誘惑の茶会

 レンバルト城は中央に城の象徴ともいえる鋭角に伸びた三角屋根を持つ塔を構えた、三つの宮からなる王の住まいだ。塔がある宮は王の謁見や公的な行事を行う部屋が集まっており、その両隣には王家の方々が暮らすビエナ宮、政治の中枢となる議会が招集されるイズクエラ宮が建てられていた。

 茶会の招きに応じた私は、ビエナ宮の中にある庭園で天まで聳える塔を見上げていた。前世で聖女をしていた頃は、あの塔の一室が主な職場だった。朝に夕に、そして季節ごとに、しきたり通りに祈りを捧げていたことを思い出す。

 そして今いる庭園は、王子に見初められた後によく手を引かれて歩いた場所である。色とりどりに咲く花や、きれいに刈り揃えられた鮮やかな緑の植栽が懐かしくも美しい。花の間を美しく大きな翅を羽ばたかせた蝶が舞い、かすかに聞こえる小鳥のさえずりと合わせるとここがまるで城下とは別世界の様に感じられる。

 あの頃を思い出し、私は思わず隣に目をやった。しかし並んで歩いているのは金色の髪を持つ青年ではなく、黒髪の公爵だ。

 王子の興味を削ぐために受けた招待に宣言通り同行してくれた公爵だったが、案内をしてくれる城の小間使いの背をじっと見つめるその顔は仏頂面だ。

 よほど気が進まないのだろうか。一人で来ればよかったか、と思うけれど正直なところ流されない自信もないので一緒にいてくれるのは心強い。

 終始無言のまま案内された東屋は、大理石を切り出して作られたものだ。屋根から続く柱も、そして床に設えられたベンチも元は一つの大きな大理石の塊だったのだと王子に聞かされたのは前世のいつ頃だっただろう。

「ユリウス・カイ・ヴォルフザイン、参りました」

 東屋に着くなり、それまで黙りこくっていた公爵が口を開いた。私もそれに倣ってスカートを軽く持ち上げる。

「本日はお招きにあずかり光栄にございます、殿下」

 できるだけ目を合せないようにしたい。それだけを考え、日光が遮られひんやりと涼しい東屋で私は既に腰かけているはちみつ色の髪を持つ青年に膝を曲げる。上半身が動いたからか、新調した太い黒縁眼鏡が鼻の上から少しズレた。

 公爵も同行してくれた上、今日は覚悟をしてきたからだろうか。こうして近くに立っていても、公爵家で不意に顔を合せてしまっときのような動揺はない。ただ、真正面から顔を見れば気持ちが揺らいでしまうかもしれない。

「ようこそ、ヅィックラー嬢。ユリウスもよく来てくれたね。既にお集りになっている諸侯の姫君たちも、今日はゆっくりと楽しんで」

 朗らかな、そして甘さを含む声音が耳に心地よい。覚悟とは裏腹に思わずぼうっとなりそうな自分に気が付き、私はスカートの上から自分の太腿をつねった。隣に立つ公爵はそれに気づいたのか、小さく咳ばらいをした。

 意外なことに、というかいやむしろ当然のことというか。茶会に招かれたのは私だけではなかった。ヴォルフザイン家以外の公爵家や伯爵家の令嬢らしい女性が数人、他の椅子に腰かけて優雅に語らっている。夜会とは違うとはいえ王子の催す茶会だからか、どの姫君の装いも略式ではあっても競うように華やかなデイドレスだ。しかしお互いに見知っている間柄なのか、語らう姿にはリラックスした雰囲気が漂っていた。

 正直なところ二人きりを覚悟していたが、しかしいくら何でも未婚の異性一人を招くことはないということだろう。私は拍子抜けした気分で、勧められるまま王子とははす向かいの大理石のベンチに腰かける。固いけれどひんやりとした大理石特有の感触が心地よい。公爵も会釈をすると王子の真向かいに腰を下ろした。

 その際、きゃあ、と東屋の中から華やいだ声が上がった。声の方を見ると、どこのご令嬢だろうか、赤いドレスを着てふわふわの羽が付いた豪華な扇子で口元を隠した女性ともう一人が公爵の方をみて顔を寄せ合っている。

 その声が聞こえた瞬間、公爵の顔が苦虫を噛みつぶしたように歪んだ。

「どうしたユリウス? ご不満かい?」

「……別に」

 揶揄うように王子は公爵の顔を覗きこむ。そして不機嫌そうなその表情を見ると、面白いものでも見つけたようにくくっと肩を揺らした。

「殿下、今日はそういう催しではないと……」

「いつものことじゃないか。君が来ると言うから、セサル伯のご令嬢も呼んだんだ。ルーベン伯のご令嬢はその付き添いってとこかな。彼女たちも楽しみにして来てくれたんだし、相手をしてやってくれよ」

「わざわざ呼んだのか?」

「普段の君がもっと彼女たちの相手をするか、あるいは誰か決まった相手を作ればいいのさ。逃げ回っているだけじゃ、あっちの期待が高まるばかりだぞ?」

 ちっ、と公爵が舌打ちをした。非公式の場とはいえ王子の前で、と思うとこちらの身が縮む。しかし王子はそんな仕草すら面白がっているようで、声を上げて笑い出した。

「ヴォルフザイン公爵様、ご無沙汰しております──」

「お久しぶりでございます、公爵様」

 王子の笑い声に釣られるようにやってきた令嬢二人は丁寧に膝を曲げた。気品が漂う立ち居振る舞いは、さすが伯爵家といったところか。赤いドレスを着た令嬢がセサル伯の姫君らしい。まっすぐな栗色の髪が艶やかに陽光を反射して、白い肌がさらに輝いて見える。

「これはこれは、セサル伯爵ご令嬢。ルーベン伯のご令嬢も。本日おいでになっていたとは知らず、失礼いたしました」

「先日は御前会議でご活躍だったとか。父が大変ご立派だったと噂しておりました。今日こちらにおいでになると伺ったので、ぜひそれをお伝えしたくて」

「恐縮です。セサル伯から見ればまだまだひよっこですので、今後ともお父上にはご指導いただければ幸い」

「先ほど殿下より、公爵様はご幼少時からこちらのお庭で殿下と遊んでいらして大変お詳しいと伺いました。よろしければ案内していただけませんか?」

 ちょっと甲高い声の女性はルーベン伯の姫君だろう。話に割り込むように身を乗り出し、公爵とセサル伯令嬢を交互に見て同意を求めた。

 ううん、と言葉を濁す公爵とは反対に、セサル伯令嬢はあらかじめそのつもりだったらしい。参りましょう、といかにも自然に公爵の前に手を伸ばした。さすがにそれを断ることは失礼と思ったのだろう。令嬢の手を取った公爵は渋々といった風に立ち上がって、王子と私に会釈をした。

「ちょっとご案内してきます。ヅィックラー嬢、悪いが少し席を外す」

「は、はい」

「ゆっくりしてきたまえよ。セサル伯の顔を潰すなよ?」

「すぐ戻ります」

 卓を囲んだ私達にだけ聞こえる程度の声でそう告げると、公爵は令嬢たちとともに東屋を出て行った。セサル伯のご令嬢の手を下から掬い上げるように持ち上げ、一応は女性をエスコートしている形である。ルーベン伯のご令嬢は公爵とはセサル伯令嬢を挟んで反対側を歩いているところを見ると、彼女の今日の役割はそういうことなのだろう。

 初夏に近い庭園は赤や黄色、そして薄紅の薔薇の花やダリアがけんを競うように咲いていた。王城の庭師の腕の確かさを表すように、樹木の緑と花の色合いのバランスが絶妙だ。どの花も見事な大きさである。特に中央の噴水に向かうアーチは、咲き乱れる薔薇で芯になっている鉄の部分がほとんど見えないほどだ。花と蔓だけでできていると言われても信じてしまいそう。

 遠ざかる三人がその花の下をくぐった時、ふとセサル伯の令嬢の横顔が見えた。頬をうっすらと赤らめ、満面の笑みを浮かべたその顔は美しく、恋しい人と会えた喜びにあふれているようだ。対する公爵はといえば、こちらには背中しかむけていないのに早く帰りたそうな雰囲気を漂わせていた。女性が一歩近づけば一歩離れ、女性が離れれば元に戻るといった微妙な距離の取り方をしている。

 なるほど、と私は一人納得する。公爵がこういった集いに気が進まないといった理由がよくわかったからだ。

 なんのかんの言ったところで、ヴォルフザイン公爵は独身で、いまのところ婚約者がいるという話は聞いたことがない。はちみつ色の髪や柔らかい陽の光のような雰囲気の王子とは正反対ではあるが、黒髪で端正な顔立ちなどを魅力的に思う女性も多いだろう。あと、単純に若くして公爵になり、そして王子──次期国王の最側近という立場もある。

 高位の貴族の結婚は家同士の約束事であるし、色恋だけでは語れない政治的なものではあるが、令嬢たちだってどうせなら好みの男と結婚したいと思って当たり前だ。その絶好の相手、という訳だろう。

 ふうん、と私は背の高い公爵の後ろ姿をみて頷いた。なるほどなるほど。で、今日のお相手であるセサル伯ご令嬢が目下のところ婚約者候補の筆頭というところか。綺麗な人だし、伯爵令嬢という身分からいっても何も問題がないだろうに、一体何が不満なんだろう。

 まあアメリアがいるから、あの子との相性も大事にしているのかもしれない。王子の婚約者であるとはいえまだアメリアは十一歳で、輿入れには早すぎる。あと数年は公爵家での暮らしが続くだろう。セサル伯令嬢は華やかで美しい人だけれど、アメリアを妹として可愛がってくれる人だろうかというところも考えないといけない。いや待て、あのご令嬢、御年はいくつだったかな。変なしがらみ込みで政略結婚して、足枷を着けられたら公爵も面白くないだろうしな。

 なんて頭の中でこっそり会議をしていた時だ。

「ヅィックラー嬢は、こういう社交の場は初めてだそうだね」

 はす向かいから懐かしい声がかかった。はっとして目を瞬かせると、卓を挟んでいたはずの王子の顔がすぐ隣に来ていた。公爵が行ってしまってから席を移動したのか、思わず辺りを見渡した私の胸がどきりと跳ねる。

 いつの間にか東屋には私達しかいなくなっていたからだ。

 半円を描く東屋の屋根の下にはあと数組、若いどこぞのご令嬢たちがいたはずなのにその姿が見えない。あれ、と思うと幾人かの後ろ姿が、庭園の樹木の向こう側に行ってしまうのが目に入る。それと入れ替わるように、給仕係だろうかメイド姿の女性がワゴンを押してやってきた。

 一瞬まずいと身を固くしたけれど、給仕係とはいえ他の人が来てくれるなら問題ない。私も他人の目があれば取り乱すこともないだろうし、仮にも王子だし、婚約者がいる人だし、アメリアの話をすれば私から興味が外れるだろう。

 ゆっくり二回、小さく深呼吸をして王子に会釈すると彼は満足そうに頷いた。

「大学はさぞ忙しかったんだろうね。しかも卒業してユリウスのところで仕事をするなんて、気疲れも相当だろう? 今日のお茶はとても良い香りがするものを準備させたんだ。気に入ってくれるといいけれど」

「お気遣い、ありがとうございます。公爵様にも大変よくしていただいておりますので、気疲れなんて、そんな」

「遠慮することはないよ。今日はゆっくり君と話したくてユリウスにも無理を言ったんだ。お休みのところわざわざ来てくれてありがとう。この焼き菓子も、君の口に合うといいな」

「あ、ありがとうございます」

 私は王子に進められるまま、卓上に出された焼き菓子に手を伸ばした。一つつまむと思いのほか軽い。口に入れて歯を当てると、ほとんど抵抗がないままほろほろと崩れて溶けてしまった。

 とても甘い。砂糖を何かで固めたものだろうか。焼き菓子というからには、小麦も混ざってるのかな、などと気がそれる。試しにもう一つ、と手を伸ばすと隣の王子がふふっと笑った。

「おいしいかい? そればかり食べていると口の中が甘ったるくなってしまうから、お茶も一緒に飲むといいよ」

「あ、はい……」

 食い意地が張っていると思われただろうか。急に恥ずかしくなった私は茶器を手に取った。

 王城の給仕係の女性が音もたてずに注いでくれたお茶は、ひんやりとした東屋のなかで白い湯気をくゆらせている。甘い香りにほっとして、私は会釈をしてからそれに口を付けた。

 なんだろうこれは。飲んだことがないはずのお茶だったのに、鼻に抜ける風味には覚えがあった。昔、いや昔ではないこの世界とは違う未来で、私はこのお茶を飲んだことがあったのかもしれない。ついと目を上げて王子の方を窺えば、微笑みをたたえた顔が頬杖をつきながらこちらを見つめている。

 刹那の間、今の視界に映る全てが前世の風景と重なった。

 懐かしさのあまり眩暈がする。目頭が熱くなり、私はそれをごまかすためにまた茶器に唇と近づけた。

 立ちのぼる湯気が眼鏡を曇らせてくれれば表情もごまかせる。ごまかしてほしかった。

 しかし王城の給仕は注ぐ際のお茶の温度を飲みやすい状態に調整していたのだろう。飲み込むふりをして茶器の中にいくら顔を近づけても、思ったように眼鏡は曇らない。

 これでは何のためにここに来たのか分からない。王子の中から私への興味を失わせようと思っていたのに、私の中の王子がそれをさせてくれない。むしろ、このまま懐かしい思い出に浸りたくなってしまう。

「そんなに気に入ったのかい? お代わりはいくらでもどうぞ?」

「え、ええ……とても、おいしいお茶で、つい……」

 これ以上は不審がられる。慌てて茶器から口を離すと、王子はまた面白そうなものを見たようにくすくすと肩を揺らした。

「じゃあ帰りに茶葉を包ませよう。交易品の中にあったものなんだけれど、うちの者たちの口には合わなかったみたいだから気にしないで。甘い香りだから、女性は好きだろうと思ったのは大正解だったね」

 頼むよ、と王子は給仕の女性に向かって顔を上げる。良く訓練されている給仕係は、王子の願いに深く一礼してお湯の入ったポットをワゴンに置いた。そしてさっと踵を返すと、物音ひとつ立てずに東屋から下がっていく。厨房にお茶を包みに帰るのか。

「ありがとうございます。アメリア様もきっと、こちらをお好みになると思います」

 顔を見たら揺らぐ。私はなるべく王子と顔を合せないように、卓の上で深く頭を下げた。

「アメリアにも飲ませてあげて。でも彼女はまだお子様だからね。ミルクや、はちみつがいるかもしれないな」

 それもいくつか持たせよう、と王子は続けた。

「そうそう、アメリアといえば、君は彼女の家庭教師なんだった。何を教えているんだい? 虫?」

「いえ、虫や自然の観察はその一部です。初等学校の内容を主に行っております」

「初等学校かぁ。アメリアは人見知りが過ぎて、教室に入れなかったんだったな。私の前ではそんな素振りも見せないけれど、あまり人見知りだと先が思いやられる」

 アメリアの授業の話であれば仕事も同然だ。これなら、と私は顔を上げた。人見知りと言われる彼女ではあるが、好奇心と向上心の塊のような少女である。しかし彼女自身はそんなことを自分の口から王子に伝えることはないだろう。その辺をきちんと話さなくては、と半ば使命感に駆られた形だ。

「しかし大変勉強に熱心です。早くにご両親を亡くしていらっしゃるせいか、流行病に対する懸念や薬学に対するご興味が強いようで、自然科学に対しては熱意をもって学ぶ姿勢が見られます」

 できることならそういった方面に進ませてあげたい、というのは近しい関係だから持つ気持ちだろう。そうできないのは彼女の立場から言えば当然なのだけれど、若いうちは興味のある分野を十分にと言いかけたとき、東屋の中で王子の笑い声が響いた。

「で、殿下?」

 笑い声にも感情が乗る。好ましく思っている笑い声、面白く思っている笑い声もあれば、侮っている笑い声、感情が高ぶっている笑い声もある。私の耳に聞こえたそれは、決して好意的な印象ではない。

 やや嘲りの色を含んでいるように感じる王子の笑い声に、私は次の言葉の糸口を見失った。

「流行病? 薬学? それはまた、大層な……」

「え、ええ……とても、向上心が──」

「学ぶ意欲は素晴らしい。でも、王妃に求められる教養ではないね。おまけに虫が好きとは風変わりで困る」

 何がそこまで可笑しかったのかと思うほど大きな口をあけて笑っていた王子は、一瞬で真顔になった。きっぱりと否定の意を示したその言葉は冷たく、ざくりと私の胸に突き刺さる。

「彼女に必要なのは血筋と美しさと、そして社交の技術だよ。王妃になるために礼儀作法や音楽や詩吟、あとは外国語をたくさん学んでもらわなければいけないな。なんならこちらからそういった先生を派遣してもいい。むしろそっちを重点的にやっておいてもらいたいものだね」

「い、いえ、まだ初等学校の内容も終わっておりませんので……」

「諸侯の子息が学ぶ内容なら彼らに任せておけばいい。王妃や高貴な女性はもっと別の教養が必要なんだ。そちらもしっかりアメリアには学んでおいてもらわないと」

 なんだろう。私は信じられない気持ちで王子の顔を見上げた。

 この国では近年、女性の教育や社会進出を推奨していたのではなかったか。男性と同じように物事を学び、そして社会のために働くのを認めてくれたのではなかったのか。地方の田舎貴族や中央の頭の固い年寄りならまだしも、公爵と同じ年の王子がなぜそんな女性を軽んじた物言いをするのだろう。

 こんな人だっただろうか。

 私が聖女だったころも女性には本当に配慮があって優しくて、仕事を終えた私にもよく気づかいをしてくれた方だった。それなのに、なぜか今のこの人からは、女性を軽んじた空気を感じてしまう。それともあの頃の私がもの知らずなだけだったのかもしれない。

 私が聖女ではない人生を歩みあの頃とは異なる価値観を持っているということは、この人もまた、あの頃とは全く違う人なんだろうか。

「ユリウスはそこらへんが分かっていない。全く、いくら妹がかわいいからって甘やかしすぎだ。兄なら、そして公爵を名乗るなら妹に貴族の女性としての立ち居振る舞いも仕込んでもらいたいものだね」

「そうでしょうか……まだアメリア様は十一歳です。強い偏りがなく様々なことにご興味をお持ちなのは良いことですし、王妃となられた際に科学や技術の進歩へお力をお貸しいただけると、さらに国が豊かになるのではないでしょうか」

 私の戸惑いなどお構いなしに王子は公爵の態度にも言及した。甘やかしすぎというのはなんとなく分からなくもないけれど、兄一人、妹一人の家族だし年も離れているし、溺愛したっていいじゃないかという反発心もむくむくと頭をもたげてくる。少なくとも勉強したいという意思を邪魔しない、いやむしろ応援している公爵がとてもいい人に思えてくるから不思議だ。

 しかし王子は違うらしい。やっぱりこの人もアメリア個人の意思など関係なく、王妃たれと価値観を押し付けるのだろうか。

「女性の社会進出が進められている今、王妃様となられる方が率先して学問をなさる姿を見せることは、国民にとっても大切なのでは──」

 納得ができないまま話を続けると、王子はなるほどと言って頷いた。

 分かってくれたか、と思った。でもそれはほんのつかの間のことだ。卓の下で膝に置いておいた手に、ふわりと何か温かいものが被さったのだ。

 柔らかく温かい何かが私の手の甲を包み、そしてゆっくり撫でられる。王子の手だ。そう気が付いた瞬間、私は息を飲んだ。

「君は確かに先進的な女性だね。女だてらに国の将来について議論するのも興味があるらしい。賢い女性と話すのはいい刺激になるよ。是非、もっと話を聞きたいものだね」

 私の動揺などまるで意に介した様子もなく、王子がこちらに身を寄せてくる。大理石のベンチは座面の奥行きは狭いけれど幅だけはある。さっと腰をずらして王子から距離を取ろうとしたけれど、偶然か、それとも見透かされていたのかベンチの上で広がったスカートの端が王子に太腿に踏まれていて思うほど離れられなかった。

「……え、ええ。アメリア様も交えて、是非……」

「なんで? あの子がいたら、僕にも君にも、都合がよくない。そうだろう?」

「いえ、そうではなく……」

 せめてもう少し離れたい。踏まれたスカートをついっと引っ張ってみるがびくともしない。もう少し、もう少し、と思っているうちに王子はさらに身を寄せてきた。

 気が付くと、王子とは髪が触れ合うほどに近くなっていた。手を掴んでいる方とは逆の手が私の頬に触れ、あ、と思うと目を覆っていた黒縁の眼鏡が外される。

 障壁がなくなった目の前に、王子の青い瞳が近づいてきた。じいっと見つめられて胸が高鳴るのは、緊張なのかときめきなのかわからなくなる。

「いい目だ。理性的で、芯が強そうで。隠しておくのはもったいない。髪の色といい、なんて僕好みなんだ」

「お、おやめください」

 思わず顔を背け身じろぎすると王子は私の頬に手を当て、無理やり自分の方を向かせた、その一瞬の行為に、ぞわりと悪寒が走る。

 モノ扱いされた。直感的にそう思った私は両腕を王子に突き出した。

 しかし所詮はこの数年勉強しかしてこなかった女の力だ。王族でそれほど体を鍛える必要のない王子とはいえ男性の腕力にはかなわない。伸ばした腕はいともたやすくからめとられ、王子の手によってベンチに縫い留められた。

「やめて……!」

「菫の色だね。美しい色だ。陽の光が当たらない場所では、一体どんな色になるのかなぁ? ユリウスから聞いているだろう? 僕は君が欲しくて今日の茶会を催したんだよ。来てくれたってことは、君もそういうつもりだということだろ」

 ぐいっと顔を近づけられのけ反ると、私の身体は大理石のベンチにあおむけに転がってしまった。スカートを踏まれて下半身が動けなかったせいか。まずい、と思って目を開けると東屋の天井を背景に王子の顔が迫っている。

「ま、待って! おやめください……!」

 こんなことなら筋肉をもう少しつけておけばよかった。せめてもの抵抗で足をバタつかせたけれど、それすら王子にとっては小動物が暴れているようなそんな感覚だったんだろう。唇を吊り上げて含み笑いをするその顔がどんどん近づいてくる。

 いざとなったら頭をぶつけて逃げるか、でもさすがにそれをやったら父母まで何かの罪に問われてしまうかもしれない。でもこのまま言いなりになるのは避けたい。であれば徹底抗戦しかないけれど、大暴れして王子に怪我でもさせたらそれこそ処刑されてしまうかもしれない。

 なんだっていうんだろう。せっかく処刑の未来を回避したというのに、ノコノコとこんなところに来てこんな目に遭うなんて。学習能力がない自分がほとほと嫌になる。ああもう、と悪態をつきかけたときだ。

 それまで熱のこもった視線でこちらを見ていた王子の目に冷静さが戻り、顔を横に向けたのだ。その先にいたのは眉根にしわを寄せたヴォルフザイン公爵だ。

 公爵はため息を吐くと王子の肩に手をかけ、ぐいっとその体を引き起こした。

「困ります、殿下」

 王子を起こした公爵はそのまま私の身体も抱き起こしてくれて、そして乱れた髪に手を伸ばした。気遣うように触れたその指先に、少しだけほっとしてしまったのかわずかに目頭が熱くなる。

「……なんだい、ユリウス。セサル伯のご令嬢たちを放っておいてはだめじゃないか」

 お楽しみを邪魔された、とでも言いたげな表情で王子は鼻を鳴らした。そうだ、ご令嬢たちはと東屋の外を見渡すが、既に彼女たちの姿は見えない。セサル伯やルーベン伯のご令嬢以外にも何人もいたはずなのに、一体どこに行ったんだろう。そういえば給仕の女性も帰ってこない。

「あちらに珍しい花があるとおっしゃって、皆さん連れ立って行かれました。放り出したわけではございません」

 まさか、みんな王子の思惑を知っていて加担したのか。

「今からでも遅くない。君も見に行っておいでよ。そして今夜はセサル伯令嬢と食事でもご一緒してはどうかな?」

「そのご提案は辞退しますよ。殿下」

「なんだ、それは彼女もさぞ残念がるだろうなぁ。僕の方はぜひヅィックラー嬢をお誘いしたいんだけれど」

 肩を竦めてうそぶく王子は私に向かって同意を求めた。

 いやいやいや、お断りです。絶対行きません。無理です。ふるふると激しく首を横に振った私を見た公爵は、また大きくため息を吐いた。そして天井を仰ぎ、うん、と小さく呟くとおもむろに私の腰に手を回した。

「こ、公爵様?」

 びっくりして固まる私の耳元で、話を合わせろと公爵が低い声で囁いた。

「ヅィックラー嬢はご遠慮しますとのことですよ。そうそう、殿下には一つ、お断りしておくことがございます」

「断り? 何?」

 いきなり自分の目当ての女を抱き寄せた公爵に、王子が怪訝な声を上げた。それまで穏やかな、それでいてどこか余裕そうな雰囲気を漂わせていた青年の顔に苛立ちが見える。

「ヅィックラー嬢は私との婚約が控えております。むやみにお手を触れないよう、お願いできますか?」

「……は?」

 何を言い出したのか理解が追い付かず間の抜けた声を上げた私の脇腹を、公爵の拳が小突いてくる。

 これか。これに話を合わせろというのか。でもいくらなんでも無茶ではないだろうか。相手は王子だし、しかも今の今まで公爵と私が婚約するなど、どこのうわさでも出ていない話だ。

「それは本当かい、ヅィックラー嬢」

 案の定、めちゃくちゃ疑った目で王子がこちらを見ている。質問の体ではあるが、実質「嘘だろ」と言っているのが丸わかりだ。