夜更けの攻防

 ものすごく嫌そうな顔を隠しもしないフィデルだったが、泣きじゃくっている女をその場に放置するのはさすがに良心の呵責があったのかもしれない。

 離れまで来ると私に先んじて扉を開け、寝室までゆっくりと送ってくれた。寝室に着くなり頭にかぶせられていた公爵のジャケットは剥ぎ取られたが、ここまでくればもうどうでもいいし泣くことを我慢することもない。もう正直限界は超えている。

 私は屋外で着ていた服を脱ぎもしないままベッドに倒れこみ、子どものようにわんわん声を上げて泣いた。

「あ、おい、ちょっと……」

 背後ではいきなり大声で泣き出した女に困惑しきったフィデルの声がする。しかし取り繕う余裕もなければ顔を上げることもできない。両目からはぼろぼろと涙があふれ続け、喉の奥からは熱いものがうめき声とともにどんどんと流れ出て行った。

「ああ、もう……ユリウスはなんでこんな女を気に入ったんだか……」

 ごめんなさいと謝りたいけれどもう止まらない。参ったな、というフィデルの声をまるで他人事のように聞きながら、私はひたすら泣き続けた。

 その後はフィデルも寝室には戻ってこなかった。それはそうだ。従僕としての仕事もあるだろうし、なによりこんなに泣き続けている女の傍にいたら気が滅入ってしまうだろう。

 離れに誰もいなくなったせいで、泣き続ける私を止める者もいなくなった。気が済むまで泣いて、泣いて、泣き続けて、ようやくベッドから起き上がったころにはもうすっかり窓の外が暗くなっていた。空に浮かぶ月も、ずいぶんと高いところに昇っている。

 体中の水分が出て行ってしまったかのように喉が渇いた。頭も、体も、まるで泥をかぶったかのように重い。

 水を求めてのろのろとベッドから這い出て居間へ行くと、そこには居なくなったと思っていたフィデルが燭台に火を灯して待っていた。

「あ……」

 暇を持て余していたのだろうか、私がテーブルに出しっぱなしにしていたアメリアの数学のテキストをぱらぱらとめくっている。私に気が付いたフィデルはそれをぱたりと閉じ、タイを直しながら立ち上がった。

「ようやくお目覚めですかね」

「……ご、ごめんなさい。もしかしてフィデルさん、ずっとここに?」

「おりましたよ。ユリウス様から、貴女を頼まれてしまったので放っておけるわけがないでしょう」

「すみません……お見苦しい姿を……」

 さんざん泣いた姿を見せて今更、と思われても仕方ない。が、急に羞恥に襲われ私は身を縮めて頭を下げた。

 フィデルはそれには何も言わず、卓上の水差しからコップに水を注いで私に差し出した。私はそれをありがたくいただき口に含む。ほんのりと付けられた柑橘の風味が鼻に抜け、一口飲むごとにゆっくりと気持ちが落ち着いていくのがわかる。

「とりあえずご自分で起きられるようになったようなので、私はこれで失礼しますよ。ユリウス様にもご報告しなければいけませんし」

「は、はい。ありがとうございます、フィデルさん」

 重ねて頭を下げれば公爵の忠実な従僕はふんっと鼻を鳴らした。口はへの字に曲がり、あからさまに機嫌を損ねた様子で手元に畳んであった衣類を持ち上げる。ろうそくの明かりでちょっとわかりにくいけれど、あれは公爵のジャケットだ。

 そういえば、あの人は庭園で私の泣き顔を見せないようにあれをかけてくれたのか。あんなに和やかな会話の途中で、急に理由も言わずに泣き出してしまった私に。そしてそれを悟られないように体調のせいにして退がらせてくれた。

 改めて考えれば猛烈に申し訳なくなってくる。冷や汗が出るような羞恥に狼狽えていると、フィデルはそれも面白くなさそうにそっぽを向いた。

「まったく、公爵閣下のお立場をよく考えてください。王子殿下の御前で屋敷の者があんな醜態を晒したら閣下の体裁が悪いでしょう」

「……す、すみません……」

「あとですね、こちらの閣下のジャケットに汚れとしわがありました。高価な生地で作ってあるのでクリーニングは専門の店に出します。補修費用はヅィックラー嬢に請求しても?」

「は、はい。結構です、重ね重ねすみません……」

 では、とフィデルは足早に居間を出て行った。そのせいせいしたような足取りに、半日近く仕事をつぶされた苛立ちが見えて本当に申し訳なくなってくる。

 部屋まで送り届けたのだから放っておいてくれてもよかったのに、公爵の命令で前後不覚になるまで号泣していた私の傍にいてくれた。私のことは気に入らないようだけれど、根はいい人なのかもしれない。

「っはあああああ……」

 コップに残った水を一気に飲み干し、私は大きくため息を吐いた。

 記憶が蘇って十年あまり。処刑される未来が恐ろしくて絶対に会いたくないと思い避けていた、かつての愛しい人。アルベルト王子に一目会ってしまっただけでこうなってしまうとは、我ながら情けない。私の頭の中にあった王子への恋慕が十年たった今でも残っていたということに、今更ながら驚かされた。

 聖女になって、王子に見初められて、婚約して。処刑されるその日の朝までは確かに幸せだった。幸せを信じていたから、ある意味仕方がないと言えるのかもしれない。今日の王子の笑顔はあの頃とほとんど変わらなかったのだから。

 でも今生ではあの優しげな青い瞳の向く先が私ではなかった。今まで出会っておらず、私が出会う前にアメリアと出会って婚約した。それだけの話だ。なのに、なかなか自分の感情を納得させることができない。

 だからと言って今日見たあの二人の仲に割り込むなんて考えるつもりは毛頭ない。

 人見知りでおとなしいアメリアが、王子の前ではとても楽しそうに笑っていたではないか。実の兄に対するより懐いているように見えたのは気のせいではないはずだ。よほど王子に対して、信頼と愛情があるのだろう。

 あの笑顔を曇らせることなんてあってはならない。あの未来にリベンジする勇気を持たず、目覚めたときに夢の世界においてきた気持ちを、今更この世に持ち込むことなんてしてはいけない。

 しかも、と腫れて重い瞼を引き上げながら窓の外を見る。

 前世の世界でも、きっとあの二人は婚約をしていたのだろう。私が知らなかっただけで、きっとそうだったんだろう。でも処刑される前の記憶では、王子と婚約をしていたのは私だ。ということは、私が王子と出会って婚約するまでの期間のどこかで、アメリアと王子の仲を引き裂いてしまったということになる。

 それでは公爵が怒って私を憎んでいたのも当たり前だ。あれほど冷たい目で見られていたのも、あれほど理不尽に厳しく当たられていたのも、十分に理解できてしまう。溺愛する妹の婚約者を、横から現れた聖女が掻っ攫ったことになるのだから。

 今日の彼らを見ればやはり聖女の証など秘密にしておいて良かったのだと思わざるを得ない。醜く嫉妬もしているけれど、今の私はアメリアのこともそのくらい好ましく思っているのだ。

 そしてあの世界で私と婚約を破棄した王子が、アメリアと再度婚約をしたとは思えない。あの日、刑場にいたのは次代の聖女として名が挙がっていたマルガリータだった。去り際に王子の手が彼女の腰に回されていたのが私の見間違いでなければ、きっとあの後はマルガリータと婚約、婚姻と進んでいたのではないだろうか。

 十七歳という若さで後継と目されていた彼女は、特に早く聖女の証が発現して修行に入っていたと言われていた。逆算すれば、今だと十三歳くらいになるか。とするともう候補生として修道院にいるに違いない。

 そこまで考えて、一抹の不安がよぎった。

 王子は今日、今期の聖女候補生が不作であるため、現聖女の任期延長や次世代の繰り上げ試験について話をしていなかったか。次世代の候補生にマルガリータがいたら、もし二人が出会ってしまったら、いったいどうなってしまうのだろう。

 処刑間際に見た、透き通るほどに白い髪をたなびかせた黄色いドレス姿の少女が脳裏に浮かぶ。

「い、いやいやいや……ないでしょ。アルベルト様もアメリア様とあんなに仲がいいんだし、そもそも私の出る幕じゃないし……」

 十七、八歳のマルガリータと二十六歳のアルベルト王子。年が離れていることから夢で見たあの風景のその後を想像するのをやめていたけれど、現在十一歳であるアメリアと十歳も年が離れた王子が婚約しているという事実を知ると、まさかという気持ちも生まれてくる。

「ない、よね? アメリア様とあんなに仲良さそうだったもんね……そもそもアメリア様と婚約破棄しているわけじゃないし、マルガリータとはまだ出会っていないだろうし。公爵と王子、乳兄弟って言ってたし、そんな政治感覚がない人じゃないよね……」

 なんだか急に心配になってきた。

 私の知る王子は愛情深く、そして聡明な方だったはずだ。私が処刑された理由は分からないけれど、謀反がどうとか言っていたくらいだしきっと国の未来を憂慮した上での行動だったと思いたい。大丈夫と信じたい。お人好しと言われようとも、あの処刑には何らかの理由があったのだと信じたかった。

 けれどあのマルガリータを抱き寄せていた風景が目の前をチラついて、わずかな信頼を揺らがせる。

 どうしよう。繰り上げ試験なんてことになって、聖女候補生の中にマルガリータがいたら、出会ってしまったら、あの白い髪に王子が惹かれてしまったら、と悪い想像が止まらない。

 次世代で飛びぬけて優秀と言われていた彼女がいれば、諸先輩を追い抜き早々に聖女に選ばれる可能性がある。彼女を除外してもらうにしても伝手もなければ確固たる理由もない。

 奇跡的に彼女を除外したとしても、今度は次の聖女をどうするかという問題が発生する。ふさわしい者がいないとなれば、現聖女の任期が延びるか、あるいは聖女不在の期間が生じるか、いずれにせよ国の祭祀が滞り、国家としての体裁がよろしくないだろう。

 聖女による祭祀が既に形骸化して久しいとはいえ、この国の精神的な支えとして機能していることには違いがないのだ。

 しかし確かマルガリータはそれほど裕福ではない家の出だったはずだ。そうなると聖女に選ばれずもし候補生から外されたとすれば彼女の人生はどうなるのだろう。

 考えても仕方ないことだと頭では分かっていても、思考が堂々巡りするのを止められない。すっかり頭の中が煮え立ってしまった頃、居間の扉をたたく音がして我に返った。

「エルネスタ先生。今ちょっとお話することはできるだろうか」

 扉の外で公爵の声がする。

「はい!」

 今行きます、と扉に駆け寄るが、壁にかかった鏡を見てはっと立ち止まる。

 なんてひどい顔だろう。

 化粧はすっかり剥がれ落ち、りょうけんはぼってりと腫れている。さんざん枕に顔や頭をこすりつけていたので、髪もすっかりぐしゃぐしゃだ。

 いくら自分が見栄えを良くしない装いを好んでいるとはいえ、さすがにこれはひどすぎる。少なくとも雇用主たる公爵、そして男性に見せられる姿ではない。というか、この姿をフィデルに見られていたのか。

「うわ……最低だこれ」

 使用人は異性のうちに入らないという貴族もいるけれど、少なくとも今の私にとっては公爵家の使用人、しかも公爵の従僕となればれっきとした異性の扱いである。とんでもない姿を見られた羞恥と、自分の情けなさとが次々に襲い掛かってきて顔が熱くなった。

「す、すみません。少し身支度させていただけますでしょうか」

 言い訳がましく告げれば公爵が立ち去ってくれるかと思えば、待つと答えられてしまった。

 大急ぎで剥げ散らかした化粧の上から粉を叩き、髪に櫛を通して首の後ろで一束にする。机に置きっぱなしにしてある眼鏡をかけて鏡を見ると、ものすごく急ごしらえながらなんとか燭台やランプの明かりの下であればごまかせる外見になった、ような気がする。

 鏡を見てささっと襟元を直し、私は扉をそうっと開けた。

「お、お待たせしました……」

 可能な限り手早く身支度を整えたもののそれなりに時間は経過している。あまりにも扉の外が静かなので、公爵が待ちくたびれて帰ってしまっていないかなんて不敬なことも考えた。

 しかし恐る恐る部屋の外に顔を出すと、そこにはこれまた申し訳なさそうな顔をした公爵が立っていた。

「先触れも出さずに急にやって来てすまない。あの、少しは落ち着かれただろうか」

「いえ、あの、公爵様には大変ご迷惑を……。フィデルさんにも、お手を煩わせてしまって……」

 あまりに恥ずかしくて歯切れの悪い謝罪をし、私は公爵を部屋に招き入れた。立ち話をして終わるつもりでもなかったらしい公爵は、素直に招きに応じて居間へとついてくる。卓にあった水差しから新しいコップに水を注ぎ勧めると、軽く会釈をして公爵は椅子に腰かけてそれを口に運んだ。

「お茶の用意もできておらず、申し訳ございません」

「こちらこそ、急に押しかけたようなものだから気にしないでいい」

 コップから口を離した公爵は、もの珍しそうに室内に視線を泳がせた。いくらしっかり作られた離れとはいえ、豪華な母屋とは異なり調度品の類もそれほど多くはない。ただ居間に置かれた本棚と机の周りは、持ち込んだ本でいっぱいになっていて少し乱雑に見えるだろう。

 こんなことならちゃんと片付けておけばよかった。お借りしている部屋を丁寧に使っていないように見えないかと心配になるが、公爵はそこには言及せずまたゆっくりと視線を室内に彷徨わせた。

「……この間の夕食の際も思ったが、本当に君は身の回りの物は必要なものしか持ってきていないんだな」

「え?」

「女性なら、誰しももう少し装飾品の類や化粧品、衣類のほかに調度品を揃えそうなものだが」

「あ、ああ、そういったものにあまりお金をかける性質ではありませんので。本やノート、あとはちょっとした実験器具があれば、衣類や化粧品は最低限でも構わないのです」

 たくさんあっても、結局自分で使い切れないし片付けられないし。ハンナがいればまた別だったけれど、連れてきていないし公爵家のメイドさんの手を煩わせるのも申し訳ない。

 そんな話をしようかどうしようかと迷っていると、公爵の目がこちらに向けられた。じいっと私の目を見つめるその黒い瞳は、燭台に灯された明かりの中で見ると本当に底が見えないほどに真っ黒に感じる。吸い込まれそうな深く強い色合いに、一瞬見惚れてしまい言葉が出なくなった。

「……理由を聞きに来た、と言えば君はどう答える?」

 数瞬の間の後、公爵はゆっくりと口を開いた。

「理由?」

「君が今日、泣いていた理由だ。殿下に会ったせいか?」

 思いもかけない公爵の強い口調に心臓がどきりと跳ねる。

「大学に行っていた君はまだ王城における社交の場に顔を出したことはないだろう。王にも、王子にも会ったことがないはずだ。そんな君を、不慮の出来事とはいえ事前の準備もなく王子に会わせてしまったことは申し訳ないと思っている」

「……え?」

「だがしかしだ。あのように泣き出すのは、今までの君の様子から言ってなかなかに異常な事態と思えた」

 私から視線を外さない公爵の瞳が、すっと細められる。その瞬間、ぞわりと冷たいものが背筋を這った。

「単純に驚かせてしまったのであれば謝罪する。王族を目にして感激のあまり泣き出す者も、男爵家や子爵家の令嬢あたりであれば無くはない」

「あ、あの……」

「しかし君の場合はそれとは違うのでは? 例えば……」

 王子に興味を持たせたかったか。

 そう言った公爵の声は驚くほど冷たいものだった。まるで氷の刃を突き立てられるような、全身の体温が奪われて体が硬直するような、そんな錯覚に襲われる。じわり、じわりと額に嫌な汗が浮かぶのが分かった。

 何を、と言いたいが言葉にならない。違うけれど、違わないかもしれない。思いもかけず王子と出会い、感極まったと言えばそうだし思いが溢れてしまったといえばそうだ。しかし客観的に見れば貴族としての礼節を欠いていたと言わざるを得ない。

 普通であれば一介の男爵令嬢がそんなことをすれば、父親である男爵は責任を問われ政治的な立場も危うくなるだろう。しかしその反面、王子にとっては強烈に印象に残る。非公式の、きわめて私的な場であればなおさらだ。

 公爵は私が意図的にそれをやったと思っているというのか。

「ち、違います……そんな」

「我々男というものは、どうしても女性の涙には弱いものだ。大抵の場合はころりと騙される。君が殿下の気を引くためにやったというのなら、それは大成功だったよ。美しい銀の髪を持つ女性の涙に、王子殿下は大変強く興味をお持ちになった」

「こ、困ります! そんなつもりは……!」

「来週あたり城で茶会でもするから顔を出せ、と直々の打診だ。どうだ。計算通りだったか? 言っておくが茶会など口実だぞ。君ひとりを呼び出すためのな」

 今までにないほど強く、そして低く発せられた声音は公爵の冷たい視線とともに私の胸を射貫いた。そして王子が婚約者を差し置いて別の女に声をかけたということに、頭を鈍器で殴られたようなひどい衝撃を受けている。

 嘘だ、あんなにアメリアと仲睦まじくしていたじゃないか。どうして、という疑問は言葉にならない。ぐらぐらする頭の中で、王子と寄り添い白い髪を靡かせる少女の姿が浮かんで消えた。

「計算などしておりません。茶会なんて、困ります、行けません」

「何を言っている。いいじゃないか、うまくやれば君は未来の王の妻にはなれずとも結婚までの恋人の立場を手に入れることができるかもしれないぞ。王族である殿下は俺よりはるかに権力も、財力もある。君が欲しいものは何でも手に入るだろう」

「そんなことは望んでおりません……!」

「ああ、結婚しても王の公妾の身分に収まることも可能だろうな。もちろん別れる際は殿下がその後の生活に困らないだけのことは取り計らってくれるだろう。しかも王の公妾ともなれば宮廷での発言力が増す。今よりずっとヅィックラー男爵も大きな顔ができるだろうし、悪い話ではないと思うが?」

「お断りするって言ってるでしょう!」

 やけに饒舌に経済的なことや身分的な旨味をちらつかせた公爵に対し、私は思わず怒鳴ってしまっていた。選択されて投げつけられる言葉そのものより、口調、声音、そして公爵の表情の全てに私はザクザクと斬りつけられる。露悪的な表現はわざとなのか、それとも本心なのかが見えない。

 前世の未来で見た王子の優しげな面影が脳裏をかすめ、もう一度あの笑顔を向けられたいと思わなかったかと言えば嘘になる。ぐらつかないわけがない。処刑の日までは確かにあの方を愛していたのだ。当たり前だ。

 しかしその後の未来は絶対に回避したい。あんなひどい仕打ちをもう一度受けろというのはごめんだ。もちろん今からあの未来に繋がるとは言えないかもしれないけれど、処刑を避けるために、王子と会わないようにするために聖女の道を選ばず勉学に励んできたのだ。今更処刑の可能性を上げるほうへ舵をきるなどできる訳がない。

 しかもなぜわざわざかわいいアメリアが傷つくことを私が選ばなくてはいけないのか。そんなことを実の兄が勧めたと知ったら、彼女がどれだけ傷つくことか。冷酷非道という前世の記憶を塗り替えるほど妹思いの優しい公爵と思っていたのに、とんだ見込み違いだったというわけか。

 王子も王子だ。政治的に結ばれた婚約だろうと、かわいい婚約者に近しい関係の女を呼びつけて親しくなろうということがどれだけ彼女を傷つけるか。

 私はぐっと唇を噛んだ。頭に上った血はなかなか降りてこない。理性と感情がぐちゃぐちゃになって折り合いがつかず、はけ口を求めて腹の中で暴れているようだ。それを押さえつけるように私は力いっぱい拳を握りしめた。両手のひらに爪が食い込んでぎりぎりと痛む。その痛みが、ブチ切れそうな理性をかろうじて引き留めている状態だ。

 ふーっと細く長く息を吐き、そしてゆっくり吸う。大きく、深い呼吸を数回繰り返し沸騰し切った頭を冷やす方法は、大学時代にハンナと編み出した鎮静法だ。試験対策や学友の嫌味に爆発しそうになった時によくやったが、卒業した今になってもやる羽目になるとは思わなかった。

 何回目かに息を吐いたとき、公爵と目があった。

 いきなり怒鳴りつけたせいか、先ほどまでの冷え冷えした目つきは鳴りを潜めている。男爵家の娘という、身分で言えば何段階も下の者から叱責されるなど人生で初めてのことなのではないだろうか。

「改めて申し上げますが、お断りいたします」

 静かに、しかしきっぱりと言い切る。公爵の目に信じられないものを見るような驚愕が混ざった。

 王家との繋がりを拒否する女がいるとは思っていなかったというのか。それこそ馬鹿にしている。ふつふつとまた怒りが沸いてくるのを抑え、私は姿勢を正した。

「……い、いいのか?」

「もちろんです。公爵様、ご自身で何を仰っているかご理解されていますか? アメリア様が聞いたらどれほど悲しまれることかわかりませんか? 兄上が自分の婚約者に別の女をあてがおうとしているなんて、実に酷い裏切りだと思いませんか?」

「裏切り……」

「そうです。貴方はアメリア様の兄君として、国王陛下の臣下として、王子の暴挙を止めるべきお立場の方じゃないんですか!」

 高ぶった気持ちのまま怒鳴りつけると、公爵の目がわずかに揺れた。

「そもそも私、先日も、今日も言いましたよね? お金なんか日々暮らしていければいいんです。大学に行ったのは女性でも官吏任用試験を受けて文官になれると聞いたからです。この国では半端な貴族の娘なんて聖女になるか結婚して家に入るかっていう選択肢しかないんですよ。それが女の人生みたいに言われるのが嫌で、別のやりがいのある仕事をしたくて、だから大学に進学したんです。仕事がしたいんですよ」

「聖女? 聖女とは……」

「ああもう、物の喩えです!」

「あ、ああ……」

「それなのに今更また女という性別を使った役割に押し込められたくないんです。絶対にお断りです」

 まくしたてているうちに感情が昂ぶり、またじわりと涙がにじんできた。父母を説得したときに散々こうやって自分が自立したいのだということを繰り返した記憶が蘇る。ただあの頃より頭に血が上っているのは確かだ。私は眼鏡を外して、手の甲で乱暴に涙を拭った。

 この人は私の学業の成果を見てくれていたのではなかったのか。研究に興味を持って声をかけてくれたのではなかったのか、やっぱり女は女だと考えているのか。

 父母の時とは違い、自分の考えに共感を示してくれたと感じていたから、だからそうじゃないと思い知らされると余計に悔しくて、悲しい。

「アメリア様だって虫や自然が大好きな、向学心がおありのお嬢様です。公爵家の令嬢としての義務や責任については理解していらっしゃいますが、本当はご自身のやりたいことや将来の夢もおありです。勉強していくうちにどんどんその夢が膨らんでいくかもしれません。ご婚約が成立したのはいつですか? そこにアメリア様の意思はありましたか? 家や国の都合で未来の王妃たれと押しつけているご自覚は公爵様にありますか?」

 夢や本当に学びたい分野について話していたアメリアは、自身に課せられた責務を放棄しようとはしていなかった。でもそれを押し付けている側が配慮しないでいい理由にはならない。

「アメリアに、夢が? あの子に……」

「前公爵夫妻は流行病で亡くなったと伺いました。アメリア様はそのような悲劇をなくすため、薬学について学びたいとおっしゃっていました。公爵様はご存じなかったんですか? 大切な妹君なんでしょう? アメリア様のことをちゃんと考えて差し上げてください」

「……そんなことを、アメリアが」

「アメリア様や私だけではありません。同期の学友だった女子学生だって、みんな夢がありました。女がみんな女であることを使って権力を得ようとするなんて、思っていただきたくないんです。中にはいるかもしれませんし、そう考える女性を否定する気はありませんが、少なくとも私はそうではありません。自立がしたいんです。だから──」

 相手が狼狽えて言葉が出ないうちに畳みかけるのは失礼にあたるだろうが、もうこの際だ。言いたいことを言ってやれという半ばやけっぱちの気分で話し続ける。公爵は怒りだすだろう、失礼だと断ぜられるだろうか。でももう止まらない。

 しかし予想に反して公爵は私の顔を見たまま何度か瞬きをするだけで、叱責の声を上げることもなかった。揺れる瞳からはいつのまにか冷気が抜け、ただひたすら戸惑っているようだ。その目が伏せられると、公爵の頬に長いまつ毛の影が降りる。

 その影がゆっくりと短くなっていくと、再び公爵と目があった。そこに現れた表情はとても苦いもので、何故かこちらの胸が痛くなる。

「……それは、本当に?」

 ようやく開いた唇から発せられた言葉は掠れていた。言われているそれがどれのことかははっきりしないが、怒涛の勢いで投げつけた私の言葉の中に予想は入れても嘘は入れていない。

「本当です。何度も申し上げています」

「……そうか、では本当に君は……そうか、俺は君を酷く誤解していたようだ。やはり、あれは……」

「誤解?」

「いや、こちらのことだ。君の言い分はよくわかった。君に大変失礼なことを言ってしまったようだ」

 ふ、と公爵は鼻を鳴らした。胸を痛くするほどの苦さではないものの、自嘲気味に浮かべた苦笑いはどことなく寂しさを漂わせている。

「いえ、こちらこそ大変失礼しました。わかっていただけたら、その、よかったです」

「給与の件も含め良かれと思ってしてきたことだが、どうやら俺の独りよがりだったらしい。アメリアの気持ちについても恥ずかしい話だが王妃になるのだから栄誉と思えと押しつけてしまっていたのかもしれない。夫の愛人くらい、王妃になるなら我慢するだろうと、ついつい男の政治を優先させてしまったようだ」

 口が過ぎた、と謝罪をすると公爵は小さく首を振る。私の反撃でざっくりと傷ついだだろうに、叱られる雰囲気はまるでなくむしろこちらを気遣っている様子さえある。

 お若いというのに出来た人だ、と素直に感心した。

 身分の低い、しかも女の言うことなど右から左へ聞き流す男の人がほとんどだというのに、この人に私の言葉が届いたのだと思うと少しだけ嬉しい。それなのに、前世のあの時は聞く耳を持ってくださらなかった。それがどうしてなのかは今となっては分かりようもない。

 ふうと息を吐いた公爵は、天井を仰いだ。そしてそれまでの苦い表情から一変して、少し困ったように眉を下げる。

「しかし王子が君を気に入ってしまったのは本当のことなんだ。あの方はどうも自分とは異なる髪色の女性に惹かれる癖があるらしくてな」

 公爵は自分の黒く短い前髪を指先でつまんだ。王子のそんな好みについては初耳だ。でもそういえば昼間に会ったときもアメリアと私を並べて太陽と月だとかなんだとか言っていたっけ。お世辞でもなんでもなく、ただの好みの話だったのか。

「銀色も、金色も似たような色かと思いますが」

「好みの問題だからよくわからん。そもそも俺もこの黒髪のおかげで気に入られているようなものだ」

 なるほど、と私は公爵の髪に目を移した。確かにアメリアの金髪とは似ても似つかない。高位の貴族は割と血が近い関係もあるのか、金かそれに近い髪色をしている人が多いことを思い出した。トレス伯の子息、エウゼビオもそういえば明るい髪色で、日に透かすと金色に近い色になっていたっけ。

 そう考えると、公爵の濡れたような艶のある黒髪は珍しい部類だ。乳兄弟と言う間柄もあり、だから側近としてお傍にお仕えしているのか。あの気安い話し方、余程王子はこの方を気に入っているのだろう。

 その王子の側近がううんと唸って腕を組んだ。

「茶会の件は断るにしても、何か理由をつけてまた呼び出されないとも限らないぞ。毎回断るわけにもいかないだろう」

 確かにそれはそうだ。体調が悪いだの、忙しいだのを理由にしたところでそれは一時しのぎにしかならない。その気になれば王子は「命令」と称して公爵に無理強いをさせることもできてしまう。ついさっきまでなら王子に限ってそんなことはしないだろう、と思っていたのだけれど今となってはその信頼も危うい。

 いや、むしろ欲しいものはどうあっても手に入れようとするんじゃないかという危機感も覚えている。

「……まあ、とりあえず来週の茶会については辞退の旨をお伝えしておこう。その後のことは今後相談──」

「いえ。行きます」

「何?」

 公爵の目が見開かれた。怪訝な色を浮かべてこちらを見、そしてやっぱりという顔をしそうなところで私は首を横に振る。

「来週のお茶会をお断りしたところでまた次、と言われてしまう可能性があるんですよね。でしたら、一度ご挨拶にお伺いして私に対するご興味をなくしていただくほうが良いかと思います。その方が公爵様のお顔も立つでしょうし」

「それは確かにそうだが。興味をなくさせるって、どうやって」

「それは……どうしましょうか。染粉で髪の色でも変えてみましょうか」

 そのほか、眼鏡のふちをもっと太くして顔を隠してしまうとか、いっそのこと茶会でお茶でもこぼしてやろうか、と考える。あまりやりすぎると男爵領のみんなに迷惑になってしまうかもしれないし、匙加減が難しい。

 それに本当は王子に会うのは怖い。今日みたいに情緒がかき乱されるかもしれない。みっともない姿を晒したいわけではないし、アメリアのことを考えれば大人の態度を貫くのが正しいことだとは理解している。王子への信頼も、前世の頃を含め今までにないほど揺れている。

 でも私の心に残る恋慕がある限り、ムードに流されないとも言えないところが情けない。何度も呼ばれてしまえば、危機感や恐怖より他の気持ちが勝る日がきてしまうかもしれない。

 ううん、と考え込んでしまうと、公爵が大きくため息を吐いた。

「仕方ない。君を殿下に会わせてしまった責任もあるし、俺も同行しよう。いくら殿下といえども、婚約者の兄がいればよその女性に無体をすることもあるまい」

 重くなった口ぶりは気が進まないことの表れであろう。私が公爵を見上げると、黒髪の青年は眉間に指をあててしわを伸ばそうとしていた。