「お兄様、明日は学園の入学者説明会でしょう? ねぇ、もしもミスティア様にお会いしたら、お礼を伝えてくださらないかしら」
明日に備えて制服に袖を通していると、ノックもせずに妹のロシェが入ってきた。その手にはワイズ家の封蝋が押された封筒があり、反論は許さないと言わんばかりに俺へと押し付けてくる。
「構わないが、明日会えるとは確約できないぞ」
「約束してくださいお兄様! ミスティア様はこの国でも珍しい黒髪のご令嬢ですよ? そして赤い瞳。探せば絶対に見つかります! すぐです!」
妹のロシェは、産まれた時から患っていた病によって長く生きられず、そして身体を動かすことにも制限があった。
医者から人間が呼吸をする機能に元から弱りが見え、治すことよりもこれから先悪化させないことを指針として示され俺は強く憤ったことを覚えている。
誰もロシェを治せないなら、俺が治す。そう決めて医者の道を志していたものの、刻一刻と妹の終わりは近づいていく。救う手段は絶たれていき、諦め、絶望すら感じた矢先、アーレン嬢がロシェを救ってくれたのだ。
「ミスティア様は私の命の恩人なのです。明日、絶対、ぜーったいお会いしてくださいませ! お兄様!」
ロシェは俺に手紙を握らせると、ぱたぱたと駆けていく。走っているところを父や母に見られたら、きっと叱咤されるだろう。
俺は苦笑した後、気を引き締め鏡へと向き直った。
一つ一つ、折れたり曲がっている箇所がないか見ていく。制服に不備がないと判断できた俺は机に向かい、万年筆を手に取った。
ワイズ家の紋章──クロッカスが刻印されたこの万年筆を両親から受け取った時、二人はこれまで毎年言い続けてきた言葉を、また俺に言った。
『ワイズ家の名に恥じないよう振る舞いなさい』
そう言われて育ってきたことに、疑問を感じることは今までなかった。
実際ワイズ家は高貴な血筋であるし、清廉さに重きを置いている。
しかし母は苛烈で利己主義な面があり、父はそんな母に対して干渉する素振りを見せることはない。両親とも表面上非を見せることは絶対になく、孤児院に寄付をし慈善活動への参加も見られ、人間というものは表の面は美しくとも裏はそうではない、醜いものであると二人を見て知った。
だからこそワイズ家を継ぐ者として、俺だけは正しく在り続けなければならない。
幼なながらにそう思っていて、俺はアーレン家の令嬢、そしてその噂に対して懐疑的な目を向けていた。
ミスティア・アーレンは、救いの聖女である。救いを求めれば、必ず応えてくれる。万物に対して平等に接し、光を与える。
そんな噂は、彼女の家と領地が近いわけでもなければ、家同士の繋がりもない俺の耳に届くほどに有名な話であった。
自分への贈り物を不要だと言い、すべてを寄付に回そうとする。
平民を拾い、自分の使用人としてつけさせる。孤児院の慰問を率先して行い、平民の孤児と積極的に関わろうとする。着飾ることに興味がなく、両親から装飾品を贈られようとするたびに断り、寄付へ回そうとするために、彼女の装飾品は腕のいい使用人が作っている。
当人が不在の茶会で、名前が出ない日はない。
時に揶揄されるように語り継がれる聖女の物語を聞くたびに、信じ難いと思っていたし、人々が当然のように受け入れ、彼女を聖女とするさまを見て軽蔑に近い感情を持っていた。
アーレン家は、元は軍事産業に着手していたという。
銃や兵器を取り扱い、今でこそ医療、薬事経営をしているが、元は人を殺すための道具で商売をする性根を持つ家だった。
上手くいっていたはずの軍事産業から手を引いた理由はわからないが、娘を聖女に仕立て上げ、病に苦しむ人間を食い物にしようとする考えが透けて見えて、激しい嫌悪を抱いた。
たしかに、アーレン家の支援によって、救われた者もいる。完治不可能と言われた病に効く薬が、あの家の寄付によって研究が進み、新たに開発された。
当時両親は妹のロシェのことをアーレン家に口添えできないか、なんとかあの家との縁を持つことができないかと模索し、領民からの税収をそのまま送ろうとしたり、俺をミスティア・アーレンに近づけようとするなど思案していた。
俺はロシェを救いたい。
でも、醜い真似はしたくない。汚い金で救われた妹はどうなるのかと考える一方で、日に日に弱る妹を見ていられない気持ちになり、どうしていいかわからず時間だけが過ぎていく。そんなある日のことだ。
アーレン伯爵と父が社交界で会う機会があり、父が俺とアーレン嬢の婚約を打診してすげなく断られた。
長子同士難しいことを薄々感じていたが、どうやら理由はそうではなく、「私の娘の婚約者は、完璧でなくてはいけないのです」との一点張りで、俺に不足があったと父は憤慨し、母とともに俺を責め立てた。
俺はロシェを救いたい。でも、汚い金や作られた縁で救われることは正しいことなのか。そう考えていた俺は、その時初めて自分が選ぶ側であるという
自分に欠落が、不足があったせいでロシェを救えない。
身勝手であることは自分でもわかっている。でもアーレン家の名を耳にするたび、心は荒れ、自分の不甲斐なさを呪い、アーレン家を呪った。
しかし、泥の底のような世界に光を差したのは、アーレン家、そしてアーレン嬢だった。
ロシェの病の新たな治療法がアーレン家の出資する研究所によって確立され、特効薬が完成したのだ。
半信半疑の気持ちで投薬がされていくさまを見て、病状がみるみるよくなり、寝台に伏せ立ち上がることすら困難だと言われていたロシェが笑顔を浮かべながら立ち上がった時、俺は心からアーレン家に感謝をした。
専属医にも感謝を告げると、「すべてはアーレン家の御令嬢の乱心ですよ」と話す。訳を聞けばアーレン嬢が両親からの祝いを断り寄付に回してほしいと願った結果、薬品の研究所や医療施設に寄付がされ、研究が進みロシェの治療に繋がったらしい。
それは本当なのか、アーレン嬢は
実際、専属医もアーレン家の令嬢に一度会ったことがあり、その時は平民を治療してほしいと突然重篤な状態のごろつきを連れ現れたらしい。
初めて人づてではなく直接アーレン嬢と関わった者の声を聞いた俺は、この世界にはただまっすぐ、人のために尽くすことができる人間がいることを知ったのだ。
それからは、アーレン嬢に会えないかと何度も試みた。しかし元々繋がりは薄く、さらに彼女は華やかな場──茶会やパーティーよりも、慰問を優先させる傾向にあった。
孤児院に向かうとしても、アーレン家の関わった孤児院は両手で数えることは困難であり、接触の機会を持つことは難しい。
手紙を書くことも考えたが、自分たちと同じように救われた者は数多くいて、そんな中で手紙の送付は迷惑だと取り止め、通学義務のある学園で会い、直接感謝を伝えることに決めたのだ。
今まで、未来に起きることに楽しみを感じることはなかった。どんな想いを抱こうが来るものであるし、なにか感じることは非効率だからだ。でも、明日アーレン家の令嬢と会うことは、楽しみだ。
『以前縁談は駄目になってしまったけれど、伯爵と夫人はたいそう娘に甘いと聞くわ。貴方が恋仲になってしまえば、きっと我が家とアーレン家の繋がりが得られるはず。ロベルト、わかっているわね……?』
ふいに、制服が届いた時の母の言葉が
ロシェが救われたといえど、医学への関心が薄まることなかった。それどころか、人が救われ、根治していくさまを見て、より憧れが強くなった。
病に苦しむ人を、無くしたい。だから俺は医学に関心を持ち、寄付をして人のために動くアーレン嬢と話がしたいだけだ。縁談を狙うなんて薄汚い、醜い理由じゃない。
明日……明日会ったら、なにから話をすればいいのだろう。
まずは自己紹介をして、そしてロシェについて、話をして、感謝を伝えて……。
頭の中で、正しく、きちんと話ができるよう、会ったときの練習をしていく。
会えるかは、わからない。貴族学園のクラスは一クラスだけではないし、人数も多いと聞く。講堂に集められるといえど、大人数の中で一人を見つけることは至難の業だ。それに、今後授業が始まったとしても、会える確約なんてどこにもない。
……でも、できることなら。
明日の説明会、一番初めに話をするのはアーレン嬢がいい。俺はそんなことを思いながら、また筆を走らせたのであった。
「ありがとう。では俺は失礼する。今年からよろしく」
花が舞い散る窓を横目に、アーレン嬢に背を向け歩いていく。
説明会が開かれる講堂への道すがら、迷う人間を導いては進んでいく黒髪の令嬢を見かけ、もしかしたらと思ったがまさか本当に会えると思っていなかった。
挨拶を終えて別れを告げてもなお、いまだ心臓が激しく脈打っているのがよくわかる。
上手く話すことができていたか思い返しても、戸惑ったように揺れる赤い瞳や、落ち着いた声色ばかりが印象に残っていて、自分がどうであったかは思い出せない。
でも、一番に、話をすることができた。
会えたことが嬉しくて、ロシェの手紙を渡すことも忘れてしまったし、感謝の気持ちを伝えることもすっかり抜け落ちてしまっていたけれど、会うことはできた。一番に話をして、名前を名乗ることもできた。
もっと、彼女と話ができたら……いや、会う機会なんて、いくらでもあるだろう。同じ学園に通うのだから。
俺は、これから先の学園生活が充実したものであると確信して、講堂へと向かっていったのだった。