フィデルは困惑の極致にいた。

 彼は常日頃から高貴な身分であるヴォルフザイン公爵の側近として冷静かつ沈着たれと自身に課しており、初等学校前から続く主従関係に恥じることなく仕事に従事してきた。──と思っていたし、これからもそうするつもりだった。

 主も頭が切れ、そして高貴な身分に慢心することなく自身の研鑽に励む、自分が仕えるに値する人物であると信じて今までやってきた。理不尽なことは言わず、早くに父母を亡くして最年少で爵位を賜ったというのにそれを鼻にかけることもない。屋敷の使用人にも十分目配りをしている公爵は、フィデルにとって自慢の主である。

 この関係は初等学校入学直前から、十年近くたった今も、そしてこの先も一生続くもののはずだった。

「本気で言っているのか、ユリウス」

「何か問題でも?」

「問題……」

 大ありだろう、と言いたいがその実、取り立てて問題になることなどない。ただ自身が納得できない、それだけのことだ。

 二人きりの執務室。公爵は執務机に向かい、ぱらぱらと領地に関する報告書をめくりながらペンを取った。いつもなら報告書に決裁のサインをする間その内容についての何かしらの討論を持ち掛けられるのだが、今日の公爵は紙面に目を落としたままだ。

 長い付き合いだ。何か企んでいることは分かる。公爵の白々しい態度に苛立ったフィデルは、執務机に両手をついて身を乗り出した。

「先代も先々代もあまり付き合いを持っていなかったヅィックラー男爵家の令嬢について調べろなんて、しかも極秘にって、一体どういうことなのか俺には説明くらいあってもいいだろう?」

「俺が知りたいからっていうのは、理由にならないのか?」

 ぞんざいな口をきいたところで罰せられることもない間柄の主が、書類にペンを走らせたままフィデルの方を見ずに答えた。

「主のご希望を叶えるのが従僕の仕事でございますよ、閣下。しかし仕事の目的があいまいでは得られる結果に大きな差が生まれないとも限りません」

 わざと慇懃な口ぶりで返すが、公爵はふんっと鼻を鳴らすだけだ。

「付き合いと言えば先日あった新年の祝賀会で男爵に会ったし、挨拶もした。これで知らん仲ではないぞ?」

「お前……下手にそんな動きを見せたら勘違いする奴らも出てくるだろう」

 フィデルの主は見目麗しく、高等学校を卒業し爵位を賜ってからというものあからさまに縁談の数が増えていた。公爵自身は妹が成長し王子に嫁ぐまでは独り身を貫くつもりで、どの話についてもはぐらかしたりやんわり断ったりしているが、一人の令嬢に興味を示したとあればあらぬ噂が立つだろう。

 大切な幼馴染で、友人で、そして有能な主である公爵に好きな女ができたのなら応援してやりたい。が、それも公爵家や伯爵家、あるいはよその国の王族など高貴な女に限る。男爵家の、しかも小さな領地しか持たない木っ端貴族の娘などは論外で、噂にすらなって欲しくないのが本音である。

 しかしそれでも好いたというのであれば協力は惜しまないくらいの忠誠心はあった。それを疑っているのか、それとも何かほかの思惑があるのか。そうであってもなくても、何でもいいから相談してほしかった。公爵の分身ともいえるはずの自分に秘密にしていることがある様子が気に入らない。

 あ、それとも何か。その木っ端男爵の娘から言い寄られて困っているということか。だとすればなんと無礼なことだろう。身分違いも甚だしい。地位か、財産かを狙ってくる卑しい女なのであれば、どんな手段を使ってでも排除しなければいけない。そんな女に主が興味を持つことすら腹立たしい。

 フィデルは公爵が見ていないのをいいことに、むすっとしながら唇を尖らせた。

「だからお前に命じているんじゃないか。しかも内密に」

「だが……」

「だが、なんだ? 公爵の従僕の仕事ぶりはそんなに雑なのかな?」

「ざ、雑に仕上げた仕事などお見せしたことはありませんね」

「でもこの仕事には自信がない、そう言いたいのか?」

 ペンを止めて公爵がフィデルを見上げた。売り言葉に買い言葉である。挑戦的な瞳はこちらを煽っているとはわかっていても、その奥にある信頼には応える以外の選択肢を持たないフィデルである。せいぜい小さな舌打ちで抵抗するくらいしか術がない。

「どうやら男爵令嬢は王立大学に在籍しているらしい」

「大学に? なんでそんなところに男爵令嬢が?」

「それを調べるのがお前の仕事だ。できるな?」

「……承知しました」

 従僕はそう言って苦々しく顔を歪めたのだった。


 王立学校は随時見学者を受け入れているため、卒業生でもあるフィデルが大学に入り込むに何の苦もなかった。たまの休みに母校を訪れるフリをして門をくぐった従僕は、胸に懐かしい思い出が蘇るのを感じた。

 彼が王立学校に通っていたのは初等学校と高等学校の時分である。主であるユリウスと最後に机を並べて学んだのは三年ほど前か。今でこそ主従の線引きを(たまに崩れるが)きっちりと引いているフィデルだったが、同級生だったころはもっと砕けた間柄だったのを思い出すとますますそれが懐かしい。

 あの頃は隠し事などなく、お互いに競い合いながら学業に励んでいたものだ。どの教科もまんべんなくできる公爵に比べて、フィデル自身は体を使った教科と歴史や地理という教科が得意だった。総合では全くかなわない成績ではあったが、一度だけ歴史で満点を取った時は次点の主が心底悔しそうにしていたっけ。

 そんなことを思いながら学長室を目指し大学の敷地に入ると、敷地内の違和感にフィデルは足を止めた。自分が高等学校に行っていたときに見えていた景色とは華やかさが違う。なぜか、とあたりを観察するとその原因はすぐに知れた。

「……女子学生の数が増えたんだ」

 フィデルが高等学校に在籍していた時よりずいぶんと女子学生が多い。割合としてはまだ男子学生の数が圧倒的に多いが、周りを見渡すと全て男子という状況だった頃に比べれば大きな変化である。特に大学に入る女子は成年に近いため余計に華やかだ。

 学長室への道すがら、中庭に向かう女子学生の一団とすれ違った。艶のある黒髪の少女もいれば、栗色の髪をなびかせている少女もいる。どの女子学生も理知的で意欲的な表情をしている。

 この中の誰かがヅィックラー家の令嬢だろうか。そう思ってつい振り返ったフィデルの鼻に、風に乗って運ばれてきた甘い香りが届く。

 ──いかん。仕事中だ。

 従僕は呆けそうになってしまっている自分に気が付き、拳でわき腹を殴る。じいんと響く痛みに正気を取り戻した気分になるが、彼女たちの後ろ姿はまだ脳裏に焼き付いている。

 年若い女子の魅力にまんまと取り込まれたまま、ぼんやりと石畳の通路を歩いていたせいだろう。がつっとつま先に盛りあがた石畳が引っかかり、フィデルの身体は大きく前に倒れ込んだ。

 咄嗟に足を出して踏みとどまろうとしたが崩れきった態勢ではどうにもならない。それでも抱えた学長への土産だけは庇おうとした結果、したたかに肘と膝を石畳に打ち付けることになってしまった。

「っつう……」

 硬い石のタイルの上でフィデルは顔をしかめた。抱え込んだ土産の箱は無事だったが、シャツの肘部分が少し破れてその隙間から血がにじんでいるのが見える。

 ──参ったな、これでは穢れを学長室に運んでしまう。

 出直すしかないか、とフィデルは痛む膝を庇いながら立ち上がった。

「大丈夫ですか?」

 不意に背後から声がかかった。先程の女子学生が戻って来たのか、と振り返るとごく薄い金色、いや違う、銀色の髪をぎゅうぎゅうにひっつめたおだんご頭の眼鏡をかけた少女が眉をひそめてこちらを見ていたのだ。

 転んだところを見られた気恥ずかしさから答えを躊躇していると、少女は眼鏡の奥の目をフィデルの頭のてっぺんから足の先まで舐めるように動かした。そして肘に目を止めると、ポケットから白い布を取り出した。

「お怪我されているようでしたらこちらの布をお使いください。血が付いた布はご自宅で火にくべてもらえば大丈夫です。場は清めておきますし、ご心配でしたらここで消毒もできますよ?」

「は? え?」

 突然のことにフィデルは混乱し、言葉にならない声を上げた。しかし少女は血を見ても取り乱した様子もなく、担いでいた鞄の中から香水が入っていそうな小瓶を取り出している。かと思うとさっと小瓶の中の液体をフィデルが転んで肘をぶつけたあたりの床に垂らし始めた。

「な、なにをして……」

「消毒をしています。貴方の血に何か悪いものが入っているとは限りませんが、部外者の方ですよね? 血が付いてしまったところは念のために消毒をした方がいいと思って。貴方の傷も見せてください。擦り傷は油断しがちですが放っておくと化膿して熱を出すこともあります。学内で流行病が出たという話はありませんけど、万が一にも傷口から病気をもらうといけないので流してしまいましょう。ほら、シャツをまくって」

 そう言うと、少女は強引にフィデルのシャツの袖をまくり始めた。驚いたフィデルが腕を払いのけるが、それでたじろぐ様子はなく二度、三度とシャツへと手を伸ばしてくる。

「い、いい! 結構だ! 大丈夫だから!」

「しかし小さな傷も侮ると大変な病気に発展することもありますよ。ここしばらく大きな流行病は発生していませんが、万が一ということも」

「いいから!」

 フィデルが力いっぱい腕を振り払うと、少女はびっくりしたように目を丸くして動きを止めた。従僕がその目をまじまじと見つめ返すと、みるみるうちにしょんぼりと肩を落としてしまう。

「失礼いたしました。では、この布を当てておくだけでもしてください」

 白い布をフィデルの胸に押し付け、少女はくるりと踵を返した。

 しまった、とは思ったが遅い。フィデルが謝罪を口にするより早く、少女がぱたぱたと小さな足音を立てて遠ざかっていく。呼び止めようにも名前も分からないので、従僕はその背に手を伸ばしかけ、そして止めた。

「……やっちまった」

 見ず知らずの、ただ親切にしてくれようとしただけの少女を怖がらせてしまった。高等学校も卒業し、既に成年と言っても差し支えない体格の男が大学生である少女に大きな声を出してしまったことが恥ずかしい。

 華やかな女子学生に鼻の下を伸ばして転んで、親切にしてくれようとした女子学生に心配させて、しかも怯えさせた。もう恥ずかしいやら情けないやら踏んだり蹴ったりだ。何もかもユリウスのせいだ。仕事は仕切り直そう、そう思ってフィデルが来た道を引き返そうとすると大きな人影が視界の端を掠める。

「おや、ヴォルフザイン様のところのフィデル君じゃないか」

 自身にかけられたおおらかな声は聞き覚えがある。顔を上げた先にいたのは、王立学校の紋章を刺しゅうされたローブを纏い、流れるような白髪と豊かな白いひげを蓄えた老齢の男性だった。今日訪問しようとしていたヘルマン学長その人である。

「どうしたんだい急に。卒業以来、ご無沙汰だったじゃないか」

「お、お久しぶりです学長先生。休みの日にぶらぶらとしていたら、近くを通りかかり懐かしさに釣られてしまいまして」

「そうかいそうかい。それはうれしいことだね。公爵家での仕事は順調かい? おや、怪我を……?」

 あ、とフィデルは少女から受け取った布を肘に当てた。自分より身分が高く、高貴な学長に血を見せるのはご法度である。早々に立ち去らねば、と手に持った土産を差し出した。

「お見苦しいところをお見せして申し訳ございません。また後日、謝罪とともに改めてご挨拶に伺います!」

 渾身の力をもってフィデルは頭を下げた。土産を学長が受け取ったら、脱兎の勢いで逃げ帰るつもりだった。

 しかし学長の方は土産には手を伸ばさず、暢気に白いひげをしごきながらわずかに湿った石畳の床を眺めている。そして中庭に目をやると、うんうんと小さく頷いた。

「学長先生?」

「ここに躓いたのかい。なるほど、近いうちに直させないといけないね。彼女が清めてくれたんだね」

「あの、申し訳ございません。僕がここで躓いてしまったので、通りかかった女子学生が助けてくれようとしまして……」

 さすが、頼りになるねえと学長は満足そうな顔で笑った。その視線の先にいるのは、しょんぼりと肩を落としながら中庭の向こうを歩いている、先ほどの銀髪の少女だ。

「彼女ねえ。ものすごく優秀なんだよ。大学からの入学だというのに、諸侯の子息と遜色がないほど、いやむしろ彼らよりうんとかな。学問に対してとても真面目に取り組んでいるんだ。しかもご実家の男爵家できちんと教育されていたんだろうね。礼儀作法もちゃんとしているし、簡単な祈祷の言葉も覚えているんだ。たいしたものさ」

「男爵……家?」

 悪い予感にフィデルが口を開くと、学長は大きく頷いた。

「ヅィックラー男爵は知っているかい? 王都の北東のほうに小さな領地を構えている家だよ。あまり裕福ではないようだけれど、娘がどうしても大学で学びたいというからといって入学金を融通してきたらしい」

 学長の話を聞きながら、フィデルは中庭の少女の姿を目で追った。既に遠くまで行ってしまっていて、もう校舎に入りかけている姿は豆粒のようだ。

「文学や歴史もよくできるけれど、本人の適性は数学や生物などの自然科学に向いていると思うよ。来年には研究室に配属になるが、貴族の令嬢にしては珍しく卒業後には文官を目指したいと言っていてね。私としてはこのまま大学に残って研究職についてもらうか、あるいは教職についてもらいたいと思っているんだが」

 さてどうなるかな、と学長は面白そうに呟いた。

 なんということだろう。今日の調査の対象が、探りを入れるまでもなくこんな形で分かってしまった。おまけに何も聞いていないのにぺらぺらと学長がしゃべるおかげで、調査書類の項目が埋まっていってしまう。

 学長の話しぶりから察するに、彼女は品行方正で学業は優秀、しかも怪我をしたフィデルを気遣える程度には周りを見ていて親切心もある。

 これでは金目当てだとか、地位や顔に目が眩んで主に言い寄っているのではという線が消えてしまう。卒業後に文官を目指したいと公言しているということは、親が公爵に嫁がせたいと目論んでいるという線もない。

 であれば、まさか、公爵自らがあの娘に興味を持ったということか。

 どんな顔をしていた? どんな声をしていた? いったい公爵はいつ、どこで彼女のことを見初めたというのだろう。いや、でも男爵家の令嬢なんて、王家の次に高貴と言われる公爵の妻どころか恋人になることだって許したくはない。

 しかし学長は白いひげを撫でながら、まるで自分の娘の話をするかのようにホクホク顔で男爵令嬢のことを話し続けている。もろ手を挙げて彼女を褒めたたえる学長の隣で、白紙の報告書に何を書いたら主が諦めてくれるだろうかとフィデルは途方に暮れながら考えていたのだった。