御嬢様へとまっすぐ向かっていく専属侍女の歩き方は規則的で、人間のものには見えない。俺がアーレン家に勤めるほんの少し前に孤児院から引き取られてきたらしいあの女は、精巧に作られた人形と表現する方が腑に落ちる。今は後ろ姿しか見えないが、表情は見なくてもわかる。感情を削ぎ落としたような無表情だ。あの女はいつだって感情を表に出さない。機械人形だ。

しかしその人形も御嬢様の前では人間に変わる……らしい。御嬢様はあの女について「笑顔が可愛い」「すねてるとこも可愛いね」なんて声をかけているが、俺にはあの女はいつだって同じ表情をしているように見える。

でも、俺にもあの女の感情の機微がわかる瞬間がある。御嬢様の婚約者が屋敷に来た時、あの女の義眼のような瞳は、御嬢様への執着と独占の欲で揺らめくのだ。

さすが専属と言うべきか、あの女は上手くやっていると思う。自分が万能になりすべてを担うことで、最初から雇用の席を用意させない。

今や御嬢様の専属侍女は、通常の学びのみならずピアノ、作法、ダンスレッスンまで、御嬢様に関するものすべてを任されている。あの女が役割として得ようとしないのは御嬢様の傍を離れなければいけないものだけだ。たいした執着心だと思う。

窓の外を見つめていると、専属侍女が御嬢様に声をかけたらしい。御嬢様はあの女に向かって柔らかく微笑み手を振っているが、あの女は無表情で御嬢様を見つめている。やはりあの女の心は、御嬢様にしか理解できないのだろう。

あの女が御嬢様の婚約者を殺さないのは、御嬢様が婚約者のことをどう思っているのかわからないからだ。かくいう俺だってわからない。御嬢様は婚約者から手紙が届くと顔色が極端に悪くなるし、手紙の返事を送る時もこの世の終わりという顔をしている。二週に一度婚約者相手に食事を作ってやってはいるけれど、楽しそうではない。

好意は持っていないだろうが、だとしたらなぜ手紙を交わしたり屋敷に向かうのか。

答えはいまだ見つからないが、なんとなく御嬢様は当主様と夫人のことを大切に想っているし、二人が勧めてきた婚約だから無下にはできないと考えているのだと思う。

……やっぱり邪魔だな、御嬢様の婚約者。

当主様は御嬢様に最もいい相手を選んだと自負し、相続については今後の状況を見てという話だった。そして婚約者には弟ができた。おそらく奴はこっちに婿入りする形になるのだろう。御嬢様が望む相手ならば許せるが、変なことをしたら殺す。その場合この屋敷に来るほうが都合がいい。

……でも、俺がしなくても同じことを使用人全員考えていそうだな。

俺が手を下すまでもないと結論づけ、執事長の執務室をノックをする。返事が聞こえてから部屋に入ると、執事長は机に向かいなにやら書類に記入をしていた。

「失礼します、執事志願者の書類です」

「ああ、それはそれは」

その目はとても静かで、今までの使用人の長とは一線を画している。そこにはなんの感情の揺れ動きも無い。

しかし執事長は、絶対に新人を雇用しない。

当主様の目を気にして雇用するそぶりは見せるものの、面接で落とし続けている。書類で全部落とすのではなく、脱落は半数にとどめ、面接ですべて落とすあたり手慣れていると感心した。

俺が雇用されたのは、本当に人が足りない時で仕方なくだったのだろう。

「今、不採用の文書を書き終えたところなんですよ」

「どうぞ」

書類を渡すと執事長は記されている名前を確認し、不採用通知書面に写していく。執事長の下で働いて六年。俺はこの人の名前が「スティーブ」であることと、

「……毎年、うじのように湧いて出て……、十一年前の疫病のように皆死に絶えてしまえばいいものを」

御嬢様に対して並々ならぬ想いを抱えていることしか知らない。

十一年前に起きた疫病の流行は水を媒介するもので、周辺には公爵家の家々が連なり、貴族も平民にも多数の死者をもたらしたものだと聞く。平然とした顔で例えていい事象ではない。

部屋を出て、こちらの様子が悟られないよう即座に扉を閉めた。

……この屋敷の使用人で、まともな奴なんて一人もいない。俺がしっかりして、ちゃんと御嬢様をお守りしないといけない。

いっそ夜、御嬢様の部屋の前を警備するのもいいかもしれない。

自分の考えに頷いていると、そんな俺の思いを肯定するかのように廊下の端からぬるい夏の風が吹き抜けていった。



【秋 Rの希望維持】


「あの、どうですか、味とか」

アーレン家の屋敷でミスティア嬢と夕食を共にしていると、彼女は不安げな顔で僕に問いかけてくる。

「美味しいよ」

ミスティア嬢が僕に夕食を振る舞うようになって半年。二週間に一度という当初の約束を、一週間と少しまで縮めた。彼女の屋敷に訪れる際は昼間から屋敷に向かい、会う時間も増やしている。

けれど心の距離が縮まっているとはとうてい思えない。

今年の夏のはじめ、彼女は僕の母と弟の体調が良好であることを理由にこの食事会を打ち切ろうとした。「また僕は一人で味のない夕食を食べるのか」とわざとらしく呟けば、彼女は瞬時に僕の言葉を信じて、かろうじてこの時間は継続された。

でも、騙しておきながらこんなことを思うのはよくないけれど、ミスティア嬢はとても騙されやすいと思う。

物事への注意力や警戒心はかなり強いほうだと思うし、なにかしら行動を起こす際に考え葛藤していることは見ていればわかる。しかしなにかしらの拍子に注意や警戒を無にする瞬間があり、その点に関して不安はあるものの、僕はそこにつけこむことをやめられない。

そうしてミスティア嬢の善意や同情を利用して会う頻度を縮め、その時間を増やしても彼女との信頼関係がいまだに築けない。

少ないながら、進展はある。会うたびに彼女が僕という存在に慣れてきているように感じる。

今までは、僕の顔を見ただけで冷や汗をかき目を泳がせ俯いていた。しかし最近は、俯かなくなった。常に下を向いていた彼女の視界は、今や僕の首元くらいにまで上がり、もう少しで目が合いそうだ。

あとは普通に会話してくれればいいと思う。

「そ、う、い、えば」

唐突にミスティア嬢はスプーンを置き、僕の目を見ようとする。

人の目を見て話すのは礼儀……ということは心の中にあるらしい。しかし僕のことが怖いのか、彼女はなにかを話すとき、常に僕の首元を見ている。

「こ、こ、この間、ピアノの演奏会、優勝したとか……」

「ああ……」

たしかに一週間ほど前、僕はピアノ演奏会で優勝した。ミスティア嬢との手紙を通して、彼女が音楽に興味があると感じたことはない。だから彼女には伝えていなかった。

きっと、僕の両親から聞いたのだろう。ぼんやりと思っていると、ミスティア嬢は意を決するようにこちらを見た。

「お、お疲れ様です練習とか、いろいろ」

「え」

予想と異なる、ミスティア嬢の言葉。

……おつかれさま? おめでとうではなく?

疑問を感じた僕を見て、彼女はしまったというような顔をした。

「えっと……、あ! 優勝おめでとうございます」

目を泳がせ俯き始めた彼女を観察する。一番初めに出た言葉は優勝に関するものではなく。僕をねぎらうものだった。

今まで僕の周りの人間は、僕が優勝することを、僕が一番であることを当然ととらえて、両親以外労う言葉なんてかけてこなかった。たしかに彼女とはまだ会って一年しか経っていない。だから僕が優勝することを、一番でいることを当然ではないと思っていても、不思議ではない。

「ありがとう。優勝って言っても、実感は湧かないんだけどね」

僕は前、たしかにその実感を得ていた。優勝した喜びを感じていた。けれど今は欲しいものを手にしたという感覚よりも、日課を消化する感覚に近い。

「……だから、なんて言うか。……ごめんね。君の反応に驚いてしまったよ」

口にしてからすぐに後悔をした。正直に話しすぎてしまった。どう考えても今の話題は返答しづらいものだ。彼女の顔色はどんどん悪くなっている。なにか、別の話題に変えないと。話題を考えていると、彼女は「あの」と躊躇いがちに口を開いた。

「……演奏会に向けて、練習とかするわけじゃないですか……。努力しようと、いやなにかしようと思うだけで、もうそれだけでも十分すごいと、思いますよ」

「え……?」

「それがなんであれ、結果がどうであれ、なにかに努力した、しようとした姿勢はすべて誇っていいと思います。ああ、演奏会に出ようと思うのも……すごいことだと思いますし」

ミスティア嬢は考え考え言葉を話し、一生懸命僕の目を見る。

……もしかして彼女は僕を褒めようとしている?

「あっ、一番をとるってことも、すごい大変で……難しいことで……すごいと思います。私は今まで生きてて一番になれたことがないので……私から見れば本当にすごいと思っていて……。……えーっと、以上です。な、なにも知らないくせになに言ってるんだって感じですね、ごめんなさい」

練習をすることが、すごい。出ようと思うのもすごい。今まで当然のように思っていた行為を、ミスティア嬢はすごいと思うのか。

彼女がそう思うなら、今まで当たり前に取ってきた優勝も、賞も意味のあるもののように思えてきた。

一方のミスティア嬢は、僕が黙ったことに焦り冷や汗をかき始めた。

ただ話をしただけで、僕の今までの行動へ意味を持たせた。重たかった心をふわりと軽くしてしまった。でも自分がなにをしたかなんて、ミスティア嬢はまったく考えていないのだろう。それどころか彼女はどんどん目が泳ぎ始める。

初めて出会った時は無表情で、無機質だと思っていた彼女の表情。でも、本当はこんなにも豊かで、そして今その機微がわかることがこんなにもうれしい。

「君がそう言うのなら、これからはもっと頑張ろうかな」

ミスティア嬢の顔が完全に下に向けられる前に返事をすると、彼女が顔を上げた。喜ぶというより、「助かった」という顔だ。

今僕は、彼女の心を重くすることしかできない。だけどいつか僕の存在が、彼女の心を軽くするものになってほしいと思う。

そう願いながらシチューを一口食べる。窓の外では僕たちを傍観するように、秋風が木々を揺らしていた。



【冬 Eの肯定対象】


ミスティアへのクリスマスプレゼントを買うため、僕は街へ出た。

彼女は家族を大切に想っている。だからクリスマスも誕生日の時みたいに家族と使用人だけで過ごそうとしていると知った僕は、イブに一緒に遊ぼうと誘った。彼女はしばらく考えこんでいたけど、何度もお願いをして駄々をこね、泣き真似もしてなんとか約束を取り付けられた。

だから、クリスマスは一緒に過ごせなくても、イブは一緒に過ごせる。誕生日プレゼントはなんでもない次の日に渡したけど、クリスマスプレゼントはちゃんとその日に渡せる。

ミスティアに渡すプレゼントはもう決まっている。彼女はよく本を読むから本がいいかもしれないけど、どうせなら身に着けるものをあげたくて手袋にした。専属の侍女に貰ったマフラーを大事そうにしていたから、僕は手袋を渡す。本当はマフラーを渡したかったけど、僕がさらにミスティアにマフラーをあげたら優しい彼女は困ってしまうし、今回は侍女に譲ってあげる。

どんな手袋をあげれば、ミスティアは僕のことをもっと好きになってくれるんだろう。お店がたくさん並ぶ通りを歩いていると、周りにいる僕と同い年くらいの女の子たちがこちらを見ていることに気づいた。

僕が視線を合わせると、女の子は皆顔を赤くして俯いたり、笑いかけてくる。そんな女の子たちに手を振ると皆揃えるみたいに嬉しそうな反応を示してきた。

今までなら、こちらに視線を向けられただけで僕は怖くて震えた。相手の顔を見るなんて、絶対にできなかった。でも今は簡単にできる。

ミスティアに会ってから、僕は自分が変わったなあと思うようになった。徐々にその回数は増えつつある。

怖くて、気持ち悪くて仕方なかった皆の視線が今はまったく気にならない。それどころか自分に向けられる好意的な目がちょっと面倒だなあと思うときもある。

僕にはミスティアさえいればいい。彼女の隣に、そして彼女の一番が僕ならそれでいいから、ほかの誰かの視線なんてどうでもいい。ミスティアと僕以外、全部どうでもいい。彼女を傷つけない、嫌な思いをさせない存在なら、僕は構わない。

だから、レイド・ノクターは嫌いだ。彼女の婚約者、邪魔な奴。僕はあいつが大嫌い。消えちゃえばいい。

たまにあいつについて質問すると、ミスティアは悲しい顔をする。彼女が疲れたり、なにか思いつめたりしているとき、彼女の予定表にはたいていあいつの名前が書いてある。

レイド・ノクターはミスティアの幸せの邪魔をしている。

でも、それなのにあいつは、ミスティアのことが好きだ。そこが一番嫌い。

前に彼女とあいつ、三人でお茶をした時すぐにわかった。あいつは彼女が好きなのに、彼女に不安そうな顔をさせる。彼女の幸せを邪魔するくせに。

それに、親同士が勝手に決めた婚約でミスティアに選ばれたわけでもないのに、婚約者面するところも嫌いだ。

僕がもっとミスティアと知り合うのが早かったら婚約者は絶対に僕だった。

あいつさえいなければ、絶対今僕は彼女の婚約者だった。

苛々しながら周りに目を向けると、ちょうど手袋や小物を扱う店の通りまで来ていた。

服屋や帽子屋、髪飾りや耳飾り専門の店など、さまざまな店が立ち並んでいる。人の流れもどことなく色んな色を纏っていて、お洒落な人が多くなってきた気がするけど、僕はその光景に首を傾げた。

「ん?」

通り過ぎていく女の人が皆、似たような髪飾りをしている。そういえば、僕を見ていた女の子たちもしていたかもしれない。

まるでお揃いにしているみたいだ。

髪飾りもいいかもしれないと専門店の前を通ると、行列ができていた。

店の壁には、「現在流行の髪飾り、一日入荷二十点」と注意書きがされている。その注意書きの下には、皆が揃えるようにつけていた髪飾りが描かれていた。

……流行っているから、皆つけていたのか。

ミスティアは髪飾りや首飾りに興味を示さない。だから僕も流行について調べたりしていなかった。

大変だな、と並ぶ女の子たちを眺めてからはっとした。

売っているものを普通に買ったら、ミスティアは僕以外の誰かと知らない間にお揃いになっちゃう。

すっごく嫌だ。彼女の知らない人間が、彼女に認められていない人間が、彼女とお揃いになるなんて許せない。

……一から注文しよう。ミスティアの手はよく握っているから大体の大きさならわかるし、サイズが調整できるものにしてもらえばいい。

髪飾りの店の前を通り過ぎて、仕立て屋へと足を進めていく。

ミスティアに似合う、とびきりの手袋を注文しよう。そして僕も、お揃いの手袋を作ってもらう。僕が黒で、彼女は白がいいかな。冬だから厚めの生地でお願いするけど、白い手袋って花嫁がつけるやつみたいだし。

そして、いつか僕が選んだマフラーもつけてもらおう。

ミスティアが喜ぶ姿を想像しながら仕立て屋の扉を開くと、店の中で温められた風と、外の冷たい風が混ざりあい、僕の前を吹き抜けていった。