタイミングで降ってきたメリアンの突然の告白に顔を赤くさせた。そしてその顔を空いた方の手で覆い隠した。
(もしかして恥ずかしがっているのかしら)
今までずっと、メリアンから顔を逸らしていたのは、メリアンが嫌いだからだと思っていた。けれど、もしそうではなかったら……? そう思うとメリアンはその答えが知りたくて堪らなかった。
「どうか、殿下のお気持ちを聞かせていただけませんか」
フェルディナンドは深いため息をつくと目を閉じ、心の中で何かを整理しようとしていた。その顔に浮かぶ微かな苦悩を、メリアンは無意識に感じ取る。
「お前の直球は怖い」
フェルディナンドは瞼を開けるとうっすらと笑みを浮かべた。
「王子たるもの相手に本心を見抜かれるわけにはいかぬため、常に平常心でいなければならない。私はいつも、お前の前では立派な王子でいたいのだ」
フェルディナンドは静かにその手を伸ばしメリアンの頬に触れる。その優しい指先に、メリアンはただ身を委ねた。
「私がお前に対して抱く感情は、お前が抱くものと同じ……またはそれ以上だ」
メリアンの心はフェルディナンドの言葉に震えた。
「ほ、本当ですか?」
メリアンの潤んだ瞳は、もうずっとフェルディナンドに向けられている。
「あまり、見ないでくれ」
「……どうしてですか?」
「お前に見つめられると、顔がこう……赤くなってしまうのだ。格好がつかぬ」
フェルディナンドがとことん自分と目を合わせるのを避けていた理由は……もしかして?
もう、なんて不器用な人なのだろう、とメリアンは思った。そして愛しさが倍増する。
「殿下は、綺麗でかっこいいです。どんなお姿でも」
メリアンは、感極まってフェルディナンドに飛び込んで抱きつくと、フェルディナンドは、しっかりとメリアンを受け止めた。
「お、お前も初めて会った日から……ずっと……」
「ずっと?」
「……ずっと……」
「はい」
「……か……可愛い」
どんな顔をして言っているのだろうかと、顔が見たい。けれどフェルディナンドは見せまいと、メリアンを強く抱きしめる。
それでも、やっとのことで首を曲げると真っ赤に染まったフェルディナンドの耳が見えた。