「もうずっと一緒だよ。だから今日から僕のことはエリクって呼んでね。僕もミスティアのこと、ご主人様って呼ぶから」
優しく笑う、エリク。その事実に
ちょきちょきと、緑色に塗った画用紙を切りながら、混乱する頭を整理しようと努める。井戸にちょっとだけ浮かべるために作っている睡蓮は、もう群生レベルの量に達していた。
それでも睡蓮を作る手は止められない。混乱しているのかもしれない。目の前に置かれた状況が理解できない。とりあえず状況整理のため、今日について思い返していく。
まず、目が覚めると女の子の友人が男の子で、さらにきゅんらぶの攻略対象で、そして、「今日から僕のことはエリクって呼んでね。僕もミスティアのこと、ご主人様って呼ぶから」と、なぜか私をご主人様と呼ぼうとしていた。
いや意味がわからない、怖い。夢なら覚めてほしい。
それから朝食を済ませる私に対して、エリクは「ご主人様はさー」などど平然と世間話を始めた。混乱しながら他所で出されたご飯は残さないという信念の下朝食を食べていると、夫人がやってきて私を見るなり「本当にありがとう! この子をよろしくね」と泣いた。
そう、あまりにも普通にしていて気づかなかったけれど、エリー、いやエリクは普通に外に出て、広間で食事をしていたのだった。
もしかして、別人ではないだろうか。
そんな私の疑問を見抜いてか、彼は私に「食事が終わったら、また街を作ろう」と言ってのけた。
そうして今、朝食を済ませた私たちは共に街を作っている。彼は昨日破いた井戸を修繕し、新しく色を塗りなおしていた。
突然部屋を出たのは、彼が籠り始めたのも突然だったからまぁそういうものなのだろうと理解した。同じように、ご主人様呼びもそういうものなのだろうと理解──できるわけがない。
朝食から部屋に戻る際に、ご主人様呼びに断固拒否の姿勢を示したけれど、エリクの意思は頑なで、「様はつけないで」という条件で双方合意した。でも私はまったく納得できていない。
自分より一つ年上の少年が、年下の人間を「ご主人」と呼ぶ。この異常さ。
私は十歳、相手は十一歳。どう考えても異常である。
なんとなく、「今日は主従ごっこするの?」と聞けば、「ごっこじゃないし、ずっとだよ」と返された。逆転している。すでに下剋上は始まっていた。
……性に開放的だった
でもエリクルートでは、女性関係が派手だっただけで、その性癖は普通どころか焦点すら定まっていなかったはずだ。
ストーリーも開放的で奔放な女性関係を持つ彼が、平民である主人公を珍しいと言い寄り、接点が開拓されていくというもの。
主人公は女性を
そんな彼に主人公は精神的な意味でも、物理的な意味でも体当りでぶつかり、彼はトラウマを克服、見事二人は結ばれる。だからこんな、「ご主人様!」みたいな性癖は、ないはずだ。
今のエリクは物腰がやわらかいわりに押しが強い。しかしいずれその物腰すら失われ「女? 全員抱いたけど」みたいになるのだ。声だって中性的なものではなくド低音に変わる。
今は
それに、エリクはミスティアが嫌いだ。二人が初めて出会うのは、主人公が彼と出会うのと同じタイミング。ミスティアが主人公に難癖をつけている時に彼が庇い、ミスティアに「俺、お前みたいな女は絶対無理だわ」と言い放つ。なんで絶対無理な女にご主人呼びをしているんだ彼は。
こんな事態、異常事態にほかならない。というかどう考えても黒歴史だ。年下相手にご主人呼びなんて、包帯を腕に巻くとか魔法陣をノートに書くのとは訳が違う。歪んだ方向に突き抜けてしまった。高度すぎる黒歴史だ。
本編が始まるまで約五年。五年の間にご主人呼びに飽きてもらうしかない。
どんなことをしてでも彼を更生させなければ。早急な打開策の検討が必要だ。
エリクをじっと見つめていると、彼は「これで完成かな?」と私が切った睡蓮を井戸にはった。
「完成?」
「うん。実はもうずっと前から完成して良かったんだ。完成してすることがなくなったら、ご主人が僕に会いに来てくれる理由がなくなってしまったら、もうだめだと思ったから、ずっと理由を作って、完成を先延ばしにしてた」
「エリク……」
彼は悩んでいた。私が勝手に職人のこだわりだと思っていた彼の街づくりの姿勢は、ずっと一人で悩んでいるからこそのものだったのだ。寂しそうにする彼を見て、自然と彼の名前が口から出ていた。
「でも、もう大丈夫だから、これは完成」
彼は街に井戸をのせていく。ただ立っているだけの兵士たちは、部屋いっぱいに広がる壮大な街並みを守る勇敢な兵士に変わっていた。はじめはなんとなく店っぽい絵を描いたところに立っていた娘も、しっかりと屋台で店番をしている。それだけじゃない。そこにはきちんと老若男女問わず、街の人々が暮らしていた。
「立派だね、服や背景だけじゃなくて、人も増やしたし」
「学校作るの大変だったよね、窓とか」
「窓ね、ずっと正方形切ってたからね」
単純作業は嫌いじゃない。けど量が量だった。完全に修行の勢いで、最終的に人間を窓として貼り付ければいいんじゃないかと思うほどの精神状況にまで追い詰められた。
「途中でご主人がもう先生を貼り付ける! なんて言ってたから笑っちゃったよ」
エリクが楽しそうにけらけらと笑う。前代未聞の猟奇殺人犯のような発言だったことを反省しながら、「先生」という言葉にぴんときた。
そうだ。この状況は、別に今すぐ打開する必要はない。
なぜならば、もうすぐこの状況を打開する存在が、彼のもとに現れるからだ。
「今日も暑いねえ」
「そうだね。夏も終わるはずなのに」
窓から太陽光が照りつけるエリクの部屋で、彼と二人窓の外を眺める。
エリーがエリクだった事件から二週間。彼の「毎日会えないと不安だったけれど、今は大丈夫だから」との言葉で、ハイム家にお邪魔するのは三日に一度になっていた。
ご主人呼びが止むことはないけれど、私は心穏やかに過ごしている。なぜならばこの状況が打開できる見込みがあるからだ。
「あっ、そーだ! ねー聞いてよご主人っ、昨日さぁ、遊べなかったじゃん?」
「うん」
昨日は、普段なら周期的に三日に一度の「遊ぶ日」だった。しかし昨日はエリクに用事があり、振替休日のように今日私は彼の屋敷に遊びに来ているのだ。なんとなくごろごろして、ぼーっとする。友達と過ごす穏やかな日常だ。彼が「エリク・ハイム」であることさえ除けば、これからもそうしていたい。
「家庭教師が来るからだったんだけど」
「お!」
来た。来た! とうとう!
エリクの言葉に、気がかりだった想いがぱっと霧散していく。
その家庭教師こそが彼の忘れられない過去のトラウマ。そして派手な女性関係の原因である。
幼少期エリクは控えめで口下手、人見知りの彼は、人を避ける一方人を求め、孤独を感じていた。そんな彼の前に、家庭教師としてある女性が現れる。優しく甘やかしてくれる彼女に依存していった彼は、恋文とも受け取れる手紙を贈る。受け取った彼女は喜び、彼の想いを肯定するけれど、実は裏で彼の恋心を嘲笑っていたのだ。
そんな姿を運悪く目撃したエリクは激しく傷つき、次第に「女性」そのものを憎んでいく。成長とともに自分の容姿が優れたものだと気づいた彼は、女性への憎悪で人見知りと口下手を克服。やがて女性を落とし捨てることで、代理的な復讐を繰り返し始めるのだ。そうして女性を食い荒らす化け物先輩に成り果てたところを、主人公が救う。
このままなにもせず放置すれば、きっとエリクは家庭教師に恋をして、酷く傷つく。
彼が傷つくのは避けたい。できるならば尽力してどうにかしたい。しかしそれによって未来が変わり、彼が主人公と関わらなくなってしまえば、彼の成長の機会を奪うことになるのだ。「君と出会えたことで、俺は光の下にいたんだと知ったよ」というのは、どんなルートでも共通して彼が主人公に対して伝えるセリフだ。
ある時はハッピーエンドで、ある時はほかのキャラのルートで彼が主人公へ告白し、フラれた時に。
主人公に出会い彼女に言い寄り、彼女に関わることで、エリクは幸せを得る。
そんな未来を潰してしまうわけにはいかない。彼が主人公と出会うためにも、ご主人呼びという黒歴史を作り上げるのを阻止するためにも、彼には家庭教師と一騒動起こしてもらう。
私はそれをただ傍観する。罪悪感が凄い。でもこれも、エリクの幸せのためだ。──そう思った次の瞬間であった。
「いろいろあってさー解雇しちゃったんだよね」
「は?」
すらり、と、
「だからさ、こうなるなら昨日ご主人と遊べば良かったなぁって思ってさあ」
混乱する私の毛髪を、エリクは指でくるくると弄ぶ。思考が追いついていかない。家庭教師イベントは? 一週間で解雇? どうして? 初恋は? 手紙は?
「こ、恋文を渡したの? それでいろいろあって、解雇したんだよね……?」
「恋文? なにそれ?」
「え」
エリクは意味がわからないという顔をしている。いやそれはこっちがしたい顔だ。やがて彼は腑に落ちたようで、ああ、と
「そっか! なるほどね! ご主人もしかして嫉妬しちゃったね?」
違う、全然違う。なんでそんな話になる? さっきまで家庭教師の恋文の話をしていたのに、なぜそこで私が出るんだ。
いや、もしかして彼との因縁がある家庭教師ではなかったのかもしれない。その次に来る家庭教師が例の家庭教師かもしれない。だって、彼女は彼にとって重要な人物のはずで、こんな簡単に──、
「なんかさーこっちに取り入ろうとしてたみたいで、うすうす怪しいなーと思って軽く揺さぶったらやっぱりぼろ出してー、うちの家が邪魔な家の差し金だったっぽくてね」
いや絶対そうだ、因縁の家庭教師だ。間違いない、じゃあ家庭教師は……。
「だから、お母さんに言ってー、かーいこっ、しちゃったー」
ふふふと笑うエリクを見て思考が停止した。解雇? 解雇したの? そのまま? 待て待て待て待て。
「好きにならなかったの? 一目見て、運命感じなかったの? どうして? なんで?」
エリクの肩を掴み揺さぶると、なぜか嬉々として笑った。笑いごとじゃない。死活問題だ、エリクの進路の問題だ。
「落ち着いてよご主人。大丈夫だって、僕にはご主人しかいないから」
エリクは、柔らかな笑みを浮かべ、私の頬を吸った。完全にその仕草は性に開放的な片鱗を示している。けれど、ご主人呼び。気の遠くなるような現実を目の前に、漠然と自分のしてきた行いを思い返し始める。
人を拒絶しながらも孤独を恐れる子供は、優しくしてくれる家庭教師に依存する。しかし、もしその前に彼が「別の誰か」によって、人を拒絶することをやめ、孤独ではなかったとしたら。
いくら優しくしてくれる家庭教師でも、依存はしない。それどころか、自分の殻に籠らず、人を注意深く見るようになり、相手の本性を見抜く。
つまりエリクが家庭教師に会う前に、私が屋敷に通ったりしたから、彼は家庭教師と会ってもなんの感情も抱かず、さらにその本質を見極め、解雇に至った。
「嫉妬しちゃったんだねご主人、可愛いなぁ……。約束したんだから、嫉妬なんてしなくていいのにぃ……、本当に可愛い。大好き……」
「し、嫉妬じゃなくて、あの」
「僕にはご主人だけだよ、一生ね」
エリクの顔が近づいてきたと認識したと同時に、また頬に吸い付かれた。彼は嬉しそうに、そして
なぜだ。初恋イベントが起きていないのに、しかもゲームのイベントみたいなことを、どうして私にしてくるんだ。ただただ瞬きをする私を見て、うっとりとエリクは笑っていた。