王子殿下の微笑み

 やあユリウス、という朗らかな挨拶がやけに大きく聞こえるのはこの場所のせいもあるだろう。日差しを遮るための半球状の屋根の内貼りは王子の声を柔らかく反響させた。

 懐かしいその声に胸がぎゅうっと締め付けられて痛い。最期の時に見た冷たい横顔ではない、優しげな顔を真正面から見ることが辛すぎた。

 ゆるく波打つ金色の髪に透き通る青い瞳。この世の春を思わせる、穏やかな微笑み。歩いている姿さえ優雅さが漂う王子は、あの夢で見た姿よりやや若い。

 そうか、あの時より五歳もお若いのだ。とすると、公爵同様に二十一、二歳。前世ではまだお目にかかってお声をいただいて間もない頃のお姿だ。そう気が付くと胸の痛みがさらに鋭くなる。

 聖女として日々の祈祷を行っていた私は、年初めの儀式を終えた後に王家の方々に呼ばれそこで初めて王子であるアルベルト様と出会った。成年となった王族に、一年の祝福を与えるのも聖女の大切な仕事の一つだった、その時、成人となられたアルベルト様は初めて祈祷の祭壇までおいでになり、私は祈りをささげた香油をあの金色の髪に落としたのだ。

 前世ではここから五年後。あの朗らかな笑みが消え失せ冷たい瞳で私に処刑を言い渡す。その場面を思い出すと、身も心も凍らんばかりに震えが這い上ってきた。

 いたたまれなくなった私は、椅子から立ち上がり公爵の後ろに隠れるように下がった。するとさっと公爵が私の前に体を入れた。位置的にアルベルト様と私の視線を遮るような形だ。

「御用があればお呼びください。こちらから王城へ伺いますから」

「堅苦しいことは言いっこなしだよ。私とユリウスの仲じゃないか」

「乳兄弟とはいえ、今の私は公爵の爵位を賜っておりますからね。貴方もこの国の王位継承順一位の大切なお体だ。お立場をお考えください」

 横から聞けばちくりと釘を刺したような公爵の言葉も、王子は意に介した様子もない。陽気に笑い飛ばし、屋敷の主に勧められる前に椅子に腰かけてしまった。そこは私がさっきまで座っていたところです、とは言わない。もちろん言えるわけもない。私自身、公爵の後ろでなるべく王子に見えないよう、小さくなったままだ。

 公爵はグラッドさんに新しいお茶を持ってくるように指示をした。老齢の執事はそれまで慌てていたなどとは微塵も思わせない仕草で優雅に一礼して去っていく。

 この時に一緒にさっと下がればよかったのだろう。しかし機を逸して私はすっかり立ち往生してしまった。

 今更アメリアのもとへ行こうにも、東屋を去る前に挨拶をしなければさすがに不自然だろう。しかしこの屋敷の使用人という立場ではないがただの家庭教師である私が、王子に向かって許しもなく挨拶をするわけにはかない。男爵令嬢なんて肩書は、本物の王族を前にしたら一般市民と同程度なのだ。下手に声をかけたら不敬罪と罰せられる可能性だってある。

 公爵が下がれと命令してくれたらよかったが、言われた時は動けなかったし今動いたら逆に不自然だ。結果、背の高い公爵の背の後ろで小さくなっているしかない。

 しかしこの場に居続けることが苦しかった。かつて恋しく思っていた人の、穏やかな笑顔を見ているのが辛い。優しげな甘い声音を耳にするのも切なくなる。処刑の恐怖を思い出したくなくて、また処刑の未来につながることを恐れて、絶対に会いたくないと思っていたのにこのざまだ。

 こんな形でお顔を見てしまえば、以前感じていた愛しい気持ちがよみがえってしまうじゃないか。

「わざわざ屋敷までおいでになったのは、いったいどんなご用件で? お話が長くなるなら応接室でお伺いしますが」

 挨拶らしい挨拶をかわすことなく口火を切ったのは公爵だった。王子はそれを受けるとふうっと肩を竦める。

「いや、非公式の訪問だ。天気もいいしここで済まそう。先日も議題に上がっただろう? あれだよ、あれ。今期の聖女が不作だって話についてね」

 聖女、という単語が王子の口から出てきて私の体はびくりと反応した。

 待て、落ち着け。私のことではない。

 私のことではないが、今期というのは前世の私が聖女の試験に合格したころである。不作と言われるほど同期の出来が悪かったかどうか、記憶を手繰り寄せるが思い出せない。あの頃の私は自分自身の修行に必死で、競うように修行をしていた同期の顔なぞろくに覚えてもいなかったからだ。

 でもそれが不作とはいったいどういうことだろう。

「不作など、そのような言い方はお控えくださいと申し上げましたよね」

「いいじゃないか、ここ以外、よそでなんて言わないよ」

「人間、慣れは恐ろしいもんですからね。普段から言っていると、いざってときにも出てきますよ」

「でも君の前では少し愚痴らせてもらってもいいだろう? 今期の候補生、先月から月に二回ずつくらい試験をしているんだけれど、いまだに合格者が一人も出ていないんだ。それで父もちょっと不安がっていてね」

「候補者が未熟だったということですか?」

「修道院側が言うには、慣例通りの試験のはずだ。いつもと同じように数年修行しているんだから、受かる人材がいてもおかしくないんだがねぇ」

 聖女と聞いてほんの少しだけ王子から気が逸れた。慣例通りであれば、聖女の試験は私が受けた時と同じものであるはずだ。全員でこの国の祭祀の歴史や儀式の意味などに関する筆記試験を受け、そのあとは祈祷、占いなど各種儀式の実技試験を経て結果発表となったはずである。合格した私の場合、筆記試験が満点だったのではないかと思っている。だって、実技の試験をちょっと躓いたのを覚えているから。

 正直、普通に勉強して本を読んでいれば筆記試験の難易度は高くない。あくまで私にとっては、だったけれど。

 問題は実技である。実技試験のほうは立ち居振る舞いから宮廷の礼儀作法、そして神にささげる歌、踊り、祈りの儀式、式の振興など、一から十まで細微な動きを再現せねばならないため難しい。一寸の狂いもなく、完全にお手本となる先代の動きを真似る必要がある。祈祷に至っては祈りの種類や場面によって祝詞のりとも違えば動きも違って、面倒くさかったことこの上ない。今更あれを受けろと言われても面倒すぎていやである。

 我ながらよくあの年齢で受験し、ちゃんと受かったものだ。その後にしっかりとやり遂げ、聖女としての仕事を全うできたのはひとえに根性と凝り性の賜物だったと思われる。

「みんなね、とっても頑張って修行をしていると噂なんだけれど、どうにも実技試験で合格の水準に達しないんだ。みんな一連の動作の中、どこかが間違ったり混乱して止まってしまったりしてしまうんだと。この間は危く火事を出しそうになっていたよ」

 火事……ということは占いの実技でのことか。

「火事とはそれは一大事だ。候補生や試験官にけがは?」

「幸いにもほかの神職や試験官が大勢見ていたからね。すぐに火は消し止められ、候補生はその場で失格となったそうだ」

「気の毒な」

「しかしおかげで最近では父上も神職たちも、今期の聖女は神の祝福がないのではないかといいだしてね。まあこの時代に神の祝福もあったもんじゃないとは思うが、場合によっては今の聖女の任期を延ばして対応するかってことになるかもしれん」

「今の聖女様の任期を延ばすのですか? それは、ご実家筋がいい顔をしないのでは」

「そこなんだよ。任期が延びれば延びただけ、彼女の婚期も遅れてしまうしね」

 話題になっている聖女は前世における私の前任で、確かとある伯爵家の遠縁にあたる娘だったはずだ。なるほど、適任者がいなければ任期を延ばすというのは一つの方法だろう。しかし貴族の娘の婚期が遅れるのは、家同士の勢力争いも関係してきて厄介になる。

 聖女は高位の貴族の前で儀式を行う機会がある都合上、その場で見初められることも多い。歴代の聖女は任期を全うすると貴族の子息や隣国へ輿入れするのが常らしい。

 だから私も前世では王子に見初められ、婚約をしたのである。

「そこで私は考えたんだ」

 そこまで少し悩んだ様子で話をしていた王子は、突如声を弾ませた。

「なんです?」

「今期の候補生より下の子、つまり次回に向けて修行している子たちも繰り上げて試験を受けさせてみてはどうかなって。若い分長く聖女を務めてもらえるかもしれないだろう? この案を明日の御前会議で君に後押ししてほしいんだ」

「いえ、次代になるとさすがに少し若すぎるのでは……? 修行も途中でしょうし、まだ十代半ばになっていない者も多いはず。であれば今の聖女様にもう少し頑張っていただくほうが現実的だと思いますが」

「そうかな、次の子たちもなかなか優秀だというし、無い話じゃないと思うけどなぁ」

 そういえば今話題に出ている「今期」とは、私が前世で試験を受けた世代ということだ。そこに合格者が出なかったということはどういうことだろう。候補生は等しく厳しい修行を課せられそれを修了しているはずで、ことごとく不合格になるというのは不自然ではないか。

 それはあたかも合格するべきものがいなかったと神が判断したかのようだ。

 前世でその試験に合格したはずの私が、「聖女の証」を無かったことにしたから。まさかそのせいで──。

「アルベルト様!」

 ぐるぐると渦を巻く思考は、アメリアの元気な声で遮断された。

 顔を上げると内気な人見知りである公爵家令嬢が大きく手を振りながらこちらへ走り寄ってくる。それに気が付いた王子も、椅子から立ち上がって両手を振り回した。

「やあアメリア! 久しぶりだね。大きくなったじゃないか」

「ご無沙汰しております、アルベルト様!」

 東屋に飛び込んできたアメリアは、勢いよくアルベルトの胸に抱き付いた。日頃はおしとやかでおとなしい令嬢だというのにこれはいったい、と公爵の顔を見上げると苦虫を噛み潰したように眉根を寄せている。

「アメリア、無礼だぞ。控えなさい」

「気にすることはないよ。そうだ、学校に行くのは取りやめたと聞いていたけれど、元気だったかい?」

「いやだ、お兄様ったら。アルベルト様には内緒にしてって言っておいたのに」

「いやいや、君の様子はきちんと知らせてくれって私が頼んでいるからね」

 ね、と王子はアメリアの頬に唇を寄せた。公爵家令嬢は頬を桃色に染め、うれしそうに王子の首に抱きつく。一見すればただ微笑ましいだけの光景に、私の胸がずきりと痛んだ。

 かつての想い人が、私との記憶もなく、目の前で子どもとはいえ別の者に親愛の情を向けているのを目の当たりにして喉の奥からひどく汚い、熱いものがこみあげてくる。

 できることなら今すぐこの場から消えてしまいたい。それが叶わないのであれば、神様に耳と目を塞いでほしい。あの頃はさんざん奉仕して、朝に、晩に、あんなに祈りを捧げているのだから一度くらいは願いを叶えてくれたっていいじゃないか。

 しかし私のそんな我儘な願いなど叶うはずもなく、王子の口は滑らかに動き続けた。

「私の未来の奥さんのことだもの。何でも知っておきたいのさ。ダメかな、我が婚約者さま?」

 艶のある二人の金色の髪が重なった。

 王子と、そして公爵家の令嬢。考えてみればこれ以上ない組み合わせである。公爵家の兄妹の母君は現国王の妹君であるから、王子にとってアメリアは従兄妹という関係になる。歳は十歳ほど離れてはいるが、血筋で言えば申し分なく高貴な姫君だ。

 ああそうか。

 前世で公爵があんなにも冷たい目で私を見ていた理由が分かった気がした。

 おなかの奥底で熱くどす黒いものが渦を巻き、今にも喉からあふれ出そうな感情を必死に押さえつけている私と、それに対して冷や水をかけて見下ろしている私。二つ相反する気持ちがないまぜになり、頭の中がぐらぐらとかき回される。怒りなのか、悲しみなのか、それとも醜い嫉妬なのか、羨望なのか、何が何だか分からないもので体が破裂してしまいそうだった。

 しかしただ一つ分かっていることがある。

 今の私には、この光景と情報に対して何も言う権利がないということだ。