異録 身勝手な誤想は病となるか
SIDE:Raid
屋敷の大広間の前に立ち、使用人たちが壁に大きな肖像画を飾っていくのをじっと見つめる。父と母は微笑み、その間に挟まれている僕も同じように絵の中で笑っていた。額縁の中央には、ノクター家の紋章が刻まれている。
僕はあの紋章を見るたびに、ノクター家を継ぐ者としての意識を高めて生きてきた。
「ふむ、いい仕上がりだな」
「そうね、でもちょっと大きすぎないかしら」
今、僕の隣に、絵と同じように父と母が並んでいる。二人に目を向け、こんな日が来るなんてと、僕は静かに過去へ思いを馳せていった。
五歳の時。当時から僕はノクター家を継ぐことについて考えていた。周囲の期待もあり、ノクターの後継者として期待に応える責任があるのだと、何事においても優れていなければならないと思っていた。
苦しさはあったけれど、僕は決して不幸ではなかった。なぜなら大好きな父と母がいたからだ。頑張る僕を見て、二人は褒めてくれた。僕の話題を楽しそうに口にして、会話をしていた。置いてけぼりにしないでと僕が
だけど、いつからだろう。
父は屋敷を空けることが多くなり、母はじっと窓の外を眺めることが増えた。父はいつ帰ってくるのかと聞けば、母はただ笑ってなにも答えない。
仕事が忙しいから父は屋敷に帰ってこない。二人はすごく仲がいいから、寂しくて母は体調が悪いのかもしれない。
父の忙しさはいつかは終わると思っていたけれど、父が屋敷を空けることは続いた。それどころか頻度は増え、父が屋敷にいるということが珍しく、驚くことに変わっていった。
僕は、最良の結果を残し続けていこうと決めた。いつか親子三人でまた過ごせるようになったら、父と母はきっとお互いどう接していいかわからないはずだ。そう考えるほど、家族の時間は減っていた。だから僕の話題で会話が弾むように、いつかまた昔みたいに、僕のことを話題にして楽しい話ができるように、ひたすら僕は努力した。
でも、父は帰らない。母も部屋からあまり出なくなった。
そうして、希望への努力が義務に変わったころ。父と母の話を、使用人同士の会話で聞いた。
その話は、本当に、本当にありふれた、政略によって結ばれた二人の話だ。
金を作るために母は父と結婚し、家柄を得るために父は母と結婚した。僕の両親の話を聞いた時、不思議と悲しくはなかった。今までの引っかかりのようなものが、すとんと落ちた気がした。
ああ、二人の間に愛はなかった。ただ、二人は金を作り家柄を守り、結果僕が産まれただけだった。仲が良かったように見えたものは幻だったことを知ると、あれだけ元に戻りたいと願った時間も、両親のことも、どうでもよくなった。
もう、なににも期待しない。どうでもいいと思ってもなお、僕は完璧であるための努力を欠かさなかった。欠かすことができなかった。そうすることが、僕にはどうしようもなく染みついていた。
もしかしたら、僕は家族が元通りになることを、心のどこかで期待しているのかもしれない。そんな自分が嫌で仕方がなくて、だからこそ「婚姻は、愛する者同士でするものですからね」と言ってのけた、僕の婚約者に
ある時、父が帰ってきて、僕を呼びつけ「婚約の話を持ってきた」と言って紹介してきた、アーレン家の令嬢……ミスティア・アーレン。伝統ある高貴な血族で、今は医療施設や薬品研究所に出資し富を築いている家。名を聞いただけでわかった。これは家柄や財を重視した結婚で、父と母と同じだと。一方、婚約する相手に対して思うことはなに一つなかった。
だから顔合わせ当日も、僕は両親が並び立っていることが珍しく、その珍しさに不思議な安堵を覚え、それまでどうでもいいと思っていた相手の令嬢に同情心がわいてきた。
きっとアーレン家も、伝統と家柄を重んじる、僕と同じような家族なのだろう。かわいそうに、彼女も被害者だ。被害者同士、上手くやっていけるのかもしれない。そう思っていたのに、僕に宛がわれた婚約者、ミスティア・アーレンと彼女の両親は、絵に描いたような幸せな家族そのものだった。
アーレン伯爵が、夫人を見る目も、夫人が伯爵を見る目も、夫妻が令嬢を見る目も、僕の家とは違う。
愛し合った男女から産まれた娘。同じだと考えていた彼女のなにもかもは、すべて僕と違っていた。
気に入らないと、密かに思った。
実際に話をしてみても、その印象は覆らなかった。愛されて、この世にどれほど醜いものがあるかなんて知らないだろうに、瞳はやけに強く、それでいて諦め疲れたようにも聞こえる淡々とした話の仕方、彼女を構成するすべてが僕は気に入らなかった。
彼女のことが理解できない。理解しようとも思わない。でも、顔合わせの最中はそれを覆い隠すように笑顔を浮かべていた。なにをしても、なにを言っても笑みを浮かべる。しかし彼女は僕を警戒していた。
僕は、ノクター家の令息として完璧に振る舞った。なのになぜ彼女は僕を恐れるのか。理由はなにかわからない。けれど知る必要もないと、それ以上考えることはしなかった。
顔合わせ後は両家好感触ということで、僕と彼女の意思も同じであれば……という話だった。でもそれはあくまで表向き、お互いの相性が良かったということにしたいのだろう。
どうでもいい、なにもかも。僕は彼女について別々に尋ねてくる両親に対して、「とても人柄のいいご令嬢でした」とただ決まりきったような言葉を返していた。
顔合わせからしばらくして、アーレン夫妻、そしてミスティア・アーレンを屋敷に招待した。彼女は終始僕に
翌日、珍しく朝食の席に父の姿があった。その日は家族で一年に一度、必ず劇場へ足を運ぶ日だった。流行りの劇を見て、外で夕食をとる。三人で行っていたけれど、ここ数年は母と二人で行くことが当たり前になっていた。結局父はその日も昼に仕事があると言い、母は表情を変えることなく頷いていた。
そうして昼になり、父が屋敷を出ようとした。なにも変わらない、いつもどおりの日常。しかし、その日常を壊すかように、突然ミスティア・アーレンが屋敷に現れ、そのまま玄関ホールで突然癇癪を起こし始めたのだ。どこで知ったかわからないけれど、今日共に劇場に行きたいと叫び、さらに僕の父も一緒がいいと無茶苦茶に暴れだした。
両手をじたばたと振り、声を荒げる姿は以前の彼女とは別人で、混乱した。ある種、子供らしい姿ではあるのに、あまりの異質さに恐怖すら覚えた。父も同じだったのか、仕事を取りやめ、彼女の願いどおり劇場への同行を承諾した。
こんなふうに、僕も我儘を言えば良かったのだろうか。
そんな考えを振り払いながら馬車に乗りこむと、ミスティア・アーレンは押し黙り、一言も話そうとしなくなった。僕の母が気を使い話しかけても空返事、父は顔を
本当に、迷惑な令嬢だなと思った。どうでもいいとは思ったけれど、ここまでくると先が思いやられる。婚約は別の相手がいいとすら感じた。婚約をする前にミスティア・アーレンの癇癪を知っていたならば、父は絶対に彼女を僕の婚約者に選ぼうとはしなかっただろう。そう思いながら一瞬だけ見えた彼女の横顔はなにかに怯えているように見えて、胸がざわついた。
劇場に到着すると、僕の
それどころか
「うるさい、うるさい、うるさい! 俺と彼女は結ばれる運命なんだ!」
そう言ってナイフを取り出したあの男の目を、僕は一生忘れないだろう。
車内は、一瞬にして恐怖と混乱に包まれた。その中で唯一、ミスティア・アーレンだけが変わらなかった。彼女は強く扉の手すりを握りしめ、逃げようとしない。ただ車内の人間を守るように動いていて、その手元を見てわかったのは、手すりが縄のようなもので座席と固く固定されていることだった。僕がただ見入っている間に、父やアーレン伯爵が彼女に加勢をし、やがてアーレン夫人が彼女を引っ張り込むように抱きしめた。僕も母に抱きしめられ、しばらくして従兄は劇場の守衛や憲兵隊に取り押さえられた。でも事件はそれで終わらなかった。
父が叫びながら扉を開け放つと、従兄に突進し、殴り続けたのだ。憲兵隊に引きはがされながらも怒りを露わに従兄を殺そうと暴れた。扉の手すりを固定していた縄は引きちぎられ血に染まっていて、父がやったのだと理解した。
しばらく父は暴れ、落ち着いたのは従兄が憲兵隊に連行されてからだった。アーレン伯爵と夫人、僕の父と母は憲兵隊の聞き取りに応じ、残りは後日という話になって、その日は解散になった。
そうして家族三人で屋敷に戻ると、僕は早々に部屋に戻るよう促された。翌日、両親に広間へ呼び出されると、そこには驚きの光景があった。
椅子に座る二人の目には
従兄は、何年も何年も、正体を隠して母に手紙を送り届けていたらしい。紛れもない脅迫文だと父が語っていた。
そして父は、母に何者かから脅迫文が送られていたことを知り、ずっとそれを調べていたそうだ。その脅迫文にはあたかも犯人と母が相思相愛であるかのように書かれ、あまりに自信のある書き方に、父は母に対して疑いをもち嫉妬で狂いそうになる気持ちを抑え、仕事をした後はそれを調べることにすべての時間を使っていたと言う。
この話を父がしている時、母は常に父を睨んで、父は俯いていた。
一方の母は、父が帰らぬ理由を自分が不要な存在になったからだと理由付け、胸を痛めていたらしい。
この数年間の隔たりは、双方に愛があるからこそ
僕は二人の話を聞いて、ずっと気になっていたことを尋ねることにした。二人の結婚は、それぞれの目的のためにしたことなのかと。
そうして、二人から語られた真実は、使用人たちの話とはまったく異なっていた。
元々、父はノクター家に仕える使用人で、母はノクター家の令嬢という関係だったらしい。
幼いころから母を想っていた父は、己のすべてを利用して一度ほかの家へ養子に入り、莫大な資産を築き上げてから
ちょうどその時期、ノクター家が静かに
それから、父と母は夫婦らしい関係を築いている。むしろ父は無理やりにでも屋敷にいるし、母から離れようとしない。母が嫌がるほどだ。事件の不安もあるだろうけれど、元々愛し合っていた夫婦だったのだ。父と母と僕、三人でいることも、出かけることも増えた。
昔とは異なっているけれど、かつて望んだものが少しずつ形を変え、戻ってきているように感じる。
でも、僕は幸せそうな父と母を見るたびに、ふと思うことがある。事件の日の、彼女についてだ。
彼女──ミスティア嬢がいなければ、簡単に馬車の扉は開かれ、母は殺されていた。誤解も解けないまま、きっと永遠に父と母はすれ違っていただろう。だから、彼女には感謝している。
でも、父ですら特定できなかった犯人の存在を、いや、従兄が母を殺そうとしていることを、彼女はなぜわかったのだろう。奇跡の我儘であると憲兵隊は話をしていたけれど、そんなことはないはずだ。彼女はそれまで酷く静かな人間であったのに、あの日だけ様子がおかしく、異常な様子で、それに扉が開かれないよう、縄で固定までしていた。
そうなると、新たな疑問が浮かぶ。
あの日ミスティア嬢がなにかを予知していたとして、なぜ僕に怯えていながらも、命を投げ出してまで僕の母を救おうとしたのだろう。
父と母、僕、そしてノクター家と以前に接点があったのかとも思ったけれど、調べてもまったく出てこない。会って日の浅い相手の母親を救う理由が、どこにあるというのか。
憲兵隊の到着が遅れ、父やアーレン伯爵の加勢が遅れていたら、刺されていたのは彼女だったはずだ。
理解できない。
彼女への想いに、初めて会った時感じたような不快感はない。不安にも近く、期待にも似ている感覚だ。
いつの間にか閉じていた目を開き、前を見据える。両親は庭園の花を三人でこれから見に行こうという話をしていた。そして、アーレン家を招待して近々お茶会がしたいという話も。
事件から一か月が経過し、父は先日アーレン家に手紙を送ったと言っていた。落ち着いたころに食事会をしようという誘いだ。おそらく遠くない日に食事会が開かれる。ミスティア嬢ともまた会うことになるだろう。
その時は、きちんと接したい。
前に接した時は、笑顔で隠していたといえども、誠意ある対応ではなかった。きっと彼女が怯えたのは、僕の憎悪にも似た感情が伝わってしまっていたのだろう。だから誠意ある謝罪をして、お礼を伝えたい。
僕は、いつか自分の家族の絵もこんなふうに飾るのだろうと考えながら、家族皆で肖像画を眺めていた。