十四歳
【春 Jの日常】
学園の中にあるパン屋の袋を持って職員室へと歩いていく。袋の中は果物のパン、チーズのパン、クリームのパンだ。
ミスティアが入学した時うまいものを教えてやりたいと、食堂でもパン屋でも毎回違うものを頼むようにして今日の昼はこれだ。ほぼ甘いやつ。正直甘いもんは得意じゃない。それどころか普通にきつい。だがあいつのためだと思えばなんでも食える。愛の力だ。
でもパン屋も、食堂に置いてあるパンも甘いものが多い。さすがに全部甘いパンは堪える。少しくらい魚や肉を使ったような……それこそパイや、キッシュのひとつでも置いてもらいたい。パンみたいなものだし。
だがそれらしきものはいっさい見当たらなかった。
ミスティアが入学するころには増えるか……? しかしパン屋と食堂のメニューは約六年ごと、周期的に変わり去年一新されたばかりだと聞いた。ならミスティアの入学する年も今年と同じものだろう。
……うまいもの、探さなきゃな。
ミスティアが入学した時、おすすめとかがわかるやつになりたい。
恋人のことを考えつつ、袋の中身から視線を外す。
男の隣を歩く学園長は、媚びるように頭を何度も下げている。学園長より上のやつ……莫大な寄付をしているような保護者や理事会あたりの奴だろう。
それらを横目に廊下の窓を眺めながら進んでいくと、今度は窓の外で生徒が昼食をとっているのが見えた。外の庭園に置かれたベンチで、各々パン屋の袋、屋敷から持ってきたピクニック用のバスケットを広げている。
……そうだ、食う場所も探さなきゃな。
なるべく人目のつかないところ、それでいて空気のいいところがいい。あと景色もよくて……、候補を思い浮かべていると、見覚えのある顔が女子生徒を引き連れているのが見えた。
たしかミスティアの屋敷から出てきた、婚約者じゃない方……、花婿候補の予備。この学園の生徒だったのか。
ガキがこれから昼を食べに行くのかはわからないが、まるで後宮の主であるかのように両腕に女をはべらせている。ミスティアのことはもういいのだろうか。
でも、ミスティアは可愛い。正直人間の顔なんて興味無かったし皆同じ顔に見えたが、そんな俺でも可愛いと思うほどあいつは可愛い。
そんな可愛いミスティアを前に、女癖悪そうなガキが手を出さないわけがない。絶対触っている。触っていなくても嫌がるミスティアになにかしようと思ったことはあるはずだ。
腹立ってきた。
ぶっとばしてやりたい。触っていたならもう二度とミスティアに触れられないように、触っていないならこれから先ミスティアに触れることがないように腕二本とも折ってやりたい。
……いや、そんなことを知ったらミスティアは悲しむだろう。優しいし。平和主義だし。正義感強いし。あのクソガキ、いっそ突然消息でも絶てばいいのに。
「せーんせいっ」
忌々しく床を睨みつけていると、突然肩を叩かれた。慌てて振り返ると同期の教師が立っていた。
「もう、ジェイ先生ったら!」
「え」
「お昼、終わっちゃいますよ? 全然来ないから探しました」
ああ、ミスティアのことを考えて、ぼーっとしちまった。様子を見るに、何度か声をかけられていたのに気づかなかったのだろう。来年担任を任せてもいいと思われるよう、同期とはいえ教師陣の信用も得ておかなきゃならねえのに。
「すみません、生徒のことで、つい……」
「熱心なのはいいことですけれど……あんまり思い詰めないでくださいね」
「ありがとうございます」
ちょっと生徒のぶっとばし方を考えていたもので、なんて言えるはずがなく言葉を濁すと、同期は俺のことを思い悩む新任教師と捉えたようだった。去っていく背中を見送り手元の時計を見れば、昼休みの時間はもう半分になっていた。
俺はせめて一個はパンを消費するぞと覚悟を決め、職員室へ向かう足を速めた。
【夏 Eの普遍】
「つまんないなぁ」
授業の合間の休憩時間。教室にいる気にもなれず、僕は裏庭のベンチに座っていた。周囲には誰もいない。僕一人だ。すごく落ち着く。
ミスティアと一緒にいるときを除いて、基本的に僕は一人でいることが好きだ。でも学園に入学してから一週間くらい経ったころから、人に……特に女の子に囲まれる機会が増えてきた。というか最近はほぼ毎日、学園に来たら囲まれる。
女の子たちは僕を囲むと、口々に昼食、放課後に出かけること、屋敷や茶会に誘う。僕を優しい、かっこいい、美しいと褒め称え、まるでどれだけ僕に気に入られるか競争しているように見えた。そんな女の子たちの相手は心底うっとうしくて僕はこうして休憩時間、人目のつかない場所へ避難することが増えた。
ミスティアが、学園にいない。
入学は来年で、今ごろ彼女は自分の屋敷で過ごしているから当たり前だ。だけどそんな当たり前のことがすごく辛い。
学園に入学してから僕の予想通りミスティアと会う時間が減ってしまった。なんとか会いに行こうと時間を作ってはいるけれど、会える時間は入学前の半分以下になってしまった。
それだけじゃない。ミスティアは僕をハイム先輩と呼び始めた。今までエリクと呼んでくれていたのに。「学園でうっかり呼ばないように」なんて、敬語で話すことも増えた。どんどん彼女は僕と距離を取っていく。
ミスティアは、人の目を気にしているんだろうと思う。でも僕は、ほかの誰かなんてどうでもいい。彼女さえいればいい。
「はぁ」
僕は溜息を吐いた。本当にすることがない。楽しいこともなにもない。
ミスティアが入学した時、学内を案内できるようにとくまなく散策して、一通りどこになにがあるのか把握してから、いっそう退屈になった気がする。
授業もミスティアに教えられるよう勉強していたら、今年の学習内容のすべてを網羅してしまった。だから来年の分の勉強を始めたけれど、それももう終わる。
あとこの空虚な時間を半年以上過ごさなきゃいけない。考えるだけでうんざりだ。
今まで会おうと約束したら確実にミスティアに会えていた日々が懐かしくて恋しくて仕方ない。
忌々しく地面を睨みつけていると、ふいに爪先に影がさした。見上げると知らない女子生徒が僕の前に立っていてこちらに笑いかけてきた。
「ハイム君?」
「ああ、こんにちは」
とりあえず笑顔を作り挨拶したものの、目の前の女子生徒が誰なのかさっぱりわからない。名前もわからないし、顔も見たことがない。なんの用だろう。
「教室いないから探しちゃった」
そう言って女子生徒は隣に座ってくる。距離が近い。さりげなく横にずれて身体がつかないようにすると、彼女は僕にお礼を言った。
ミスティアなら、近づいても平気どころか落ち着く距離なのに。学園に入学してから、ミスティア以外の人間に近づかれることが不快だと気づいた。
人には、他人に近づかれると不快に感じる範囲があるというけれど、僕はたぶんそれが極端に広いんだと思う。それが、ミスティアに対してだけ消滅するのか、ミスティアがすでに僕の一部という存在になっているのかはわからないけれど。
「ごめんね、僕になんの用かな」
「実はちょっと話があって」
女子生徒は僕の手を握り、照れながらはにかんだ。
「あのね、私、ハイム君のことが好きなの」
まただ。また僕が知らない女の子が、僕を好きだと言う。
二、三会話を交わしていればまだいいほうで、今みたいに名前も知らなかったり、顔すら見たことがないときのほうが多い。こうして突然現れて告白してきたり、呼び出されたり、机や靴箱に手紙を入れられていたりする。
「皆と仲良くて、優しいところとか、相手のためを思って行動できるところ、すごくいいなって思ってて」
それはミスティアが入学した時、僕が集団から孤立していたら心配するからだ。他人に優しくするのも、僕が他人に酷い態度をとっていたらミスティアが悲しい顔をするからだ。結局誰のためでもない、ミスティアに好かれたいだけの、僕自身のためだ。
「ハイム君の笑顔が好きで、ずっと見ていたくて」
僕が学園で本当に笑ったことなんて一度もないのに。この子はなにを言っているんだろう。僕のことなにも知らないのに。なにも知らない人間のことをどうして好きになれるんだろう。
「突然言ってごめんね、でも、ずっとハイム君のこと、好きで」
「そうなんだ。でも君の気持ちには答えられないや。ごめんね」
女子生徒の手を外し、そのまま立ち去る。目には涙が溜まっていたけれど、慰めて期待させると余計面倒なことになるのは、先々週に学習した。
「きもちわる……」
握られた手も気持ちが悪いし、馴れ馴れしく話しかけられたのも気持ちが悪い。
一時、ミスティアが入学して、僕がほかの人間に告白されるところを見てもらったら、嫉妬してくれるかもと期待したことがあった。だけどこの調子だと、ミスティアとの時間を奪われたと女の子たちに僕が酷い態度をとって、ミスティアに怒られてしまう可能性のほうが高そうだ。
うん、絶対そう。僕は絶対酷い態度をとるし、ミスティアは絶対怒る。
ミスティアが入学したら、学園自体の煩わしさは消えるだろうけれど、彼女以外の人間への煩わしさは倍になるんだろう。
僕は人気のない別棟のトイレで手を洗おうと、その場を後にしたのだった。
【秋 Rの平常】
窓から覗く赤い木々から視線を移し、机の上にある予定表を確認する。今年も、もう終わろうとしている。ぱらぱらと来年までめくっていくと、入学式と記されているところでめくる手を止めた。
次の春、僕は貴族学園に通う。ミスティアも一緒だ。
春は、彼女と出会った季節。それから四年経った今、彼女はあまり僕の名前を呼ばないということに気づいた。
ミスティアが僕の両親や彼女の両親との会話の流れで、「レイド様は」と口にすることはあるけれど、彼女が自発的に僕を呼んだことは思い出して数えられるほど。
そんな彼女はハイム家の子息のことを、「エリク」と当然のように名前で呼んでいる。僕の弟のザルドも、「ザルドくん」と嬉々として呼ぶ。僕だけが名前で呼ばれていない。
僕を呼ぶときミスティアは名前を呼ばず、「あの」「すみません」「ちょっといいですか」で済ます。少し腹が立つ。
ほかの者には当然のように与えられて、僕だけがそれを与えられない。
彼女は以前兄弟や姉妹に憧れがあると言っていたけれど、僕の弟によってその欲求が満たされているらしく彼女は弟に酷く甘い。
そしてそれを受けてか弟であるザルドも彼女を酷く気に入っている。あろうことか誕生日のプレゼントの希望を聞いた時、プレゼントはいらないからミスティアが欲しいと言い出した。母は、「あらあら、お兄ちゃんと取り合いね」と笑っていた。父も、「でも、ミスティアお姉様は、物じゃないからあげられないよ」と優しくあやす。僕は全然笑えなかった。
なにより気に入らないのは、ミスティアがザルドから好意的な感情を向けられると嬉しそうにすることだ。ザルドに当然のように笑いかけるミスティア。いくら幼い弟だとしても、憎悪の感情が湧く。
彼女は僕にこの四年間一度も向けることがなかった表情を、簡単にザルドに向けた。
僕に向けるのはいつだって怯えた顔、警戒する顔、困惑した顔、思いつめた顔なのに。
この四年間、僕はなるべくミスティアに優しく、好かれるように振る舞ってきたつもりだ。でも、彼女の態度は一向に変わらない。最初こそ徐々に僕に慣れてくれていると喜んでいたけれど、本当にただ慣れただけだった。
どんなに会話をしても、会いに行っても贈り物をしても、彼女の態度はある一定から絶対に変わらなかった。なにをしても超えられないその一線を、弟のザルドは軽々と飛び越えていった。
僕にはわかる。ザルドもきっとミスティアのことが好きになる。姉としてではなく、一人の女の子として。
今はただザルド自身が幼いだけだ。時が来たらいずれ気づく時が来る。その時、きっと争うことになるだろう。
弟だからと、ザルドがなにかを欲しがると僕は譲ってきた。……でも僕はミスティアだけは譲れない。
僕は誰であろうと、それが弟であろうと彼女を奪うものに容赦はしない。
……彼女は、身も心も、僕のものではないけれど。
夏にミスティアが、「あの、本当に勝手なんですけど……」と前置きをして、なにかを話そうとした。その前置きがあまりに深刻そうで、「婚約解消なら絶対しない」とはじめに封じたところ、彼女は真っ青な顔で俯いた。
それからしばらくして、なんの気なしにアーレン家の屋敷へ向かうと、焼却炉でミスティアの侍女が焼けた紙片を集めているのを見かけた。その紙片は特徴的な青色で、遠目から見てもすぐに留学申請書類だとわかった。
この国の留学申請書類は皆独特な青色をしている。一度親戚が留学する前に見せてもらったものと同じ青色が、焦げた状態で侍女の手の中にあった。
嫌な予感がしてミスティアの部屋に向かい、部屋の主人がいないままに引き出しをあさると、同じ青色──申請書類が出てきた。まさか留学してまで僕から離れようとするとは思っていなかった。僕は驚き、そして気がつくと青色のそれに花瓶の水をかけていた。
直後にミスティアが現れ適当にごまかしたけれど、あの時自分がどんな表情を彼女にしていたのかよく覚えていない。
それからだ。ふと自分が自分じゃない感覚に陥る。今までは彼女に嫌われることが怖いと思っていた。
でも、ここ最近は違う。ミスティアの自由を奪い真っ暗な部屋にでも閉じ込めて、彼女の生活を管理してしまえば、いずれ僕を愛するようになるんじゃないかと思うようになった。
僕に縋りつかなければ、生きられないように。彼女の大切なものを、家族を、使用人に危害を加えると、彼女を脅して。
それで今より線を引かれても、彼女のその心ごと壊しておかしくさせて、彼女の精神を支配してしまえばいいんじゃないか、そういうふうにばかり考えるようになった。
それにミスティアを見る使用人の目は、普通ではない。彼女を守るためならば、それが一番正しいと思う。彼女が想っているのは僕じゃない、だけど彼女を一番に想っているのは、僕だ。僕しかいない。
ミスティアが学園にいる間に、僕の傍に留まっている間に、頑丈な
ミスティアの愛するものを全部、全部壊してしまえば。彼女の引く線も、きっと壊れるだろう。そうしたらきっと、彼女は、僕を──。
突如、窓の外から
【冬 ミスティア・アーレン 婚約者の怪】
最近、レイド・ノクターが怖い。
いや彼の存在は地雷爆弾に変わりなく、日々私は恐怖を感じている。しかし将来的な物事に対してではなく、それとは違うなにか言い難い物理的な……身に迫った恐怖を彼から感じる瞬間がある。
そして最近その正体に私は気づいてしまったのだ。
レイド・ノクターは、彼の弟ザルドくんが私と仲良くしていると、必ず絶対零度の冷えた視線をこちらに送ってくるということを。
「みすてあおねえさまっ」
アーレン家の屋敷にて、レイド・ノクターの弟ザルドくんがこちらに駆け寄ってくる。さすが彼の弟ということもあり、充分童話の登場人物になれる整った容姿をしている。
その天使のような笑みは皆を魅了し、周囲には小鳥が集まり足元には花が咲き、一瞬にして天国を作り出してしまうような……そんなパワーがある。メロが可愛いの擬人化ならば、ザルドくんは純粋の擬人化だ。性格も、優しく、純朴で天真爛漫。ふざけて「空はソーダの味がするんだよ、だから雨はソーダ水だよ」なんて言えば信じてしまいそうだ。
そんな可愛いザルドくんだけれど、この場で駆け寄ってこられると非常に困る。
「ザルド、走ると危ないよ」
そう言ってザルドくんの後ろを追うように向かってくるのは、私とザルドくんの接触を異常に嫌うレイド・ノクターだ。
今日は私の母とノクター夫人が、別の伯爵家の夫人限定のお茶会に行っていて、二人はアーレンの屋敷に来ている。ちなみに父とノクター伯爵は釣りに出かけた。
「みすてあおねえさま、すきー!」
きゃっきゃとはしゃぐザルドくんの頭を撫でる。彼は幼少期特有のすべてに対し疑問を浮かべる、「なんで攻撃」を私がすべて答えていたことで、私を気に入ってくれたらしい。「みすてあおねーさま」と呼んで懐いてくれる。
正直彼がレイド・ノクターの弟であることと、「家族間で親交を深めることによる婚約解消の難化」は懸念しているものの、てちてちと擬音がつきそうなおぼつかない足取りで「おねえさま」と舌足らずに呼ばれれば、冷たく返すことができない。
でも、問題はそれだけではない。
レイド・ノクターは、私がザルドくんの傍にいることを異常に嫌うのだ。
私が少しでも会話をしようとするものなら、瞬時にザルドくんを遠ざけ、隔離していく。私がザルドくんの名を少しでも口にしようものなら、ものすごい形相で睨んでくる。その時の雰囲気は貴族というより鬼人に近く、覇気というより怒気に近い。
そして極めつきは、二週間ほど前に言われたこの一言。「誰もいないところに、閉じ込めてしまいたい」だ。
本当に、レイド・ノクターはぼそっと言ったのだ。私がザルドくんとごっこあそびをしている際に。
過保護というレベルに収まらない病的、というか完全な弟狂いである。狂っている。
思えば兆候はあったのだ。四年ほど前に、レイド・ノクターが私に「弟か妹ができる」と報告した日。あの時私が激しく動揺した時、彼は怪訝な目で私を見ていた。
たぶん、あの時彼は私のことを少年に常軌を逸した愛情を注ぐ者と勘違いしたのだと思う。実弟が変態の毒牙にかからぬよう、レイド・ノクターは私を警戒している。もちろん私はそんな愛情は抱いていない。盛大な勘違いだ。
私もかつて前世では大切な妹がいた。本当に大切で、今でも兄弟や姉妹の冒険談を読むとそれこそ強く感情移入をしてしまうくらいだ。だから弟を大切に想うことも、変態かもしれない人間に近づけさせるのは嫌だと考える気持ちもわかる。けれどレイド・ノクターの発言は、兄弟愛としては完全に度を越しているものだ。
レイド・ノクターは、弟に狂っている。
しかし私と婚約を解消し、早急に弟と私を離れさせよう……と、彼がすることはなかった。
基本的に、家督は長男が継ぐ。基本的に次男はどこか婿に入ったりする。私はアーレン家の一人娘であり、レイド・ノクターと結婚する場合、私がノクター家に嫁ぐか、レイド・ノクターがアーレン家に婿に入るかの二択があった。
しかしレイド・ノクターは、家督の相続を放棄し、アーレン家に入る宣言をした。ということは、次男であるザルドくんが、円満にノクター家を継ぐということになるのだ。どこに婿入りすることもなく。
レイド・ノクターは、ザルドくんにノクター家を継がせるため、婚約を維持しようとしている可能性が極めて高い。そう考えた当初は、「ないない、ふつうそこまでしないって、考えすぎ」とも思ったけれど、私とザルドくんのごっこ遊び中にぼそっと言い放った「誰もいないところに、閉じ込めてしまいたい」発言は、完全に本気だった。ザルドくんにノクター家を相続させ自分はアーレン家に婿入り計画を実行しかねない本気の声色だった。
以前イレギュラーを起こしたことでの、攻略対象の精神影響について考えたことがあったけれど、今まさにレイド・ノクターにイレギュラーの影響が出ている。
私がエリクの家庭教師初恋イベントを破壊して彼が主従ごっこ狂いになったように、レイド・ノクターが弟か妹ができる報告を私にした際、私が不審な対応をしたことで彼は弟狂いになってしまったのだ。
エリクに続き、レイド・ノクターにも早急な治療、主人公と恋愛することによるヒロインセラピーが必要になってしまったのである。
ここにきて、留学の切り札が得られなかったことがとても痛い。まさかエリクに引き続きレイド・ノクターまで更生が必要になるとは思っていなかった。
「随分と仲良くなったね、まるで以前から姉弟だったみたいだ」
ザルドくんの頭を撫でながら考え込んでいると、ぽんと背中に手を乗せられて現実に引き戻された。
「いや、その、このくらいの子は、ね、じゅ、純粋ですから」
対レイド・ノクター時、危機的状況に陥った場合どう逃げるのが最善か私は知っている。そう、お手洗いだ。お菓子を持ってきますと言えば、「僕も一緒に行こうか」。おすすめの本があると言えば、「僕も一緒に運ぼうか」。いい音楽があると言えば、「あれ、ミスティア、音楽に興味が? なら今度一緒に歌劇でも……」と切り返され逃げられなくなるやり取りを、今まで何度も繰り返した。
しかしお手洗いは違う。「僕も一緒に行こうか」なんて言ってしまえば事案である。
「私ちょっとおて」
「ぼく、お手洗い、いきたいです」
口を開いた瞬間、ザルドくんがぎゅっと私の服の裾を掴み、こちらにお願いするように言った。このタイミングはかなりまずい。まるで私がザルドくんに、「トイレに行きたくなったら私に言ってね!」と約束していたように思われる可能性がある。
「えーと、場所は、わかるかな?」
「わかんないです。おしえてください」
ザルドくんに頷き「わかったよー」と一歩進もうとすると、がっしりと腕を掴まれた。わかる。ザルドくんは腕をがっしりと掴まないし、この場で私の腕を掴む位置にいる人間は一人しかいない。
「場所知ってるから、僕が行くよ」
レイド・ノクターは私の腕から手を離して、ザルドくんの手を優しく取った。
「じゃあミスティア、ちょっと、待っててね?」
そのまま私に笑みを浮かべ、ザルドくんと共に部屋を出るレイド・ノクター。まずい、怒っている。目がまったく笑っていなかった。
扉が閉まった音が、「せいぜい辞世の句でも考えておくんだな」と言っているように聞こえてくる。私はどう説明すれば彼の誤解が解けるのか考え、ただただその場に立ち尽くしていたのだった。