宵の前

夏の訪れを感じさせる午後、私は侍女のメロと庭師のフォレストに勉強を教わっていた。二人は、侍女、庭師という本職のほかに、私の専属家庭教師を務めてくれている。はじめこそ父や母が呼んだ先生に教わっていたけれど、皆二か月ほど経つと一身上の都合で辞めてしまった。メロはそんな私のために勉強をして、フォレストは品種改良や薬品の研究をする頭脳を活用し、通常の業務と家庭教師を兼任してくれているのだ。

メロはいつもの侍女の服だけど、フォレストはいつも作業中につけている腰巻エプロンを外してシャツにスラックスという軽装だ。普段彼は花屋のお兄さんみたいだなと思うけれど、今日はどことなく学生感が漂っている。

そんなことを思っていると、扉が激しくノックされた。「御嬢様、大変です!」と扉越しに聞こえる声はおそらく執事のルークの声だろう。返事をすると、メロがさっと扉を開いた。

現れたのは、オレンジ色の髪を揺らし、焦ったように肩で息をするルークの姿だ。彼は息を切らしながら「あの、御嬢様、先ほどですね」と断続的に言葉を発している。

「どうしました、ゆっくりで大丈夫ですよ」

「婚約者様が、お見えになりまして、さ、先ほど」

駄目だ、まったく大丈夫じゃない。しかし声を出す前に後ろのフォレストが威圧的な声で「は?」と呟いた。普段彼はこんな声色じゃない。使用人のいつになく荒んだ様子に混乱しかけた脳が一瞬停止し、また動き出した。

「ルーク、レイド様はどんな用事でここに来たんですか?」

「はい、御嬢様と話がしたいそうです。それで今、執事長が客間に案内して……」

レイド・ノクターが私と話がしたい? 彼がいったい私になんの話をしに来たというのか。行きたくないけれど、執事長が応対している。行かなければ。

私は深く絶望しながら部屋を出て、客間へ急いだのだった。


「ああ、ミスティア嬢。久しぶり」

客間の扉を開くと、レイド・ノクターがゆったりとソファーに座っていた。彼は今まさに執事長のスティーブさんに紅茶を淹れてもらい、そのカップを手に取っている途中だった。

「ど、どうして」

「近くに用があったんだ。だからご挨拶に」

「ご挨拶……」

それは礼儀的なものか。挨拶回りという名の道場破りではないのか?

「では私はこれで失礼いたします」

スティーブさんは私の分の紅茶を淹れ、退席していく。良かった。ここでなにかあっても巻き込まずに済むと安堵すると、スティーブさんは私とすれ違う瞬間「追い出す場合は三度ノックを」と呟き部屋の扉を閉めた。

「紅茶が冷めてしまうよ?」

「あ、はい……失礼します……」

レイド・ノクターに座るよう促され、彼の向かい側に座った。淹れたての紅茶が湯気を立てているさまを食い入るように見つめていると、彼はそっと口を開く。

「事件から、会える機会が無かったし、まぁ、街で会った時から半月くらいしか経っていないけれど……あの時もあまり長く話せなかったから」

「どうも」

今日は、事件についての話という解釈でいいのだろうか? なにを言っていいのかさっぱりわからない。どうもしか言えない。

「屋敷へ招待の手紙はもう届いた? まだ、心は落ち着かないかな……?」

申し訳なさそうなレイド・ノクターの声色。でもこれは爆弾の投下だ。彼の家から招待状が来ていることなんてもう十分すぎるくらい父から伝わっている。それを私は、ずっとさりげなく断るよう仕向け続けているのだ。

私の両親は、ノクター夫妻と意気投合してしまいノクター家の屋敷へ誘ってくるけれど、メロや使用人の皆は「断っていいのでは?」と賛同してくれたし、両親にさりげなく、「御嬢様は体調が……」と加勢してくれた。専属医のランズデー先生に至っては虚偽の診察までしてもらっている。

「徐々にですが、落ち着いてきてはいて……」

「実は、ずっと君におびがしたいと思っていたんだ」

「え?」

「顔合わせの時と、二回目に会った時、そして事件が起こる前、僕は君に酷い態度をとってしまっていたよね?」

レイド・ノクターの言葉に疑問を覚えた。彼が私に軽蔑けいべつの眼差しを向けたのは、事件前に私が彼の屋敷で大暴れした時だけだ。屋敷で暴れられたのなら誰だって相手を嫌な人だと思う。だから彼の態度に無理はない。しかし顔合わせ──初対面の時と二回目、彼は酷い態度を取っていたのだろうか。

「実は、僕の父と母の仲が悪いと噂があって……僕自身も二人に誤解をしていたんだ。僕は結婚自体に否定的な目を向けていて、君に対しても八つ当たりをしてしまって……」

「なるほど……」

ゲームで彼の家庭環境の確執は、彼の両親が不仲だったことよりも父が母の墓参りをせず、母に関することを伝えると立ち去るなど、ノクター夫人の死をきっかけにしたものだった。でも、メロの存在のようにゲームでは描かれていなかっただけで、元々根本的な問題があったのかもしれない。

「君の両親が羨ましく感じて、そして君の言った、婚姻は、愛する者同士でするものという言葉も、聞き流すことができなかった」

私は知らず知らずのうちに、レイド・ノクターの地雷を踏み抜いていたのか。

自分の過去の発言にぞっとした。あれだけ地雷を踏みたくないと行った顔合わせで、私は彼の地雷を踏んでいた。それに両親が不仲で悩んでいる中で「自由恋愛」なんて言われたら苛立つに決まっている。

「それは、仕方ないと思います。誰だって思い悩んでいる時に、その苦しみを軽んじるようなことを言われたら腹が立ちます。こちらこそ、ごめんなさい」

「君は謝らないでほしい。僕がお詫びをしなきゃいけない立場なんだから」

「お詫びなんて気にしないでください。それに事件の日も、私は騒ぎ立ててしまいましたし……」

「ううん。あの日の君のおかげで母の命は救われた。父も母も、君に会いたがっているんだよ」

「いやいや……」

「それで、お詫びとお礼をする立場から言うのは心苦しいのだけど、できれば近いうちに君や君のご両親を屋敷に招待したいんだ」

「え」

「来年、僕に弟か妹ができるんだ。だから──」

「え」

レイド・ノクターの発言にまたまた疑問を覚えた。彼はノクター家の一人息子のはず。そう考えて、彼の根本的な家庭環境がゲームと違っていることに気づいた。現在彼の母は生きているのだ。なにもおかしいことじゃない。

「どうしたの?」

「ああいや、兄弟っていいですよね。こう、友達でもあり、家族みたいな感じで……」

「……君は一人娘だよね?」

鋭い指摘に紅茶を吹き出しそうになった。そうだ、ミスティアは一人娘だ。今の発言は軽率だった。まるで長年弟や妹がいる人間がしみじみと語るような発言だった。

「お、弟や、い、妹に深い憧れがあって」

前世の明るくて社交的な妹。私みたいな姉をたまに怪訝な目で見るけど慕ってくれていた。きっと私が死んでもしっかりやっていけているだろう。本当にどこにお出ししても恥ずかしくない、すべてにおいてよくできた妹だった。

「ミスティア嬢?」

声にはっとすると、レイド・ノクターに怪訝な目で見られていることに気づいた。違う。空想の妹を心の中で愛でているわけではない。けれどちゃんといたんだと言えるはずもなく、私はそのまま俯いた。

ああ駄目だ。俯いていたら肯定しているみたいだ。顔を上げると彼は静かに呟いた。

「……僕の家族は、変わったんだ」

「変わった?」

「……変わりすぎて、どこがとは言えない。でも間違いなくいい方向で……それは君のおかげだと思う。ありがとう」

彼は手を差し出し、澄んだ蒼い瞳をまっすぐにこちらに向けた。嘘を言っているようには聞こえない。手を取るくらいは大丈夫だろうか。この手を取ったことでいずれ布石にならないだろうか。でもこのまま握手を拒んでも、怖い。

おそるおそるその手を取ると彼は満足そうに笑う。窓から差す明るい光に照らされた笑顔は十歳の少年といった顔で、なぜかレイド・ノクターらしいと思う笑顔だった。