異録 常闇に潜むあい

SIDE:Melo


暗い廊下を、明かりを灯さず進む。足音を殺して薔薇の紋章が刻まれた扉を開く。

部屋の主は寝台で規則正しく呼吸をし、深い眠りについていた。起こすことがないよう、そっと近づく。

今日は久しぶりに街に出て疲れたのだろう。触れるか、触れないか、ぎりぎりの加減で黒髪を一束なぞる。本当は頬に触れたい。しかし目覚めさせてしまう可能性を考え我慢した。


はじめは、憧れだった。

純粋で無垢で誇り高い存在に対する、尊敬にも畏怖にも似た想い。絶対に近づいてはならないのに、近づきたいと焦がれた。それがいつからだろう。この光を私だけのものにと、分不相応な願いを抱き始めたのは。

私の産まれた場所は、なにもかもが薄汚れた土地だった。すべてが鈍色をしていて、幼子は廃棄物を漁り、物乞いや盗みをして生きていく。そういう場所で私は育った。

生きていく中で自分に与えられた境遇が当然だと考える。しかし徐々に、こんな場所とは違うところがあると考え始め、自分のいるべき場所に嫌気がさす。そして私は遠くにうっすらと見える街に向かって歩き始めた。人伝に聞いた、街という存在を目指して。

そこなら、自分がいた場所よりもましな仕事があるだろう。今より少しは良い生活を得られるはずだ。泡のような期待を抱いて、私は歩いた。

でも、現実はそう甘くない。慣れない街のはずれを一人で歩いていれば、攫われて奴隷として売られることは当然だった。

自分の愚かさに気づいたのは、奴隷市に商品として出された時。なにもかも、すべてが遅かった。もう終わりだと覚悟した。自分の人生に、光が当たることなど一生ないのだと思い知った。

それなのに。

「なにをしてるんですか?」

顔を上げれば、目の前に立っていたのは幼い少女だった。上質な、汚れも染みもない身なりで、貴族だとすぐにわかった。無感動な赤い瞳がじっとこちらを見つめ、その視線から逃れるように私は首を横に振った。

「なんでもない」

「……でもすごく悲しそうですけど」

「……私、売られるの……奴隷として。だから楽しそうになんて、できない」

「奴隷?」

「好きにされるってこと」

少女は私の言葉が理解できない様子だった。それもそうだろう。綺麗なドレスを着て、目に見えて大切にされている子供にわかるわけがない。こんなに汚い世界があることなんて。それなのに、少女はまるでなにかを見極めるように私を見た。しばらくして、少女と同じように身綺麗な貴族の男──少女の父親が入ってきた。父親は店の中を見まわし、眉を顰めながら少女の腕を掴んですぐに立ち去ろうとした。

「ほら、行くよ。いつまでもこんなところにいるものじゃない」

「この子は、そのこんなところ、にいるようですけど」

そんな会話を繰り返す、父親と少女。彼女は罪人でもないのに私がくさりで繋がれていることはおかしいだとか、大人にこんなところだと言われるような場所に人間が捕らえられていることはおかしいと繰り返し、しきりに移動させようとする父親を拒絶した。

しばらくこう着状態が続くと、父親は少女にこの場を動かないよう言って店を出た。今度は店主と共に戻ってきて、店主は上機嫌で私の足の鎖を外したのだ。

「まさか、アーレン家に買われるとはねえ! お前も運がいいねえ!」

店主はまるで鼻歌を歌うようにして、私を少女の父親のもとへ押した。その言葉と態度によって、自分が売られたのだとわかった。

それからは、目まぐるしく日々のすべてが変わった。

私は孤児院に預けられ、毎日三度の食事をとって湯に入り、綺麗な服を着て、読み書き、言葉を教わり、床ではなく寝台で眠るようになった。

少女は三日に一度、日々の暮らしに唖然とする私の前に現れた。ご飯は美味しいか、なにか悲しいことはないかひとしきり尋ねると、本や菓子を渡してくる。きっと彼女の気が済んだら、私は捨てられるのだろう。それまではこの生活を享受しよう。そう考えていたけれど、そんなことはついぞ起きなかった。

「初めて会った時から思っていましたけど、あなたはきらきらしていますね」

本当に唐突に、なんの前触れもなく、ある日私は少女にそう言われた。言葉の意味が理解できなかった。きらきらしている? それはいったいどういう意味なのか。彼女は自分で言っておいて考え込み、「きれい、そう綺麗です!」と笑みを浮かべたのだ。

「綺麗ですね」

そう言って、私の手をとったのだ。何気なく、それが当然であるかのように。

「違う、私は汚れてる。だから……」

「どこがですか?」

少女は私の言葉を遮り、不思議そうにこちらを見てきた。そして私の手を撫でて「どこも汚れてないですよ?」と、誰からも目を背けられていた私を、本当に自然に見てくれたのだ。そこから、確実になにかが変わった。

彼女の──ミスティア様の傍に在るために、過去を清算して生まれ変わって、勉強をして、あらゆることを極めて彼女の専属として仕える侍女という立場を得た。

昔はこんな暮らしをするなんて思ってもみなかった。ずっと泥や血の中で生きていくと覚悟していた。それなのに。

捨てられてもいい。飽きられてもいい。でもそれまでは、私はミスティア様に尽くす生き方がしたい。それまでは、彼女の傍にいる努力をしたい。諦めたくない。幸せだった。あまりに幸せで、光に照らされることを当然と感じ始めていたころだ──それをあざ笑うかのように、幸福が脅かされたのは。

一か月前、ミスティア様に婚約の話が出た。相手は伯爵家の息子らしい。優秀で、非の打ち所がない伝統ある貴族の息子だ。彼女も十歳になった。なにも珍しいことではない。彼女が望むのならば、幸せになれるのならば、それが私の幸せだ。

それでも、私が男で、伯爵家かそれ以上の家の子供だったらという、嫉妬にも近い憎悪にかられる。

私はなにが憎いのだろう。なにも持たない私か、ミスティア様の幸せを心から祝えないことか。

それとも、彼女の婚約者に対してか。

こんな感情は、持つべきではない。

ミスティア様が幸せならそれでいい。そう堪えて、彼女が婚約の話を聞いて思いつめた顔をすることも、気づかないふりもしたのに。相手の屋敷から帰ってきて、食事もとらずに眠ることにも、見ないふりをしてきたのに。

彼女が幸せになるならば、我慢ができたのに。

顔合わせをしてしばらく経ち、ミスティア様が狂った男の手によって危険に晒された。

婚約者の母親と、その甥の痴情のもつれにミスティア様が巻き込まれたのだ。

許せない。そんなこと許されていいはずがない。関係ない彼女が、どうして危険に晒されなければならない。狂った男は拘束され、一生牢に入れられると聞いた。だから殺しに行けない。殺せるけれど、そのためには屋敷を空けなければいけない。私が屋敷を留守にしている間、彼女を守れない。……彼女を危険に晒した者を、殺しに行けない。

だから婚約者との結婚は、ミスティア様の幸せではない。

はっきりと認識した。私はまず、彼女と婚約者が会わないよう、彼女が屋敷に出ないように画策した。婚約者の家から手紙が来ることは把握済みで、そこには彼女を相手の屋敷に招待したい旨が書かれていたから、彼女が外に出ることを封じた。

屋敷に働く人間も皆、彼女を想っている。私がなにかしなくても、私と同じような意思で行動する。でも彼女は突飛な行動をとる。常に目を光らせておく必要があった。

「じゃあメロにぴったりくっついてるから、それで手も繋ごう」

ミスティア様の言葉に、心が揺れた。なんて意思が弱いのだろう。外出の支度をして、待ち合わせの場所に向かう道すがら、屋敷に働く使用人たちは皆ほうけた顔をしていた。彼女を止めきれず、私と同じような結果に終わったことがすぐにわかった。

そうして、一緒に街へ行き、買い物をして、手を繋いで帰った。日が暮れたころ彼女と別れ自室に戻ると部屋には小ぶりな包みがメッセージ付きで置かれていた。

『メロへ いつもありがとう これからもよろしくね』

中身は、ミスティア様を彷彿とさせる黒の写真立てだった。共に向かった店で、散りばめられた宝石が揃えたように赤いところが彼女を思い起こさせ見入っていたところを、きっと見られていたのだろう。

ミスティア様に頂いた品は、引き出しに入れて鍵をかけてしまってある。大切なものはしっかりとしまって、誰にも触れられないようにしなければいけない。

でも、この世界にはいくら大切でも、しまうことができないものがある。

この世で最も大切な、大切な宝物。私の光は、誰も見えないところに居てくれない。


そして今……、私の目の前で眠りにつくミスティア様を見つめていると、偶然にも彼女は笑った。

本当に愛おしい──そしてなによりも、残酷な人。

出会って六年。私はずっと、ずっと貴女に生かされ続けている。

「幸せでいてください。……貴女だけは、永遠に」

祈るように呟いた言葉は、主に届くことなく夜の闇に消えていった。