第二章 再会


 メリアンと子供たちが住んでいるところはカタルニア王国の最北にあり、人口五十人ほどの小さな村だ。

 村人のほとんどが隣国からの移民で他人にあまり干渉しないので、この国では高貴な銀色の髪をした双子を赤髪の女が育てていようが気に留めるものはおらず、メリアンは助かっていた。

(ここなら見つかることなく静かに暮らせる)

 貴族の家に生まれ育ち、華やかな日常を送ってきた過去からは想像もつかない、質素で貧しい暮らし。最初は慣れなかったが、次第にそれが当たり前のように思えるようになった。

 前世の知識も活かして庭に薬草や野菜を育て、近くの村人や旅商人と物々交換をすることで生活もなんとか成り立っていた。

 後悔はない。ただあの夜、フェルディナンドとの一夜が、彼のプライドや心を傷つけたであろうことにメリアンは罪悪感を抱いていた。

 もしもあの夜のことを誰かが知ってしまったら、王子の名誉はもちろん誇りまでもが損なわれる可能性がある。

 そして今メリアンが王族の子供を密かに産み育てていることが明らかになれば、メリアン自身が罪に問われるばかりか、最悪の場合、子供たちを奪われることにもなりかねない。

 ――絶対に見つかってはいけない。

 それがメリアンの全ての行動の指針になっていた。だから村では人目を避け、村人たちとの接触は最小限にとどめていた。

 双子にも「お母さん以外の人には決して近づいてはダメよ」と繰り返し教え込んでいた。それでも、不安は完全には拭えない。

 夜更けに家の外から物音が聞こえるたび、誰かが自分たちを見つけに来たのではないかと胸騒ぎがする。

 夢の中に騎士団が現れ、剣を手に自分を囲む光景を繰り返し見ることもある。

 子供たちを守ろうと手を伸ばしても、彼らはすぐ手の届かないところへ連れ去られてしまう――そんな悪夢にうなされ目が覚めると、汗に濡れた体はひどく冷えている。

 それでも朝になり、目を覚ました双子が「おはよう、おかあさん!」と屈託のない笑顔を見せると、胸の中の重苦しい感情が少しだけわずかに和らぐ。

 ふたりがいるから自分は頑張れる。

 どんなに貧しくても、どんなに不安に押し潰されそうになっても、この子たちと一緒なら乗り越えられる。贅沢な暮らしはできないが、親子三人で過ごすこの日々はメリアンにとってかけがえのない幸せな時間だ。


 アンデの森は家から歩いて三十分ほどのところにある。

 豊かな自然に恵まれた森で、春には色とりどりの花が咲き、夏には小川のせせらぎが涼しさを運び、秋には木々が色づき、そして冬には白銀の世界が広がる。

 この森は精霊たちの住処すみかとしても知られており、水、風、土、花などの多様な精霊たちが生息しているので、精霊魔法の属性を持つルカとリリスにとって魔法を練習する場所としても適していた。

「ぼくはきょう、みずのせいれいまほうをやるんだ!」

 ルカはそう言うと両手を合わせ、森の中にある小さな池に向かって魔法を唱えた。しかし、水面がほんの少しだけ震えるのみで、思ったように水が動かない。

 ルカがもう一度、集中して魔法を唱え直すと、ようやく水面が光り一瞬だけ光の粒が舞い上がった。

「すごい! ルカ!」

 リリスは拍手をしながら歓声を上げた。

 それからリリスも負けじと魔法を唱えると、近くに咲いていた花がじんわりと色を変えてゆっくりと舞い上がる。まだ未熟で、まるで風に吹かれたように不安定な揺れ方だが、リリスは嬉しそうにその光景を見つめた。

「リリスがとくいな、はなのせいれいまほうだね」

「そう。でもリリスもルカみたいに、みずのせいれいさんもよべるようになりたいな」

 リリスは羨ましそうに言った。

 ふたりは何度も魔法の練習を繰り返した。すると辺りに太陽の光を浴びた水と花が飛び交い、幻想的な光景となった。

「綺麗ね」

 最近のふたりの成長は目覚ましい。子供たちの魔法に感心したメリアンが微笑みを浮かべたその時――突然、耳を裂くような風切音と共に嵐が巻き起こった。

「おかあさん! と、とまらない!」

 ルカが必死で叫んでいる。

 精霊魔法はコントロールが非常に難しく、ルカが同時に呼び出した水と風の精霊の相性が悪く暴れ出したのだ。それはメリアンが常々心配していたことだった。

 ルカは焦りと恐怖に目を見開き、小さな手をバタバタと振り回すものの、精霊たちの暴走をどうすることもできず、ますます強く揺れる風と水に包まれている。

 メリアンはすぐに両手に力を籠めて制御魔法を使い、それを食い止めた。

 ルカの魔法はまだ未熟であるためメリアンの制御魔法で抑えることができたが、本来ならば同じ精霊魔法使いでないと精霊魔法を収めることは難しい。

「もう大丈夫よ」

 メリアンは怯える双子を抱きしめた。ルカは泣きながら、メリアンの胸に顔をうずめて小さな声で呟いた。

「こわかった……」

 その小さな体はまだ震えており、メリアンの腕の中で力なく揺れていた。

「怖かったわね」

 メリアンはルカの背中を優しく撫でながら静かな声で応えた。

 ルカはしばらく顔を上げることなく、ただメリアンの温かさに身を委ねた。リリスもルカを支えるようにそっと手を置いてルカを励ました。

「おかあさんがいるから、だいじょうぶだよ」

 ルカは涙を拭いながら小さく頷いた。

 ふたりの成長が嬉しい反面、最近はこのような悩みも増えている。

 魔法の属性は遺伝だ。ふたりは見た目から魔法の属性まで、父親であるフェルディナンドの血を濃く引いている。それはフェルディナンドをずっと愛してきたメリアンにとっては嬉しいことであったが、同時に悩ましいことでもあった。

 通常子供は親の魔法を見ながら育っていく。精霊魔法使いのふたりと火魔法使いのメリアンとは根本的に魔法の扱い方や出し方などが違うため、メリアンが彼らに教えられることは限られているのだ。

 メリアンは子供が使う程度の精霊魔法は使えるが、高度なものは使えない。

 精霊魔法は自分の力ではなく精霊の力を借りる魔法なので、日常的な精霊とのコミュニケーションも大切だ。それゆえ複雑で危険を伴うことも多く、精霊魔法の使い手から精霊との繋がり方などを教えてもらう必要がある。

 しかし精霊魔法使いは王族の血筋に多く、この辺りにはいない。

 それでもメリアンは諦めるわけにはいかない。ふたりをひとりで産んだ時にそう決めたのだ。

 何があっても子供たちを立派に育ててみせると。

「早くふたりの師匠を探さなければね」

 メリアンは決意を持ってふたりに伝えた。

「ししょうって、なに?」

「ししょう?」

 ふたりは顔を見合わせ、首をかしげた。メリアンは思わず微笑みながら答えた。

「師匠っていうのは、ルカとリリスに精霊魔法を教えてくれる人のことよ」

 すると、魔法を覚え始めのふたりは嬉しそうに「そしたらもっともっとまほうがつかえるようになるね」「たのしみ!」とはしゃいでいた。


 アンデの森での充実した時間が終わり、メリアンたちは家に帰ることにした。

 しかし帰り道、いつもとはどこか違うような不穏な空気が漂っているのを感じた。耳を澄ますと、ずしずしずし、と複数の駆ける足音が聞こえる。

(珍しいわ)

 この森は普段、人の気配は皆無だ。

 メリアンは子供たちをさっと自分の懐に抱きしめ、周りを見回した。

 足音はだんだん大きくなっていく。

 不安を感じながら、ふたりには声を出さないようにと、「しー」と口元を人差し指で触れた。するとふたりは母親の言葉に素直に頷く。

 そのうち足音だけではなく声も届くようになり、多数の人間がすぐ傍にいることが分かると、メリアンはより警戒心を強め、子供たちと一緒に息をひそめながら茂みの中に隠れた。

 草むらをかき分ける音がすぐ傍まで近づく。

 張り詰める空気の中、その者たちの様子をそっと窺うと、鎧を身に纏った騎士が複数いるのが見える。王家の禁色である藍色のマントを背負い、何かを捜しているように森の中を見回していた。

(王族直属の兵? もしかして……)

 メリアンは彼らが自分を捜しているのではないかと危機感を覚え、さらに身を屈めた。

 しばらくすると足音が遠ざかっていくのが分かり、メリアンは子供たちに「もう大丈夫そう」と伝え立ち上がる。

「ねえ、おかあさん、いまのって、きし?」

 ルカが目を輝かせてメリアンに尋ねると、リリスも興味津々な様子で続けた。

「ルカみたの? わたしはぜんぜんみえなかった」

 メリアンは双子を交互に見つめ、少し考え込むように目を伏せた。

「そうね。でも目的が分からないから見つからない方がいいわ」

「でも、かっこよかったよね」

「ええ。だけど今は静かにしましょう」

 本でしか外の世界のことを知らないルカの純粋な目には騎士たちがただの英雄に映るのだろう。

「今のうちに帰りましょう」

 メリアンは周囲を警戒しつつ、ふたりの小さな手を握り、帰路を急いだ。

 しかし三人が家の前に辿り着くと、鍵を閉めていたはずの扉は全開で、中からはガチャガチャと大きな音がした。

「ここで待ってて。分かった?」

 メリアンは子供たちを大きなカシの木の陰に隠し、先に家に入って確認してみることにした。

(なにがなんでも私が子供たちを守らないと)

 警戒しながら家に入る。

 すると、扉という扉は全て開かれ、先ほど森にいた騎士と同じ装いの騎士たちが侵入していた。

 メリアンはとっに火魔法で彼らを撃退しようと手に火の玉を籠め、メリアンに気づくことなくカーテンの裏を探っている騎士めがけてぶつけようとした。

 その時――。

「メリアン様、おやめください」

 突然背後から名前を呼ばれ、メリアンは驚いて振り返った。

 なんと、見知った顔が目に飛び込んできた。

「エ、エリオット様……なぜ」

 それはフェルディナンドに仕えていた第二王子付き騎士団の団長だった。

 メリアンが最後に見た時から年月が経ち、四十歳を過ぎてもなお、長年の訓練と戦いを物語る筋肉質な姿は変わらない。

 黒の瞳と硬い表情からは真剣で誠実な性格が窺える。黒髪は短く整えられ、常にきちんとした姿勢を崩さないその態度はまさに王子に仕える者としてふさわしい。

 エリオットは基本、フェルディナンドがどこへ行くにも付いて護衛をすることが多い。

(ということは、殿下もこの近くに……?)

 メリアンは嫌な予感がして急いで外に出る。

 すると泣いているリリスを背中に乗せ、不安定に歩くルカが玄関の前にいた。

 なかなか戻ってこないメリアンを心配したのだろう。目を凝らすと、ふたりを遠くから囲っている騎士たちも見えた。

「おかあさんはぼくがまもるんだ!」

 まだ四歳ながら勇敢なルカはそう叫ぶと、水の精霊を呼びメリアンの傍で構えていたエリオットを攻撃しようとした。

 しかしルカが魔力を集めた瞬間、彼の背後にある人物が現れた。そして一瞬でルカの魔法を強大な力で押し潰すように無効化した。

「魔力のコントロールが全くなっていないじゃないか」

 その人は光沢のある銀の鎧を身に纏い、王家の紋章が金糸でしゅうされた藍色のマントを背負っている。風になびく銀色の髪は陽の光を浴びて、輝きを放っていた。

 ――メリアンがこの世で一番恋焦がれ、けれど一番会いたくなかった人。

「フェルディナンド殿下……」

 ついその名前を口にしてしまう。

 あれからもう五年も経っているのに、端整な顔立ちも佇まいも何も変わらない。

 むしろ年齢を重ね、美しさや威厳はますます増したようにさえ感じる。そしてさらに鍛え抜かれた肉体がその魅力を一層際立たせ、以前にも増して力強さを感じさせる姿に思わず息を呑む。

 フェルディナンドは王族らしく優雅に手を振り、騎士たちに合図を送った。すると彼らは一斉に引き下がり、王子の後ろに控えた。

「殿下……なぜこちらに……」

 メリアンは震える声で尋ねた。心臓が激しく鼓動し、まるで時間が止まったかのように感じた。

「……お前を捜していた。お前が消えたあの日からずっと」

 いつかこんな日が来てしまうかもしれない、と何度も思っていた。

 愛する子供たちと暮らす幸せな日々の中、常にそんな恐れを抱え生きてきた。

 そしてついに起きてしまった現実に、メリアンは耐えきれず膝をつき、激しく涙をこぼしながら崩れ落ちた。

 たとえあの時、名義上は婚約者だったとはいえ、一国の王子にあんな無礼を働いたことは、メリアンがどんなに遠くへ行こうと、どんなに時間が経とうと、許されるわけもないのだ。ましてや、王家の血を引く子供たちの存在を長年隠していたことは重罪であろう。

 分かっていたことだが、あわよくば、どうか忘れてほしいと思っていた。

(けれど、あの日から五年もの間私を捜し続け、こんなへんな村にまできて捜し出したなんて……そうとうお怒りなんだわ……)

 メリアンはフェルディナンドの執念を感じ、覚悟を決めた。

 短い幸せだった。けれど最高の幸せだった。

 メリアンは不安そうにする子供たちの顔を眺めた。

 ふたりはたくさんの大人に囲まれて、声が出ないほど怯えている。

 ごめんなさい、こんなことになってしまって。

 愛してる、ルカ、リリス。

「殿下、どうか子供たちだけにはお情けを」

 メリアンは必死に訴え、手首を差し出した。

 どんなに覚悟を決めたといっても、腕も指も、恐怖で震えてしまう。前世では自ら死を選んだのに、大切なものができた今世では、死ぬことがこんなに怖いなんて……。

 しかしフェルディナンドはメリアンの腕を掴むと、彼女を自身の胸元に引き寄せた。

 縛られる覚悟だったメリアンは驚いた。

「な……なにを」

「ずっと捜していたと言っただろう」

「私を打ち首にするためでは?」

「何を言っているのだ。とにかくお前を王宮に連れていく」

 恋焦がれた相手との予想外の接触についドキッとしてしまったが、メリアンは自分を戒めた。

(メリアン、何勘違いしているの。これは抱擁ではなく拘束よ)

 王子の腕の中に閉じ込められているだけ。

(だって私は、殿下に無体を働いただけではなく、彼の愛するエレオノーラをずっと傷つけ続けてきた憎き存在なのだから)

「こ、子供たちは……」

「子供たちも一緒にだ」

 このままどうにか逃がしてもらい、三人で静かにこの地でいつも通り暮らしたい。

 けれど、騎士団に囲まれた今は彼の言うことに従う他ないように思えた。


 王都に向かう馬車は静かな揺れを伴いながらゆっくりと進んでいった。

 乗り物に乗ったことのないルカとリリスは異様に緊張していた。馬車の揺れに体を預けることもなく、背筋を伸ばしたまま不安そうに顔を見合わせてばかりだった。

 しかし次第にその緊張も解け始めると、ふたりは向かい側に座る男性の顔をじっと見つめた。

 自分たちと同じ銀色の髪と青い瞳を持つ大人。けれどそれ以上に彼の美貌と圧倒的なオーラに目を奪われていたようだ。

 最初は考え込むように窓の外ばかり見ていたフェルディナンドだったが、ふたりの視線に気づくと子供たちに微笑みかけた。

 メリアンは一瞬その甘い笑顔に驚いたが、そう驚くこともないかもしれないと思い直した。

 彼はいつだって、自分以外には普通に笑顔を見せていた。

 自分には向けられない、遠くから見る笑顔はいつもとても眩しかった。

 どんなにフェルディナンドから憎まれていようが、メリアンの彼を想う心は五年前からそこだけ時間が止まっていたかのように変わらない。

 フェルディナンドの笑みに、未だくすぶり続けている恋心が揺さぶられる。

「先ほどは怖がらせて悪かった。私はカタルニア王国第二王子フェルディナンドだ」

 彼は子供たちに自分のことを紹介した。

「おうじさま?」

 リリスが不思議そうに首をかしげる。

「ああ、そうだ」

「ぼくはルカです。こっちはいもうとのリリスです」

 ルカはフェルディナンドの返事に被せるようにして自分たちの名前を告げた。

 村では子供たちが人と接する状況は避けてきたが、メリアンは子供たちに最低限の礼儀作法や言葉遣いを教えていた。

 ルカは自分の言葉に少々不安そうではあるものの、一生懸命に話した。

「ふたりは双子かい?」

「はい」

「私にも兄がひとりいる」

 そんな他愛のない話が続いた。

 ルカとリリスは最初は見知らぬ大人に戸惑いながらも、フェルディナンドが自分たちに何か悪いことをするわけではないことを子供なりに感じたようで、徐々に彼に心を開いていった。

 そんな中、フェルディナンドは核心をついた質問をし、メリアンの胸をざわつかせた。

「ルカ、君が先ほど使おうとしていたのは精霊魔法かい?」

「うん、ぼくはせいれいまほうつかいで、みずのせいれいとなかよしなんだよ」

 ルカがそう答えると、「リリスは、はなのせいれいさんと……」とリリスも続けた。

 フェルディナンドはメリアンの方をチラリと見た。

 当のメリアンは、動揺を隠しきれず微かに息を呑んだ。

「おうじはどんなまほうをつかうの?」

 ルカは目を輝かせて聞く。

「私も君たちと同じ精霊魔法だ」

「へー! じゃ、ぼくたちのししょうになってください。ぼくたち、ししょうをさがしてたのです! おかあさんは、ひのまほうつかいなので」

「なってください。おねがいします」

 フェルディナンドはフッと笑った後、ふたりの頭を撫でながら「良いだろう」と答えた。

 メリアンは子供たちとフェルディナンドとのやり取りを見てヒヤヒヤした。

 彼は子供たちの容姿を見て、彼らが自分の子であることに既に気づいていたのだろうが、これで確信したという表情だった。

 けれど、そのことをメリアン本人には直接聞いてはこない。

 そんな態度がメリアンを混乱させた。本当はメリアンから正直に告げるべきなのかもしれないが、今は何もかもが予測不可能な状態で、下手に何かをすると事態を悪化させるかもしれない。

 メリアンは、今は何も言わず静かに状況を見守ることに決めた。


 馬車での旅は三日目にしてようやく王都に入った。

 王都は多くの人々が行き交い活気があった。メリアンにとっては懐かしいものだったが、子供たちには初めての光景で、馬車の窓から外を覗き込むふたりは興奮気味だった。

「こーんなにいっぱいのひとをみたの、はじめて!」

「みてみて、あのおうち、すっごーくおおきい!」

 子供たちは歓声を上げあれやこれやと指をさして楽しんでいた。

 次第に王宮へと続く大きな門が現れ、ゆっくりと開かれた。

 手入れの行き届いた美しい庭園が広がり、その中心には白い大理石で建てられた宮殿がそびえ立つ。宮殿の周りには近衛兵が守備についており厳戒態勢が敷かれていた。

 馬車が宮殿の正面に止まると派手な出迎えがあった。多くの家臣たちが集まり、フェルディナンドを迎えるために立ち並んでいた。

 王子が馬車から降りると彼らは深々と頭を下げた。

「フェルディナンド殿下、お帰りなさいませ」

「ああ」

 そして彼らは揃って顔を上げると、フェルディナンドが自ら馬車から降ろした小さな双子に目を奪われた。

 銀色の髪と青い瞳、それだけで全て察したようだった。

「殿下、どうかおふたりの名を」

 フェルディナンドの側近である、年老いて腰が曲がった白髪のモーリスが皆を代表し訊ねた。

「ルカとリリスだ」

 王子は誇らしそうに答えた。

 するとモーリスはルカ、リリスの手をひとりずつ取り、握りしめた。

「ルカ様、リリス様、私はフェルディナンド殿下に仕えておりますモーリスと申します」

 ふたりはキョトンとした。

 今まで自分たちのことに無関心な小さな村に住み、滅多に人と出会うことのなかったふたりが、この数日間だけで何十人もの大人に出会ったのだ。

 最初は怖かっただろうが、それ以来彼らから敬意をもって接せられて、それが普通なのか、そうでないのか、何を意味するのかなど何も分かっていない様子だ。

 メリアンもあえて説明しなかった。実際この後自分も子供たちもどのような扱いを受けるかも分からない。

 モーリスはさらに、その後馬車から降りたメリアンにも深々とお辞儀をした。

「メリアン様も、ご無事で何よりです」

 フェルディナンドが幼い頃からずっと彼の教育係兼側近として傍にいたモーリスのことは、メリアンももちろん知っていた。

 モーリスのフェルディナンドに対する忠誠心は絶対でありながらも、常にフェルディナンドの周りをうろちょろしていて、でも相手をしてもらえないメリアンに対し優しく励ましてくれたことがあった。王子とエレオノーラの恋路を邪魔するあれこれを、見て見ぬふりをしてくれたことも。

 メリアンにとって自分の黒歴史を全て知るモーリスとの再会は気恥ずかしさがあった。

「モーリス様もお変わりなく」

 メリアンは深く礼をした。

 宮殿に入った瞬間、懐かしいの香りに包まれた。

 高い天井や華麗な装飾、豪華な調度品など全てが昔と変わらず美しい。広々とした廊下を進むと、たくさんの使用人たちが慌ただしく動き回っている。

「ここが私の住まいだ」

 フェルディナンドは子供たちに言い、ふたりを先頭に宮殿の中を案内した。

「これがおうちなの!?

「わー……」

 子供たちはあまりにも大きな『家』にただただびっくりしていた。

 メリアンは中にどんどんと進む三人の後ろに続く。

 フェルディナンドはそのまま宮殿の中央にある中庭まで進んだ。そこには青い芝生が広がっている。色鮮やかな花々も咲き、高い木々は立派に立っていた。

 ふとメリアンの目に入ったのは、大きな白い花をたくさん咲かせたマグノリアの木だった。

(懐かしい……)

 メリアンの胸に押し寄せる感情は、まるで昨日のことのように鮮明な記憶を呼び覚ました。この中庭は、彼女がフェルディナンドと初めて出会った場所だったのだ。


 九歳のメリアンは、父であるシュトルツ公爵に連れられて初めて王宮を訪れることになった。

 シュトルツ公爵はカタルニア王国の大臣のひとりで、王族に次ぐ身分であることを誇りにしていた。そのため礼儀作法やマナーには人一倍厳しかった。

 馬車を降りると、シュトルツ公爵は王宮の壮麗な建物を背にして、淡いクリーム色のワンピースに白い帽子を被り公爵令嬢として完璧に装っていたメリアンに鋭い目を向けた。

「メリアン、ここでは常に礼儀正しく振る舞いなさい。言葉遣いや立ち居振る舞いは公爵家の娘としての品位を示すものだ」

「は、はい、父上」

 メリアンは小さな声で答えたが、その緊張は手足の震えとなって現れていた。

 王宮に入り、貴族たちと挨拶を交わす場面になると、メリアンが言葉を噛むたびに、父の顔が厳しさを増していくのを感じた。

「メリアン、お前は公爵家の娘だ。未熟な子供として許されることはない」

 父の冷たい声にメリアンは堪えきれず涙をこぼした。だがその涙も公爵の怒りをさらにあおるだけだった。

「泣くな。他人に弱さを見せるなど貴族失格だ」

 その後、シュトルツ公爵は廊下で宰相と出会い長々と立ち話を始めた。

 メリアンはその隙を見計らい父の下から逃げ出した。さらに怒られるのが怖かったのだ。

 宮殿の中を夢中で走るうちにその広さと複雑さに気づいたが、立ち止まる勇気すらなかった。

 すると、目の前に中庭がふいに現れた。この日は春一番が強く吹き、花びらが踊るように舞っていた。その幻想的な空間に足を踏み入れると、被っていた帽子が強風で空中に舞い上がってしまった。

 驚いて追いかけようとしたが、風がますます強くなって、帽子は彼女の手の届かない高さまで飛んでいった。そしてマグノリアの枝に引っかかり、しばらく揺れた後、地面に落ちることなくそこで静かに止まった。

 メリアンは赤い髪の毛がコンプレックスで、それを隠す役割を果たしていた帽子を失くしたことと、自分が今迷子になっていると気づいたことで泣き出してしまった。

(ああ……泣いたらまた父上に怒られてしまうわ……でも、涙が止まらない! ……どうしよう!?

 そんな時、メリアンよりも少々年上であろう少年がふと現れた。

 そして彼は手を上に伸ばし左右に振りかざすと、風の精霊魔法を使ってメリアンの帽子を取り戻してくれた。

「これ、君のだろう」

 そう言い帽子を被せてくれた瞬間、メリアンは正面から見た彼の顔から目が離せなくなってしまった。

 強い風に靡く銀色の髪と海のように爽やかな青色の瞳、そして顔の作りそのものが、この世の何よりも美しくて。

(なんて綺麗な男の子なの……)

 心臓が高鳴り、これまで感じたことのない感情がメリアンの胸の奥に押し寄せた。

 しかし彼はメリアンの熱い視線に気づくと、若干引きつった表情を浮かべた。不機嫌なのか、それとも照れているのか、表情は読めなかったが、彼はそっと視線を逸らし、何も言わずに背を向けて立ち去ってしまった。

 その後、父であるシュトルツ公爵がメリアンを迎えにきた。メリアンが突然いなくなり宮殿中を捜し回っていたらしい。

 怒られると思ったが、「心配した」と抱きしめられた。父は厳格だが、同時に愛情深い。

「フェルディナンド王子がお前が中庭にいると教えてくれたんだ」

「王子? ……あの銀色の髪の……?」

「ああ。第二王子であられるフェルディナンド殿下だ」

 その日以来、メリアンはフェルディナンドに対して淡い恋心を抱くようになった。

 憧れは、次第にもっと彼を知りたい、近づきたいという強い想いに変わっていった。

 フェルディナンドに会うため王宮を頻繁に訪れ、毎回心躍るような期待と共にフェルディナンドの姿を捜していた。

 それだけではなくメリアンは、自分が王子の隣にあるためにはもっと成長しなければならないと感じ、父からの厳しい躾にも耐え、礼儀作法をしっかり学び、王宮の厳しいマナーにも精一杯取り組んだ。

 それまで気弱で自分に自信を持てずにいたが、精神的にも強くなりたいと積極的に他の貴族たちと接しながら自分を鍛えた。どんなに辛くても、王子の傍に立つ自分を思い描いて、その想いを支えにしていた。

 メリアンにとって思い出が詰まった中庭を、今ルカとリリスが駆け回っている。なんとも不思議な気分だ。そしてフェルディナンドも、近くで目を離すことなく子供たちを見守っている。

 この数日間で王子と子供たちは随分と打ち解けたようだが、メリアンと彼との間には緊張感が残っていた。会話という会話は何ひとつしていない。

 メリアンは子供たちの楽しそうな様子を見てほっとしている一方、自分は今後どうなるのかが気がかりだった。ここで審判にかけられ、やはり皆の前で打ち首になるのだろうか。

 そんな悲観的な思考に襲われていると、フェルディナンドが珍しくメリアンに声をかけた。

「みな、長旅で疲れただろう。部屋に案内しよう」

 そうして三人はフェルディナンドの部屋の近くの一室に案内された。

 扉を開くと、イランイランの甘い香りが漂っていた。それはメリアンが昔香水でつけていたほど好きな香りだ。

 部屋は広く、天井は高い。窓からは先ほどの中庭が見える。壁には美しいタペストリーや絵画が飾られ、家具は全て手の込んだ細工が施されていた。天蓋付きの大きな寝台にはシルクの寝具が敷かれ、その隣にはきゅうきょ用意されたように不揃いの小さな寝台がふたつ並んでいる。

「しばらくはこの部屋に滞在してもらうことになる。不自由はさせぬ。何か必要なものがあったら、モーリスやメイドたちに言ってくれ」

 フェルディナンドはメリアンにそう言い残し部屋を出た。

 そして入れ替わるように三人の年老いたメイドたちが入ってきた。その中にメリアンが知っている者はいなかった。

 三人は色とりどりのドレスやら子供服やらが大量にかかったラックを部屋に運んだ。

 動きやすさと過ごしやすさを重視していた質素な服は、あっという間に煌びやかなドレスに替わり、子供たちも襟のついた立派な服を着せられた。けれどふたりはそんなことはお構いなしに広々とした部屋で駆け回っている。子供の体力は無限だ。

 メリアンは鏡の前に立ち自分の姿を見た。

(こんなドレスを着るなんて久しぶりだわ。胸だけは多少きついけれど、サイズはぴったり)

 この五年間、子供たち中心で自分の容姿や服装などは全く気にすることなく過ごしてきたので、久しぶりに着飾っている自分を見るのは少々照れくさい。

 淡いピンク色のドレスは襟元に小さな花がちりばめられ、スカートにはフリルがたくさんついている。少しでも王子に可愛いと思われたくて、毎回ドレス選びには気を遣っていた以前のメリアンの趣味そのものだ。まるで当時の自分のクローゼットの中のようなドレスばかりが用意されていて、どれも可愛い。

 夕暮れ時、モーリスがメリアンの部屋を訪れた。

「王子殿下が夕食を共にしたいとのことです」

 三人はモーリスに連れられロイヤルダイニングルームに向かった。

 広々とした部屋の中心には二十人が腰かけることのできるほど長い大理石のテーブルが置かれている。そんな豪華なテーブルの上には春花のアレンジメントが飾られ、季節に合ったテーブルコーディネートが施されていた。

 フェルディナンドは既に席に座り待っていた。

(そういえばエレオノーラはいないのかしら? 食器も四人分しかないけれど……)

 メリアンは少し疑問を感じながらも、その場に足を踏み入れる。

(まぁ、さんざん彼女をいじめてきた私と会わせるはずはないわよね……)

「お待たせして申し訳ございません」

 フェルディナンドはメリアンの姿に目を留めたかと思うと、少し困ったような顔をし、そっと目を逸らした。

 このように避けられるような態度を取られることには昔から慣れていたが、やはり以前と変わらず落ち込んでしまう。

 メリアンの表情が曇ったことに気づいたのか、フェルディナンドは何かを言おうとするように口を開いたが、結局何も言わずに黙り込んでしまった。

 そんな時リリスがやや遠慮がちに王子の前に進み出た。

「ドレスかわいい?」

 フリフリのドレスをフェルディナンドに見せつけるようにしながら、首をかしげ尋ねる。

 するとフェルディナンドは椅子から降り、ふたりの背丈ほどに屈んで「ふたりとも、とてもよく似合っている」と褒め言葉をかけながら頭を撫でた。すると子供たちは嬉しそうににっこり笑った。

(私のことが嫌でも、なんだかんだ子供たちのことは可愛いと思ってくれているのね)

 そのことに安心した。もし自分が処罰を受けたとしても、ふたりはちゃんとメリアンの罪を背負わず生かしてもらえるだろうと思えた。

 王宮の料理はまさに豪華そのもの。このような格式のある食事は初めての経験である双子は戸惑っていた。

 ルカは大きな銀のフォークを不器用に持つ。しかし最初のひと口を取ろうとした瞬間、手が震えてフォークを落としてしまった。その音に周りが少し驚き、メリアンは慌てて顔を赤くした。

「申し訳ありません! ふたりはこういう食事には慣れてなくて……」

 焦って謝るメリアンに、フェルディナンドは穏やかな声で答えた。

「これから覚えればよい。慌てなくても大丈夫だ」

 メリアンはその言葉に安堵したが、いまだ子供たちが何をするか分からないという緊張は残っていた。

 食事が進む途中、王子はエリオットに呼ばれ、急遽その場を離れることになった。

 メリアンは、フェルディナンドが席を外したことでわずかに肩の力が抜けた。

 もちろん周りにはモーリスや他の使用人が見守るようにいるのだが、メリアンにとってフェルディナンドは特別な存在だったから。子供たちも王子に慣れたとはいえ不満があるようで、メリアンにコソッと本音をこぼした。

「きのうのごはんも、きょうのもとってもおいしいけど、おかあさんのごはんもたべたいな」

「リリスも」

 自分の処遇も分からないうちに子供たちに約束できることはなく、メリアンは笑顔を作りながら「ありがとう」と返した。

 食事が終わってもフェルディナンドは戻ってこなかったため、三人はそのままモーリスに連れられ部屋に戻った。モーリスはしばらくの間、メリアンと子供たちに付くという。

「でもモーリス様は殿下の傍にいなくてもよろしいのですか」

 メリアンが訊ねると、モーリスは柔らかな笑みを浮かべながら答えた。

「メリアン様のことをお考えになって殿下が決めたことでございます」

「それはどういう意味でしょう」

「あなたが少しでも安心して宮殿でお子様方と過ごしていただけることが、殿下の希望でございます」

 その言葉には、フェルディナンドがメリアンたちの安全を気にかけているという意図が感じられた一方で、彼の支配下に置かれているような気配もあった。

(私たちを見張っているのかしら?)

 メリアンはそんな考えを巡らせながら、子供たちと一緒にベッドに入る時間までメイドたちに世話を焼かれながら過ごした。

 子供たちは新しい環境にも長旅にも疲れたのか、いつもなら「お話をして」とメリアンに童話を聞かせるようにせがんでくるのだが、今日はベッドに入るとすぐに眠りについた。

 一方のメリアンはなかなか寝付けなかった。

 心配や不安が頭の中を駆け回り、何度も目を閉じ深呼吸を繰り返したが落ち着かない。

 流されるまま王宮に来たことが本当に正しかったのか、いつまでここにいるのか、自分も子供たちもこれからどうなるのか……考えたところで答えなど出ないのは分かっていたが、それでも心の中では悩みが渦巻いていた。


 コンコンコン、と扉をノックする音が静寂の中に響く。

 深夜に鳴ったその音に、メリアンは一瞬驚き警戒心を抱きながら静かにベッドから降りた。足音を忍ばせながら暗い部屋を歩いて扉へと向かう。

 扉を静かに開けると、そこには思いがけない人がいた。

「殿下」

 銀髪の王子は、威厳を保ちながらもどこか躊躇ためらいを感じさせる表情でメリアンを見つめていた。

「……どうかされたのですか?」

 フェルディナンドは困ったように顔をそむけると、しばらく黙ったままだったが、やがて「いや」とだけ答えた。その瞬間、青い目がほんのわずかの間だけメリアンを映した。それだけでメリアンの胸は一瞬で高鳴る。

 時間が止まったような感覚が広がる中、フェルディナンドは口を開いた。

「良い夜を」

 そして、後ろにひっそりと控えていたエリオットと共に部屋を離れていった。

 メリアンは王子の訪問に戸惑いながらも、もしかしたら彼は自分たちのことを気にかけてくれているのかもしれないと感じ、少しほっとした。

 本当はなぜ訪ねてきたのか、何を話そうとしていたのかは分からないが、自分たちを気遣ってくれての行為のような気がした。

 メリアンは子供たちが安心して眠る様子を見て、今はこの場所で彼らと一緒に過ごすことに専念することに決めた。

 もちろん、将来のことについて考えるのは避けられない。自分たちの運命はどうなるのか、何が待ち受けているのか、不安は常につきまとっている。

 しかし、今は子供たちと共に次の日を迎えるための体力をつけることが一番。自分たちの未来がどうなるにせよ、今できることを一生懸命にやることが大切だと思い、ゆっくりと目を閉じた。


◇ ◇ ◇


「もう少々お話しされないでよろしかったのですか」

 薄暗い廊下を歩きながら、フェルディナンド直属の騎士団の長であるエリオットは王子の背に向かってそう呟く。

 エリオットは、フェルディナンドがモーリスと同じくらい信用を寄せている男だ。氷の魔法を扱う騎士としての強さも、フェルディナンドへの忠誠心も絶対的なものだった。

「メリアンの顔を見ると、いつも何を喋ったらいいのか分からなくなるのだ」

 銀髪の美丈夫はため息をつき、答えた。

 フェルディナンドは昔からこうだった。

「五年もかけやっと見つけ出したのに、私が不用意に言葉を発してまたいなくなってしまったら……」

 メリアンのことになるといつも弱気になる主に、エリオットは忠告する。

「けれど、あなたの態度は誤解を招きかねませんよ。以前のように」

「分かっている」

「それならばよろしいのですが」

 フェルディナンドはまた深くため息をついた。

「それにしてもあんな奥地に公爵令嬢であるメリアンが五年もの間住んでいたなんて」

「メリアン様は昔からとても図太いお方でございました――」

「おい、口を慎め」

「おっと、失礼いたしました。しかし、ルカ王子とリリス姫はふたりとも殿下の生き写しのようですな。捜したかいがあったというものです」

「ああ、ふたりは……とても可愛い」

 フェルディナンドは目尻を下げ小さく口角を上げると、微笑ましそうに眉を上げ、目をキラキラと輝かせている。

「そのようなお顔もメリアン様にお見せすればよいのに」

「そんなカッコ悪いことができるか」

「殿下はメリアン様の前では必要以上にカッコつけてしまいますものね」

「……そんなことはないつもりだが、どうしてもメリアンの前ではうまくできぬ」

「殿下がメリアン様と出会われた頃を思い出しますね」

 エリオットはふと懐かしく語り出した。

「殿下は十一歳、メリアン様が九歳の時でしたね。中庭で偶然お会いになり、それからというもの……まるで別人のように行動力がついたこと、鮮明に覚えております」

 メリアンに出会う前のフェルディナンドは、いつもどこか物足りない表情を浮かべていた。

 王族としての義務を果たし、周囲の期待に応えてはいたが、何事にも興味を抱くことはなく、贅沢な食事や華やかな舞踏会も彼にとってはただの儀式に過ぎないのだろうと、エリオットは感じていた。

 人々には常に笑顔を見せ、八方美人でいることに長けていたが、その笑顔の奥には冷え切った空虚さが漂っていた。

 そんな中、メリアンに出会ったのだ。

 フェルディナンドが初めて心から興味を持つようになった少女。彼女の純粋な愛と無償の優しさが、王子の乾いた心に新たな潤いを与えているようだった。

 フェルディナンドは足を止め、遠くを見つめるようにして答えた。

「あの時のことを、今でもよく覚えている。紅葉のように美しい赤髪、星屑を鏤めたような瞳……。大人ばかりの王宮で暮らしていた私にとって、彼女は初めて目にする純粋な存在だった」

 エリオットが微笑みながら頷くと、王子は言葉を続けた。

「父上に懇願してメリアンとの婚約を取り付けたのも彼女を守るためだ。それと同時に王国中の誰にも彼女が私のものだと分からせたかったからだ」

 王族として育ったフェルディナンドは、愛する人にどう接すれば良いのかが分からなかったのだろう。

 普通の家庭で育った者ならば自然に学ぶであろう愛情というものについて――親からの愛を受け、愛する者にどう心を向けるかということを、彼は経験してこなかった。国王として多忙な父を持ち、母を幼少期に失ったフェルディナンドには、愛情を表現する方法を学ぶ機会がなかったのだ。

 また、王族として、他人に簡単には本心を見せまいと、感情を抑え込むことが常だったのもあるだろう。

 素直に気持ちを伝えるのが不得意なフェルディナンドと、王子の気を引こうと健気に頑張りすぎるが故に空回りするメリアン。王宮の使用人たちは、幼いふたりを微笑ましく見守っていた。その姿は、王宮の厳粛な空気にひとときの温かさをもたらしていたのだ。

 だが、そんな関係が歪み始めたのは、エレオノーラの登場からだった。

「……それまでも王宮の若いメイドたちにヤキモチを焼かれることはありましたが、エレオノーラ様が王宮にいらしてから殿下とメリアン様との溝は深まるばかりに見えました」

 エリオットは慎重に言葉を選びながら、フェルディナンドの様子を窺った。

「あれは私なりの理由があった。お前も分かっているだろう」

 王子の顔が険しくなる。彼の言葉には重みがあり、明らかにその話題には触れたくない思いが滲んでいた。

「……いや、言い訳だな。メリアンを傷つけたのは、私の未熟さだ」

 メリアンが去ったあと、フェルディナンドは自分の生い立ち故の不器用さが無意識のうちにメリアンを傷つけていたことに気づいたようだった。

 エリオットはその言葉に応えず、しばらく黙って歩いた後、軽く咳払いをした。

「エレオノーラ様のことはお伝えしなくてよろしいのですか?」

「早く伝えるべきだとは思うが……まだ口外しない方がよいであろう」

 ため息をつきながら、フェルディナンドは頭を抱えるような仕草を見せた。

「そうですね」

 エリオットは静かに答え、ふたりはさらに歩を進めた。

 薄明かりのランプの光が揺れ、廊下の静けさを一層際立たせていた。重い沈黙の中、足音だけが響く。

 その沈黙を破ったのは、エリオットの言葉だった。

「殿下もメリアン様と同じく眠れない夜になりそうですね」

「それは困る。三人と会ってから、もう三日もろくに寝ていないのだ」

「宿でも私たちに任せておけばよいのにずっとドアの前で見張っていらっしゃるから……」

「ああ、ここに帰ってくるまでは、いつまた逃げ出さないかずっと不安だったからな。でも今日はお前たちに任せ、ちゃんと眠ることにする。明日は子供たちに精霊魔法を教えると約束したからな」

 フェルディナンドの言葉には、ほんの少しの安堵と決意が混ざっていた。その姿に、エリオットは少し驚くと同時に、フェルディナンドが久しぶりに見せる生き生きとした表情に感動を覚えた。

 フェルディナンドが寝室に入った後、エリオットは部屋の前で立ち止まり、ここ数年のことを思い返していた。

 五年もの間メリアンを捜し続け、一度たりとも諦めず、執念で見つけ出したフェルディナンドの思いは本物だ。

 フェルディナンド殿下、どうか今度は愛を手放さぬように……。

 エリオットはそう願いながら、王子の寝室の前を去った。