「ミスティアは、十歳になったのね……」

「ああ……」

寝室のバルコニーで、夜着にショールを羽織った妻が感慨深そうにこちらを振り返った。月明かりに照らされた彼女の髪も瞳も、階下で眠る娘のミスティアとは異なる色だ。あの子の顔立ちや声は妻が幼かったころとそっくりで、髪と瞳の色は私のものを受け継いだ。

私はそっと妻に近寄り、その肩を抱いて共に月を見上げる。

娘が十歳を迎えた誕生日の夜が更けていく。喜ばしいことのはずなのにどこか落ち着かないのは、あの子が今生きていることが奇跡だからだろう。

ミスティアが産まれる時、妻の命も、そしてあの子自身も危ういと医者に言われた。私は頭が真っ白になって、いくらでも金は積む。だからどちらも助けろ。どちらか一方でも危険に晒せばお前やお前の家族全員の首をねてやると医者を怒鳴りつけた。

なぜ、私の妻が出産によって命を奪われなければならないのか。ほかに死んでもいい人間なんてたくさんいるだろう。有象無象の平民たちがのうのうと生きて子を産んでいるのに、どうして私の妻と子がこんな目に遭うのだと神を呪った。

私の最悪の予想は的中することなく、妻は無事に私の子を産んだ。医者から妻はもう子を産めず、産まれた子が女児であったことから跡継ぎについて言われたが、そんなことはどうでも良かった。

赤子を抱き微笑む妻。そして小さく幼いわが子を目にし、今にも折れてしまいそうな華奢な赤子の指が私の指を握った時、絶対的な権威、財を成して、なにがあってもこの二人を守らねばと私は固く誓ったのだ。

跡継ぎなんて、知ったことか。

そんなもの後からどうとでもなる。今はこの二人を守ることに専念しよう。誰にも文句は言わせない。言わせないような立場になってやる。

元々アーレン家は伯爵位といえども伝統ある血筋。権威も充分で、財も過不足ないものであった。それでも、妻と娘を想うと不足を感じたのだ。

それから月日が経ち仕事に邁進するにつれ、いつの間にか私の目的は二人を守るために権威を得て財を成すことから、ただ闇雲にそれらを求めることにすり替わっていった。人々からの羨望のまなざしで優越感に浸るようになり、人々が媚びへつらうことを当然とし、自分に歯向かうものはすべて切り捨てるようになった。

一方妻は元々着飾ることに関心はあったものの、より宝石や装飾品を買い漁るようになり贅沢に溺れていった。思えば、子を育てる精神的な疲労や、もう二度と子を産めなくなってしまったことで、心を紛らわせることに必死だったのだろう。

私はそんな彼女を見ても、妻を着飾らせ社交界に出すことは家の財力を知らしめる好機であるとしか捉えなかった。

当時はこれから先、私たちの家はもっと栄えていくと確信を持っていた。しかし今ならわかる。あの時私たちはゆるやかに崩れ、傾こうとしていた。そして傾こうとしていた私たちを正気に戻した者こそ、私たちの娘、ミスティアだったのだ。


あれは、ミスティアが三歳のころ、家族三人で出かけた時のことだ。あの子は話で聞く子供の成長よりも早く育ち、すぐに「です」「ます」をつけた言葉で会話ができるようになった。物覚えもよく聡明で、一人遊びが多く人とあまり関わろうとしないところがあったものの、私たち夫婦はなんの心配をすることもなく、あの子と出かけた。

昼にレストランで食事をして劇場で歌劇を見る移動中、知人の子爵夫妻と出会った。そこでいくつか会話をして、同じ年の子を持つ夫妻にミスティアを紹介しようとした時、あの子の姿が消えていたのだ。

私も妻も愕然とした。護衛はすぐ傍にいたにもかかわらずミスティアから目を離していたらしい。私たち夫婦は子爵夫妻と別れ、護衛と共にあの子を探し回った。子供が好きそうな菓子の店、玩具を売る店、女児が好む宝石や服飾の店……どこを回ってもあの子はいない。本を読むことが好きだったはずだと書店に行っても姿は見えず、焦燥に駆られていると突然衛兵に呼び出されたのだ。

ミスティアが、医者の元にいるから来てほしいと。

私はまた最悪の事態を想定し、なぜそんな場所にあの子がいるんだと衛兵に掴みかかりそうになった。しかし彼らの様子がなにやらおかしく、事情を聞くとあの子は無事だと言った。

ならなぜ医者の元にいるのだと問いただせば、とにかく来てほしいと話す。医者の元へ妻を伴い向かうと、そこには至って冷静なミスティアと、寝台に伏せたごろつき、そして困惑の表情を浮かべる医者がいた。

医者は私を見るなり「助けてください。御嬢様が、この男を連れてきて……」と命乞いをするように縋ってきた。

話を聞くに、ミスティアは突然死にかけの血を吐くごろつきを連れ診療所にやってきて、診てほしいと頼んできたと言う。代金は自分の服や着けていた宝石でなんとかならないかと交渉までして、自分の身に着けている首飾りを外しだしたため、衛兵を呼んだらしい。

一通り話を聞いた私は、医者の言うことを信用できなかった。

まだ三歳の子供がそんなことをするはずがない。それになぜごろつきなんか拾ってくるのだ。嘘を吐くなと医者をののしり、とにかくミスティアを連れて帰ろうとすると、あの子は「嘘じゃないよ」とまっすぐにこちらを見た。

そして私が子爵夫妻と会話をしている時、遠くを歩くごろつきが吐血したのを見たこと、急いでそこへ向かうとごろつきが倒れていたこと、医者に見せようと診療所へ向かったことを淡々と私に説明したのだ。騙されている、脅されているのかと問う私を「そんなことされてない」とつっぱねて。

私は訳がわからなくなった。なぜミスティアがそんなことをするんだと、行動理由がわからなかった。あの子は「この人を治療するお金、このドレスと宝石で足りますか?」と医者に聞き始め、私がなにをしているのかと問えば「お父さんとお母さんが来てくれたから、帰りは馬車だしドレスも担保にできるなと思って」と平然と口にしたのだ。

私はとにかくミスティアを無事に屋敷に帰したい一心で「そんなことをしなくてもそんなはした金払ってやる!」と声を荒げた。面倒になって、医者の請求する治療費の三倍の額をテーブルに叩きつけると、あの子は「お金を叩きつけるのは良くないよ」と言いつつもお礼を言って私に従い診療所を出た。

その日の晩、ミスティアを伴い屋敷に帰った私と妻は、あの子が無事に見つかって良かったと安堵し喜ぶことはしても、これからについて話すことはしなかった。それはあの子の行動がその日限りのものだと勘違いしていたからだ。今日はたまたま、ごろつきを見て放っておけない気持ちになり、偶然が重なって今日のような騒動が起きたのだと思っていた。

しかし、私たちの予想は翌週簡単に覆された。

「大変です、御嬢様がいません」

元いた護衛を解雇し、公爵家に仕えていたこともある有能な護衛を雇った私は、辺境伯のお茶会に家族三人で出席した。するとまたミスティアが消えたのだ。

辺境伯家に滞在するのは七日ほどで、ちょうど滞在して半ばに差し迫ったころだった。その日妻は夫人だけのお茶会を、私は子爵や男爵たちと狩りに出かけ、ミスティアは護衛に任せていた。

そして私が狩りから帰ると、護衛は私にミスティアが消えたと宣ったのだ。

私が苛立ちを護衛にぶつけていると、今度はあの子は涼しい顔で小汚い青年を連れて私の前に現れた。

「この方は、近くの村の人で、名前はソルさんって言うんだけど、実は集団で暴行されていて……。屋敷で雇ったりできないかな」

こちらの様子を窺うミスティアを見て、立ち眩みがした。集団で暴行されていたということは、その現場を見たということだ。そんな危険な場に娘が立ち会っていたと考え肝を冷やした。

妻が泣きながら「その人たちはどうしたのよ! なにもされていない?」と問い詰めると、ミスティアは「罠にかけたから大丈夫」と言った。

詳しくミスティアや小汚い青年に話を聞けば、青年は長年村ぐるみで暴行され、通りかかったあの子が青年を暴行した者たちを近くの整備中の穴に落とし、助けてきたらしい。妻はその話を聞いて失神し、私は意識を保つことで精いっぱいだった。

その晩、私はミスティアの言うとおり小汚い青年をアーレン家で使用人として雇う手筈を整えた。

いっそミスティアが見ていない間に青年を捨てていくことも考えた。しかしミスティアがそれを知ったとき、あの子がどういう行動に出るか見当がつかず、青年は御者見習いとして屋敷に入れた。

そして、妻と今後について話し合った。

ミスティアを、このままにしてはいけない。我々できちんと見ていないと、あの子はいずれ死ぬ。

今までそうしたことはなかったが、ミスティアを怒鳴りつけ、部屋で折檻せっかんし食事を抜く……ということも考えたが、かわいそうでどうしてもできなかった。かといって、くだらぬ平民のために自分の身を危険に晒すミスティアをこのままにしてはいけないのもまた事実だ。

私たち夫婦は悩み、もっとミスティアをきちんと見て、あの子と気軽に話せるような護衛をつけようとの結論に至った。今まであの子につけていた護衛は優秀さだけを見てあの子と何十歳と年が離れている護衛だった。男のほうが力が強いと考え選んでいたが、手洗いの場にはついていけないし、そもそもあの子を守る以前にあの子から目を離してしまう。私は女の護衛を探すことにした。

その矢先だ。あの子はまた消えた。

辺境から小汚い青年を連れまだ一か月も経たないころだ。早朝小汚い青年──御者見習いと共に消えた。

衛兵たちと共に必死に探していると、夕方、ミスティアは一人の衛兵と御者見習い、そして今度は小汚い女と帰ってきた。

ミスティアを連れ帰ってきた衛兵に聞くと、小汚い女は酒場で働く平民の妻で、夫に暴力を振るわれていたところにあの子が割って入ったらしい。

御者見習いはなにをしていたかと問えば、こっそり屋敷を出ていくミスティアを見つけ後を追い、あの子を小汚い女の夫から守ったと話して私は愕然とした。

怒鳴りつける気力も湧かず、ミスティアになぜそんなことをしたのか聞くと、「辺境から帰る馬車で街を通った時に、暴力を振るわれている女の人を見かけたから」と淡々と答え、「リザーさん、お仕事と住むところがないらしいから雇ってほしいんだけど……」と心底申し訳なさそうにこちらを窺ってきた。挙句「あっ、リザーさんっていうのはこの人の名前で……掃除婦とかどうかな。枠空いてないかな?」と付け足してきたのだ。

なぜ、そんなことをするのかの答えになっていない。

本当にどうしてミスティアは自分を犠牲にして、くだらない平民なんかのためにここまでするのか。

私たち夫婦はミスティアのことを心から心配しているのに、まるで伝わっていない。前まではこんなに手のかかる子供ではなかったのに。こんなにおかしな子になったのは街を出てからだ。いったいどうしてこんなに手のかかる子に──そう考えて、はっとしたのだ。

私たち夫婦が、ミスティアが異常な行動をするまで、あの子を街に出すまではなんの心配もしていなかったことを。

ミスティアを見ることなく、私は権威と金に、妻は贅沢に溺れていたのだと気づいたのだ。

私たちがミスティアに構わないから、寂しさゆえに行動を起こしているなんて生易しいものではなく、あの子は私たちを見て、反面教師のような思いで他人に尽くそうとしているのかもしれない。

街に出て視野が広がり、私たちの振る舞いに思うことができたのかもしれない。私たちが自分たちしか顧みなかった分、他人に尽くそうとしているのかもしれない。

私がそう考えた時、隣にいた妻も同じようにはっとした瞳をしていて、私たち夫婦は顔を見合わせた。ミスティアだけが本当にただただ落ち着いた瞳で私たちを見ていて「この人屋敷で雇ってもいいかな」と答えを欲しがった。

私はすぐにリザーという女を掃除婦として雇うこと、彼女の離縁の手続きの力添えをすることを宣言した。そして喜ぶミスティアにこれから先したいこと、やってほしいことがあったらなんでも言うこと、私と妻はどんな時でもミスティアが大切で、そして信じることを誓った。

一番初めにあの子がごろつきを拾った時、私たちはあの子の言葉を信じなかった。でもこれからは、どんな突飛なことを言っても絶対に信じる。

ミスティアは私たちの言葉にどこか戸惑っていた様子だったが、これからは行動で示そうと私たち夫婦は固く決意した。

それからは、私は今まで行っていた貿易や鉱山の投資、軍事事業から手を引き、医療や薬品研究など人に尽くし役立つものへの投資と経営に力を入れ、領民に対する重い課税も引き下げた。突然の経営転換によってさまざまな問題が発生し一時は資金不足に陥ることもあったが、妻が宝石などの装飾品やドレスを売り、なんとか立て直した。

収益が安定してからは孤児院への寄付も始め、とにかく人から奪うのではなく与えるよう動いた。

すべては、ミスティアのためだ。あの子に私たちが変わった姿を見せ、きちんと自分を大切にしてもらうためだった。

ミスティアは、私たちの分まで人に尽くそうとして、結果的に自分をないがしろにしてしまう。だから私たちが人のために尽くせば、あの子は必要以上に人に尽くすことをやめるだろうと考えた。


そうして私たちは変わったつもりだ。しかしそれから七年。ミスティアが十歳になった今現在、あの子はなにも変わっていなかった。あの子は誕生日の贈り物は気持ちでいいから、それかドレスなら一着でいい、余った分は建てた医療施設や薬品の研究所、孤児院に寄付をするか追加で新しく建ててほしいと私に頼む。さらに時折いなくなり、人を拾う悪癖も変わらない。あのころよりましなのは、あの子の五歳の誕生日が終わったあたりから雇った専属侍女のメロがきちんと見ていてくれていることだろうか。御者見習い──今はあの子の専属御者になったソルも見てくれているが、やはり専属侍女は同性だからか違う。着替える時も手洗いも同伴できるし、元は孤児院出身であったことを懸念したこともあったが、本当に良かった。

ミスティアがよくしてやっていた孤児院の子供がある日突然引き取られ、それからあの子はしばらく元気がなかった。その隙間を埋めるように孤児院に入ってきた専属侍女だが、きっとなにかしら、運命が働いたのだろう。

以前ミスティアが助けたごろつき──ブラムは、治療が終わった後屋敷で働きたいと突然現れ、当時は懐疑的な目で見ていたが、今は立派な門番となりあの子が屋敷から出ようとするときちんと報告をしてくれている。妻はあの子が勝手に外に出ないよう注意してと言うけれど、私は門番には専属の侍女や御者がついているのなら止める必要はないと伝えている。

なるべく、ミスティアには自由に過ごして、自分の好きなようにしてもらいたい。無事に産まれてきてくれたのが奇跡の子だから、そのまま楽しく過ごして、長生きしてもらいたい。ちょっとだけ、人見知りで口が重いところがあるけれど、心も優しく利発な私たちの娘だ。好きなように生きてほしい。

けれど、胃が痛いこともある。ミスティアが人を拾う悪癖もそうだが、あの子の周りについてだ。

今は掃除婦長をしている女を拾ってきた時、見習いをしていた御者に対してミスティアが屋敷から出るのを止めなかったことについて激しく叱責した。

しかし奴は悪びれもせず「俺が傍にいるから大丈夫です。御嬢様が傍にいたので殺しはしませんでしたが、御父様が望まれるなら首を持ってきます」などと言ってのけたのだ。

戯言をと思ったが、次の日衛兵に聞けばたしかに酒浸りの夫は足や腕を潰され、回復には時間がかかり話すら聞けない状態だと言った。

御者はミスティアに恩義を感じているらしく、それは見習いを終えた今もなお続いているが、節操がなく野蛮な人間が自分の娘の近くにいるということは、父親として複雑な心境だ。ほかの使用人たちもミスティアに救われた者が多く、中には育ちが良くない者もいるがあそこまで野蛮ではない。特に元ごろつきの門番は芸術……特に音楽の分野に造詣が深く、私も感服するばかりで、あの子の家庭教師まで頼むほどだ。

もう少し、御者には野蛮ではなく繊細な感性を持ってほしい。でも、ミスティアを守ってもらっていることもたしかで、そこがとても難儀だ。

「これから先、ミスティアはいったいどうなってしまうのかしら……。そろそろ自分の幸せに目を向けてほしいわ……」

「……これまでどおり、私たちがしっかりと見守っていよう。大丈夫、使用人たちも力になってくれるさ。それに婚約者だって優秀だと評判なノクター家の令息に決まった。落ち着いてしっかりした子だと聞くし、その子もきっとミスティアをきちんと見てくれるはずだ」

「そうかしら……不安だわ」

妻は不安げに瞳を伏せ俯く。安心させるように肩を軽く叩いた。御者以外の使用人は特に野蛮な部分は見られないし、ミスティアは専属侍女にとても懐いて、どこに行くにも連れていく。

執事長で私の秘書もしているスティーブも、雰囲気は以前より冷たいものに変わった気はするがあの子に良くしてくれているし、部下のルークもあの子に対しては優しい目をしている気がする。料理長のライアスや庭師のフォレストたちはあの子のためにと誠心誠意仕事をしていて、掃除婦長のリザーはほかの掃除婦にあの子をよく見るよう注意をしてくれているそうだ。

皆、ミスティアが危険な目に遭わないよう注意してあの子を尊んでくれる。

だからいずれ、その気持ちをミスティアも理解して、自分を尊ぶようになってくれたらと思う。それか、父親としては寂しくもあるが、あの子の夫となる者がきちんとあの子を幸せにして、ずっと守ってほしいと切に願う。

それまでは、私たちがきちんとミスティアを守っていかなければ。見守っていかなければ。

「来年のあの子への誕生日の贈り物は、船にしようか」

「貴方……そんなこと言ったらまたミスティアは遠慮して孤児院の寄付を求めてしまうわ」

「パーティー会場と一緒にしようと言えばいいんじゃないかな」

そして、あの子が誰かの手を取るまでは、どうか甘やかしてあげたい。好きなだけ望むものを与えて、喜んでもらいたい。

私は妻に呆れられながらも、ミスティアが大きな病気や怪我をすることなく──生きて十歳の誕生日を迎えたことに幸せを感じながら、月を見上げたのだった。