レンバルト王国で一、二を争うだいしょうの娘であるクロエ・レニは自らの進学理由を「人脈確保」といってはばからない。そのため、学友との交流を密にし、先輩、後輩のへだてなく茶会や勉強会などの集まりがあれば参加していた。

 今日は同学年の女子学生達が集まったお茶会である。お茶会と和やかな名称で呼んではいるが、実際は来月に迫った学年末試験の勉強会だった。そのため主催者は学年一の才女ではないかと名高いエルネスタと、数学的なセンスが飛びぬけているとうわさされているクロエを招いたのだろう。学内の中庭に面した食堂では、いくつかに分かれたテーブルに集まった学生がそれぞれ積極的に教えをうていた。

 同級生の一人が苦戦していた数学の証明問題の解説を終え一息つこうと皆にお茶が配られると、カップを手にしたエルネスタがおもむろに口を開いた。

「あの証明問題の切り込み方、さすがクロエさんですね。私が考えたものよりすっきりした式が導かれていて感動しました」

 学年一と言われる才女にめられて悪い気もせず、クロエはまあねと鼻を高くした。

「複雑な問題でもちょっと角度を変えて考えてみると視野が広がるものよ。でも、数学は苦手って言っていたけれど、文学史なんかは彼女の知識量にかなう気がしないわ。逆に私に手ほどきしてほしいくらい。得手不得手を補い合えるのがこういった勉強会のいいところね」

「そうですね。私もあまり詩の解釈は得意ではないので、機会をみておすすめの本を聞いてみようかしら」

 エルネスタも褒めるのであれば、きっと彼女の文学方面の知識は本物なのだろう。いい人材といい繋がりができそうだとクロエは満足してうなずいた。

 その表情が不思議だったのか、エルネスタが小さく首をかしげる。

「それにしても、クロエさんて面白い方ですね」

「何が?」

「それだけ数字や論証にお強ければ、大学で学ばずともご実家のお仕事で十分ご活躍できるでしょうに、と思って。しかも国で一、二を争うほど大きなお店であれば、日ごろ貴女がおっしゃっている人脈も十分あるのではないですか?」

 ふふん、とクロエはエルネスタの問いに胸を反らせた。

「実家の手伝いで終わるつもりがないからここにいるのよ。それに人脈はあればあるに越したことはないわ」

「ご実家のお手伝いで終わるつもりがない、とは?」

「あら、エルネスタ。貴女に言ったことなかったかしらね。私、自分の商会を立ち上げたいの。そのためにレニ商会だけではなく私個人の人脈を作りたいのよ。大学であれば街にいたのでは知り合いにくい貴族のご子息やお金持ちがいるでしょ。女子学生だって、私が持っていない知識を持った人もたくさんいるし、人材の宝庫じゃない?」

 なるほど、とエルネスタは頷いた。

「ご自身でご商売をしたいということなんですね。でもレニ商会といえば大きなおうちですし、そこのお嬢様がどうしてそんなことをお考えになるようになったんです?」

 それはね、と言いつつクロエはお茶でくちびるを湿らせた。

「実体験、かしらね。商売っていうのは人との繋がりが肝心なのよ」

 そういうと黒髪の美女は過去を懐かしむように視線を窓の外へと向けたのだった。



「いい加減にだまんなさいよ!」

 商売人の子どもは読み書きと計算くらいはできなければと言ったのは何代前の商工会会長だっただろうか。それを受け、商人たちが集まるよりあいじょでは、週に三回ほどではあるが引退したおおだなの店主を中心にした小さな子ども向けのならいかいが開催されていた。王都に店を構える商会の子ども達は七、八歳になると、親に尻を叩かれながら手習会に文字を習いに行くのである。

 その手習会からの帰り道、もうじき正午という頃合いに事件は起こった。

 朝一番より幾分人通りが減った市場の往来で、あとひと月ほどで九歳になるレニ商会の一人娘のクロエ・レニは、付き添いのねえやが止める間もなく手に持っていたかばんを目の前の少年に投げつけたのだ。

 鞄は相手の顔にまともに当たると、がしゃっと音を立てていしだたみの上に落ちる。中身は文字のおけいちょうと固い金属の鉛筆入れ。固い部分の攻撃力は高い。当てられた方の少年はクロエと変わらぬ年の頃だ。ちょうど固い部分が当たったのだろう。少年は鼻の上を押さえてうずくまった。

「ダニエル! 今度あたしを成金の子なんて言ったら、ただじゃ置かないわよ!」

「お、お嬢様!」

 二つほど年上の姉やはクロエの前に手を伸ばしていたが、その指先は空を切っていた。もちろん彼女はクロエが鞄を振りかぶったのを見て止めようとしていたのだが、それよりクロエの手が素早かったのだ。

「……ってぇな! おまえ、ぼしされたからって暴力かよ!」

 鼻をさすりながら立ち上がったダニエルと呼ばれた少年は、よほど痛かったのだろう。うっすらと涙目になっている。

 それでもやられっぱなしという訳にもいかないらしい。まゆを上げてクロエを指さし、彼女より大きな声で怒鳴った。

「暴力振るわれるようなこと言うあんたが悪いんでしょ!」

「うっせえ! この成金! おまえんちなんかきたねぇ手でのし上がったって、みんなが言ってるんだからな!」

 ただじゃ置かないと言ったクロエの気持ちを逆なでするように、ダニエルはまた「成金」と言い放つ。それを聞いた黒髪の少女の顔は、瞬時に赤く染まった。

 言うまでもないが、これはしゅうではなく怒りのためである。

「言ったわね!」

 そう言うが早いか、クロエの足は石畳を蹴った。まるで怒った牛のように頭から自分と背丈の変わらない少年の腹に突っ込み、転ばせたところへ馬乗りになる。いつの間にかクロエ達の周りに集まっていた野次馬から、おおと歓声が上がった。

「うわああ!」

「二度とそんな口がきけないようにしてやるわ! 最近うちの店のお客の数があんたのとこの店より多いからって、八つ当たりしないでくれる!?

「八つ当たりじゃねえわ、このブス!」

「ブスじゃないわよ、馬鹿!」

 クロエは小さな手を拳にしてダニエルの頭を殴りつけた。少年の方も負けじと足をバタつかせながらクロエの肩やほおを叩き始める。幼い子供たちが取っ組み合いのけんかをしているのを、周りの野次馬がやんややんやとはやし立てた。

「お嬢様! ちょっと! おやめくださいってば!」

「放しなさいよ! いい加減こっちも頭に来てるんだから!」

「だめです! だめですってお嬢様ぁぁぁ!」

 たまらず飛び出した姉やは、クロエの腕にしがみ付きながら泣き出してしまった。



 白昼堂々、人目の多い市場の往来で行われた取っ組み合いのおおげん

 結局クロエとダニエルは市場にいたそれぞれの店のわかしゅうに力ずくで引き離された。お互いの店の者はそれぞれにしゃくをしながら子供たちを引きるように店に帰るや否や、主に報告をしたのだった。

「またお前はオズバルト商会の家の子と喧嘩をしたのかい? あんなに仲が良かったというのに」

 夕食の卓につくと、レニの父親はおっとりとした口調で彼女をたしなめた。

「いくつの頃のことを言ってるのよ、お父様ったら」

「いくつの頃って、それほど昔のことではないだろう?」

「あたし、もうじき九歳になるのよ。ダニエルと遊んでたのなんて、七歳になるかどうかの頃までよ」

 うーん、と父親は微笑みながら首をひねる。それを見てクロエはまた少しいらった。七歳と九歳などいくらも違わないと思うのは大人の感じ方で、当人たちにとって二年というのは非常に長い月日なのだ。

「とにかく、あいつの方からしつこく悪口言ってきたのだから、あたしは謝らないわよ。絶交よ、絶交!」

「絶交とは、それは穏やかじゃないねぇ。悪口とは、一体何を言われたんだい?」

「それは……!」

 クロエは返答に詰まった。

 ダニエルの言う成金という意味は知っている。それが実は自分のことを言われているのではなく、両親や店のことを言われているということも分かっていたからだ。

 クロエの家はレンバルト王国ではまだまだ歴史の浅い新興商会だった。国内における紙や木炭、木材の流通を主に担っていた小さな店が、祖父母の代で石炭や金属にまで手を広げ一気に王都でも中堅どころとなった家だ。一人娘として生まれた母は店の手伝いをしながら資産家である父と結婚し、その資産を元手にさらに商売を広げた。

 おかげで今やレニ商会は王都の中でもそれなりに手広く、そしてりよく商売をしている家とみなされている。おっとり型の父親が使用人や従業員たちに給与をしっかり支払ったり店を任せたりしているため、働きやすいと城下でも評判が高いという。

 しかしそんな新興商会には逆風もあった。

 労働者になる若者がこぞってレニ商会で働きたがったり、取引先に見積もりを出したらレニ商会に乗り換えられたりなど、古くからある大商家にとっては面白くないことが続いたせいだろう。寄り合いで陰口を叩かれることも増えたと母がっているのをクロエは聞いてしまっていたのだ。

 ダニエルの家であるオズバルト商会は古参の大商家で、レニ商会をライバル視している寄り合い衆の一角であった。

「と、とにかくあたしを怒らせるような悪口よ……だから絶対あたし、許さないんだから」

 慌てて言葉をつないだクロエに、母親はそれまで見ていた丸がいっぱいついたお稽古帳をぱたりと音を立てて閉じた。

「クロエ、ダニエルに何を言われたって言うの? あなた、すぐカッとなるけれど、その悪口は我慢がならないものだったの?」

 商売に関しては祖父母をしのぐと言われるほどやり手の母親が、厳しい目をしてクロエに問いただした。穏やかな父では答えが引き出せないと思ったのだろう。しかし少女はぐっと唇をんでうつむいた。

 ──だって、これを言ったらお父様もお母様も悲しませてしまうわ。

 クロエが口ごもっていると、母親はため息をつきながら首を横に振った。

「ねえクロエ。お母様はあなたに人との繋がりを自分から切ってしまう子になって欲しくないわ。あなたは賢いし、何でも自分一人でできてしまうと思っているのかもしれないけれど」

 一人娘に対し優しくさとすように語る父親とは違い、母の語り口は厳しい。ほんの少しだけ突き放すような物言いになるのは、同性でかつて彼女と同じ立場だったからこそのものだろうか。しかしその突き放され方にあせったクロエは、でもと口を開いた。

「先に悪口を言ったのはダニエルの方なのよ。あいつが言わなければこっちだって絶交だなんて言わないのに」

「相手がどうだとかは関係ないわ。売り言葉に買い言葉ということもあるでしょう。そのたびに関係を切ってしまっては、いざあなたが困ったときに周りに誰もいなくなってしまうわよ」

「でも……」

「それに、結局先に手を出したのはあなたでしょう? 暴力で相手をねじ伏せようとするなんて一番良くないことよ。明日はダニエルに謝っていらっしゃい」

 ええ、とクロエは眉尻を下げた。とっに父親を見るが、彼も同意見なのだろう。うんうんと小さく頷いている。

 膝に乗せた小さな握り拳にぎゅうっと力が入った。うっすらと視界がにじみ始める。唇に力を込めて口をへの字に曲げていないと、両目からぼろぼろと涙がこぼれてしまいそうだった。

 でも意に沿わない説教をされてべそをかくなど彼女のプライドが許さない。ずるっと鼻をすするとクロエは椅子を蹴って立ち上がった。

「クロエ?」

 優しいがやはりどこか窘める響きで父親が尋ねたが、クロエはそれには答えずに食堂を飛び出した。食事もとらずに食卓から立つなどというお行儀の悪いことは初めてだ。あとでしかられるだろうけれど、あのまま父母と一緒にいたくなかったのだ。

 給仕をしていた子守のばあやの制止を振り切り自室に駆け込むと、クロエは着の身着のままベッドにもぐりこんだ。

 クロエは自分の家をおとしめる奴と戦ったつもりだった。確かにいくら子どもだからと言って暴力は良くなかった。あれはやりすぎた。その点だけは褒められることではないだろう。しかし父と母、そして家の名誉を守るために戦ったというのに、敵に謝れと言う母の理屈が理解できなかったのだ。

 ダニエルの家より大きくなったレニ商会にしっした連中をやり込めて、何が悪いというのだろう。店が大きくなったのも、周りの嫉妬を買ったのも自分のせいではないというのに、面と向かって悪口を言われた自分の気持ちをどうしたらよかったというのだろう。

「……っぐ……ふ、ぇぇ……」

 ぐるぐると毛布にくるまったクロエは、昼のやり取りを思い出しながら声を殺して涙をこぼしたのだった。



 翌朝、クロエはまだぽってりとれたままのまぶたを無理やりこじ開けて、父母と一緒に食堂で朝食を摂っていた。

 だんまりを決め込んだ娘の強情さを知っている両親は、あえて彼女の態度に触れないことにしたのだろう。いつもはゆったりと会話をしながら食後のお茶を楽しむ家族であったが、この日ばかりは静かすぎるほど静かな空気の中で食器同士が触れ合う硬質な音だけが耳障りな音を立てていた。

 しかしそんな静寂は突然破られた。足音も荒く一人の従業員の青年が食堂に飛び込んできたのだ。

 普段であれば母屋である食堂へ店の者は足を踏み入れない。それなのにわざわざ従業員がやってきたということに父と母は敏感に反応した。

「何かあったのかい?」

 幾分声を硬くした父親が尋ねると、従業員の青年は手に持った書簡を差し出した。

「オズバルト商会に勤めている知り合いから、緊急の問い合わせです。明後日までに木炭をこれだけ用意できるか、と」

「なんだって?」

 父と母は従業員から書簡を受け取って中をあらためると、そろって眉根を寄せた。

ばくだいな量だね……政府、いや城に納める資材かい?」

「だと思われます。不手際で明後日までに揃う見通しが立たないということで、なんとかご助力いただけないかということでした」

「まあ……」

 母親はそうつぶやくと天を仰いだ。思考をする際の母のくせである。クロエは行儀が悪いと知りつつも、三人のすきから顔を突っ込みその書簡を覗き見る。署名は知らない人のものだったが、紙面に押されている刻印は確かにオズバルト商会、つまりダニエルの家のものだ。

「これ、クロエ。子どもが首を突っ込む話じゃないよ」

 優しく父に窘められるが、クロエは構わず書簡の中央を指さした。

「ここ、木炭を倉庫五つ分って書いてあるの?」

「そうだよ。うちの倉庫にもないわけじゃないが、それにしたって倉庫一つ分にもなりゃしない。集めるとなると、これは骨が折れるねえ」

「これが揃わないと、ダニエルの家はどうなるの?」

「ううん、どうなるかな。政府からの信用がなくなると、商売にはかなり痛手だろうね。悪くすると、廃業ってことにも」

 廃業と聞いたクロエの顔は一瞬輝き、そしてすぐさまくもった。ダニエルの生意気な顔が脳裏をかすめたのだ。

 オズバルト商会がつぶれればもうダニエルに成金だなんだと悪口を言われることもない。それどころか手習会で会うこともなくなるだろう。レニ商会としても競合する店がなくなれば、それだけまた商売を広げられる。いいことずくめな気がしたのに、それを喜ぶ自分がなんだか嫌になるほど情けなく感じてしまったのだ。

「ご当主。これはチャンスですよ。うちからこの量を納品すれば、ようたしの看板をこちらに移してもらえるかもしれません」

 従業員の言葉にクロエはぎくりと身を固くした。なんてことを言うのだろう。しかしついさっき、一瞬同じことを思ってしまったことが彼女の口を重くする。

 どうするんだろう、とクロエがそっと父母を見上げると、父はあごに指を這わせ思案するように頷いている。母はまだ天を仰いだままだ。しかしその唇は何事かを呟いているように、小さく動き続けている。

 どうなるんだろう、ダニエルは、ダニエルの家は。

 レニ商会が政府への納品という仕事を奪ってしまえば、彼の家は王都で仕事ができなくなるかもしれない。絶交、という言葉を思い出したクロエの肩が小さく震えた。

「そうだねぇ。うちはもともと木炭を取り扱っているから、王都内外の業者とも付き合いがあるけれど」

「まずは大小問わず、取引業者に連絡を入れましょう」

 断言を避けるような父親の言葉にかぶせるように、母親が宣言した。

「私と夫で依頼の書簡を書きます。あなたはこれから店に行って、お使いに行ける人を選んでちょうだい。王都だけじゃなく、近いところにあるお貴族さんたちの自治領にいる業者さんにもいってもらうから馬車の準備も。急いで準備してちょうだい」

 こうと決めればやり手の母は素早かった。きびきびとした指示を受けた従業員の青年は、威勢良く返事をするときびすを返して食堂を飛び出していく。

「さ、いそがしくなるわ。今日中に近場の木炭を買い占めるつもりで行くわよ」

 それはどういうことだろう。レニ商会が近隣の木炭を買い占めてしまえばほかの店では一時的に取扱いができなくなる。ダニエルの家に木炭を渡さずに廃業させるということだろうか。クロエはぺたりとその場にへたり込んだ。

「お、お母様……?」

「大丈夫よ、クロエ。悪いようにはしないわ。お父様とお母様に任せておきなさい」

 そう言うと、母はクロエの肩をポンポンと叩いたのだった。



 それから店は上へ下への大騒ぎとなった。

 父母の手によってとうの勢いで作成された書簡をもった従業員が一斉に店を飛び出していったのだ。

 次々に店先から飛び出していく従業員たちの背を見送りながら、クロエは必死に耳をそばだてた。父や母が話し合っている内容、従業員に指示を出したり報告されたりする言葉、数字を読み上げる声など、一言も聞きらすまいと聞き耳を立て、そして聞こえた内容を頭の中で組み立てる。

 どうやら母や本当に王都中の店に木炭を融通してもらえるよう依頼を進めているらしい。父のほうは馬車を用意した従業員に王都外の業者へ書簡を届けるように指示を出し続けている。こちらも知人の伝手を頼って木炭を王都に運んでほしいという内容だ。

 国中の木炭を買い付ける気だろうかとクロエが心配していると、昼を過ぎたあたりからお使いに出ていた従業員達が続々と荷車を引いて戻ってきた。どの荷車も山盛りの木炭や木箱を積んでいる。

「旦那様! コルティス伯爵夫人よりお言伝をお預かりしてきました。倉庫について貸し出して下さるそうです」

「さすが伯爵夫人、ありがたいものだね。今届いているものをうちの倉庫に詰めたら、次はそちらの倉庫に入れさせてもらっておくれ」

「承知しました!」

「奥様! グラウディオさんから木炭の追加が届いてます! どうやらオズバルトの連中、値段を聞いて渋ったらしいですよ。こちらも通常の五割増しで吹っ掛けられましたが……」

「緊急事態よ。割増料金は仕方ないわ。伝票は支払に回しておいて!」

 仕入れ値など気にしない、という母の豪胆さにクロエは開いた口がふさがらなかった。

 幼い少女であっても、普段より高い金額で仕入れたらその分だけ高値で売らなければ利益が出ないことくらい分かる。買い占めるだけ買い占めて、それを木炭が集まらないと言って困っているダニエルの父親に売りつけるのだろうか。だとするとダニエルの家は余計に困るのではないか、そんなことを考えながらもクロエは父母の仕事ぶりをじっと見つめ続けた。

 すると、入り乱れる情報を帳簿に記載し続ける母の顔が一瞬曇った。

「やっぱり時期が良くないかしら。このままだと目標の量より少なくなるかもしれないわ」

「うちの店の在庫を入れてもかい?」

「ええ。まあ、ちょっと心配という程度だけれど。どうしても足りなければ、うちの備蓄を出すつもりで……」

 これだけ買い付けてもまだ足りないというのだろうか。ダニエルの顔を思い出し、お尻の据わりが悪くなったクロエはもぞもぞと体を動かしながら父母の顔を見上げた。視線に気づいたのか、父がクロエに微笑んで頷いた。

 その時だ。

 奥様、と若い従業員が執務室の扉を開けて駆け込んできた。手にはくしゃくしゃに折りたたまれた手紙のような、帳面の切れ端のようなものを握っている。

「どうしたの?」

 母が尋ねると、従業員は荒い息を吐きながらその手に持った紙を差し出した。

「噂を聞いたと言ってウーゴって方から連絡があったそうです。自分のところに在庫がいくらかあるから使ってくれと」

 従業員が口にした「ウーゴ」という名を聞くと、母の顔がぱあっと輝いた。

「まあ、懐かしい。木炭職人のウーゴさんから? 父の代にお付き合いがあった業者さんよ。引退したと聞いていたけれど。代金は言い値でとお伝えしておいてちょうだい。ウーゴさんの木炭なら質はいいし、ちょっとの量でも助けてくれるなんてありがたいわ」

 これなら、と父と母が目配せをして頷き合う。買い付けの目途が立ったということなのだろうか。まだ不安でそわそわしたままであったが、クロエは二人の顔を見比べながら大人しく腰を下ろしたのだった。

 それからも執務室には入れ代わり立ち代わり、従業員や使用人が出入りして言伝や伝票を置いていった。みるみるうちにその山は高くなっていくが、それに比例するように父母の顔が明るくなっていくのが印象的だった。

 日が沈むころになると出払っていた従業員があらかた帰ってきたのか、執務室への人の出入りも落ち着きを見せた。部屋の隅で膝を抱えながら話を聞いていたクロエは頭の中で一生懸命計算をしていた。細かい数字は母の帳面を見なければ分からないが、聞き取れた木炭の量は少なくともレニ商会の倉庫とコルティス伯爵夫人の倉庫を満杯にしてまだ余るほどのはずだ。

 それを父母はどうするつもりだろう。城に納めに行ってしまうのだろうか。不安な気持ちのままクロエが母を見つめていると、ひっきりなしに帳面に数字を書き付けていた母は細い溜息をついて満面の笑みを浮かべた。

「どうだい?」

「倉庫六つ分は集まったわね。急ぎだったせいで全部合わせるといつもの三割増しほどかかったけど」

「そりゃあいい。意外と安かったね」

「そうね。古い付き合いのところは大体出してくれたわ」

 父母は二人で顔を見合わせ、くすくすと楽しげに笑い合った。

「さて、あなた」

 ひとしきり笑い合うと、母は窓の外へ顎をしゃくった。店の外は日が暮れる時間だというのに人だかりができている。朝から大量に木炭を買い付けているレニ商会に、みんな何事が起きたのかと見物に来ているらしい。

 クロエがそっと窓の下を覗くと、そこにはダニエルの父親が太っちょのスーツ姿とは不似合な青い顔をして野次馬に交ざっているのが見えた。

「表にいらっしゃるオズバルトのご主人と商談よ」

「そうだね、行こうか。クロエもおいで」

 気になるだろう、と父親はほほ笑みながらクロエに手を差し出した。普段は仕事と家庭を切り離そうとしている父にしては珍しい。母親を見れば同じようにほほ笑んでいる。二人とも、クロエが不安がっているのを分かって傍で仕事を見せてくれていたのだ。それに気が付いたクロエは、こくりと頷いて父親の手を取った。



 レニ夫妻が店の外に出ていくと、野次馬からはわあっと歓声が上がった。その中にはどうしたんだと尋ねる声もあれば、買い占めて値段を釣り上げるつもりかと責める声もある。

 大人達の熱気を浴びたクロエは少し小さくなりながら、それでも結果を見届けたくて父の手をぎゅっと握りしめた。

「やあやあ、オズバルトのご主人。顔色がお悪いようですが、どうかなされましたかな?」

 父親が人だかりの中からダニエルの父親を見つけると、鷹揚に手を振りながら近づいた。相手はぎょっとしたように目を見開いたと思うと、すぐさま肩を落としてうなれてしまった。

「レニの……これは、この大量の木炭はいったい……?」

 本来であれば自分が集め、明日になったら城に納めるはずの木炭だったと思ったのだろう。巨大な商機を失ったことで廃業の危機と思っているのか、ダニエルの父親の声はかすれて震えている。

 しかしクロエの父親はそれに対しては何も言わず、背後の倉庫を振り返って困ったように眉を下げた。

「おお、これは少し買いすぎてしまいましてなぁ。そうだ、オズバルトさん。よかったらこちらの木炭を買ってくださいませんか? このままでは倉庫代も馬鹿にならない」

 どうですか、とうそぶく父にクロエすら呆気にとられていると、ダニエルの父親はもっと驚いたのだろう。それと同時に顔を真っ赤にして怒りをあらわにした。

「……は? き、貴様、うちに吹っかける気で……!」

「とんでもない。うちが倉庫の容量を考えずに間違えて買い付けてしまったのですから。街でも大きな倉庫をお持ちのオズバルトさんに、そうですね、倉庫五杯分をこの時期の木炭のおろしにてお引き受けいただけないでしょうか」

「……お、お父様?」

 朝から買い付けに走り回って集めた木炭を、しかも割増料金をかけて買ったものを、卸値で売るということにクロエは目を丸くした。それは店から顔を出していた従業員達も、一連の騒ぎを見ていた見物人も同じ気持ちだったようで、一斉にみんなの視線がレニ商会の主に向けられた。

 注目を浴びている当の本人はけろりとした様子でひげをしごいている。一歩後ろに立つ母も、周りの目などどこ吹く風と言った様子だ。

「お、卸値で買えだと……?」

 驚愕の面持ちでダニエルの父親が尋ねるとクロエの父は大きく頷いてみせた。母親がさっと二人の間に一枚の紙切れを差し出すと、ダニエルの父親はますます目を見開いてクロエの父母の顔を代わる代わる凝視する。そして、がくりと膝をついた。

「……すまない。恩に、着る……」

 絞り出すような声で礼を言うダニエルの父親に対し、同じように膝をついたクロエの父親が手を差し伸べた。

「なんのための寄り合いですか。困ったときはお互い様ですよ。次の機会にはうちが助けてもらうことになるかもしれませんしな」

「ありがとう、レニさん……」

「どういたしまして。さ、オズバルトさんとこの荷車も総動員して、一気に城へ運んでしまいましょう」

 ああ、と握手を交わした二人が立ち上がると、見物人の中には状況を把握した者もいたらしくあたりからは再び喝采が上がった。二人の父親はそれらに手を振ってあいさつをすると、倉庫に横付けされている荷車と従業員達に指示を出しに向かったのだった。



 その後、レニ商会が自ら損をこうむってオズバルト商会の危機を救ったという噂はまたたく間に王都の商工会に広がった。その結果レニ商会の評判はまた高まり、このところ商売は右肩上がりに業績が伸びているらしい。

 近隣からかき集めた木炭はいずれも父母の古い知り合いや長い付き合いの業者から買い付けたものだった。人脈を大切にし、小さな店や業者とも変わらず取引を続けているレニ商会だからこその荒業であったと言える。無理を言うのだからと値段に糸目を付けなかったという話も含め、その筋から商会の義理堅さが伝わり取引希望の業者が増えたことも一因である。

 そしてクロエはこの件以降、ダニエルと喧嘩をすることがなくなった。

 手習会では率先してダニエルの文字の勉強をみてやったり、数の数え方が分からない子に率先して教えてやったりするようになった。何度かクロエがダニエルに字の書き方を教えてやると、目に見えて上達するようになったせいか、ダニエルの方もそれ以降クロエをからかうことが激減した。

「お前、いいやつだな。この間、お稽古帳を先生に見せたら全部丸になったよ」

 すっかり仲直りしたダニエルと手習会の帰り道に大通りを歩いていたクロエは、鞄を背負いなおしてにやりと笑ってみせた。

「当たり前でしょ。このあたしが教えてあげてるんだから。その代わりあんた、あたしにあんたの友達紹介しなさいよ」

「友達? いいけど、なんで?」

 不思議そうに尋ねるダニエルに、クロエは胸を張って答えた。

「人脈を作るのよ。あたし、将来は自分の店を作って商売をしたいの──」



「──ってことがあってね。父母の商売のやり方を目の当たりにして、なるほど人の繋がりっていうのは大事なものなのだわと思ったわけ」

 話し終えたクロエはまたカップに口を付けた。珍しく自分語りをしてしまったのが何だか照れ臭いし、そう思うと余計に口の中が乾いたような気がしたのだ。

 聞き終えたエルネスタは話の内容にピンと来ているのか来ていないのか、ちょっと呆けたような表情でクロエを見つめている。倉庫や取引の規模など、実家があまり裕福ではないと聞いている男爵令嬢には伝わっていないのかもしれない。

 改めてどう説明したら伝わるかしらとクロエが口を開こうとすると、エルネスタは手に持ったカップをテーブルに戻しながら辺りを見渡し、口元に手を当ててそうっとクロエにささやいた。

「……クロエさん、貴女、男の子と喧嘩をしていたの?」

「……注目するとこ、そこ?」

 だって、と言葉を濁すエルネスタにクロエは呆れた。

「街の子なんてそんなもんよ。とはいえ、まあちょっとあの時はやりすぎたと思ってるけど」

「使用人の子に同い年の男の子がいなかったから感覚がよくわからなくてごめんなさい。でも今のお話、面白かったです。ご両親は随分と思い切ったことをされたんですね」

「そうね。それもこれも全部人付き合いがあってこそ、だけれど」

 あの日の父母の背中を思い出しながら、クロエはふふふと含み笑いを漏らす。

 木炭一つとっても、作るのも売るのも、そして情報を回すのも人である。それを幼いころに学べたことは大きな経験であるとクロエは思っている。そんな経験をさせてくれた父母は、クロエが自分の店を作るために人脈を広げたいから大学へ行きたいと言ったとき満足そうに送り出してくれた。

「ということで、貴女も私の大切な人脈の一人よ、エルネスタ。卒業して貴女が偉くなっても連絡を取り合いましょ?」

 そう言って片方の口角を持ち上げてみせると、エルネスタは「まあ」と驚いたように一声漏らし、そして笑ったのだった。