師は何を想う
エリクと三回目の勉強会を終え、一週間。私は澄み渡る青空の下、目の前に建つ荘厳で落ち着いた石造りの屋敷を眺めていた。
エリクをなにをしてでも、この世界のヒロインである主人公と出会わせなければならない。
ただしそれには、莫大なリスクが伴う。
ミスティアの投獄を早めるのはレイド・ノクターだ。つまりミスティア裁判において検事はレイド・ノクター、被害者は主人公、被告人は私だ。ちなみに弁護士はいない。
つまり私が被害者である主人公になにもしなければ、事件も裁判も起きないわけで、彼女に触れないに越したことはない。
しかしエリクを主人公に出会わせなければ、彼の幸福はない。
だから、私は考えた。馬に乗れるようになろうと。
今までの私は一家使用人離散投獄死罪バッドエンドを回避する手段について模索していたけれど、いざそうなってしまった場合のことは考えていなかった。
いや考えることを避けていた。辛すぎて。
両親が投獄される。さらに可愛いメロや、屋敷で今もなお一生懸命働く人たちがなんの罪もなく無職になる。恩人から人間らしい文化的な営みを奪ってしまった時の想像なんてしたくない。
でも、そうも言っていられない。逃げるのではなく一度現実をしっかり見据え、将来起こり得る惨劇の対処法を模索しなければいけない。
ミスティアは貴族学園に放火をして、その場で現行犯逮捕される。放火なんてするつもりはまったくないけれど、なんらかの自然現象で学園が燃え、私のせいになる可能性は否定できない。
徹底的に抗戦し裁判で争うことも視野に入れ法の勉強はしているものの、所詮は凡人。有能な弁護士を雇えばいい話だけれど、貴族学園に放火未遂をした人間を担当したい弁護士なんていないはずだ。
となると現実的な手段は──逃亡一択。そこで、馬だ。
馬で逃げるしかない。
投獄イベントが起きる数か月前に隣国へ逃亡するのが最善手だけど、両親をどうやって説得するかはノープランだ。逃亡は直前にしかできない。使用人の再就職先を用意してから「ミスティアの我儘」で皆をクビにする。メロもだ。
そして両親と私で馬に乗り逃げる。父は母を乗せ、私は荷物を乗せて逃げる。馬二頭あれば十分だ。
よって私はエリクとの勉強を終えたその日に、すぐ馬術の訓練を受けたいと我が屋敷が誇る御者のソルさんに申し込んだ。しかし「……やだ」と断られてしまった。さらに「……俺、いらない……?」とものすごく悲しそうに言われたため、もう二度と頼めない。
だから「馬に乗りたい!」と父に頼んだけれど、父は馬に乗れない人だった。腰が良くないらしい。つまるところ私が二人を馬車で運ぶことが必須化され、私が馬術を覚えることが完全に義務と化しただけだった。
それから策を練っていたけれど、お願いして三日後、父は、「自分の代わりに教える人を紹介するよ」と、ある屋敷──このシーク家を紹介してくれたのだった。
ということで私はこれから一か月、毎週三回シーク家の屋敷に通い、馬術の訓練を行う。
ちなみに下調べはした。事前調べをせずエリクと出会ってしまったせいで、私は彼の家庭教師初恋イベントを妨害し人生を狂わせかけている。もうそんな痛ましい事件を起こしてはならない。
執事長のスティーブさん経由でシーク家について調べてもらった結果、そこに現在同い年の子供は存在せず、私より八つ年上の一人息子がいるだけらしい。名前はジェイ・シーク。もちろん偽名ではない。
名前を聞いてもなにも思い出さない。
つまりは非攻略対象だということだ。それどころかゲームとは無関係の人で、抜群の安心感に包まれる。レイド・ノクターを前にして、
そしてこの地域の貴族は、きゅんらぶの舞台である貴族学園とは別の学園に通う。つまりは学区外。なんたる素晴らしい響きだろう。
希望によって輝いて見えるその建物を前に、私は一歩を踏み出したのだった。
屋敷でシーク家の伯爵、夫人に挨拶を済ませた私は、乗馬用の服装に着替え執事の案内のもと馬小屋に向かっていた。しっかりと馬術を覚えて、逃亡を……と意気込んでいると、小屋の前に青年の姿が見えた。
「お前が馬に乗りたい令嬢か」
「はい、ミスティア・アーレンと申します。よろしくおねがいしま……」
近づいたことで青年の顔がはっきりと見え、下げようとした頭が止まる。もしかして見間違いかもしれないと見直して目に入ったのは、流れる
私は、彼を知っている。
どうして、なぜ。心に浮かぶ感情すべてがぐちゃぐちゃに混ざっていく。あれだけ下調べをしたのだ。名前を聞いてもなにも思い出せなかった。学区だって外れた地域に来た。でも、装いこそラフなもので教職員のそれではないけれど、顔だちも背格好もゲームとほぼ同じだ。
そんな彼を凝視して、はっとした。
そうだ……教職員だ。だからこそ彼だけ例外なのだ。
「どうした?」
「いえ、なんでもないです。よろしくお願いします」
青年の言葉に、慌てて頭を下げなおす。
彼は、きゅんらぶの攻略対象の中で唯一の教師だ。ゲームでの名前表記は通名、そもそも生徒でない彼には学区なんてなんの意味も成さない。
彼、ジェイ・シーク──おそらくは、いや絶対に後のジェシー先生は、きゅんらぶの攻略対象で、唯一学園の生徒ではないキャラクター、つまりは学園の教師だ。
ウインドウの名前表示も、メイン攻略対象はフルネームであるけれど、彼だけはジェシー先生としか表記されない。かといって名前を隠しているなど特殊な設定があるわけではなく、「あの人はジェイ・シーク先生っていうんだよ」というクラスメイトの言葉でさっとフルネームは紹介される。
主人公、レイド・ノクター、ミスティア、痴情のもつれ三人組が混入したクラスの担任として登場する彼は、基本的に口数が少なく、多くを語ろうとしない。しかしそれは、過去になにかがあったわけではなく、本当に「そういう性格」である。黙っているのが好き、話すのが嫌いというわけでもない。本当に「そういう性格」だ。ヤクザ教師、オラオラ先生などと呼ばれるのは口調が乱暴、身体つきが比較的鍛えられたものであること、鋭い眼光からその印象が強まるだけで、本人は至って普通の先生だ。
自分から主人公へなんらかのアクションをとり始めるほかの攻略対象と異なり、彼は主人公になにもしない。サブシナリオに近い立ち位置や、性格を考慮する以前に彼は教員、主人公は生徒だ。先生へなにかしら仕掛けることのほうが異常である。
きゅんらぶの学園でも、現代の一般的な規律に準拠しており、先生と生徒の恋愛は固く禁じられている……というのもあるけれど、なによりゲーム開始時の主人公は十五歳。つまり十八歳未満。なにかあればこの国の法に触れるのだ。
だからこそ過去にいろいろあったり、家族関係に問題を抱えるほかの攻略対象とは違い、彼との恋愛は恋に落ちたり落としたりする過程よりも、両想いになった後に波乱が待ち受ける。
学園で二人の噂が広まり、先生には退職の話が持ち上がる。一方主人公は嫌がらせを受け始め……、数多のすれ違い、諍いを繰り返し、二人は力を合わせ苦難を乗り越えハッピーエンド。めでたしめでたしだ。
一方、私はまったくめでたしじゃない。なんなんだここは。きゅんらぶ人口過密区域かなにかなのか。
混乱していると、ジェシー先生は私を見据え、静かに首を横に振った。
「敬語じゃなくていい」
「え?」
「かしこまるなと言ってる」
いや無理がある。初対面で、しかも年上を相手に敬語を外すなんて絶対無理だ。
「いや、でも」
「俺に気を使いすぎて馬から落ちても困る」
どんな暴論だ。敬語を外すほうが気を使う。ゲームでは「敬語を外せ」なんて言っていなかったはずだ。
「その、私なるべく外ではどんな相手でも……」
「ここでは例外だ」
それとなく拒否しようとしても、未来の先生は「馬から落ちても困る」と引こうとしない。そんな無礼なふるまいを目上の人間にするくらいなら、私は馬から落ちるほうがいい。
しかしこのままだと、どんどん乗馬練習の時間が失われてしまう。乗馬を教わらないと、逃亡ができない。こうなると一家の命と、私の目上に対する敬意、どっちをとるかになる。当然一家の命だ。けれど今後の布石になるのも嫌だし、やはり気後れする。
……いや、考えを変えよう。敬語をなくしても、心の中で敬語をつければいい。
エリクは十一歳という精神が未熟な、さらに不安定な時に関わってしまったから、イレギュラーな私の存在の影響を強く受けてしまった。
ジェシー先生は十八歳。精神的にも肉体的にも健やかな人間が、はたして十歳から影響を受けるだろうか。
私が産まれ、首も据わっていなかった時、彼はランドセルを背負い、放課後冒険のつもりで駆け回っていたら隣町に行っていましたくらいの年齢の差がある。ここで私が敬語を外したところで彼に与える影響なんてないだろう。……大丈夫だ。いける。
「わかっ…た……す」
「……俺の名はジェイだ、よろしく」
「よ、よろしく」
お願いしますと心の中で付け足して、私は絶対に馬に乗れるようになるのだと、固く、固く誓ったのだった。
リズム良く規則的に進む馬。その馬に
自己紹介を終えた私は、なぜかジェシー先生と二人乗りをしていた。
あれからさっそく乗馬講習に移行して、これから頑張るぞ、絶対馬に乗れるようになるぞ、と力む私を先生はひょいと担ぐと馬に跨ったのだ。「まずは馬に乗る感覚に慣れてもらう」と言って。そして今に至っている。
突然荷物のように馬に乗せられ、説明してくれたらいいのにと思った。しかしこれは先生の性格だ。端的に物事を伝え、事前説明をあまりしない。たしかゲームでも「説明……忘れていた」みたいな場面があった気がする。
馬に乗って屋敷から出て、今はシーク家付近の森を進んでいる。進んでいるといっても、私の背中は先生の身体で、左右は先生の腕で固定されている。シートベルトという単語が頭に浮かぶ。今私が振り落とされず優雅に馬に乗れているのは、ほかならぬ先生の支えがあってこそ。思考を放棄してしまえば、体温がある荷物。それが私だ。
でもまさか初日から馬に乗るとは思わなかった。馬に乗るなんてまだまだ早い、まずは馬小屋の掃除から始めろ、の掃除パターン。まずは馬と心を通わせろ、話はそれからだ、の交流パターン。とりあえず乗ってみろ、ほらな、乗れないだろうの落馬パターン。三種類を想定していた。乗馬の感覚に慣れろというのは想定外だった。
周囲を見渡すと、馬車の窓から見たうっそうと茂り、樹海のようだった景色は、絵本や童話に出てくる、明るい森に変貌していた。周囲にはナスタチウムが咲き誇り、遠くには泉も見える。どうやら場所やルートによって、地形が異なるらしい。
……ピクニックとかしても楽しそうだな。
駄目だ。体験気分でのんびり乗っている暇はない。しっかり手綱をとり、馬に乗る感覚に慣れてジェシー先生の技を盗まなければ。
気をとりなおして手綱をぎゅっと握りしめると、先生が不意に呟く。
「……お前はこっちが驚くくらい俺を怖がらないよな」
まぁたしかに、レイド・ノクターのような恐怖は抱かない。死罪との関係がないからだ。
……いや、唐突になんだ。しかも初対面でなんでそんなことを言われるんだ。先生の発言の意図が汲み取れない。先生はあたかも私がなんらかの発言をして、それに返答しているかのように話している。けれど私は一言も言葉を発していない。
実はぼそぼそ口からピクニックの妄想が出ていた? 一つ一つ思い返していっても、なにも思い当たらない。それに妄想が口から出ていたとしても、会話が噛み合わない。
怖がらないってなにを……? と考え思い出した。この台詞はたしかゲームでジェシー先生が主人公に言っていた言葉だ。
正しくは、「お前、俺が怖くないのか?」だ。少し違うのは対主人公ではないからだろう。なぜ本編も始まってない、主人公じゃない相手にこんな発言が飛び出してくるのだろうか。エリクのように、なにかしらイベントを妨害したからという可能性が一番高いけれども、先生の精神の根幹に関わるようなイベントなんてそもそもなかったはずだ。
ということは、先生の発言は「ただの他愛もない会話」だ。
しかし他愛もない会話といっても、ここで私が肯定しようものなら、後のイベントに響きかねない。ジェシー先生の「初めて俺を怖がらなかった相手」は主人公でミスティアじゃない。
かといってイベントを壊さないために「え、怖いです」と返すわけにもいかない。ならばいっそ、選ばないほうがいい。
とりあえず曖昧な笑みを返し、聞き取れなかったことを装うため振り返った。が、それと同時に身体が大きく揺れる。
重心が崩れ、先生の鼻と私の鼻が正面衝突するほどに顔が近づいた。ぎゅっと先生が私の身体を支える。馬が足元の障害物を避けたらしい。
「すみません、落ちるところでした。ありがとうございます」
「お前が無事ならいい……。ほら、前を見ろ」
「はいっ」
ジェシー先生に身体を支えてもらっていなければ私は確実に落馬していただろう。それもただの落馬じゃなく、助走をつけ勢いをつけた落馬だ。それに、もう少し振り返るタイミングが違えば先生と顔面の衝突事故を起こすところだった。たぶん主人公だったらここは唇と唇が触れて、恋愛イベントになっただろうが、私はヒロインではない。流血沙汰になってしまうし、先生の顔に傷をつけてしまうところだった。
「馬に乗っている時は、前を向いたまま聞いてろ」
「はい」
「先に伝えていれば良かったな、悪かった」
「いえ、先生は謝らないでくださー……」
言いかけて、自分が振り返ろうとしていることに気づき、しっかり前を向いた。
「良い心がけだが、さっきから敬語に戻ってるぞ」
「え、あ、じゃあ、謝らないで……?」
「相変わらず慣れないな」
慣れない。家族以外の年上の人間に対してため口で話すなんて前世時代もしたことがない。このまま続けていても、一生不可能な気がする。
「いや、この話の仕方が通常なもので……外すほうが難しいという……もの……だよ」
「親にもか?」
「親はさすがに普通に話しま、話すけど、親以外は基本こうで、こうか、な」
「使用人にもそんな話し方なのか?」
「はい……ああでもメロは、ええと、専属の侍女にメロって女の子がいる、けど、彼女には敬語じゃなくても大丈夫で。小さいころから一緒にいて、慣れ、ですかね」
メロは年上だけど、彼女とは普通に話せる。それは目上の人間だと思っていないわけではなく、私にとって彼女は家族同然だからだ。というよりむしろ家族だ。年齢的にはメロの方が年上だけど、姉のようであり、妹のような存在の天使。それがメロだ。
「じゃあ、いつか慣れるだろ」
いや、無理です……と心の中で思う。メロとは六年の付き合い。家族だ。片や五年後に生徒と教師として会う存在。無理だ。
それにたぶん、先生が敬語を好まないということは徐々に薄れるはずだ。ゲームだとそのあたりの言及はなかったし。
「慣れますかね……」
あ、まずい、また敬語に……と思ったものの先生の反応はない。様子が気になるけれど後ろを振り向けないでいると先生が片手で私を支え、もう片方の手で手綱をぐいっと引っ張った。
「帰るぞ」
「え」
「しっかり掴まってろ」
今までの速さとは比べものにならないくらいの速度で馬が走り出した。
「あ、あの?」
「そのうち嵐になる、手遅れになる前に帰るぞ」
「あらし……?」
「秋の空は変わりやすい、この時期は少しでも油断すると手遅れになる」
見上げると、たしかにさっきまで澄み渡る青一色だった空が、どんよりとした灰色の雲に覆われ始めていた。
秋の空は変わりやすい。少しでも油断すると手遅れになる。
森の中を駆ける馬から振り落とされないように手綱をしっかりと握りながら、私は先生の言葉をよく覚えておこうと胸にしっかり留めたのだった。