緑蘭庭園

ペーパーナイフを片手に、レイド・ノクターから送られた手紙をじっと見つめる。

彼が屋敷に突然現れて約二週間。二日に一度のペースでノクター家から手紙が来るようになった。以前から伯爵が父宛に手紙を送ってきていたのは知っていたけれど、最近は伯爵から父宛、夫人から母宛、そしてレイド・ノクターから私宛に手紙が来る。季節に関するもの、読んだ書物、家族の様子について二枚に纏めた彼の手紙は、読むことに苦労はしないものの返信における精神面での疲労はある。

発言はその場の記憶でいかようにもごまかせるが、手紙は証拠として残る。なにが地雷かわからないレイド・ノクターに手紙を送る行為は、地雷原に向かい投石することと同義だ。地雷原への投石は自殺行為。私は今まさに自殺を強要されている。

開封は気が重い。でもいつまでも手紙を眺めているわけにはいかない。明日は母と共に母の友人のそのまた友人の友人が開いたお茶会に招待されているのだ。さっさと寝て、明日に備えなければならない。

「いける、大丈夫、今回もきっと本の話。大丈夫、いける」

覚悟を決め手紙を開封し、目を通す。

庭園の薔薇が見ごろだから、良ければ見に来てほしいという誘いだった。震えた。この日に死刑執行するから来てねと同じ意味だ。

私はレターセットを取り出し、失礼に当たらないように気をつけながら、断りの返事を書き始めたのだった。


穏やかな午後の日差しの下、季節の花々が咲き誇る庭園で夫人たちがにこやかに談笑している。その横ではテーブルを囲み、子供たちがクッキーを食べたり、鮮やかな色合いのケーキを食べていた。私はその様子を、気配を消しつつ傍観する。

レイド・ノクターへの返事の手紙を書いた翌日。私は母と共に招待されたハイム家主催のお茶会に来ていた。

しかし招待されたといえどもハイム家に来るのは初めてだし、そもそもこの家に関してさっぱり知識がない。でもゲーム関係者の屋敷というわけでもないし、普通のお茶会だ。のんびり楽しもうと最初は思っていたけれど、私は社交性が死んでいる。同世代の子供たちに「つまらない奴だな」と早々に見切りをつけられ、一人輪から外れるような状態になっていた。

皆はすごく嬉しそうに焼菓子を食べている。私はなんとなく一枚食べて、やめてしまった。昨日料理長のライアスさんにクッキーの試食を頼まれ、勧められるがまま、わんこそば形式で結構な量を食べさせられていたからかもしれない。調整すべきだった。

反省しつつ母の方に目を向けると、母は話題の中心となっていた。

先日始めた慈善事業や、孤児院に慰問に行った時の話をしている。母の話を聞いて周りの夫人は驚いたような顔をしながら話を聞いていた。私も話を聞いていたいけれど、この場にいては母に自分の娘が輪から外れて一人でいることに気づかれてしまう。

きっと母は悲しむし、心配をするだろう。私は別に一人で地面を見つめていても寂しいという感情は湧いてこないけれど、母はそういう状況を寂しいと思う人だ。

だから、私はこの場から去らなければいけない。庭園を散策しに行こう。

言い訳はもう準備できた。「お手洗いに行こうとしたら迷った」だ。完璧な言い訳だ。私は皆にばれないよう気をつけながら、そっとその場を離れていった。


「すご……」

庭園をあてもなく歩き続けた私は、緑らんだけで占めたようなもう一つの庭園に辿り着いていた。辺り一帯淡緑しか見えず一瞬自分の眼球の病を疑ったが、どこもかしこも緑蘭たちが爛漫らんまんと咲き誇っている庭園だった。

ハイム家には庭園が二つあると馬車で母から聞いていた。お茶会が行われている庭園はさまざまな色合い、多種多様な花々が咲いていたけれど、ここは緑蘭で統一されている。今この瞬間この緑蘭が意思を持ち、人間への反逆を決意したら私は死ぬだろうな、と思うほどの量だ。

私は植物について詳しくない。庭師のフォレストがいろいろと季節外れの花を咲かせてみたり、色合いを変えてみたりするから、そういった努力を調べるために勉強はする。よって私の知識は彼が手がけた植物のみで構成され、この造園の意図を読み取る力はない。

でも一面同じ色の景色は見ていて気分がいい。しばらくここにいることにして、あてもなく歩いている。

きっとハイム家は、緑色が好きなのだろう。私は特に好きな色はない。両親や屋敷の使用人の皆は赤と黒を好んでいる。メロもそうだ。彼女は自分の日記帳の、ある一冊を除いてはすべて赤で統一している。本棚を見ると真っ赤で、そこに一点だけ真っ白な日記帳があるからよく目立つし、ワンポイント柄みたいでかわいいと思う。

彼女の本棚について思い出しながら、庭園の中央にある噴水の周りを歩いていると、噴水の陰から黒い塊が見えた。

物体に近づくたびに、だんだんその塊の輪郭がはっきりとしてくる。土や苗を置いているのかもしれない。じっくりと目をこらして観察して──、足が止まった。

ちょうど、子供くらいの大きさの物体にシーツのような布がかけられている。いや違う、子供くらいのなにかではない。子供だ。

その子供は、布を被り膝を抱えていた。足元しか見えず、ほかはすべて布に隠されている。そして微動だにしない。

死体遺棄──という言葉が脳裏をよぎる。

いやまだ息があるかもしれない。死体と決めつけるのはよくない。おそるおそる肩あたりに触れると、子供はびくりと震え、まるでお化けを模したように布を被ったまま勢いよく立ち上がった。

「誰っ?」

立ち上がってもなお、その顔は隠れていてわからない。声も男女の判断ができないけど、中性的な声より若干高い気がする。

「ミスティア・アーレンと申します。あの、どうしてこんなところに? 体調が悪いんですか?」

「……違う、かくれんぼしてただけ」

声色と話の仕方から、そっとしておいてほしいという気持ちがひしひしと伝わってきた。深入りしてしまっては、相手の負担になるだろう。

「そうですか。では失礼します」

一応ハイム夫人にこの子のことを伝えよう。心の中でそう決めて、踵を返そうとした。しかし次の瞬間、布を被った子供に腕を掴まれた。

「ま、待って」

「……やっぱり体調が良くないとか?」

「そうじゃない。そうじゃないよ」

ならこの手を離してほしい。私の思いとは裏腹に、ぎり、と子供が腕を掴む力は強まる。なんだこの子は。様子をうかがおうにもその素顔は布に隠れていて、さっぱりわからない。

「この庭園を案内してあげるから……それまで離してあげない。行こう。案内してあげる」

そう言って子供は私の腕をさらにぎりぎりと掴む。痛い、普通に痛い。腕ぎりぎり痛い。私を掴む手は片手なのに雑巾みたいになっている。

「なんで案内をしようと?」

「嫌なの?」

すごく押しが強い。質問させてくれないし、腕を雑巾みたいに掴んでくるし。この子はいったいなんなんだ。怪しいけど、断ったところで腕をさらにぎりぎりと掴まれるだけだろう。

「……いいよ」

「本当?」

子供は押しの強さのわりに私の返事に対して驚いたような声を出した。私は不思議に思いながらも頷いて、その子に導かれるままに歩き出した。


「あの木の葉っぱで、お茶が飲めるの。実もあってね、段々色が変わってくるんだけど……はじめのうちの白い実は食べれたけど、黒くなるの待ってたら猫が全部落としたり、食べちゃったりして駄目だったんだ」

桑の木を横目に、エリーの説明を聞き、彼女の後ろをついていく。

突如庭園の案内を提案した子供はエリーと名乗った。どうやら女の子らしい。それ以外はまったく語ろうとしないけれど、庭園の案内を申し出てきたり、今の話を聞くにハイム家の子か、それに近いところの子だろう。

「この緑蘭は、お父さんとお母さん、皆で育ててるの。季節が違うけど、いろいろ頑張って咲かせてて……、お母さんもお父さんも好きで、プロポーズも花束といっしょにしたんだって」

エリーは被っている布を片手で押さえながらこちらに振り返った。これで彼女はハイム家の子供確定だ。この緑蘭庭園は、家族で大切にしている庭なのだろう。広い庭園を埋め尽くすほどの緑蘭は、夫婦の愛の結晶だ。入ってしまって申し訳なかった。後で夫人に謝罪をしなければいけない。

「そうなんですね、勝手に入ってしまってごめんなさい」

「いいよ。エリーも皆いない時、こっそりお花のお世話するから」

寂しそうに彼女が呟く。あれ、この子はたぶんハイム家の子。なのになぜ皆がいない時に手伝うのだろう? 特殊な事情がある子供なのだろうか。

「じゃあ次は、お屋敷をご案内」

彼女はそう言って私の手を取り、屋敷の方へと歩き出した。「案内は終わったのでは?」という私の問いにいっさい答えず、私を連れ裏口らしき場所から屋敷の中に入ってしまう。この調子だと解放される気配はないだろう。お茶会に戻ることを諦めた私は、屋敷内の廊下を進む彼女の後に続く。

「あの、お屋敷に勝手に入っていいんですか?」

「エリーの許可があるから大丈夫だよ」

大丈夫らしい。なにが大丈夫かわからないが、相手はハイム家の子供だし、大丈夫だと思うしかない。

「ほら、見て。この絨毯お花の柄になっているんだよ。こっちは白だけど」

彼女は地面を指さした。たしかにそこには白い蘭の刺繍ししゅうが広がっている。

ノクター家の屋敷でもこうして案内をされたし、屋敷を案内することが流行っているのだろうか。あの屋敷は内観も外観も屋敷というより城に近かったけれど、ハイム家の屋敷は正統派の屋敷の雰囲気をベースに、どことなく異国の雰囲気があって、よく調和している。

「お父さんがね、船で色んなところに行くの。だからお土産並べてるんだ」

エリーが指し示す調度品たちは色使いが独特だ。思えば前に庭師のフォレストから他国の伝統文様について教わった時、似たような柄を見た気がする。眺めながら廊下を進んでいくと、彼女はふいに扉の前で立ち止まった。扉にはドアプレートが下げられ、蘭が描かれている。

「ここがエリーのおへやなんだ」

彼女はドアノブに手をかけた。プレートはどう見ても特注品で質が良い。やっぱりこの子はハイム家の娘だ。でもどうして彼女はお茶会に向かわず黒い布を被り、さらに一人の時を狙って花の世話をするのだろう。

「特別に中にいれてあげる」

「え」

中に? そう続ける前に、突然部屋に引っ張りこまれた。

驚きながら周囲を見渡す。家具は緑ですべて統一されているわけではなく、落ち着いた色合いで纏められていて、素敵な部屋だけれど、違和感を感じた。

ノクターの屋敷では空間が気になっていた。あれはゲームで見ていた夫人の肖像画がないことであった。でもここで感じているのはそういった違和感ではなく、雰囲気的なものだ。

子供部屋というには殺風景で、かといってシンプルといったようでもない。絵本をしまう本棚や、おもちゃをしまう箱はあるのに、絵本やおもちゃなど「それ自体」がない。机と椅子、ベッド、空の本棚、空のおもちゃ箱、クローゼットのみで構成されているこの部屋は、子供が住んでいる部屋というより、これから子供を迎えようとする部屋にも見える。

「エリーはずっとここにいるんだよ」

「へー」

返事はできたものの動揺した。さっきまで子供が過ごしている気がしないと思っていた部屋に、目の前の子供が「ずっとここにいる」と言い出したからだ。

「……ここでなにするのが好き?」

動揺を悟られないようにと問いかけると、エリーは少し考え込んだ後、分厚いカーテンが閉じられた場所を指で示した。カーテンは完全に閉じられておらず、僅かに隙間がある。

「あの窓から空を見ているのが好き」

この子供、収容でもされているのだろうか。

一人で庭園の花の世話をして、部屋で空を見ているのを好む。趣味としてはよくあるものだが、この部屋でとなると不安になる。綺麗好き、物が少ないのが好き、そもそも本や玩具に興味がないなど、本当に好きでやっているなら別にいい。しかしこの生活が強いられているのだとしたら普通に問題だ。

「本棚の本とか、おもちゃ箱のおもちゃはどうしたの?」

「大切だからしまってるの。なくならないように。壊れないように。……それより、次は広間に行こうよ。案内するから」

追及を防ぐようにエリーは私の腕を引く、私は戸惑いながらも部屋から出た。相手が拒む以上、踏み込んではいけない。それから口を開こうとしない彼女についていくと、後ろから「エリー?」と声がかかった。

私たちの後方──廊下の奥にハイム夫人が立っている。

「お母さん……」

エリーが呟くと同時に、夫人がこちらに駆け出してきた。エリーは私の手を離して脱兎の如く部屋に戻り、大きな音を立てながら扉を閉める。私の前を夫人が通り過ぎるのと同時に、鍵がかかった無機質な音が響いた。

「待ってちょうだい! 話がしたいの! ずっと部屋に籠りきりで、どうしてなの? ねえ、どうして……」

夫人は扉に縋りつくように叩いているけれど、返事はない。

私はどうしたらいいのだろう。様子を窺っていると、夫人が私の方に顔を向ける。

「あっ、あのハイム夫人……私は……これで」

失礼します、と踵を返した瞬間、腕を掴まれた。振り返ると、やっぱりという感想しか浮かばない。ハイム夫人はまるで先ほどのエリーと同じように私の腕を掴んでいたのだった。


「本当に、もうどうしていいかわからなくて……」

俯きがちに語るハイム夫人の目にはうっすらと涙が浮かんでいる。夫人は懐からハンカチを取り出して、目元を押さえた。その様子をテーブルを挟んだ向かいのソファーに座りながらただただ見つめる。

私はあの後ハイム夫人に呼ばれ、ハイム家の客間に案内されていた。そして夫人は「どうか、聞いてほしいのだけれど」と前置きをしてから、エリーについて語りだしたのだ。

エリーは、昔は本当によく笑う子であった。庭を駆け回り動物とたわむれ、花を愛する優しい子。動物にも人にも懐っこい彼女は、ある日を境に突然部屋から出てこなくなった。昼になっても姿が見えず、部屋に呼びに行けば鍵がかかっていて、呼びかけても返事がない。

扉の隙間からは放っておいてと一筆書かれた手紙が差し出され、理由を尋ねても答えない。外から窓を覗こうにもカーテンが閉じられたきり、中の様子は窺えない。

食事を部屋の前に置いておくと、しばらくして空になった食器が置かれる。耳をすませば部屋の物音が僅かに聞こえ、時折すすり泣く様子も見られる。

その音で、娘の生存を知る。そんな生活を夫人は送ってきたらしい。

「あの子はお茶会が好きだったから、定期的に同い年の子供を屋敷に招いていれば、いつか部屋から出てきてくれるんじゃないかって思っていたの。でも、駄目で。……だからあの子があなたを連れて歩いているのを見かけて驚いたわ。久しぶりにあの子の姿を、見ることができた……」

夫人は声を震わせた。この人は今、十歳の子供である私に対して縋りつきたくなるほどの状態なのだろう。

しかしハイム夫人の語るエリーと、実際に会ったエリーがかけ離れている。腕を掴み案内をすると言い出し、部屋まで引っ張っていくような印象とは正反対だ。

でも、大切だからと本や玩具をしまい、外から見えないようにするというのは、籠るうえでの自己防衛的な本能と一致している気がする。

「あの子はこの半年間ずっと部屋から出てこなかったの。誰とも話すこともなく……だから、会ったばかりの貴女にこんなことを言うのは申し訳ないのだけれど……よければまたあの子に会いに来てくれないかしら? その……また明日にでも」

夫人はおそるおそる話す。不安に揺れる翡翠ひすい色の瞳を観察しながら、私はとある可能性を考え、頷いたのだった。