第五章 薔薇園と図書室


 メリアンは五年の間、ルカとリリスにつきっきりだった。

 子供たちにはなるべく他人と関わらせないようにしていたので、ふたりには自分が全てを教えてあげなくてはならなかったからだ。けれどそれは苦ではなく、メリアン自身も楽しく、同時に自分の存在価値を感じていた。

 子供たちにとってメリアンが全てだったように、メリアンにとっても子供たちが全てだった。

 しかし王宮に滞在するようになって、環境も何もかもが変化し、メリアンの心にも変化が起こった。

 子供たちに愛情を注ぐことは今でもメリアンの一番の喜びだが、自分だけではない周りの人たちとの関わりで成長していくルカとリリスに触発され、自分自身も子供たちだけではなくちゃんと自分の気持ちに向き合いたいと思えるようになった。

 ほぼ強制的に王宮に連れてこられ、最初は戸惑った。けれど、この五年間でこんなに生き生きとした子供たちを見たことはなかったし、ここまで充実した日々はなかった。その中で、メリアンの奥底で眠っていた、消えることのなかったフェルディナンドへの想いは日々大きくなっている。

 しかし、メリアンがいなくなったあの日から、フェルディナンドの傍にはずっとエレオノーラがいたはずだ。

(私たちは、本当にこのままここにいても良いのかしら)

 メリアンは、自分を取り巻く環境から離れ、ひとりで考える時間が必要だと感じていた。

 優しくて気が利くモーリスは、そんなメリアンの悩む様子を察し、ここ数日積極的に「モーリスとのお勉強の時間」だと言い、子供たちが最も活発な午前中に彼らを預かってくれている。

 モーリスはフェルディナンドが幼い頃に彼の教育係をしていたこともあり、知識豊富な上、子供の世話をするのも得意だ。そのためメリアンは安心してふたりをモーリスに預けることができた。

 ひとりでのんびり過ごせる時間はとても貴重ではあるが、ふとした時にエレオノーラのことが頭に思い浮かんで心が晴れない。

 そこで、メリアンは厨房を借りて子供たちのためにお菓子を作ることにした。無心になるには手を動かすのが一番だと、村での五年間で学んでいた。

 モーリスに相談すると厨房の一角を借りられることになり、無心になって生地をこねていると、昔からの顔馴染みの料理人が話しかけてきた。

「お嬢様、何かお手伝いしましょうか?」

「いえ、私自身で作りたいんです、それより先ほど作ったものを試食してくれませんか?」

 メリアンが作ったクッキーを、周りの料理人たちも驚きながらも興味津々に受け取った。

「メリアン様、これ本当に美味しいです!」

「素材そのものをいかした味がクセになりますね」

「メリアン様がご自身でこんなものを作れるようになられるなんて……」

 メリアンは照れを隠すように笑った。

 王宮にいる過去の自分を知る者たちの目には、今のメリアンの姿は意外に映っただろう。

 メリアンは今こうして自分の作ったものを認めてもらえることがどれほど嬉しいか、改めて感じていた。

 以前の自分は「悪役令嬢」として見られ、周りから煙たがれることが多かった。わずかでもその印象を変えたい、もっと良い印象を与えたいと心から思った。


 メリアンたちが城に来てから三週間。今日は薔薇園を訪れていた。

 ここは幼い頃に亡くなったフェルディナンドの母・フランソワーズ妃の名前がついた場所で、フランソワーズ庭と呼ばれている。

 フランソワーズ妃は薔薇がたいそう好きだったらしく、ここには多種多様の薔薇が植えられていた。今ではちゃんとした庭師が管理しているが、生前フランソワーズ妃は自らこの庭の手入れをしていたらしい。

 メリアンは咲き誇る薔薇の木々の間を歩きながら、優雅な香りを感じていた。宮殿は各自の寝室以外、基本的にこの薔薇のエキスを抽出したアロマキャンドルが焚かれ、薔薇の香りで包まれている。

 薔薇は、美しくて儚い。

 メリアンにとってフェルディナンドと過ごす時間も同じようなものだと思いを重ねていた。

 ずっと想いを寄せていた王子と今こうして子供たちのおかげで過ごすことのできる美しくかけがえのない時間。でもきっとそれにはいつか必ず終わりが来るだろう。フェルディナンドと永遠を誓ったのは自分ではないのだから。

 そんなことを思う中、遠くから自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。

「メリアン様」

 それはとても明るく柔らかい声だった。

 男ならすぐに振り向いてしまうような可愛げのある天使のような声。その持ち主はメリアンの知る人々の中でたったひとりしかいなかった。

 振り向くと、会いたくなかったがいずれ会うであろうと思っていたエレオノーラがいた。

 以前はメイドとして邪魔にならないように束ねていた金色の髪を、今は優雅におろしていた。髪の一筋一筋が光を受けて輝き、以前よりも華やかな印象を与えている。

 昔と変わらない、眩しいくらいの笑みを浮かべ、ゆっくりとメリアンの傍に駆け寄ってきた。

 茶色いメイド服ではなく、ふわっと広がる緑色のドレスは彼女の目と同じエメラルド色で、きっと彼女のためだけに仕立てられたものだろう。以前の控えめで素朴な印象から一転し、美しさと気品溢れる姿になっていた。

 その変わりように、メリアンは驚きと共に複雑な感情を抱いた。

「お戻りになったのですね、メリアン様」

 メリアンは気まずそうに下を向きながら「……ええ」と答えた。

「心配しておりました」

 エレオノーラの言葉に、メリアンは動揺を覚えた。

 自分が過去にしてきたことを考えれば、エレオノーラは自分のことなど快く思うはずがない。それなのに、本気で心配しているような表情を浮かべる彼女の優しさが逆に胸を締め付けるようだった。

「エレオノーラ様もお体の調子が悪いとお聞きしました……」

「メリアン様、そのような呼び方でなくとも」

「いえ……あなた様は……王子妃なのですから」

 メリアンの声には、どこか自分自身を抑え込むような響きがあった。

「あ、既にお耳に入れられたのですね。実はまだ公にはなっていないこともあり、その呼ばれ方は慣れなくて」

 エレオノーラは顔を赤らめ、その後、「今、実は」と言いながら、腹を摩った。

悪阻つわりもつらかったもので、ルーシア地方の離宮で療養させていただいたのです。そのためご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした」

 メリアンは足元の地面が崩れ落ちるような感覚に襲われた。それでも祝いの言葉を返そうとしたが、頭の中が真っ白になり何も思いつかなかった

「そ、そう……ですか。それは、大変でしたね……」

 かろうじて搾り出した声は、自分でも情けないほど弱々しかった。

 メリアンは平静を装おうと必死だったが、震える手を隠すためにドレスの端をぎゅっと掴んだ。

 エレオノーラはメリアンの動揺に気づく様子もなく、優しく微笑んでいた。その笑顔がメリアンに新たな痛みを刻む。

 エレオノーラは平民の出だ。しかし、王族に嫁いだ今では、その地位はメリアンよりも遥かに上だ。それにもかかわらず、彼女の物腰は変わらず柔らかい。

 そんなエレオノーラにフェルディナンドが惹かれるのも当然だとメリアンには分かっていた。

(本当に、彼女は完璧なのよね……)

 だからこそ、あの頃の自分はフェルディナンドの気持ちを振り向かせようとするのではなく、エレオノーラに嫌がらせをすることしかできなかったのだ。

 その時後ろから「おかあさん」という声と、こちらに駆け寄ってくるふたりの足音がした。モーリスに連れられ散歩に来ていたようだ。

「あら、可愛い双子ちゃん。お聞きしていた通り! 銀色のお髪に、青いおめめ、フェルディナンド様そっくりですわ! 私の子も、こんな綺麗な髪になるでしょうか」

 エレオノーラの余裕のある態度は王子妃という絶対的有利な立場にいるからだろうか。それとも単なる心の広さなのだろうか。

 生まれながらのヒロインであるエレオノーラの完璧なほどの性格の良さに、メリアンは自分の心の狭さを憎んでしまう。

 子供たちは美しいエレオノーラに見惚れていた。

(エレオノーラったら、子供たちまでもを虜にしてしまうのね……)

 メリアンが落ち込んでいると、遠くから馬が駆ける音がした。

 音が大きくなると、フェルディナンドがエリオットや他の騎士らと共に外から馬に乗ってこちらに向かって来ているのが分かった。

 体を鈍らせないようにと頻繁に騎士団と朝稽古をしていると聞いていたので、その帰りだろうか。

 フェルディナンドは近くまで来ると素早く馬を降り、慌てたように駆け寄った。

 そしてまずはエレオノーラに声をかけた。

「エレオノーラ、帰っていたのか。いくら城の敷地内だとはいえ、あまり勝手に出歩くなといっただろう」

 心配するようなフェルディナンドの声に、エレオノーラは優雅な笑みを浮かべた。

「はい、先ほど戻ってまいりました」

「もう大丈夫なのか」

「ええ、この通り」

 エレオノーラは自分の体調の良さを伝えるように一回転してみせたが、最後に小さな石ころに躓きそうになり、それをさっとフェルディナンドは支えた。

「ありがとうございます、殿下」

 ふたりが目を合わせているのを見ているだけでメリアンは胸が苦しくなった。

 ふたりの仲は相変わらずで、自分がこの場にいることがいかに場違いであるかを感じた。

 自分がフェルディナンドとの仲を以前よりも深められたからといって、やはりふたりのような仲にはまだなれないし……この先ずっとなれないだろう。

(だって……殿下の心は……いつだってエレオノーラにある)

「私、ちょっと……失礼いたします」

 メリアンは居ても立っても居られず、その場から逃げるようにドレスのスカートを持ちながら駆け出した。

「おい、メリアン、どこへ行く」

 メリアンを引き留めるフェルディナンドの声すら耳に入らない。

「子供たちとエレオノーラのことを頼む」

 王子は一緒にいたエリオットや騎士団にそう伝えると、急いでメリアンの後を追って走り出した。

 ドレスは長いし、重いし、靴だってヒールが高くて何回もこけそうになったが、息を切らしながらも、メリアンは広い宮殿の中、自然とある場所を目指していた。

 子供の頃からずっと、辛いことがあるとその場所に来てしまう。

 やがて薄暗い廊下を抜けると、目の前に重厚な木の扉が現れた。

 宮殿の中の他の扉と比べてひと際古びている扉をメリアンはゆっくりと開ける。すると、どこか懐かしさを感じさせる香りがふわりと漂ってきた。紙とインク、本棚に使われているオークの香りが混じり合う。

 中に入ると、広い空間に所狭しと並ぶ書物が視界に広がる。

 整然と並べられた本たちの背表紙は色あせており、埃を被っているものも少なくないが、それが逆にこの場所の静けさと重厚さを引き立てている。

 ここには古びた詩集や歴史書、また一見すると誰も興味を持たないようなマニアックな書物がひしめき合っている。

 普段は誰も訪れないこの場所は、メリアンにとっては心を落ち着かせられる場所であり、人々が行き交う賑やかな宮殿の中で、ひとりになりたいと思う時の避難所だった。メリアンは特に本好きだというわけではなかったが、この雰囲気に包まれるだけで心はいつも安らいだ。

 以前、自分が好きな装丁の本を本棚の一箇所にまとめていて、それが未だに同じ並びで並んでいるのを見つけた。

(ここも五年前と全く変わらない)

 あれからこの場所を利用する人はいなかったのだろう。

 特にお気に入りだった、愛について書かれた詩集もまだある。その背表紙はバーガンディー色で、金色の文字で「愛は見えない」というタイトルが記されている。

 どんなに愛しても、報われない。けれど、報われたい。そんな思いが綴られた切ない詩集だ。何度も共感し涙した。

 懐かしむようにその背表紙の文字にそっと触れた瞬間、扉が開く音がした。

 メリアンは急いで部屋の奥の方に隠れたが、行き止まりのため結局は見つかってしまった。

 現れたフェルディナンドは、全速力で走って来たのだろうか、短い息を何度も吐いている。そしてメリアンを壁に押し付け、彼女を囲むように手を壁に置いた。

「で、殿下、どうしてここが」

「昔からお前が事あるごとにこの図書室に隠れていたのは知っている」

 メリアンはフェルディナンドの言葉にびっくりした。

 あの頃ずっと自分に興味がなさそうだったフェルディナンドが、自分の些細な行動を知っていてくれていたことが信じられなかった。

「メリアン、一体どうしたというのだ?」

 メリアンが涙をこぼし目を逸らすと、フェルディナンドはその濡れた頬に手を置いた。

「……もしもエレオノーラのことならば、お前が気にすることなどひとつもない……」

 フェルディナンドはそう告げると、ゆっくりと顔をメリアンの顔に近づける。

「……そ、そんなこと……なぜ。……か、勘違いしてしまいます」

「何を勘違いするというのだ」

 フェルディナンドの顔はどんどんと近づいていく。

 その距離、十五センチ、十センチ、五センチ……そしてメリアンに拒否をする暇も驚く暇も与えないほど速く、王子はそのままメリアンに口付けた。

 震える柔らかい唇に、メリアンは一瞬動揺した。しかし、その後も一向に離れないフェルディナンドの熱いキスに、メリアンは徐々に応えていく。

(殿下、どうしてあなたはこんなことを……あなたはあれからエレオノーラと一緒になり、彼女のお腹にはあなたの新たな子供もいるのではないですか)

 頭も心も追いつかないけれど、好きな人にキスをされて、もっと深く繋がりたいと思ってしまう。理性も常識もどうでもよくなってしまう。

 やがて顔を合わせると、フェルディナンドはメリアンの赤い髪に触れ、苦しそうな表情をしながらメリアンを見つめた。

「お願いだから、もう私から逃げるな、メリアン」

 フェルディナンドはそう言うと、メリアンを強く抱きしめた。

(このまま彼に抱かれていたい。でも――)

 メリアンが逡巡していると、耳元で王子が苦し気に呟く声が聞こえた。

「……すまない、あと少しなんだ」

(あと少し? なんのこと?)

 問いかけるために離れようとするが、ますます強くなる腕の力に息が詰まるほどの熱を感じ、言葉を失う。

(残酷な人……けれど私はどうしたって殿下を愛している。もうそういう運命なのだ。それならば、正妻でなくても、二番目の……いや、もう何番目の女だって、いい)

 やっと力強い抱擁が緩まると、メリアンはこんな時まで残酷なほど美しい顔を見つめ、心臓がさらに高鳴るのを感じた。深呼吸。でも、落ち着かない。

 王子はじっとメリアンを見つめていた。その瞳の奥には燃え上がるような熱が宿っていて、彼の視線を受けるたびに、身体の中を熱い波が駆け巡るようだった。

 全て彼に委ねてしまいたい。たかぶる興奮は抑えられないところまできている。

 その欲望のまま、メリアンは今度は自分からフェルディナンドの唇にキスをした。

 戸惑う唇はほんの一瞬で、フェルディナンドはすぐにメリアンに応えた。甘ったるいキスに蕩けてしまいそう。

(好き……大好き……)

 メリアンは厚い胸に抱かれ、同じくうるさい鼓動を感じた。

 まるで夢の中にいるかのような至福の時間。

 衣服が一枚、また一枚と床に落ちていく。

 静かな図書室でふたりの荒い吐息が重なる。そしてそのまま冷め止まない情熱に身を委ね、ふたりは五年越しにまたひとつになった。


 気づくと、メリアンは巨大な寝台にいて、何も纏わぬ姿のまま、フェルディナンドに抱きしめられていた。鍛えられた太い腕は五年前よりもギッシリと力強いものだった。

 ここはフェルディナンドの部屋だ。

 その後何度交わっても収まらぬ熱を、フェルディナンドの部屋にも持ち込んだ。

 長い間ふたりは互いを求め合い、そのたびにメリアンは現実に苦しみながらもやめられなかった。何度も、何度も、求めては果て、やがて気を失ったようだ。

 今、目に入る光は窓から溢れる月光のみで、メリアンは慌てふためいた。

「……子供たちは」

 メリアンは起き上がろうとしたが、フェルディナンドは自分の腕の中にいるメリアンを放さない。

「今夜はモーリスが子供たちを見てくれるそうだ」

「モーリス様が?」

「だから心配しなくてもよい。お前はルカとリリスにとって素晴らしい母親だ。でもたまにはこうして休んだっていいのではないか。お前はもうひとりではないのだ」

 その言葉にメリアンはほんの少し驚きながらも心の中でふっと軽くなったような感覚を覚えた。

「……はい」

「寝なおすか? それとも……?」

 フェルディナンドが耳元に口を近づけて囁いた瞬間、メリアンの顔は自然に熱を帯びた。

 いつも自分に向けられるクールな印象を微塵も感じさせない甘い顔に戸惑いながらも、その無邪気さに心が揺れる。

(どうしよう)

 そう心の中で呟いたものの、結局は王子の腕にしっかりと身を預けていた。

(もう本当に……どうしようもないほど好きで好きで堪らない……)

 気持ちが強くなり、体の中が沸々と熱くなる。

「殿下……」

「なんだ?」

「……それとも、の方で」

 フェルディナンドは困ったようなため息をついた。

「メリアン、お前は本当に、たまに突拍子のないことを」

 熱っぽいメリアンの瞳にフェルディナンドは言葉を途中で切り、また強く抱きしめた。そしてメリアンの赤い波打つ髪を優しく掴み、愛おしそうにキスをした。