狂想 狂騒 狂走

暑さが和らぎ涼やかな風が吹く今日この頃、私はアーレン家の広間で、エリクと算術の勉強をしていた。黙々と互いが出題した問題の答え合わせをしていくと、彼が思い出したかのように口を開く。

「ご主人とずっと一緒にいるには、どうすればいいか考えたんだけど、結婚ってどうかな」

頭痛がする。熱があるのかもしれない。

エリクが私をご主人と呼び始め、一か月。木々が徐々に紅く染まり始めているというのに、彼が主従ごっこに飽きる気配はいっさいない。

今に至るまで、なにも対処をしなかったわけではない。家庭教師イベントの再現をして別の家庭教師と恋愛関係になれば、「ご主人呼びってよくないな」と思ってくれると考えた私は、彼に家庭教師をつけることを勧めた。しかし彼は断固拒否、それどころか「そんなに言うならご主人が教えてよ」と私に言い挙句の果てに「ご主人が教えてくれないならいらない。ご主人としかお勉強したくない。僕ご主人のせいで馬鹿になっちゃう」と脅迫までしてきたのだ。

その結果私は二週間前からエリクに勉強を教えている。

教育は万人に受ける権利がある、誰もそれを阻害してはならない。そんな世界の理に、平凡な私が反することなんてできない。よって今回で第三回目になる勉強会だ。修羅の道である。

場所はエリクの屋敷だったり、私の屋敷で、彼は私の屋敷に突撃訪問を仕掛けるようにもなった。元々はアウトドア派なのだろう。屋敷に訪れる彼は嬉々としていて、私も彼が社会に関わっている姿を見ることは好ましく、嬉しい。

エリクは日々変化している……けれど、ご主人呼びだけは一向に抜けない。

一歳下の人間を「ご主人」と呼び、頬に吸い付く彼の行動は一般的な視点からすればただただ異様である。

エリクは家庭教師失恋イベントを起こさなかったことでおかしくなってしまった。ご主人呼びも、頬に吸い付くのもすべては本編前にミスティアと出会ってしまい家庭教師イベントが起きなかったことによるバグだ。彼には深刻なバグが生じている。だからミスティアに対して結婚なんて狂ったことを言ってしまうのだ。

家庭教師に向けられていた依存心が私に向いているのだから、私が彼を傷つければと思ったものの、笑顔を見せ外出が可能となり、徐々に明るくなってきた彼に酷いことをすることに大きな抵抗がある。

それにもし傷つけたとしても正しい状態に戻らない可能性だってあるのだ。絶対に幸せになれる確約があるならまだしも、わからない以上無理だ。

状況としては詰んでいる。

しかし、道がないわけじゃない。

このバグを取り除ける存在がこの世にたった一人だけ存在している。主人公、その人だ。世界の理、絶対的ヒロインである彼女と恋愛をすれば、エリクのバグは解消される。貴族学園に入学した際は彼女と無理やりにでも出会わせ、恋に落として更生させる。

ただ、この計画には一つだけ大きなデメリットがある。

それは、エリクが主人公と関わることが幸せへの道である一方で、私が主人公と関わることは地獄の道ということだ。

なにが投獄死罪の布石になるかわからない中、絶対に関わりたくないというのが本音だ。でも一人の人生がかかっている。家庭教師イベントを潰した罪は重いし、大切な友人の幸せのためだ。

ここまで期待をして、主人公が存在していなかったらと不安になるけれど、きっといる、大丈夫。だって彼女はこの世界のヒロインなのだから、絶対にいる。

「私には親が決めた婚約者がいるからね」

突然の結婚の提案をしたエリクに冷静に言葉を返す。本当に辛く痛ましい事実だけど、レイド・ノクターとの婚約がいまだ破棄できていないことが幸いした。私の返答に、エリクは顔色一つ変えず、頷いてみせた。

「知ってる知ってる。だからはじめは側室っていうの? 僕そういうのでもいいよ。それで、正妻だっけ……追い出して僕が正妻になるから。でも僕は旦那さんだから、なんて言えばいいんだろう」

「いやいや」

エリクは無垢な瞳で首を傾げているけれど、全然笑えない。レイド・ノクターと結婚をする前提で話を進められるのもきついものがある。そして側室とは間違いなくエリクが設ける側だ。なんでそんな逆大奥みたいなことを言い始める。これもあれか、家庭教師イベントを壊してしまったからか。

……あれ? 私はいつ婚約者がいることを彼に伝えたのだろうか。

「ねえエリク、私婚約者がいるなんて言ったっけ……?」

「それよりさぁ、ご主人ずっと一緒にいてくれるって言ったよね、ね? ご主人?」

「友達としてね?」

エリクはこちらをじっと見つめる。ずっと一緒というのは、友達としてだ。プロポーズ的な意味合いでは断じてない。しかし彼はまた首を傾げた。

「うーん、でもさぁ、この先ご主人とずっと一緒にいるには、結婚が一番だと思うんだよねぇ」

「いやいや、やってみなきゃわからないよ……? 何事もやってみなきゃわからないから、友達として、ね? 私には婚約者がいるし、エリクにはもっといい人がいるよ」

励ますように手を取ると、彼はその手を握り返す。良かった、わかってくれて。

「じゃあご主人、僕と結婚して」

「は?」

「婚約は婚約でしょ? その前に結婚すればいいんだよ。そうしたらずっと一緒にいられるから」

「ええ、いや、それはちょっと……」

「相手のこと好きなの?」

「いや、まだ四回くらいしか会ってないし」

それに婚約者は、私の死に直結する地雷だから。なんて言えるはずもなく俯いた。なんだかエリクにどんどん言いくるめられている気がする。このままこの話を続けることはもしかして相当危ないのでは。

「その婚約者とは結婚したくないんでしょ?」

「まぁ……そうだけども」

「じゃあご主人も幸せ、僕も幸せ、なあんにも悪いことないよね?」

たしかにエリクと結婚すれば、一家使用人離散投獄死罪エンドは回避できる。でも彼は幸せになれない。彼は主人公と出会い恋をすることで幸せを知るのだ。私といてなにを知ることができるというのか。ただでさえ彼の人生を狂わせてしまっているのだ、これ以上狂わせていいはずがない。

嬉々として笑うエリクを前に、私は視線を彷徨わせた。するとちょうど窓の外から、ふわふわとした水色の髪が見えた。御者のソルさんが馬を連れ灰色がかった瞳をこちらに向けている。エリクは私の視線に気づき「ミスティア、お馬さん気になるの?」と問いかけてきた。

「いや、特には……」

「えー、お馬さん気になるなら、今度一緒に乗ろうと思ったのに」

エリクは座っていた椅子から立ち上がり、後ろから私の頭に自分のあごを乗せてきた。私の肩に手を乗せて、ぽんぽんと叩く。やめさせようと避けると、彼は「あっ」と声を上げた。

「リボン解けちゃった……ご主人結んで〜」

「ああ、ごめん」

ぶつかったのか、エリクの襟元のリボンが解けてしまっていた。私は立ち上がり、彼に身体を向けリボンを結びなおしていく。

彼は、リボンを結ぶ──いわゆるちょうちょ結びが苦手らしい。普段は屋敷の使用人たちや夫人にやってもらっているそうで、私と二人の時には私が結んでいる。一人で結べるように練習をしているけれど、上達の気配は見えない。

「ねー、今度ぱーってどっか行こうよ。馬乗って二人でさ〜、かけおち?」

エリクは柔らかく笑う。そんな彼の言葉を聞いて、私はあることを閃いたのだった。