十三歳
【春 Rの引き金】
ミスティア嬢の誕生日から十日が経ったころ。僕は自室で彼女から送られてきた手紙を封も切らずに見つめていた。
今年も彼女の誕生日パーティーには呼ばれることがなかった。昨年、彼女の誕生日を祝えていないことを持ち出してはみたものの、十三歳の誕生日も家族と使用人の会だから招待できないと断られてしまったのだ。
なら、誕生日の一週間後に会ってほしいと誘ったものの、彼女はそれも渋った。
強引に押さないとミスティア嬢に会えないことを知っている僕は、「そういえば、クリスマスイブは去年も一昨年もハイム家の……」と半ば脅すような形で、一昨日アーレン家の屋敷へ出向き彼女の誕生日を祝った。
プレゼントは花にした。ダリアの花束だ。さまざまな色を組み合わせたもので、中でもミスティア嬢は黄色のダリアをじっと見つめ、どこか寂しげに花の名前を呼んでいた気がする。なにかしら思い出があるのかもしれない。もしかしたら、昔誰かに同じものを貰っていた可能性もある。
だから来年は、僕だけしか贈らないものをミスティア嬢に贈りたい。
たしか彼女は冬の時期、侍女に貰ったマフラーや、ハイムの子息から貰った手袋などを身に着けている。
僕も彼女へ身に着けるものをあげたい。
ペーパーナイフを引き出しから取り出して、そっと手紙にあてる。おそらく内容は、ダリアのお礼の手紙だろう。書いてある中身を予想していると、ふとある考えが過った。
身に着けるものを贈るとしたら、僕はなにを贈っていたのだろうかと。けれど考えても、思いつかない。そして思いつかない自分に愕然とした。
僕がミスティア嬢について知っていることは、甘いものは嫌いではない、音楽に興味はあまりない……など、当たり障りのない好みだけだ。明確になにが好きでなにが嫌いか、まったく思い当たらない。
ミスティア嬢の好きな色──彼女の好きな色はなんだろう。黄色のダリアを見つめていたから、黄色? でもそのあと赤い色も見つめていた。
僕はミスティア嬢についてなにも知らない。今まで僕は知ろうとしていなかった? 見ていなかった? いやそんなはずはない。
頭を横に振っていると、ミスティア嬢の周囲の人間の顔が思い浮かんだ。きっと彼女を笑顔にさせる人間は、皆彼女の好みを知っている。なにが嫌いなのかも的確に把握していて、彼女を喜ばせることができる。
でも、僕は知らない。婚約者のはずなのに、ミスティア嬢の好みもなにもかも、もう出会って二年経つというのになにも知らない。興味がないわけじゃないのに。きちんと調べようとしていたはずなのに。
頭が煮えたかのように熱くなり痛む。荒くなる呼吸を抑え、息を整えながらミスティア嬢の様子を思い出していく。すると一つだけ、思い当たった。
初めて出会った時の、チェスボード。
たぶん僕に関わるものの中で、ミスティア嬢が最も興味を示したのはチェスボードだ。チェスをした後の彼女の発言で、僕は憎しみを覚えて気にとめていなかったけれど、今思えばチェスをしている最中、彼女は楽しそうにしていた。
あの時さえなければ。
あの時、僕は彼女に僕のことが嫌いかと尋ねた。ほんの少し意地悪をしたつもりだったけれど、彼女は酷く怯えた。
時間が巻き戻ればいいのに。記憶を持ったまま、ミスティア嬢への感情を残したまま、やり直すことができたらいいのに。
そんなことはいくら願ったところで叶わない。考えるだけ無駄だ。結局大切なのは今で、未来だ。
後悔なんてしている場合ではない。考えを変えよう、僕があげられるもので、彼女が喜びそうなものはなんだろう。彼女の言動を思い返していると、ふいに以前彼女に言われた言葉が蘇った。
──私は、レイド様が大切に想う方を見つけた際には、婚約解消ができるよう必ず尽力したいのです。
ミスティア嬢が初めて僕にお願いしたこと。僕が運命を感じる人に出会ったときは、彼女に話すこと。
それがどんな意味を持つのか、今ならはっきりとわかる。そうだ。彼女の願いは、欲しいものは、最初から決まっていたのかもしれない。
「自由、かな……」
呟いてみて、自分の声が震えていることに気づいた。
ミスティア嬢と初めて会った日、彼女は言った。いつか僕に運命の女性が現れ、そして婚約を解消する日が来るかもしれない、と。
ミスティア嬢は僕に運命の女性が現れると言ったけれど、もし運命の人がこの世界にいるならば、間違いなく僕の運命はミスティア嬢で、彼女の運命は僕じゃない。いつか、彼女はほかの、彼女の運命の男と結ばれようとする日が来る。そうして僕のもとを去る日が来る。
その時が来たら、僕は必ず彼女の障害になるだろう。
僕は好きな人の幸せを願えない。
そう認識すると、さっきまで熱を持っていた頭が急速に冷えたように感じた。
ミスティア嬢のマフラーを、手袋を褒めた時、彼女はたしかに微笑んでいた。その時僕は、ただただ悔やむような、
──婚姻は、愛する者同士でするものですからね。一生を添い遂げるのですから。
初めて会った日、ミスティアはそう僕に言った。はじめこそ受け入れられなかったその言葉を、僕はたしかに心に留めた時期があった。
でも、今は違う。愛するもの同士でなくても、婚姻をすることはあるのだと、ミスティア嬢は身を以て知ることになるのだろうと思う。
僕は手元の手紙に目を向けると、封を一気にナイフで切り裂いた。
【夏 Jの逢引き】
今日はミスティアと一年ぶりの逢引きだ。はやる気持ちを抑えているつもりが浮足立つ。早く会いたい。会いたい。早く、俺のミスティアに会いたい。
恋人断ちをして勉強に励み、教員採用試験に無事合格した俺は来年の春から教師として働く。それも赴任先の学園は、学区的にミスティアが通うことになるであろう貴族学園だ。あと二年経てば、あいつが生徒として通う。
ミスティアを嫁に貰う第一歩が踏み出せたことが嬉しいし、あいつと会う時間も増えて嬉しい。さらに合格によりあいつとの接触が解禁された。
そして今日、とうとうミスティアと逢引きだ。気持ちが抑え切れず足踏みをしながら馬車に乗っていると、あいつの屋敷の前で停まった。御者が扉を開くのも待たずに馬車から降りると、すでにミスティアは門の前で待っていてくれた。身長が伸びあどけなさが減って、顔立ちが凛としたようにも見える。
「よう、久しぶりだな」
「お、お久しぶりです」
ミスティアは少し緊張しているようだ。もしかして俺と会うのが楽しみすぎてなにを話していいのかわからないのかもしれない。俺も同じだ。馬車に乗るよう促し手を差し出すと、ミスティアは遠慮がちに俺の手を取る。
座席についたのを見計らってから御者に合図を出すと馬車が走り始めた。
今日は街に行く。街に行って一緒に歌劇を見て、食事をして服屋を見る。今日くらいは、恋人同士らしいことをしても許されるだろう。
でも、今から楽しみすぎて駄目だ。口元が緩む。悟られないよう窓に視線を移すと、ミスティアが「あの……」と包みを差し出してきた。
「あの、よければ、これ、合格祝い、です」
「合格祝い……?」
小ぶりの箱だ。ミスティアが、俺に合格祝いを……? まだ目の前で起きていることが理解できない。
「あと、乗馬練習のお礼もかねて」
ミスティアが付け足すように話す。なんだか引っかかる言い方だ。なんでだ、と考えて俺は思い出した。
……今日は、ミスティアと俺が初めて会った日。怪我をしていた俺を、こいつが介抱してくれた日。俺たちの出会いの日だ。なんで乗馬練習のお礼を今と思ったが、合格祝いと記念日のプレゼントじゃねえか。大事な日なのにミスティアと会えることに浮かれてすっかり忘れていた。駄目な恋人だ俺は。ミスティアはしっかり俺との記念日を覚えていてくれたのに。
「開けてもいいか?」
「どうぞ」
包みを開けると、馬をモチーフにした置き物が現れた。小さな宝石……俺の瞳の色と同じ色があしらわれている。
「えーっと、本立てです。最近たくさん読まれると聞いて……」
「ありがとう、嬉しい」
ミスティアは俺への贈り物を悩み、親父から最近俺が本を読むということを聞いたのかもしれない。健気だ。たしかに最近の俺は本を読む。教師として必要になるであろう教材資料だったり、いい恋人、いい夫になるための手引書だったり、恋愛小説を読む。
親父の前では恋愛小説なんか読まないから、なにを読んでいるかは知られていないはず……だよな?
ミスティアのためといえども、恋愛小説を読んでいることが知られたら少し恥ずかしい。出ている登場人物たちを、自分とミスティアを重ねて妄想している、なんて思われたら死ぬしかない。俺はただ出てくる男の、主人公の女と結ばれる男の言葉や行動を見て勉強しているだけだ。
でも、勉強しているだけで、実行は全然できていない。それに奴らはガキみたいに悪口を言ったり合意なく触ったりすることもあって、参考になるのはだいたい主人公の女とくっつかない男の言葉だ。
くっつかない男の言葉なら参考にしても駄目だと思ったが、まぁそもそも俺はミスティアとくっついているしと気にすることはやめた。
「大事にする」
俺が礼を言うと、ミスティアはそれだけで照れたような顔をする。可愛い。大切にする。一生かけて、お前ごと。
心の中で呟いて、おもむろに馬の置き物を窓から差す光にかざした。まるで宝物のように光っている。それは目の前のミスティアも同じだと思いながら、俺は指でなぞった。
【秋 Eの駆け引き】
「僕、来年学園に行くんだよね」
ティーカップを見つめていたミスティアに声をかけると、彼女は顔を上げた。今日はアーレン家の屋敷で二人だけのお茶会だ。邪魔者もいない。とても嬉しいはずなのに、僕の気分は晴れないどころか沈むばかりだ。
来年僕は進学する。毎週五日間朝から夕方まで学園にいなければいけない。だからその間は、ミスティアに会えないのだ。週の二日は休みだけど、彼女にも用事がある。絶対会えるわけじゃない。
来年の一年間はミスティアと会う時間が今よりもずっと減ってしまう。
一年耐えれば彼女も同じ学園に入学するけれど、それまでは会えない。
僕はミスティアさえいればいいのに。なんで離れなくちゃいけないんだろう。
彼女との年の差なんて、一歳だけだから考えたこともなかったのに、今はその一年の差がすごく遠いものに感じる。彼女は一年遅く入学して、僕は一年早く卒業する。それが遠くて苦しい。
僕が一年早く生まれただけで、ミスティアが一年遅く生まれただけで、こんなにも会える時間が減ってしまう。同じ年だったら離れなくて良かったのに。
一緒に学園に行けて、一緒に卒業して、学園でもずっと傍にいるのに。
「ご入学、おめでとうございます」
ミスティアは祝いの言葉をくれた。彼女から貰う言葉はなんでも嬉しいのに、今日だけは喜べそうにない。
「ご主人と一緒に行けないのは寂しいけど、僕ずっと待ってるからね」
僕の言葉に彼女は考え込んで俯いた。でもすぐに顔を上げて、焦ったように口を開く。
「え、え、りゅ、留年とか、駄目だよ、絶対駄目だからね?」
ミスティアは不安げな目で僕を見る。彼女の目が僕だけを映している。嬉しい。留年は僕が何度か考えたことだ。僕が留年すれば彼女の学園生活三年間を一緒に過ごすことができる。先輩後輩なんて隔たりもなくなる。
……でも。
「そんなことしないよ。僕にはしたいことがあるからね」
ミスティアとずっと一緒にいるためには、しなければいけないことがある。
三年前は勇気を出すだけで良かったけれど、今はもうそれだけじゃ駄目だ。僕はまた一歩踏み出さなきゃいけない。
彼女と一緒にいるために、彼女の傍にずっといるために。そのためにちゃんと、彼女より一年早く卒業する。彼女が学園にいる間に、彼女が学園生活に追われるうちに、僕は二人でずっと一緒に、永遠に幸せでいられるそんな場所を作るんだ。
三年前に作った街みたいに、僕たちの理想の世界を。僕たちだけの幸せの世界を。
「でも、留年もいいかもしれないね。そうしたら入学式も一緒に出られるし!」
道化たように笑うとミスティアは目に見えて顔を青くした。可愛い。僕の一言で、彼女の表情はころころ変わる。どんな表情も欲しい。でも泣いた顔はあんまり見たくないかな。
「冗談だって、からかってごめんね? ご主人」
そう言うと、彼女の表情から不安の色が消える。いつもの顔だ。いつもの顔も笑った顔も、ミスティアの顔は全部僕のものだ。ほかの誰かになんて絶対あげない。
……だから、僕がちゃんと君の名前を呼べるようになるまで、ちゃんと、待っていてね。
「ご主人だーいすきっ!」
ミスティアに向かって、笑みを浮かべる。彼女はちょっと困ったものを見るように僕を見た。その表情もぜーんぶ僕のもの。
僕は彼女に微笑みかけながら、手元のティーカップに残っていた紅茶をすべて飲み干した。
【冬 ミスティア・アーレン 神隠しの怪】
冬の寒さが僅かに和らぎ始めた今日このごろ。私はいつになく焦っていた。
事の起こりは遡ること昨日。朝食をとっていた際、父の知り合いの伯爵の娘が留学するのだと聞いた。
伯爵家の令嬢が、貿易を学びたい。世界を自分の目で見て見聞を広めたいと留学に発ったらしい。父はその話を聞いて不安を抱いてしまったと話をしていた。
私は留学をするなんて一言も言っていないのに寂しいと泣く父を横目に、料理長のライアスさんが一生懸命作ってくれたオムレツを食べながらふと気づいたのだ。
そうだ、留学しようと。
一向になくならないレイド・ノクターとの婚約話はここ最近、「卒業を期に式を挙げて」と具体性を帯びてきていた。
当初、私と彼の婚約は決定ではあるものの、挙式、婚姻の手続きに至るスケジュールはふわっとしていた。それはそもそも私が一人娘であり、さらに両親は私以外に子供は儲けず三人で仲良く生きていくということが決定しており、そんな私の婚約者がノクター家の一人息子であるレイド・ノクターに決定したことで、家督の問題が立ちふさがっていたからだ。
その矢先、夫人が懐妊し男児を産んだ。
要するに、ノクター家には後継ぎができたのだ。さらにレイド・ノクターは「僕はミスティアと結婚する以上、アーレン家も大事に思っている。だからきちんとアーレン家のことを考えていきたい」と、ある種の相続放棄を表明した。
よってレイド・ノクターの婿入り、そして結婚式の日取りなどの話が具体的になってきたのである。
だからこそこれ以上具体的に婚姻話が進む前に、婚約の解消をしなければいけない。
これまで私は両親に対し、婚約解消について表立って働きかけることはなかった。
十歳の時はまともに取り合わないだろうと話をしなかった。十一歳の時は、ノクター夫人はザルド君を出産、不安にさせると思い話をしなかった。十二歳の時も同じだ。育児は肉体的、精神的にも負荷がかかると本で読んだ。息子の婚約解消まで出てきたら夫人が危ういと話をしなかった。
そして今私は十三歳。本来ならば中学一年生。小学校も卒業している年齢だ。両親に婚約の相談をして、まともに取り合ってもらえる年齢に達した。
ノクター伯爵や夫人に伝えるのは後にして、まずはレイド・ノクターにその旨を話そう!
そう決意した私は、この夏彼に「あの、本当に勝手なんですけど……」と前置きしてから、「婚約を一度解消してみませんか」と言おうとした。
言おうとしたのだ。
しかしそれは叶わなかった。途中で何者かに邪魔をされたわけではない。私が、「婚約を一度解消してみませんか」の「婚約」の「こ」を言った瞬間、彼が「婚約は絶対解消しないけれど、なにが勝手の話なのかな?」と笑ったのだ。
さらに、「同じことを何度も聞かれるのって楽しくないよね」と続けた。私の心は一瞬にして恐怖に支配され、折れかけた。だが、それでもなんとか己の心を奮い立たせ、口を開こうとしたら、「僕の話、聞いていたよね?」と睨まれたのだ。
私の心は折れた。折れて、欠けた。
それから半年が経過してもなお鬱々とすごしていた私にとって、伯爵家の令嬢の留学話は天命のように感じた。
私もその令嬢のように、「ミスティア留学したーい」と我儘を言って要求を通せばいい。
エリクとは徐々に適切な友人関係を築こうとはしているものの、一向にご主人呼びは取れない。貴族学園に入学し、エリクと主人公の出会いイベントがきちんと発生し、彼が更生したのを確認して、そのまま外国に飛び立つ。完璧なシナリオだと思った。
後はただ、海外で勉強するだけでいい。きっと一年が経ったころには、誰かが主人公と思いあっているはずだ。
仮に相手がレイド・ノクターであったとしても、留学して婚約がうやむやになった感じと、その間にいい人できちゃったなら仕方ないよねという雰囲気の組み合わせにより、私は彼と自然に婚約を解消できるはずだ。
両家に被害もない。完璧な作戦だ。
そのあまりの完璧な作戦によって調子に乗った私は、朝食を終えると執事のルークになるべく早く留学資料と書類を用意してもらうよう頼んだのである。
留学書類一式はその日の午後に届いた。運命を感じた。
それらは、取得制限がある。一人三部しか貰えず、それ以降申請できない。その家の使用人が申請することもできないと聞いた私は、一部は予備として引き出しにしまい残りの二部をすべて記入し終えたころには、すっかり日が暮れていた。
今夜はぐっすり寝られるぞと就寝し、夜が明け目覚めるとなぜか机の上にあった留学の申請書類が部屋からいっさい消えていたのだ。
部屋の中を大捜索し、朝食を食べて捜索を再開。書類は見つからないまま現在に至る。
「なんでない……? なんで? なんでだ?」
私は半ば絶望しながら、念のためにと廊下を探し始める。ロッククライミング中に命綱をなくしてしまったかのような不安感だ。いやロッククライミングなんてしたことがないし、そんなことを考えている場合ではない。
捨てたわけでもない。机の上に置いていたはずだし、窓も開けてない。一昨日あたりからずっと無風だ。どこを探しても見つからないし、パンフレットの姿すら見えない。
間違えて捨てた……?
でも、昨日はなにも捨てていない……。思考を巡らせていると、いつの間にか後ろにメロが立っていたらしい。「なにかお探しですか」と尋ねてきた。
「うーん、留学の資料がなくて……」
「そうですか……私もご一緒にお探ししたいのですが、これからどうしても所用がありまして、お力になれず申し訳ございません」
「大丈夫だよメロ。私のことは気にしないで」
「すみません御嬢様。済み次第すぐにお手伝いいたしますので……」
申し訳なさそうに去っていくメロを見送る。
大丈夫とは言ったものの非常にまずい。全然大丈夫じゃない。汗が滝のように流れていく。
なにがまずいといえば、留学申請書類は取得制限がある。なくしたら終わり。もう留学できない。
それがなくなるということは私の国外逃亡、もとい留学の道が途絶えてしまうということだ。
とりあえず廊下を後にして、玄関周りを探していく。でもなにも見つからない。焼却炉も探してみるかと向かってみれば、すでに掃除されていた後だった。
どうしよう、三部貰ってフルに失くすとかありえない。
「……あれ? 三部?」
自分の記憶に、引っかかりを見つけた。……私が昨日記入したのは、二部だけだ。残りの一部は、未記入のまま引き出しにしまった。
そこには絶対に触っていないから絶対にある。これはいけると自室へ向かって私は駆けた。息を切らしながら辿り着き扉を開くと、なんの運命のいたずらかレイド・ノクターが部屋の中にすでにいた。
「やあ、ミスティア」
「え……。こ、こんにちは」
優雅に笑うレイド・ノクターが、机に不自然に手を置いていた。視線をそちらに向けると、転がった花瓶と──ずぶ濡れの留学申請書類があった。
「え」
「ごめんね、花を見てたら手が滑って、机や床は無事だったんだけど、ちょうど、これにかかってしまったんだ」
「りゅ、留学、私の、留学書類……」
書類は文字が水に溶け、白紙と化していた。元に戻すことは不可能だ。レイド・ノクターは私の言葉に驚き、肩を落とした。
「へえ、留学の申請書類だったんだ、水でインクが流れてもう駄目かな……本当にごめんね」
意味がわからない。理解が追いつかない。なんで部屋に彼がいるのかわからないし、引き出しに入っていたはずの留学書類がなんで出てきたのかもわからない。
「……そういえば、留学の書類って取得制限があったね? 責任を持って僕が取り寄せるから、安心して」
レイド・ノクターは私に近づいてきて、安心させるように肩を叩く。申し出はありがたく感謝してもしきれないが、得体のしれない怖さを感じる。それは彼がどことなく安心しているように見えるからだ。まるでロッククライミング中に落下しかけて、安全装置が作動したかのような、まるで危機をぎりぎりで逃れたような。
「本当にごめんね?」
そう微笑むレイド・ノクターの瞳は、あまり笑っていない。こちらを巣食うようだ。私は身震いするように、おそるおそる頷いたのだった。