異録 一線を越える瞳
SIDE:Raid
春、ミスティア嬢を街で見かけた。隣を歩くのは彼女の侍女で、まるで身分の差なんてものは存在しないかのように二人で歩いていた。
本来のミスティア嬢は、こんなふうに笑い楽しそうにするのか。そう考えると、心が掴まれたように苦しくなった。声をかけると彼女の表情はまた強張ったものに変わり、自分がこうも抑えつけていたのかと罪悪感が強くなった。
僕は彼女と初めて会った時、嫌いだと思ったし憎いとも思った。どうでもいいと思っておきながら、顔合わせの時の僕は間違いなく彼女に敵意を向けた。
だから僕がミスティア嬢に避けられることは仕方がない。手紙を送りあうことはあっても、お茶会や屋敷への招待を断られても仕方がない。手紙は返してくれるし、とても
なのにこのままでいたらいけない気がして、アーレン家に押しかけたことがあった。お礼を言って、顔合わせの時の態度を謝罪した。けれど彼女は僕に怯えたままで、それに僕に妹か弟ができたことを知って、ほっとしたような、嬉しそうな顔をしていた。
もし弟が生まれてきたら、そちらと結婚したいと考えているのかもしれない。漠然とそう思った。貴族同士の結婚に年齢差はつきものだ。むしろ同じ年同士で結婚している者のほうが少ない。
その日、僕は初めてミスティア嬢と握手をした。彼女に触れたのは初めてで、手は繋げたけれど、心の遠さをにょじつに感じた。
それからしばらくして、エリク・ハイムという少年の存在を知った。彼はミスティア嬢に抱きついて頬にキスをした。彼女は彼に怒って注意をしていたけれど、自分がされて嫌だからではなく同意のない状態でそういった行為をしたことに対して怒っており、彼を心配しているように見えた。
ミスティア嬢は僕との誘いを断って、エリク・ハイムとは会っていたらしい。
それほどまでに僕が嫌われているのか。それほどまでに彼女は彼が好きなのか。どちらにしても、胸が苦しくて辛くなった。
それから僕は悩んだ末に父にミスティア嬢と婚約を解消したいと伝えた。彼女に想い人がいること、その相手がノクター家と同列の家で、相手も彼女との結婚を望んでいるだろうことも。
一度は進めてほしいと言った婚約だ。反対も承知の上だった。しかし父は僕の身勝手な意思を汲もうとしてくれた。
「……お前には、長年寂しい思いをさせてきた。ノクター家を継ぐ者として、必要以上に厳しく接しすぎていた。でもこれからはお前の好きなようにさせたいと思っている。お前が望むなら、婚約を解消できるよう尽力する」
そう言った父は、穏やかな目をしていた。昔、もう二度と見ることは叶わないと諦めた目。母に向ける目も昔とは全然違う。
以前の父は母を明確に拒絶していた。しかし今、身重の身体でなにかあっては困ると、母を無理やり別荘に住まわせ始めた。助産師や医師を常駐させ、どこよりも安全な場所を作り上げそこで母を守るのだと心配と愛情の目で僕に話をした。
父の変化もミスティア嬢がいなければなかったものだと思うと、また胸が痛んだ。そんな僕を見透かすように父は僕に言ったのだ。
「だが、お前はもう一度アーレン家に行って、よく見て、聞いて、もう一度考えろ、それが婚約解消の条件だ。その後どんな判断をしても、私は止めない。きっと、母さんもそうだろう」
父は心のどこかでまだ迷いのある僕を見抜いていたのだろう。
一度会って決心が鈍るならやめておけ、でも意思が変わらなければ解消してやると。父の言葉を、僕はそう理解した。
ミスティア嬢に手紙を送り、アーレン家の屋敷へ向かった当日。彼女は僕を門の近くで待っていてくれていた。首に巻かれたマフラーの色はミスティア嬢の瞳の色とまったく同じで、僕は綺麗だと思うと同時に今日は寒かったのかと認識した。
案内は茶番のつもりだった。このよくわからない想いを断ち切るための。
しかしままならないことに、彼女は僕にマフラーを差し出してきた。
自分が差し出したマフラーが使い古しではないことを熱弁し、寒そうだから使ってくれと僕に言う。
彼女は優しい。以前青年を手当てしているところを見たことがあった。目の前に困っている人間がいたら、放っておけない気質なのだろう。
僕はミスティア嬢の好意に甘え、彼女のマフラーを巻いた。そして庭園を案内してもらった。
そこで見た庭師の瞳は、恐ろしいものだった。年齢は庭師にしてはだいぶ若く、ミスティア嬢と同じ黒髪で、柔和な顔立ちをしていた。髪色よりもやや薄いその瞳は射貫くように彼女を捉えていて、一目で彼女に度し難い執着を持っていることがわかる異常な瞳だった。それは行動にもよく表れていて、彼が僕に用意した花の花言葉は、敵意、恨みの意味合いを持つものだった。
そして、おかしな瞳でミスティア嬢を見ているのは彼だけではなかった。屋敷の中で確認できた使用人全員だった。今までどうして気づかなかったのかと思いながら屋敷の中をめぐり、最後に調理場へ案内された。
そこで僕はミスティア嬢に料理を作ってもらった。はじめは彼女が料理ができると聞いてすごいと思った。でも途中からエリク・ハイムへ対抗するような気持ちが出てきて、彼女に料理を作ってもらうよう強くお願いをしてしまった。
彼女の交友関係は、決して広くはないと聞く。だからもしかしたら彼女の手料理を食べるのはアーレン家の人間以外では僕が初めてかもしれないと思うと、仮定の話でも気分が良かった。
そうしてミスティア嬢に作ってもらった料理は本当に美味しかった。
彼女の料理を食べた後、食器を洗うくらいはさせてほしいと言ったけれど彼女はしばらく考え込み、僕に皿拭きを頼んだ。僕の服をじっと見つめていたから、服が汚れることを危惧してくれたのだろう。
二人で洗い物をしているうちに、ふと父と母のやり取りを思い出した。父は母の作る料理が好きで、僕も母の作るミートパイやキッシュが好きだった。しかし母はそれらをあまり作らなくなった。
理由は、父が母に構うからだ。
父は母が料理をしている間中、調理場の近くをうろつく。作業中に近づいたりする。だから母はある程度料理を放置しても大丈夫なように煮込み料理を作り、底の方がやや焦げ付いた鍋は、父が熱心に洗っている。僕はそんな二人のやり取りを見ることが好きで、でも最近は見る機会がないなと思いつつ、ミスティア嬢に話をした。
そうして僕は気づいた。自分のことをしっかりと話すのは、彼女が初めてだということに。
自分でも馬鹿だと思った。問い詰め、怯えさせ怖がらせて、強要することしかできない。なのに彼女に対して、自分を知ってもらいたいとも思っている僕に憤りを感じた。彼女と出会って僕は後悔ばかりしている。おかしくなってしまった。
でも、ミスティア嬢は言ったのだ。僕をまっすぐに見つめて、自分で良ければ料理を作りに行くと。彼女から、言った。
「でも、そう言ってくれるってことは、嫌いでもないんだね」
アーレン家の調理場で、水場から離れられない彼女を横目に、さっとその場から離れていく。
怯える相手に食事を作りに行く人間がいるだろうか。期待したくなる心を抑えて、彼女が優しすぎるだけだと思い直した。彼女は目の前に困っている、悲しそうな人間がいたら放っておけないのだから。
ミスティア嬢のまっすぐな優しさに打算は感じられない。彼女にとっては、当たり前のこと。意味なんてない。
それでも、今は構わない。
僕には彼女しかありえない。彼女しかいない。もう諦めない。きちんと僕自身と、そして彼女と向き合う。
「二、三週間に一度か、じゃあ二週間に一度と考えて……」
僕は日付を確認するふりをして、静かに覚悟を決めたのだった。