「婚約者ですのに不甲斐ないわたしをお許し下さい。でも学校へ行けなかった代わりにとても良い先生に巡り合うことができました」
「お、おいアメリア!」
「ご紹介しますわ。エルネスタ先生です」
王子に抱きかかえられながら振り返ったアメリアは、満面に屈託のない笑みを浮かべていた。二心なく真っ直ぐな瞳に微笑まれ、私の胸は一際強く痛む。しかしここで黙っているわけにはいかない。この場にいる誰もが私の前世など知りもしないのだから。
「アメリア、勝手なことはよしなさい」
王子を前にはしゃぐ妹君を、珍しく公爵が厳しい顔で制する。しかしすでに話題に上って紹介されてしまった以上、ここから逃げられるわけでもない。
胸の痛みを押し殺し、私は王子とアメリアに向かって膝を曲げて深々と頭を下げた。今の王子は私のことを知りもしない。けれど、今は彼に顔を見られたくない。そして顔を見るのも辛い。
「……ご紹介にあずかりました、エルネスタ・エマ・ヅィックラーでございます。ご挨拶が遅れまして申し訳ございません」
「ヅィックラーとは、ああ、ヅィックラー男爵のご令嬢か。確か先日王立大学を首席で卒業されたと聞いていたが、まさかその才女が公爵家にいるとは驚いた。おや、アメリアと並ぶとその見事な銀の髪が映えるね。まるで太陽と月だ」
「こ、光栄に、ございます……」
声は震えていなかったか、姿勢は宮廷儀礼から外れていなかったか。心配することは山のようにあるが、親しみを込めた声音で返答され思わず目頭が熱くなる。社交辞令と分かっているのに、銀の髪を褒められると鼻の奥がつんと痛み、ますます顔を上げられなくなった。
歪む視界の中、前に立つ公爵の黒光りしている革靴の先端だけをじっと見つめ、にじみ出る涙が零れないようにするのが精いっぱいだ。
「今日はお天気が良いので先生とお庭の植物や虫の観察をしていたのです。お兄様は虫が苦手ですけれど、アルベルト様はいかがです?」
「ははっ。ユリウスは昔、蜂に刺されてから苦手になったんだっけね。私は蝶や蜂くらいなら平気だよ。アメリアはどんな虫が好き?」
「わたくしは蜻蛉かしら。蜘蛛もふわふわしていて愛らしい姿をしているものもいるので好きです。エルネスタ先生から蜻蛉や蜘蛛は病気を媒介するような虫を食べてくれる益虫だというのを教えてもらいましたから」
「よさないかアメリア」
「いいよ、ユリウス、構わない。なるほど。それでは私も蜻蛉を好きになろう」
まだ幼いともいえるアメリアに合わせているとはいえ、王子の声も屈託がない。公爵と比べるとこちらが本当の兄妹だと言われてもおかしくないほどの近しさだ。そんな二人の様子を、これほど近くで見せられることが辛かった。
もちろんアメリアに非はない。王子にだってない。
前世はともかく、今の人生において私と王子は初対面であり、風の噂で存在を知る程度の間柄なのだ。聖女でもない私は王子と結ばれることなどありえない。
知らず、手がスカート越しに内腿のあざへと伸びた。これさえ明らかにしていれば、今頃の私は聖女試験に合格していただろうか。そして、数年後にあの笑顔を向けてもらうことができただろうか。
今更そんなことを考えていても仕方がないのは分かっている。あざの発現と同時に蘇った前世の記憶に慄き、処刑される未来を回避するべくあざを隠したのは自分自身だ。王子との未来を選ばなかった側の自分が、今目の前に広がる世界を恨み、アメリアに対して嫉妬の気持ちを持つなどおこがましい。
でもこの場に居続けることが辛くてたまらないのは変わらないのだ。目を伏せていても耳に聞こえる二人の無邪気な笑い声に、どんどん視界が滲んでくる。せめてこの場から退出させてもらえたらと思うけれど、この機会を逃したらもう王子の姿を見ることもできなくなるかもしれない。そんな僅かな未練が足を縫い付けるように私をこの場に留めていた。
「なるほど、アメリアは先生に教えてもらってとても楽しそうだね。元気に学ぶことができて私も嬉しいよ」
「ご紹介くださった大学の学長先生とお兄様に感謝しています。そしてわがままなお願いを聞いてくださったエルネスタ先生にも」
「いい子だ、アメリア。感謝の気持ちを忘れてはいけないね。そうだ、ヅィックラー嬢」
不意に名を呼ばれ、はっとする。顔を上げることができないので膝を曲げて応じると、王子はふふっと笑い声を漏らした。
「これほどアメリアが楽しそうに勉強の成果を話してくれるとは、君はとても良い先生のようだね」
「恐縮でございます……」
「今度よかったら私にも昆虫の話を聞かせてくれないか? 城の庭園を案内しよう。公爵家の次のお休みはいつになる? 迎えの馬車を用意するから、是非」
城の庭園と聞き、私は言葉に詰まった。手をつなぎよく一緒に散歩をして、季節のきれいな花々や蝶を見てはそれを象ったブローチやネックレスなどを贈ってくれた思い出が、まるで昨日のことのように溢れてきたのだ。
ぱたぱた、と両の目からしずくが零れた。もうだめだ。このままでは嗚咽まで漏れてしまう。
すると、それまで隣でじっと立っていた公爵が一歩進み出た。王子と私との間に体を割り込ませ、その背で王子からの視線が遮られる。そしてふわりと頭から何かをかけられた。──公爵のジャケットだ。
「失礼、殿下。ヅィックラー嬢は少々体調がよろしくないようです。風にあたりすぎたのやもしれません。退がらせていただいてよろしいですね?」
「なに、それはいけない。早く休ませてやるといい。すまなかったね、ヅィックラー嬢。長話に付き合わせてしまったようだ」
体調、と言いかけた私の肩に公爵が軽く手を添えてきた。抵抗しきれない程度の力加減で屋敷のほうへと押される。
行け、ということだろうか。ジャケットの下で慌てて涙をぬぐい顔を上げれば、そこにはアメリアや王子のものとは異なる色素の濃い、ほとんど黒と言っていい瞳があった。
こわばった表情に吊り上がった眉。礼儀に外れたと言って叱られるのだろうか、と思えば違うらしい。急かすように肩を押され、アメリアたちとは反対へ体の向きを変えさせられる。
「さあ、行こう。殿下、少々席を外します。アメリア、くれぐれも失礼のないようにな。グラッド、ソフィ、少し頼む」
「はい、お兄様。エルネスタ先生、お大事になさってください」
執事と侍女に後を託し、公爵はジャケットごと私の体を抱えるように歩き始める。大きな歩幅で歩かれ、私のほうは半ば小走りになった。
「なんだい、ユリウス。やけに優しいじゃないか」
「雇用主として当然の配慮ですよ、殿下」
「へえ。じゃあ今はそういうことにしておこうか?」
背後で聞こえた王子の声には、ほんの少しとげが含まれている気がする。しかし今はそれどころではない。後ろ髪を引かれながら歩いていると、またアメリアと王子の笑い声が耳に届く。それが更に涙腺を刺激した。
庭園を出るころ、私の喉は耐え切れずに嗚咽を漏らした。
「フィデル! フィデルはいるか!」
母屋へ入ると、屋敷内で控えていたフィデルがさっと現れた。しかし公爵のジャケットを頭からすっぽりかぶり中でしゃくりを上げている私に気づき、げ、と蛙のような声を上げる。同時に公爵の前だというのに、露骨に眉をひそめた。
「……お前、まさか泣かせたのか?」
「馬鹿を言うな。ヅィックラー嬢の気分が思わしくない。すぐに離れへ連れて行ってやってくれ。俺は殿下のお相手をする」
「わかった。しかし、ユリウス、ジャケットは? 殿下の御前では」
「いい。今日は非公式と殿下自らおっしゃっていた。アメリアもいることだし」
「ってわけにもいかないだろう。ほら、これを」
そう言うとフィデルは自分が来ていたジャケットを公爵に手渡した。
「すまんな。先生はかなり取り乱しているようだから、あとは頼むぞ」
「……承知しました。ヅィックラー様、お足元にご注意の上こちらへ」
私を引き取ったフィデルは、公爵を見送るとすぐに