天馬の渦

自室の椅子に腰かけながら、ぼんやりと上を見上げる。そこには青空も曇り空もなく、天井が広がるばかりだ。

シーク家の屋敷へ行って乗馬練習を週に三度繰り返すこと、三週間。

比較的穏やかに練習の日々が続いていた。

馬はシーク家の馬、要するに普段玄人を乗せている馬に気を使ってもらい、乗っているというより乗せてもらっている状態ではあるものの、一人で乗ることもできるようになり、速度も速くなってきた。心なしか馬が私を見て反応してくれているような気もする。

そしてジェシー先生と接するうえで、なんの事件も起きていない。そもそも先生と主人公のシナリオは、先生自身の生き方や考えを変えるシナリオではなく、「教師と生徒の恋愛」が主軸だ。

つまりエリクやレイド・ノクターのような「後の人生に多大なる影響を及ぼす重大な事件」は現時点のジェシー先生に起きない。私の行動で先生の健やかな精神の成長を妨げることはないのだ。

穏やかな日々。こんな日々がながらく続くことが幸せだ。太く短い人生か、長く細い人生、どちらがいいかなんてよく言うけれど私は断然長く細い、平穏な人生を所望する。

今日は乗馬練習はなく、エリクとの勉強会の日だ。もうそろそろ時間かな、となんの気なしに窓の方を見ると、門のところで馬車が停まっていた。玄関ホールに向かうと、エリクの見慣れたふわっとした暗い黒鳶色の髪ではなく、さらさらした金色の髪が開かれた扉から吹く風に揺れている。

「なんで……」

エリク──じゃない。玄関ホールに立っているのは、レイド・ノクターだ。

「こんにちは、ミスティア嬢。突然ごめんね、近くに寄ったものだから来てみたんだ」

「こ、こんにちは」

なんていう地獄のようなタイミングだろう。

さっきまでの穏やかな理想郷から一転、屋敷の中が突如ディストピアと化すとは思わなかった。このままではまずいことになる。エリクが来る。エリクとレイド・ノクターが鉢合わせをしてしまう。彼らの初対面は本編後だ。というかそれ以前に本編開始五年前の今、ミスティアの屋敷でエリクとレイド・ノクターが出会うなんてことはあり得ない。

つまり、今二人を会わせるということは、将来彼らに訪れるであろう、「攻略対象同士の初対面イベント」が破壊されるということだ。

エリクは私が家庭教師イベントを破壊したせいで、一つ年下の子供にご主人呼びをするバグを発症した。ミスティアが主人公に暴力を振るわなくなる、いわゆる「嫌がらせイベント」を破壊するのとは訳が違う。嫌がらせイベントを破壊すれば、主人公のストレスや身体、心理的被害がなくなり良好な状態になる。しかし彼らの出会いなど、親交、交流系イベントを破壊することは彼らの精神の健全な成長を阻害する可能性が出てくる。

現にエリクは私をご主人と呼んでいる。バグが生じているのだ。会わせるわけにはいかない。なにが起きるかわかったものではない。

「ごめんなさい。あの、実はこれから友人が来る予定でして……」

またの機会に、とさりげなく帰宅を促す。正直失礼極まりない行為だけど仕方ない。許さなくていいから帰ってほしい。

「なら、挨拶しないとだね」

品行方正、そして将来学級長になる少年、レイド・ノクター。社交性の鬼だ。しかし今、その姿勢を手放しで称えることはできない。婚約もいずれ破棄になるのだからわざわざ広める必要はないし、なるべく内密にしていきたい。

「えっと、こ、これから私がお迎えに出ようかなと」

「送っていこうか?」

優しい気遣いだ。皆に好まれ、尊敬されるのもわかる。これだけ私が失礼な態度をとっているのに相手を思いやれるなんて簡単にできることではない。眉を顰められても睨まれても仕方がない態度に対して彼はにこにこと笑顔を崩さない。眩しい。しかし今、その紳士さに素直に感謝できない。もう本当に、どうか私をこのまま見送ってほしい。

「いや、すぐなので、本当に」

玄関扉に手をかけようとして、空振りした。触れていないのに扉が開く。そんなわけがないのに。これは自動扉じゃなくて普通の木製扉だ。つまり、今まさに誰かが反対側で扉を開いたわけで。おそらく、それは──。

「ごーしゅーじんっ、お出迎えしてくれたの? 嬉しい! だーいすきっ」

そう言って扉を開いた本人であるエリクは、私に向かって飛び込んできた。

「エリク……!」

いつもどおりの行動ではあるけれど、非常にまずい。エリクは私の背中に手を回し、さすっている。

「離れてくれないかな。場合によっては憲兵隊に突き出すけど」

私に抱きついたエリクを見て、レイド・ノクターはにこやかな表情を一変させ、エリクを引きはがしにかかった。その顔はまさに感情がすべて消え去ったと形容するに相応しい顔だ。

レイド・ノクターは健やかで、健全な正義の心を持っているとわかっている。わかってはいるものの、間違いなくエリクが去り次第、私は殺されるのだと直感した。

一方見えていないのか、気にしていないのか。エリクは私の頬に気が済むまで吸い付いてから、レイド・ノクターの正面に立ち一礼する。

「僕はエリク・ハイム。彼女の友達。よろしくね」

「僕はレイド・ノクター。彼女の婚約者だよ」

エリクを値踏みするような瞳で見つめた後、レイド・ノクターも自己紹介をした。もうこれで、双方ご紹介が終わったところで解散と願いたい。二人が本編前に会ってしまったのはこの際変えられない。もうここで解散をして、互いの認識を険悪でも仲良しでもない知人程度に留めておけば、そこまで本編や個々の精神的成長に支障はないはずだ。いや、そう信じたい。

「君がミスティア嬢の友達か。扉を開いて早々彼女に抱きついたから、不審者だと思ってしまったよ」

「気にしないでいいよ」

「でも、頬にキスをするのは良くないと思うよ。そういった挨拶をする国があることを僕は知っているけど、皆がみんなそうではないからね」

レイド・ノクターは一度私に視線を送ってからエリクに注意をした。エリクはその言葉に頷く。

「そうなんだ。じゃあ今度から君しかいないところか、誰も見えないところでしなきゃいけないね」

「いえ、頬に齧り付くのはどこでも禁止です」

エリクの言葉に私は首を横に振る。頬に吸い付く悪癖はその都度注意していたけれど、もっと厳しくすべきだった。それにしてもなにか違和感を感じる。エリクの様子……というより声色がいつもと違う……?

まぁいい。とにかく解散に持ち込もう。ミスティアの屋敷で会ったという事実も、五年も経てばきっと忘れる。入学して本編が始まり学園で出会っても、「会ったことある気がするけど、とりあえずはじめまして」になるはずだ。もう、今日はとにかく解散だ。解散。

「じゃあ、今日はとりあえず解散に……」

「あ、そうだ! せっかくだし今日は三人でお茶会をしようよ」

エリクが良いことを思いついたかのように明るい声で提案をし、私の声はかき消された。

部屋に籠り他人を拒絶していた彼が、人とお茶会を提案するようになるまで社交性を回復している。友人として嬉しい。しかしタイミングがタイミングなせいで手放しには喜べない。

「いいのかな僕が入っても。約束してたんでしょう? ……二人で」

「うん。でも二人でならいつでも遊べるから大丈夫だよ! ……だめかな?」

そう言ってエリクがこちらを見る。やめてくれ、選択権を私に与えないでくれ。お願いエリク。

「じゃあ、お言葉に甘えようかな。ミスティア嬢は、僕がお茶会に加わるの駄目じゃないよ……ね?」

レイド・ノクターは怒っている。口元はあくまで柔らかく笑みが作られているけれど、その瞳には怒りの炎が燃えている。ここで断ったら、もう本編シナリオを待たずして明日告訴状が出るかもしれない。

断りたい。

断りたくて仕方がない。しかしレイド・ノクターの恨みを買い後のバッドエンドの布石になるのも怖いし、イベントを壊すこともしたくはないし、彼らの健全な精神的成長を破壊することも嫌だ。ぐるぐると頭の中を可能性やバッドエンドが渦のように回り、私は力なく頷いたのだった。


「大変だね、親同士が決めただけの婚約なんて」

「そんなことないよ、僕たちの希望も聞いてもらっているから」

テーブルを囲み、優雅に紅茶を飲みながら言葉を交わすレイド・ノクターとエリク。そしてその間に座って、私は紅茶の波紋をひたすらに見つめていた。

本来、麗かに時が流れるはずのお茶会。しかし、エリクの提案で始まったこのお茶会は、今にも闇の隷属である魔物や、それこそ魔王が招喚でもされそうな殺伐とした空気がそこらいったいに渦巻いていた。

要するに地獄である。

簡易的な地獄。

飲んでいるのはいつも慣れ親しんでいるはずの紅茶なのに、まったく味も香りも感じることができない。それどころか血に染まり鉄の匂いすら感じてくる。今までここまで帰りたい、解散したいと思うお茶会があっただろうか。

話題も話題だ。はじめのうちはクッキーや紅茶の話題であったのに、いつの間にかエリクと私がこの夏どんなふうに過ごしていたか、私とレイド・ノクターの婚約話にすり替わっていった。

「そういえば、さっきミスティア嬢といつでも遊べると言っていたけど、本当?」

「うん。どうして?」

思い出したかのようなレイド・ノクターの質問に、エリクが目を見開く。これはまずい。

「いやぁ、ミスティア嬢は忙しそうだなと思っていたから。屋敷に誘っても、なかなかいい返事を貰えないし」

「えー、タイミングが悪いのかもね。僕の屋敷にはよく来てくれるよ。さっき話をしたみたいに、夏の間はほぼ毎日遊んだかな」

否定したいけれど私は夏の間、エリクの屋敷にラジオ体操の如く通っていた。その間のレイド・ノクターの誘いはすべて断っていた、すべて事実だ。

だけどエリク、頼むから濁してほしかった。夏の間からのくだりはできればカットしてほしかった。

「僕のおうちにお泊りしたこともあるんだよ」

「へえ」

レイド・ノクターがあからさまに敵意を向けた目で私を見る。やましいことはなにもない。なにかあるはずがない。でも恐怖のあまりに反射的に目を反らすと、視線の先にいたエリクが意味ありげに微笑んだ。どうしたものか、今私が発言する番なのか? わからない。やがてレイド・ノクターが口を開いた。

「いいなぁ、やっぱり婚約者となると、親は節度ある付き合いを求めてくるからね。本当はもっと君みたいに、自由に行き来したいんだけど」

レイド・ノクターの言葉を受けてエリクがこちらへ不安げな視線を向けた。反対はもはや見れない。

険悪な雰囲気。完全な修羅場そのものだ。しかしこの二人の態度は、よくある三角関係のような、私を争ってというわけではない。

エリクのこの不穏な態度は、間違いなく部屋に籠っていた時期を抜け、初めてできた友人が取られてしまうかもしれない不安からだろう。

ずっと友達だよと約束したけれど、いざ友人の婚約者という相手を前にしてなにかしらの不安を覚え、友人より婚約者の方が大切なのではないかとかどっちが上か自分と友達でなくなるのでは、遊べなくなるなどおそらくそういった心配をしているに違いない。

エリクは大事な友人だし、そもそもレイド・ノクターと私の関係は、「屋敷で暴れられた被害者と屋敷で暴れた加害者」でしかない。これに尽きる。

それに仮にレイド・ノクターがまっとうな友人や婚約者であったとしても、エリクと友人であることに変わりはない。

一方のレイド・ノクターはといえば、自分の婚約者が不用意に異性に近づいていることに対する憤りを感じているのだろう。一見、恋愛関係にある者同士の嫉妬のようだけれど、本質は大いに異なる。

レイド・ノクターは誠実な人間だ。それゆえに不誠実を憎む。私に対し将来不貞を働く可能性があると感じているのだろうし、私の行動がノクター家とアーレン家の争いに繋がると懸念し怒っているのだろう。

もちろんのこと不貞ではないし、彼が疑っているような感情を私はエリクに持っていない。そしてエリクも持っていない。ご主人呼びなどの不穏要素はあれど一般的な友人関係である。それにいずれ、エリクもレイド・ノクターも主人公と恋に落ちるのだ。レイド・ノクターは今、私の行動に対して軽はずみだ、婚約についてどう思っているのか、と考えているかもしれないけれど、結局は婚約はなかったことになる。一方的な破棄か円満に解消するかで私の運命が決まるだけで、結局婚約はなくなるのだ。

よって今二人は、不毛な感情で敵意を向けあっている。

しかし、不毛な争いの原因がわかったところで、私にできることはない。この場で唐突にエリクに対し「エリクと私はずっと友達だよ」と示しても、状況的にその場しのぎの言葉だと捉えられてしまう可能性がある。レイド・ノクターに「最終的に婚約はなくなるので、アーレン家とノクター家の争いは起きません安心してください」とも言えない。

見事な八方ふさがりだ。この場でできるのは、場をどうにか荒立てないよう全力を注ぐことだけだ。

「会えない分、僕とミスティア嬢は手紙を交わしているから」

「へえ、僕とミスティアは屋敷に通いあってるけど」

「あのクッキーとか、あるんですけども……」

ばちばちと火花を散らす二人に、焼菓子をすすめ、さりげなく話題を変えようと試みる。「今は少し、彼と話があるから、先にどうぞ」とレイド・ノクターが、「うん、まだ気になることもあるから、先食べてて」とエリクが私に笑いかけた。

奇跡の意見の一致だ。

私は、どうかこのまま悲劇が起こりませんようにと祈り、もう湯気がたたなくなったティーカップを眺めていた。


疑似修羅場事故から一週間後の夕暮れ。私はシーク家にて乗馬練習を終え、ひたすら馬を撫でていた。というのもジェシー先生に「屋敷に取りに行くものがあるから、少し待っていてほしい」と頼まれたからだ。たぶん馬小屋の鍵を忘れた、とかなのだろう。要するに私は現在、馬の見張りを任されている。

「おー、よしよし」

尻尾を振り子時計のように揺らす馬を撫でる。返事はない。馬は生きている、ただ言葉が通じないだけだ。馬を撫でながら修羅場事故を思い出して、本日何度目かわからないため息をつく。

またイレギュラーを引き起こしてしまった。

レイド・ノクターとエリクが出会うのは間違いなく貴族学園に入学してからで、十一歳のころに出会うはずがなかった。ましてや初対面がミスティアの屋敷でなんてありえない。どうしてこうも私は間違いを繰り返すのか。私の学習能力は平凡だと思っていたけれど、それはそれは低かった。

幸い、エリクにはご主人呼び以上の異常行動は見られなかったし、レイド・ノクターにも異常は見られなかった。しかし今後はよりいっそう気をつけなければならない。もう二度と、イレギュラーを引き起こしてはならない。

「取り返しがつかなかったことをした時に、できることってなんだと思う?」

声をかけても、当然ながら馬に言葉は通じない。アニメや漫画みたいに「ヒヒン!」みたいな返事もしない。相手は馬。人間の言葉はわからないし、私も馬の言葉はわからない。今この瞬間馬に「お願いだから話しかけるのやめて」と言われていても、私はわからない。だから話を続ける。

「切腹だよね……」

もう投獄死罪断頭を待つ前に、責任を取って切腹するほうが現実味を帯びてきた。気が滅入る。でも家族と使用人を守るためならば、最悪そうするしかない。

もういっそどこか遠くへ行きたい。どこか遠くへ、海外にさっと──そう考えて、はっとした。

留学だ。

留学という手段がある。そもそも生きるのをやめる前に、学園に通うのをやめてしまえばいいのだ。けれどエリクを主人公に会わせる使命がある。いや、主人公に会わせてご主人呼びをやめたら、留学すればいいのか。

「いざとなったら乗せて遠くへ連れてってね」

さっきからじっと私を見ていた馬を撫でた。いや、この馬はシーク家の馬だから、実際練習が終わったら会うことはない馬だ。でもなんとなく撫でているうちに縋りたくなってしまった。ノクター夫人が襲われた時、両親はしきりに私を撫でていたけれど、こんな気持ちだったのだろう。

「好きなのか?」

振り返るとジェシー先生が立っている。馬に熱心に話しかけているのを見られてしまった。言葉が通じないことをいいことに、縋りつくさまを。取り繕い「そうなんですよ」と私は頷いた。

「……じゃあ明日、買いに行くか、くらでも」

くら? 鞍? ああ、鞍かと理解する。ちょうど今まさに私が撫でている馬の背中についている「これがあることで人間が乗りやすいよ」という座席のようなものだ。逃亡の時は馬に鞍をつけている暇があるかという問題や、馬車だから必要ないとあまり重要視していなかったために、よく知らない。

「明日の予定は空いてるか?」

「空いてます」

「なら、明日の昼に迎えに行く」

ジェシー先生は私に解散を告げ去っていく。流されるまま返事をしたけど、明日一緒に街に行くということだろうか。嫌な予感はするものの、先生と主人公が街へ行くイベントはなかった。それに、先生と街になにかしらの因縁があるわけではない。

私は特に気に留めることはせず、軽い気持ちで行くことを決めたのだった。