異録 恋は妄目
SIDE:Jey
「乗馬がしたい令嬢がいるから教えてやれ」と親父に叩き起こされ馬小屋に向かい待っていれば、俺から会いに行かなきゃいけなかったはずのあいつがいた。
あの春の日街に出て、足を怪我した俺を手当てしたあのガキが。
俺は、自慢じゃねえが人を怯えさせる顔をしている。クラスの奴らだって俺に怯える。小さいガキは俺を見るなり泣いて逃げる。俺は絵本に出てくる化け物かなにかかと思っても、本物のごろつきすら俺に対して同じような反応だった。
ごろつきもどきが足から血を流していれば、誰だって顔を背ける。当然だ。実際は散髪をするために店に行く途中、身体を看板に引っ掛けて転んだだけだが、誰かを半殺しにしてきた帰りだと思われても仕方ねえ見てくれだった。
なのに、そんな人殺しみてえな奴に真正面から向かってくるガキがいた。
ガキは俺を見るなり走って向かってきた。人から逃げられることはあっても、向かってこられるなんて初めてで、唖然とする俺の腕を掴むと、井戸水をぶっかけてきて俺の足を洗い、綺麗なハンカチを取り出して巻いた。そして駆け足で去っていった。
徐々にガキの姿が遠くなり見えなくなるのを確認してから、俺は状況をなに一つ理解できないまま屋敷に帰ってきてしまった。
それからは、ただ後悔の繰り返しだ。
どうしてあの時帰ってきてしまったのか、あの時追いかけて名前の一つでも聞いてりゃ良かったと後悔を繰り返した。名前でもハンカチに書いとけと思ったが、白地の布に刻まれているのは薔薇の紋章だけだった。
そこから見つけられる確率なんてほとんどないと落胆していたが、一縷の望みを託して親父に聞けば、さも当然のようにアーレン家の紋章だと話す。
親父の話によれば、その家には俺より八つ下の女のガキがいるらしい、名前はミスティア・アーレン。名前と所在がわかった俺はお礼の手紙を送ろうと、翌日散髪をした帰りに便箋と封筒を買った。やたら伸びてた髪も短くなり、さっぱりした気持ちで屋敷に帰れたことを憶えている。
だが、その日手紙を送ることはできなかった。
手紙は書いた。でも捨てた。内容が悪い気がして、書いては捨てるを繰り返した。お礼を書いて、見直して、捨てる。次の日もその次の日もだ。週が変わっても同じだった。ある時は封筒に入れた後、なんとなく出すか悩み破り捨てた。
感謝の手紙を書いて、洗ったハンカチを同封して、送るように遣いに命じ渡す。それができない。
捨てた手紙の中身を誰かに知られるわけにもいかず、溜めた手紙を焼却炉で燃やすのが週末の決まりになった。
毎日毎日、手紙を書いては捨てるを繰り返す日々を送り、季節が二回変わったころ、奇跡が起きた。
ミスティア・アーレンが乗馬がしたいと俺の前に現れたのだ。
奴を前にして、親父が乗馬を習いたいガキの話を俺にした時、妙な雰囲気だったことを思い出した。親父は知っていたんだ。そう確信した。
目の前には、夢にまで見た姿がある。
しかし、何度も紙に書いた言葉の代わりに出てきたのは最低なもので、敬語を外してほしい、俺に気を使いすぎて馬から落ちても困るなどと、馬鹿な要求だった。でもミスティア・アーレンは戸惑いながらも受け入れていた。なにか話をしようにも、長く話すと口調の荒さのぼろが出る。なるべく単語で話すように努めた。
はじめは馬に慣れることが先決だ。初心者相手には餌やりをさせるか、馬の頭を撫でさせ、慣れさせてから乗せるのが普通だ。だが俺は奴を担ぐと馬に乗せた。しかも二人乗りだ。
ちゃんと教えて、あいつを馬に乗れるようにしてやりたいのに。俺はこんなガキになに考えてんだ。やっぱり頭がおかしくなったのか。
今からでも遅くない。こいつを馬から降ろして謝る。そう決意してようやく絞り出せた言葉は、「お前は、俺を怖がらないよな」だった。こいつは突然馬に乗せられて俺をどう思っているんだろうと思っていたら、口から出た。
それからどう話を展開させるか悩めば、馬が少し体勢を崩し奴は落っこちそうになった。支えてやればその体は馬鹿みたいに軽い。なんでこんなガキに緊張しなきゃならねえんだと思っても俺の緊張は一向に解けなくて、そうこうしている内に天気が変わり始め、練習は終わった。
それから、学園が休みの日はミスティア・アーレンと乗馬の練習をしていた。相変わらず俺は奴に怪我の手当ての礼も、ハンカチを返すこともできなくて、あいつずっと馬に乗れなきゃいいのに、なんて思っていた。
奴が乗れなきゃ、俺の屋敷に通い続けるはめになる。その間にハンカチを返す。礼も言う。そう考える俺の想いとは裏腹に、奴はどんどん馬を乗りこなすようになった。
だから、ミスティア・アーレンが屋敷に来ない日は、授業が終わるとあわよくば偶然出会わないものかとアーレン家の屋敷の近くをうろついた。
そんなある日のことだ。屋敷の前に見慣れない馬車が停まった。中から出てきたのは男で、奴と同じ年くらいのクソガキだった。
練習のない日は自分の屋敷に男を連れ込んでんのか。
……いや、あいつは十歳で、ただのガキのお遊びだ。そう思っても胸がざわざわして、注意深くガキと屋敷を観察しているとまた屋敷の前に馬車が止まった。またさっきのガキと同じようなのが出てきて、揃えるように屋敷の中に入っていった。
ガキ二人がアーレン家の屋敷に入っていくのを見た俺は、みょうに苛々しながら屋敷の近くを見張った。待っている間はずっと腹立たしかった。でもガキ二人、その後ろからミスティア・アーレンが出てきた時、俺の苛立ちは一気に霧散した。なぜなら屋敷を出ていくガキ共とは対照的に、ミスティア・アーレンは心底疲れきった顔をしていたからだ。てっきり楽しくやっているのだとばかり思っていた俺は、想像とはまったく異なる表情に混乱した。
それから屋敷に帰り、親父に今日見たことを偶然を装い話した。親父は「婿候補でも決めているんじゃないかな」と言う。今はガキでもこれから成長してあいつは誰かの嫁になる日が来る。そう考えると胸になにかが詰まった。
一週間後、ミスティア・アーレンがまた馬の練習に来た。俺は奴をなるべく見ないようにハンカチを返す文言を考えていた。考えながら、返してしまえばもう奴との繋がりが完全に消えるのだと思い、怖くなった。
いや、なんで俺は怖いんだ?
原因を考えようとしてやめた。
どうして繋がりが消えることを避けているのか、そんなことは関係ない。もう関わるのはごめんだ。俺は奴と出会ってから、ずっとおかしい。もうこんな馬鹿みたいに悩むのも、全部やめだ。
練習が終わると俺はミスティア・アーレンを馬小屋に引き留めた。ハンカチを屋敷に取りに戻るためだ。繋がりなんてもうどうでもいい。奴には婿がいる。この胸の詰まりもきっとハンカチを返せば元通りになる。
はじめはハンカチを返したかった。
お礼が言えれば良かった。
借りたハンカチとその代わりの新しいハンカチ、二つを渡して、ありがとうと伝える。手紙でも直接でもなんでもいい。それだけできればいいと思っていた。いや違う、考えるのはやめだ。それなのに、考えることが止まらない。
どうして、繋がりを消してしまうことが怖いんだ。
どうして、あいつに男が近づくのが、婿ができるのが気に入らないんだ。どうして俺は、こんなにもおかしくなっているんだ。
頭を振って思考を散らす。そんな疑問も消える。この苛立ちも胸の詰まりも悩みも、ハンカチを返せばすぐに消える。
全部消す。全部無くす。
もうどう思われたっていい。どうせもう会うのはやめだ。明日から適当な理由を言って断ればいい。もう苦しい、終わりにしたい。
なのに、いつの間にか俺の足は馬小屋に向かっていた。奴は馬を熱心に撫でていて、その瞳が馬鹿みたいに優しくて、泣きそうになった。
「いざとなったら乗せて遠くへ連れてってね」
柔らかく、だけど悲しげに微笑むその表情を見て、心のわだかまりがさっと消えた。
繋がりを消してしまうことが怖かったのは。男が近づくのが、婿ができるのが気に入らないのは。俺が、こんなにもおかしくなっているのは、俺が目の前にいるこいつを、ミスティアのことを──、
「好きなのか?」
無意識に口に出した言葉を、ミスティア・アーレンは聞き逃してはくれなかった。俺の方を見て驚いたように振り向く。とりあえずなにか言おうとすると、奴は顔を赤くして口を開いた。
「そうなんですよ」
いや違う、これは、俺のことをじゃない。いや、でも。
もしかして。思いついた考えを慌てて否定する。
でも、もしかしてこいつも俺のことを……? 見つめると、ミスティア・アーレンは顔を赤くしたまま、俯いた。
こんな顔を、今までこいつがしたことがあったか?
頭の中で疑問が浮かぶ。ミスティア・アーレンはガキのわりに表情の種類がないと感じていた。特に会う前日に街へ出て同い年くらいのガキを見た後は特にそう思って、吐きそうとかどっか痛いのが表情でわかりづらいぶん気をつけて見てねえとな、なんて思っていたくらいだ。
そんなミスティア・アーレンが顔を赤くして恥ずかしそうにしている。
もしかしたら、馬を習いたいのも、俺の敬語を外せという無茶苦茶な提案を受け入れたのも全部俺に気があったからか……? もしかしてあの時、ハンカチを差し出してきた時から俺を想っている? 俺がこいつを好きで、こいつは、俺が、好き?
それなら、それなら、それなら、それなら。
相思相愛なら歳の差なんて関係ない。犯罪じゃない。こいつがでかくなるまで俺が手を出さなければいいってだけの話じゃねーか。
ずっと悩んでいたのが馬鹿みたいだ。
そうか、俺はミスティアのことが好きで、ミスティアも俺のことが好き。全部運命だったってだけだ。そうか、俺のことが好きだから、屋敷に男たちが来て疲れた顔をしていたのか。俺じゃない男と結婚させられるのが嫌で。そうか、そうだよな。花婿候補に俺はいないから、俺のこと選べないもんな。
「……じゃあ明日、買いに行くか、鞍」
思い切って、逢引きに誘う。本当は男である俺から告白すべきだったのに、さらに年下であるこいつからさせたのは痛い。こういうのは男で、年上である俺からすべきだったのに。だからせめて最初に出かける誘いはと様子を窺う俺に、ミスティアは戸惑いつつもこくりと頷いた。
俺は絶対明日、いいところを見せると決意をして、その日の乗馬練習を終えた。
そうして臨んだ恋人との初めての逢引きの行き先は、馬の用具の店だった。俺の馴染みの店。本当はお洒落な、なんか綺麗っぽい食堂とか、歌劇とかに誘うべきだったのに鞍でも買いに行くかなんて言ったばっかりに馬の店になった。
店に入ると主人はミスティアを見て俺の婚約者だと勘違いした。すぐ否定したものの、考えてみれば、まだ違うだけでいずれはそうなる。そこまで強く否定しなくても良かったのかもしれない。
主人は気を利かせてミスティアの鞍を俺に選ぶように促してくれた。
ミスティアの鞍選びは、ずっと奴を凝視していたからぴったりの鞍が選べた。間違いなくぴったりだと確信した黒い鞍、一応保険に赤と白の鞍三つを選んで決めさせると、黒を選んだ。やっぱり俺とミスティアは運命だ。
だがその後、俺の家の因縁のせいで、ちょっとした問題が発生した。前から親父と因縁のあるアルゴー家の奴らが、シーク家の評判を落とそうと俺を狙い冤罪を仕組んだのだ。幸い何事もなかったが、もしもミスティアが怪我をしていたら周りの男全員半殺しにしているところだった。いや、殺してる。冤罪どころじゃない。間違いなく俺は殺しで捕まっていた。
でも、俺を一生懸命庇うミスティアは強くて可愛かった。事態が収束したあと、怖かったのかミスティアはふらついていた。顔色が真っ青で、俺はミスティアがまだ十歳の子供であると再認識した。次は絶対怖い目になんて遭わせねえ、絶対俺が守ってやると強く、強く誓った。
その後は親父がミスティアを食事に誘い、一緒に夕食を食べることになった。親父には感謝してもしきれない。こいつは俺の彼女だとミスティアを紹介したかったが、結局しなかった。ミスティアも恥ずかしいだろうし、酷い目に遭った当日だ。紹介はもう少し大きくなってからにしようと思った。
屋敷での食事を終えると、馬車でミスティアをアーレンの屋敷まで送った。今まで外から見ているだけだったが、今はもう恋人。恋人同士の見送りなら、キスの一つでもしたほうがいいのだろうがまだミスティアは十歳で、健全な付き合いが必要だと別れの挨拶は普通に手を振るだけに留めた。
ミスティアはずっとお礼を言い、「鞍大切に使いますね」と大事そうに包みを持っていて、馬鹿みたいに可愛かった。考えてみれば初めてのプレゼントだし、鞍を俺の分身かなにかだと思っているのかもしれない。それならもっと良さそうなものをやれば良かった。まだ俺たちは簡単に会える仲じゃないし、寂しさもあるのかもしれない。
でもいつか、帰る家が一つになる日がくる。
それまでの辛抱だと、想いを受け止めるようにミスティアの別れの言葉に頷いて、俺は馬車に乗り込んだ。
それから一週間が経ち、明日は俺たちの想いが通じ合ってから初めての乗馬練習だ。今までは教師と生徒みたいな状態で乗馬練習をしていたが、もう俺たちは恋人同士なわけで。
「あーっ、くそっ!」
馬鹿みてえに心臓がうるさくて眠れねえ。
明日に備えて寝台に横たわっているのに、いっさい眠れる気がしねえ。明日どういう顔をしていいかわからず闇雲に寝台の枕を叩く。しばらく枕に顔を伏せて叩いてを繰り返していると、ミスティアの声がふと頭に過った。
──いざとなったら乗せて遠くへ連れてってね。
ミスティアのあの悲しげな表情は、全部俺を想ってのものだった。俺との未来が叶わないものだと思ってあんなに切ない顔をしていたんだ。
……もしかしたらミスティアも、今ごろ眠れねえんじゃねえか?
望まない結婚に怯えて、俺を想って。心配なんかしなくていいのに。ミスティアと結婚するのはこの俺だ。俺たちは運命だから、誰だって邪魔できねえ。
「……そんなこと、恥ずかしくて絶対言えねえな」
ぼそっと呟いてから、ゆっくりと息を吐く。
そして俺はミスティアがぐっすり眠れるようにと、柄にもなく祈りながら目を閉じたのだった。