でも、人命がかかっているのだ。むしろ人命がかかっていなければこんなことはしない。これは夫人の死亡する未来を変えるための計画の一環だ。
そう、これは計画──殺害現場になるであろう馬車に同乗し、扉の席に陣取り、甥が来ても扉を開けない。そこで甥を挑発、私を殺しにかかったところを劇場の守衛や周りの護衛に確保してもらう、という大博打計画だ。
そもそも殺人を未遂させなければ憲兵隊──前世的に言えばこの国の警察組織は甥を捕まえることができない。
甥を上手く怒らせ、刃物を出すように仕向けなければならないのだ。犯人逮捕の決定打という最も肝心な点が運任せ。私が同乗できなければ計画どころじゃない。積んだ問題が天まで届く勢いだがこの計画が現状唯一実行可能な手段であり、
よって、劇への同行を許してもらうために、現在私は癇癪を起こしている。
というか早く乗せるのを許可してほしい。どうせ今日が過ぎればこちらから突撃することはない。もう会うこともない。今日だけでいい、早く許可しろと想いを込めて床を連打し続ける。
「やだああああ一緒に行くのおおおああおあおあ!!」
加えて断末魔を二十秒おきに繰り返すこともやめない。祈りの押し切りビブラートだ。涙を追加するため、清潔な水も用意していた。
「こんなに行きたいって言っているのだから、連れていってあげましょうよ。家族になるのだし、ね」
鶴の一声ならぬノクター夫人の一声が聞こえる。夫人は困ったように笑っていた。こんな私を家族にしたくはないだろうに、聖母かなにかだろうか。一方伯爵とレイド・ノクターは、しつこい油汚れを見るような目で私を見ている。さすが親子だ。やがて伯爵は、「そうだな」と諦めた顔で頷き、私は「ノクター家に関わることは今日で最後です」と心の中で謝りながらそっと暴れる手を止めたのだった。
そこからは、すんなり事が運んだ。「息子の婚約者が狂っていた」という事実が効いたのだろう。私は仕事だから行かないというノクター伯爵を、追加の大癇癪おねだり我儘ビブラートでねじ伏せ、馬車には全員で乗りたいとさらに全身ドラムを重ねた。
以降、伯爵の心は完全に折れたようで今は私を疲れ切った、死んだ目で見ている。レイド・ノクターも疲れているようだ。彼は子供らしい子供ではないし、一人っ子。幼子に触れる機会などもなく、子供の癇癪自体に慣れていないのだろう。心から同情する。
馬車に乗り込むと、私は扉側に陣取った。私がこの場を譲らなければ、誰も馬車からは出られない。
さりげなく隠し持っていた縄を取り出し、内側の手すりに通して座席下の金具に結ぶ。これで扉を固定できた。この縄は昨夜メロに用意してもらった。耐久テストもしてあり、簡単には千切れない。
「劇、楽しみね。レイド」
「うん」
ノクター夫人がレイド・ノクターに声をかけた。彼は頷いて、
きっといつ暴れだすのかと思われているのだろう。
私は奇妙な緊張感が流れる空気をひしひしと感じながら、ただ車窓に顔を向けていた。
薄暗い夜の車窓から景色が流れていくのを横目に、じっと息を潜める。これから劇場に行くというのに、馬車の中は馬の走る音だけが響いている。当然だ、車内にはいつ騒ぎ出すかわからない爆弾が乗り込んでいる。かといって、私以外の人間だけが不安なわけではない。私だって不安だ。この馬車が劇場に辿り着いた時、人を殺そうと決意し、実行する人間が現れる。今まで生きていて、「殺す」と思う人間はいた。妹を一方的に糾弾し、筆箱を破壊した人間だ。でも殺すと決意し、あまつさえ殺害計画を練ってまで殺そうとした人間はいない。前世時代、トラックの運転手だって私をひき殺そうとして突っ込んできたわけではない。あれは事故だ。
けれど、これから先対峙するのは人を殺せる人間。だからこそ不安だ。そんな人間を挑発しなければならないし、私が刺されるだけならいいとして、両親も、レイド・ノクターも、ノクター伯爵、夫人の身も危険にさらされてしまう。
窓に顔を向け劇場に近づいているか確認していると、ぽつぽつと店の灯りが車窓へ差し込むようになってきた。もうすぐだ。もうすぐ。鼓動が激しくなって、呼吸が浅くなっていくのが自分でもよくわかる。馬車を開く手すりを握りしめる力を強めると、劇場の広告が見え、徐々に馬車は減速した。
「もうすぐ到着するみたいだな」
安堵の表情でノクター伯爵が呟く。やがて馬車はその動きを止め、待っていたかのように馬車の扉の前に人影が現れた。
「こんばんは、僕です。ジングです」
妻の甥です、とノクター伯爵が両親に説明する。甥の声は、穏やかな声なのに、どこか切迫したものを感じる。この人が夫人を殺そうとしている。扉の手すりを握りしめる力が強くなり、汗が滲んだ。縄もある。こちらから開けない限り大丈夫なはずなのに、心臓の音がうるさい。
「ミスティアさん開けてちょうだい、紹介するわ」
諭すように語りかけるノクター夫人の言葉を私は無視した。口を固く閉ざしてじっと扉を見つめていると、異変を察した父と母がこちらに語りかけてきた。
「どうしたのミスティア?」
「ほら、早く開けなさい」
窓越しに、甥と目が合う。その柔和な瞳はレイド・ノクターやノクター夫人と同じ色だ。形だけが違う。それなのに、ぞっとした。形容しがたい目つきだ。鋭くもないのに
でも、なにか挑発しなければならないのに、言葉が出ない。頭には浮かぶのに、声を出せば手の力が緩んでしまいそうで怖い。
……駄目だ。今日失敗したら、ノクター夫人はいつ殺されるかわからない。私は甥を睨みつけて、肺に呼吸を入れて、お腹に力を入れた。
「夫人は、伯爵のことが好き」
はっきりと、事実であるように甥に宣告すると、それまで笑みを浮かべこちらをうかがっていた彼の表情が一瞬にして消えた。効いている。私は足がすくみそうになるのを抑え、はっきりと彼に顔を向けた。
「だからあなたなんて必要ない。あなたは夫人に愛されない。夫人は伯爵のことを愛している。だから、あなたは、いらない」
「君、さっきからいったいなんなんだ」
甥が反応する前に、ノクター伯爵がこちらに身を乗り出してきた。扉へと伸ばされた手を防ごうとした、その時。
「うるさい、うるさい、うるさい! 俺と彼女は結ばれる運命なんだ!」
甥の表情は荒々しいものに変わり、彼はナイフを取り出した。その声に先ほどまでの穏やかさはなく、煮えたぎる憎悪と渇望が詰まっている。彼は狂ったように扉を叩き始めた。ナイフで切りつけているのか、耳を貫くような不快な音が響く。内側の手すりは縄で縛り押さえているのに破られそうな衝撃で、私は全身の力を込めて踏ん張った。
「ほら、出てきてくださいよ、痛くしないように、一瞬で殺してあげますから! 二人で幸せになりましょう!」
夫人の甥はそう言って、強く扉を叩き続ける。早く来て、劇場の守衛でも護衛でも憲兵隊でもなんでもいいから。全体重をかけているのに、扉と一緒に身体ごと吹っ飛ばされそうだ。最悪刺し違えてもいいから、誰か。そう願うのと同時に、手すりを握る手にがっしりとした固い手が重ねられた、この手は。
「おとうさっ……」
父とノクター伯爵が扉を押さえ、こちらに加勢をし始めた。驚いていると母は私をものすごい勢いで抱き込んだ。私を庇うように、きつくきつく抱きしめてくる。
「お前が、お前が全部悪いんだ! お前さえいなければ!」
母の肩越しに、甥が怒鳴りつける姿が見える。甥の目がノクター伯爵を捉えた瞬間、勢いが倍になった。振動が激しすぎて、訳がわからない。
「お前がっ! 彼女を閉じ込めたせいで全部おかしくなったんだ! お前……がぁっ」
ふいに振動が止み、母が私を抱える力が緩んだ。甥は守衛や護衛に後ろから羽交い締めにされ、馬車から引き離されている。
「取り押さえろっ」
「こいつっ」
「ナイフ取れナイフを!」
「離せ、返せ! 彼女を返せよ! 俺は! 彼女を開放するんだ! どけよ! 俺は、彼女を幸せにっ! しなくちゃならないんだよおっ!」
後から来た憲兵隊たちが甥を五人がかりで取り押さえている。間に合った、終わった、大丈夫。ほっと安堵し、母の腕からそっと身を離そうとした、その瞬間だった。
「愛してるよ、俺はあなたを愛してる!」
甥はもう完全に取り押さえられ、連行されるというのに、目を見開き、全身のすべての力を込めて叫んでいる。彼の姿に私が呆然としていると、目の前に勢いよく黒い影が通り過ぎた。
「お前が! お前が! 今まで! 俺の妻に変な手紙を送っていたのか!」
ノクター伯爵が勢いよく扉を開け放ち、馬車から飛び出した。メロが切れないと言っていた縄は引きちぎられている。縄は血に染まっていた。伯爵が無理やりこじ開けたのだ。
急いでノクター伯爵を目で追うと、甥めがけて突進し、周囲なんてお構いなしに甥を殴っていたところだった。そのまま一発、二発と何度も右の拳で甥を殴り続け、護衛が慌ててノクター伯爵を押さえ始めると、その手を振り払い、また甥に対して拳を振り上げた。
「殺してやる! そんなに死にたいなら! 今ここで殺してやる! どけ! そいつを殺すんだ邪魔をするなっ! 離せ! お前も殺されたいのか!」
甥じゃない。まごうことなきノクター伯爵が言った言葉だ。声色も怒りと憎しみが籠り、別人ではと思うほどの豹変だ。夫人の方を向くと夫人も
「うるさいうるさいうるさい! お前が金に物を言わせて、彼女を買ったんだろうが! 卑怯な手を使って! 元は使用人の分際で!」
追加で駆けつけた憲兵隊や劇場の守衛が混乱している。甥は五人がかりでしっかりと押さえつけられ地面に伏し、呻くように叫んでいるが、顔はぼろぼろだ。しかしノクター伯爵は八人、九人と人が増えてもなお勢いが止まらず、多勢で引き離しているのに、甥との距離を詰めようとして、憲兵隊を振り払い暴れ狂っていた。
どこから出ているんだあの力は。どんどんノクター伯爵を取り押さえる憲兵隊が増え、伯爵は方針を転換したのか、己を押さえようとする塊ごと甥に近づいていく。
「うるさいのはお前の方だ! 俺の妻をさんざん辱めるような手紙を送りつけて! もう二度と話せないように、彼女のことを見られないようにしてやる! くそ! どけ! 邪魔をするな! 俺があいつを今ここで殺す!」
冷静沈着で、機械的だったノクター伯爵の姿はどこにもない。人と人との隙間から見えた伯爵のその姿は、まさに獣だった。私も、父と母も、夫人も、レイド・ノクターも、その様子を、眺めてただただ立ち尽くしていた。
ノクター夫人の甥と憲兵隊を乗せた馬車が去っていくのを黙って見つめる。隣を見ると、手から
「怖かったね、もう大丈夫よ」
「そうだミスティア、父様と母様がついているぞ」
一方、私の両親は悟りを開いたかの如く落ち着き払っている。たぶん、目の前の人が取り乱しすぎると、逆に冷静になってしまうという理論だろう。
父はぽんぽんと私の頭を撫で、母も私の頭をご利益のある地蔵のように撫でつけている。いやこれ落ち着いていない、娘の頭を撫でることで、精神を安定させている。
「あの、アーレン伯爵、夫人、少しよろしいでしょうか?」
二人の憲兵隊がこちらに向かってきた。事情聴取だろう。さりげなく両親から離れつつ、もう一度ノクター夫人のほうを見る。伯爵をしきりになだめる様子は元気とは言い難いけれど、生きていることに変わりはない。
皆生きているし、夫人の甥は捕まった。実感とともに足から力が抜け、地面にへたり込みそうになると、寸前のところでなにかに支えられた。
「大丈夫?」
レイド・ノクターが私を支え、心配そうに顔を覗き込んできた。先ほど自分の父を見ていたような
「大丈夫です。ありがとうございます」
すぐに体勢を立て直して、彼への態度がそっけなさすぎたかと反省した。母親が殺されかけた子供に対する態度ではなかった。かといってどう接するべきなのかもわからない。元気づけようとしても、私の言葉で元気が出るわけがない。なんて声をかけるのが最善なんだろう。そもそも、最善の言葉があるのだろうか。言葉をかけないほうが正しいのでは……。私は彼に頭を下げると、そっとその場を離れ、ノクター伯爵のほう……、憲兵隊が現場検証を行っているほうへと向かい、状況を確認すべく耳を澄ませた。
「犯人は何日も前から計画していたようでして、その……、奥様の殺害計画を」
「ならばあの時、扉を開いていたら」
「おそらく無事では済まされなかったでしょうね……今日はもう遅いですし、後日御屋敷にお話しを伺いに行ってもよろしいでしょうか? その……奥様にも、お伺いしたいことがいくつか……」
「ああ……、妻が話せるようになれば……私の方は明日でもいい。協力は惜しまない」
「ありがとうございます。それでは失礼します」
ノクター伯爵は大分落ち着いてきたのか、憲兵隊の言葉に淡々と言葉を返していた。先ほどまで怒り狂い、甥を太鼓のように殴りつけていた姿はもうない。その様子を眺めていると、伯爵はぐるりとこちらを振り向いた。どうしよう、完全に目が合ってしまった。
「……えっと、失礼します」
「待ってくれ、話がある」
ごまかすと、ノクター伯爵は油汚れではなく不思議なものを見るような目を向けてきた。まずい、次の言葉は想像がつく。「どうして妻の甥が殺しに来ることを知っていた?」とか「なぜあの時扉を開けなかったのか?」とかだ。なんて答えればいいのか。「あなたたちの世界のことはなんでもわかってるんですよ」なんて答えられるわけがない。
「君は、どうして……」
「一度戻りましょう、夫人の加減も良くないでしょうし、子供たちもこの場に長くいないほうがいい。春といえども冷えますから」
いつの間にか後ろに立っていた父が、ノクター伯爵の言葉を
劇場から止まることなく走っていた馬車が、とうとう屋敷に到着した。辻馬車の御者が扉を開くのを見計らい、私は両親と共に降りた。アーレン家の屋敷から馬車が去っていくのを見届け、両親に向き直る。月明かりに照らされた二人は私を見て不思議そうに首を傾げた。私は頭を下げる。
「今日は、ごめんなさい」
父と、母。二人にはずいぶんと恥をかかせ、危険な目に遭わせた。十歳の少女の我儘の範囲から完全に外れている行いは、とうてい許されるものではない。さすがの両親も、今回の我儘は
「謝らなくていいんだよ、理由があったんだろう? でもこれから先、なにか怖いことが起こりそうになったらすぐに言うんだよ」
「え」
「私たちはミスティアを絶対に疑わないわ、あなたは私たちの宝物。なにがあっても、必ずあなたのことを信じるわ」
顔を上げると、二人は微笑んでいた。絶対に気になるはずなのに。聞き出したいはずなのに、私がこんな凶行に及んだ理由をいっさい聞くそぶりがない。そのうえで、信じると言ってくれている。
二人は大切そうに私を抱きしめた。咎めるどころか、慰めてくれている。あれだけ迷惑をかけた、私を。
「でも、私、迷惑をかけて……」
「当たり前でしょう、家族なんだから」
「迷惑だなんて、子供が親に気にすることじゃないんだよ。いつだってミスティアの好きなようにしていなさい」
二人の体温が、すごく温かい。その温度を感じるたびに申し訳なくて、それでいてあまりにも優しくて、安心した。
「ありがとう、お父さん、お母さん」
前世の両親も大切だ。それは変わらない。でも今世の両親は、この二人だ。大切な、大切な私の家族だ。
……だから、絶対、守らなくてはいけない。そのために、私は、未来を変える。
二人を抱きしめ返して、私は強く誓ったのだった。