悪の目覚めは突然に
今日は、私、ミスティア・アーレンの十歳の誕生日だ。
誕生日といっても夜は深まり今日も終わる。後はもう寝るだけだ。カチカチと秒針の音がする方に顔を向けると、大きな時計の影が見える。時計の最上部にはアーレン家の
両親は紋章を目にするたびに、私に対して「あなたは特別な子なの。私たちにとっても、皆にとってもね」と言ってくる。
祖先は貴族として在るだけではなく王家に騎士として仕え、武功を上げ続けたと母は語る。またある時は、神官を務めていたと父は語った。祖父母も似たようなものだ。
そして当の父はといえば、現在は薬の研究所や医療施設を経営、孤児院にも寄付をし、医療と福祉両方の分野で貢献をしている。
しかし結局のところ、私自身が王室の騎士や神官ではない。父のように巧みな経営術の才覚もなく、私に特筆した能力はないのだ。
そんな私の十歳の誕生日パーティーは、本人の平凡性に反して盛大に開かれた。
肉料理はもちろん、新鮮な魚をふんだんに使った料理の数々。見ているだけで
豪華
誕生日を祝われることは嬉しい。ただ、私は家族や身近な、屋敷で働いてくれている人たちと机を囲み、ケーキを食べるパーティーがいい。
でも、これは言ってはいけないことだ。言ってしまえば、両親の気持ちを踏みにじってしまう。
先週、両親に今月二百五十九回目の欲しい物を聞かれた際「二人が健康でいてくれたら」とあまりに無粋な返答をして泣かせたばかりだ。
「駄目だ……」
眠れる気配がなく、ベッドから離れた私は、カーテンと窓を開いた。季節は春ではあるものの肌に触れる夜風は冷たい。空には大きな月が浮かんでいて、月光に照らされた庭園を見下ろすと、まるでゲームのエフェクトのように樹木や花々が均等に並んでいた。庭師のフォレストが丁寧に管理してくれているおかげだろう。美しい庭園を眺め、ふと
「……エフェクト……ゲーム?」
自分でも、言葉の意味がわからない。エフェクトとはいったいなんのことだろう。最近、こんなことばかりだ。訳のわからない言葉が口から飛び出してくる。
戸惑っていると、窓枠できらりと光る物体に気づいた。窓枠に添えるように私の手鏡が置かれている。
たしか今朝方、身だしなみを確認している時に使っていた。父に呼ばれ、ここに置いてそのまま部屋を出てしまったのかもしれない。
手鏡を拾い上げ、割れているところはないか確認すると、私の顔が映り込んだ。顔が映っていないほうが恐ろしいはずなのに、言いようのない不安を感じた。
この顔は、私。アーレン家の娘、ミスティア・アーレンの顔で間違いないはずなのに。
「そう、ミスティア……」
名前を口にして、ずきりと頭が痛んだ。その痛みが合図だったかのように、音を伴った映像が頭を駆け巡っていく。
今まで見ていたもの、聴いたもの、感じたこと、そのすべてが鮮明に。
制服に身を包み学校へ行く私。家で妹と会話をする私。ベッドに寝ころび、ゲームをプレイする私。そしてゲーム画面に映る、ミスティア・アーレン。
今、私が握りしめている手鏡に映り込んでいるのは、ずっと画面越しに見ていた彼女の顔だ。
「私……ミスティアだ」
私は、まごうことなきミスティア・アーレン。それは間違いない。しかし私は、ミスティアであって、彼女ではない。だからこそ、絶望した。
「なんで、私が、ミスティアに……?」
ここが、乙女ゲームの世界だという、現実に。
鏡に映っているのは、やっぱりミスティア・アーレン。私だ。
昨日、これは夢だと無理やり眠りについたけれど、紛れもない現実だった。
どうやら私は、二度目の生をミスティア・アーレンとして受けたらしい。走馬灯のように駆け巡ったあの映像は、信じ難いけれど前世の記憶だ。昨日わからなかったゲーム、そしてエフェクトという単語の意味が今はっきりと理解できる。
平凡な家庭に生まれ育った父、平凡な家庭に生まれ育った母、そこから生まれた、極めて平凡な娘として生きていた私。
純度の高い平凡かつ非社交的に育った私には、社交的に育った妹がいて、平凡な四人暮らしをしていた。
私は特に山も谷もなく女子高生となり、ただ毎日学校に行って、バイトに行って、ゲームをして寝る。ありふれた日常を送っていた。でも、ある朝の通学中、目の前にトラックと、
私は
しかし平凡な私でも、咄嗟に子供を突き飛ばすことはできたのだ。
人生初の張り手、押し出し、決まり手。綺麗に決まった。子供は驚いた顔をしていた。トラックが近づいてきた事実さえなければ、私の犯行は通り魔なので仕方がない。人生初の取り組みに運を使い切った私はそのまま轢かれた。厳密にいえばぶつかって跳ね飛ばされ、地面に強く体を打ちつけた。
人生初の浮遊感を感じた直後の、激痛。運が悪かったのか、痛みは一瞬で終わらず、突き飛ばされた子供が無事である姿に安心し、全身の猛烈な痛み、熱、頭蓋骨の不快感で苦しみながら私の意識は途絶えた。
だからたぶん、そのまま死んだのだろうと思う。こうして今、別の人間として生きてしまっているし。
とにかく、私は自分が今までどう生き、そして死んだのかを昨夜思い出したのだ。
享年、十六歳。人間の平均寿命の観点から見れば、短い生涯である。
どおりで子供らしくないと言われるわけだ。だって、二回目の人生なのだから。いわば二周目。記憶はなかったといえども十六歳の人格は所持していたわけで、生きるにあたっての新鮮さは失われていると言ってもいいのかもしれない。
思い返すと、本当に平凡な人生だった。
だからこそゲームという世界に入り浸っていたのだ。堅実に、現実的に生きていたけれど、非凡な世界に憧れがないわけではない。ゲームの世界は夢がある。すべてが自由だ。剣や銃を振り回しても、倫理観に欠ける品種改良を繰り返し、農作物で
でも、この世界──きゅんらぶの世界を現実として生きることは、絶望だ。
育成、対戦、冒険もの、経営、ホラー、推理、この六つのジャンルしかプレイしていなかった私に、友人が新規開拓として貸してくれたゲーム、それが『きゅんきゅんらぶすくーる』だ。
ロゴは明るいポップ体。「きゅん」と「きゅん」の間には、女児向けアニメから出てきたような、可愛らしいピンクのハート、「らぶ」と「すくーる」の間には、鮮血のような
今思うと親切なロゴだ。精神面ばかりを気にしていると物理的な心臓、つまるところ命に関わりますよ、という警告表示なのだから。
舞台は近世と中世の混ざった世界。都合のいいところを吸い取り、複雑なところは曖昧化。深い知識がなくても雰囲気で楽しめる西洋的世界観だった。
貧しい家の主人公が貴族の集う学園に入学し、ひょんなことと称されながらも製作者の意図するとおりに、見目良し、性格に多少難のある、将来有望な男性キャラクターたちと出会い、相手の望む言葉を与えて次々陥落させ、社会的強者、富裕層との婚姻をゴールとするゲーム。
という説明を友人から受けたけれど、説明書に書かれているあらすじも、おおむねそのとおりであった。
このゲームを勧められた当時、いくら友人の勧めといえども私は一度断った。私は人付き合いが得意ではない。当然のように異性との交際経験もなければ、私の基本的な交友関係は、家族と極少数の友人のみ。社交性が欠落していることは明白だ。私が万が一事件を起こせば、クラスメイトはインタビューで「あまり記憶がないですね」と答えるか「ずっと机の下を見ていることが多くて……いつかやると思っていました」と答えるに違いない。
身内である妹にすら「あんたは人の気持ちがわからない」と再三注意されるほどだ。そんな人間がゲームといえど人間を攻略できるわけがない。貸してくれても感想は伝えられない、期待にはきっと応えられないと言った私に、友人は笑ってこう切り返した。
「これめちゃくちゃとんでもないやつだから絶対大丈夫だよ」
なにをもって大丈夫なのかまったくわからない返答。さらにいっさい具体的な説明もなく、「とりあえずやってみて、大丈夫だから」「安全だから」「皆やってるから」「すぐにわかるよ」と押し切られた。
今思い返せば、絶対やってはいけないものの勧め方である。
そして半ば押し切られるようにプレイすると、たしかにとんでもないゲームだったのだ。友人は、正しかった。
いわゆる攻略対象と呼ばれる、ヒロインである主人公が陥落させる男性キャラクターたちは、乙女ゲームをプレイしない私でも「あーよく聞くやつ」という感じだった。
優しくて紳士な王子様系同級生、勤勉な同級生、開放的な女性関係を持つ先輩、不良っぽい先生。漫画、ドラマなどで主人公とくっつく属性を集めたようなメンバー。キラキラ王子、クーデレ、チャラ男、ヤクザ教師と友人は称していた。
ちなみにキラキラ王子は厳密にいえば王子ではない。立ち振る舞いや見た目が王子っぽいということで、要するにあだ名だった。
私はプレイにあたり、一番無難そうな勤勉クーデレ同級生と幸せな結末を迎えられるよう進め、無事クリアした。正直内容はよく覚えていない。次に癖が強そうな開放的チャラ先輩を選択、そちらもハッピーエンドを迎えた、と思う。開放的な先輩の女性認識を更生させていた記憶だけで、内容はあまり覚えていない。
オラオラ先生は面倒見が良く、言葉遣いが粗暴なだけだった。内容の記憶はない。
私は最後に、王子様系同級生を攻略した。
それまで、とんでもない要素はいっさい見当たらなかったものの、「話が違う」と私は友人を張り倒すなどの
だから私は、油断しながら王子のストーリーに入った。でも、それが駄目だった。彼のルートこそ、修羅の道だったのだ。
キラキラ王子のストーリーのみ、プレイしているとライバルキャラクターが登場する。いわゆる、王子を取り合う相手だ。ちなみに彼の婚約者でもある。
その相手こそ、このゲームを、「とんでもないやつ」とするとんでもない女性……名は、ミスティア・アーレン。キャッチコピーは「悪逆非道を繰り返し、どんなことをしてでも愛を得ようとした最凶の令嬢」である。
なにが「最凶」かといえばその素行だ。ミスティアは攻撃性の化身、残酷の権化、悪の擬人化として、彼女にとっての恋敵──ヒロインである主人公をいじめ抜く。
その仕打ちは常軌を逸し、主人公の私物は当然のこと、関わった者も即排除。パーティーに主人公が現れたら素手でそのドレスを裂いていく。
海に行けば主人公を崖から落とし、山に行けば主人公を谷底へ落としてしまう。
なにより恐ろしいのは、ここまでの悪行は決して比喩ではなく、直喩というところだ。主人公は次のシーンでは無傷で全回復。特殊な訓練を受けているのか、もしくは戦闘兵器なのかと疑ってしまうが、そこは主人公だからだ。主人公が死ねばストーリーが進行せず世界が困る。
ミスティアがここまで派手に立ち回れば、その犯罪行為が白日の下に
そうして、周りの人間にすら手を出し始めたミスティアに、ついに堪忍袋の緒が切れた主人公は学期終了が迫った三月、三年の先輩の卒業パーティーの会場で、彼女の悪行を暴露して断罪する。今までの被害報告を発表するのだ。証拠付きで。
だが、ミスティアは改心することなく、パーティーから一週間ほど経った深夜、学園に主人公を呼び出し火を放って主人公を焼き殺そうとする。
だからこそ、ミスティアの末路はいつだって壮絶だ。投獄と死罪。自らの業を清算する結末で、キラキラ王子とミスティアが結ばれても、最終的に捕まる。
わかりやすい勧善懲悪。悪は必ず罰せられる。見ていて清々しい気持ちになる人も多いかもしれない。けれど自分の身に降りかかるのだ。全然良くない。投獄とは名ばかりの死刑待ちだ。家ともども一寸先は闇。闇は闇でも、深い深い地獄の底に落ちることが決定している。
どうして、私はミスティアになってしまったのだろう。
主人公ではなかっただけでもセーフと思えばいいのか。在学中に崖から落とされないだけましか。彼女の驚異的生存能力は人智を超えてはいるけれど、それはゲームの世界だからこそ。崖から落ちれば人は死ぬし、火を放たれても人は死ぬ。
こうして、誕生日の夜を超え次の日の朝を迎えても、気持ちがまったく整理できない。壊れた音楽再生機器のように、「なぜどうして」が繰り返し浮かんでくる。
「ミスティア様、御気分が優れませんか?」
美しい鈴の音のような声に、私の意識は再浮上した。専属侍女であるメロが、不安げにこちらの顔を覗き込んでいた。悩みすぎて彼女が部屋に入ってきたことにも気づかなかった。ノックされて、反射的に返事をしていたのだろう。
「もう少しお休みになられますか?」
切りそろえられた美しい弧を描くボブの銀髪が揺れ、
私の専属侍女であるメロは、幼いころから私をサポートしてくれている、たった一人の友人のような存在だ。私の身に危険が迫った時、身を
それにしても、ゲームのミスティアにこんなに可愛い侍女がいたなんて全然知らなかった。
ミスティアの関係者の立ち絵はゲームにはあまり出ていない。姿を知ることができるのは、ミスティアの命令によって主人公を暴行する使用人三名ほど。父と母はミスティアの「お父様に頼むわ」「お母様にお願いするわ」という台詞のみの登場だ。かといって、伯爵家の令嬢ならば侍女は当然いるはず。端折られていたのかもしれない。
メロを見ていると幸せな気持ちになれるのは、ゲームの補正だったり……いや、それはないか。彼女がただ天使なだけだろう。
「ちょっと頭が働かなくて」
「では、朝食の前に紅茶をお淹れしましょうか」
メロは素早くティーカップとソーサー、ポットを用意した。紅茶を淹れる姿でさえ絵になる存在、メロ。可愛い。大好き。基本的に私の部屋の家具はすべて黒く、棚やソファー、カーテンに差し色としてやや毒々しげな深紅が使われているから、彼女の存在はより映えて見える。
両親の選ぶ家具は基本的に赤と黒しかなく、屋敷もその二つの色調で統一されていることについて常々疑念を抱いていたけれど、悪役令嬢ミスティアの屋敷であるならば、納得だ。
それにしても、ミスティアちゃんじゃなくて、ミスティアくんとして産まれていたら、メロと結婚して幸せにできるのに。私は彼女の姿をじっと見つめ、はっとした。
一人娘の私が投獄されるということは、アーレン家が崩壊するも同然。愛らしさの擬人化と言ってもいいこのメロを、あろうことか路頭に迷わせることになってしまう。
ひやりと、背筋に冷たいものが伝った。駄目だ。現実逃避している場合ではない。メロを路頭に迷わせることがあれば、彼女は一瞬で悪人の
私が最悪の末路を辿ったならば、家族、メロ、使用人のみんな──周りの人も実害を被るのだ。なんとしてでも、なにをしてでも、投獄死罪は回避しなければならない。
まだ救いはある。生まれてから、特にゲームのミスティアのような行動はしていない。このまま過ごせば、罪に問われることはまずない。ミスティアの罪状に関わる主人公との出会いは、貴族学園に入学──十五歳の時だ。私は十歳。まだ五年の余裕がある。入学せず他国に留学したり、別の男性と婚約すればいいだけだ。
なぜなら、ミスティアはキラキラ王子の「婚約者」として登場した。しかし現在その彼と会ったこともなければ、名前を聞いたこともない。要は今から五年の間に婚約話が浮上するわけで、そんな話沈めてしまえばいいのだ。
大丈夫だと自分に言い聞かせるように
「……どうされましたか?」
「なんでもないよ、大丈夫。というか大丈夫にするから」
「もしかして……本日の婚約について、ですか?」
「え」
「レイド・ノクター様の屋敷へは、昼に出発する予定となっておりますが、遅らせますか?」
「……え、今日?」
「はい」
「……今日?」
「はい」
「今日なの?」
私の返答に、メロは「そうですよ」とやや困りながら返事をする。
彼女の言葉に、私は頭の中が真っ白になった。
なぜならば、今、メロの言った名前──レイド・ノクターは、ミスティアがその悪性をいかんなく発揮するルートの攻略対象、その人だからだ。