五年先の前世の婚約者
公爵家令嬢の家庭教師となってはや半月。眼鏡は結局直す暇がなくて少し歪んだままだ。
今日は昨日から続く良いお天気だったので、午後の授業を繰り上げて屋敷の庭園で草花や虫の観察をしようということになった。
アメリアはそれを聞いて大喜びした。簡単な昼食をとるとすぐに日常用のドレスからさらに動きやすい服に着替えるといって、ソフィさんとともに部屋へ帰って行ってしまった。日頃は礼儀正しくしている彼女にそんな子供っぽい一面があると知り、こちらまで楽しくなってしまう。
そして戻ってきたときには少年のようなズボン姿だったことには驚かされた。隣に立つソフィさんが言うには、公爵の少年時代の服らしい。少し困り顔をしていたけれど、令嬢がそんな恰好をすることを
庭に設えられた東屋に簡単なお茶の支度だけしてもらい、私はそこで待機をしながらアメリアの質問に答える形式の授業にすることにした。庭に出てそう告げると、アメリアは勇んで草木が茂っているあたりに走っていく。三つ編みにした長い金髪がころころと彼女の背を転がり、それが彼女の気分を表しているようで見ているこちらもなんだか楽しくなってくる。
「エルネスタ先生、この木の葉と、こちらの草の葉は模様が違いますね?」
「そうですね。この葉の模様を何と言ったか覚えていますか?」
「葉脈です。水や、栄養を通すための管です」
「よく覚えておいでですね。植物の種類によって網目のような葉脈を持つものと葉のむきに平行な葉脈を持つものに分かれているんですよ」
へえ、と興味深げにまじまじと二枚の葉の観察を続けるアメリアに、私の頬は緩みっぱなしで止まらない。きらきらした目でじっと葉の表面を見ていたかと思えば、裏に返して触ってみたり、葉の根元の断面を見てみたり、と非常に熱心な様子で観察をしている。
「こちらを使って見てみてください。小さなものも、よりはっきり見えて新しい気づきがあるかも?」
そう言って小ぶりの拡大鏡を渡すと、アメリアははしゃいだ声を上げてまた庭のほうへと駆けていった。
本当に生き物が好きなのだろう。手や膝が土で汚れるのも気にせず、地面に顔を近づけて葉の生え方を観察していると思えば、小さな虫食いの跡を見つけると庭木が多く生えているほうまで走って虫を探しに行ってしまう。そして疑問が浮かべばすぐに質問に戻ってきて、疑問が解ければまた走って行ってしまう様はまるで令嬢らしくない。
しかしそれが彼女の可愛らしく、素直でよいところと言えるだろう。
そんなアメリアを微笑ましく眺めていると、妹の歓声が聞こえたのか屋敷の中から公爵が姿を現した。今日は公務で城まで行っていたと思ったが、正午を過ぎて帰ってきていたらしい。略式の礼服を着たままのところを見ると、また出かけるのかもしれないが。
東屋までやってくると、失礼と言って私の対面の椅子に腰かける。そして遠くではしゃぐ妹を眺めて公爵は目を細めた。
先日の夕食の一件以来、二人になるのは初めてだ。私はアメリアのほうに顔を向けながら、横目でこっそり公爵の様子を窺った。
あの夜からこっち、折を見て銀貨をお返ししようと思っていたのだがタイミングが合わずにいた。母屋ですれ違うときはいつもフィデルかグラッドさんが一緒で、なんとなく「お金を返します」とは言い出しづらかったのだ。今日に至ってはまさかこんなところに出てくるとは思っておらず、もちろん銀貨の小袋などもってきてはいない。
また、あの夜は何か相当な衝撃を受けていたように見えた。しかしあんなに険しい顔を見たのはあれきりで、今は全く普段通りの様子で胸をなでおろす。
「今日は屋外実習かい?」
「お天気も良く、お庭の芝も乾いていましたので良い機会と思いまして」
「なるほど。これなら服もそれほどひどく汚れないという配慮かな」
よくわかっていらっしゃる。
どれほど侍女のソフィさんや屋敷の使用人たちの理解があってアメリアが望んだとしても、やはり汚れ物の洗濯の手間はできる限り減らしたほうがいいだろうし、令嬢の身だしなみを考えれば汚くならないほうがいいわけで。
晴れた日が続いて乾燥している今日ならば、泥汚れも付きにくかろうとソフィさんと相談した結果である。
「アメリア様は本当に生き物がお好きなようです。お庭に出た瞬間から生き生きとしてらっしゃいますね」
「小さなころから小鳥や猫と触れ合っていて、好きなのだろうとは思っていたよ。それ以外にも草木やほかの生き物にもそんなに興味があるとは知らなかった」
「小さな虫にも驚かれず、むしろ手に取って観察もしていましたよ。この間などお部屋に飛び込んできた蜻蛉を──」
「と、蜻蛉?」
何気なくアメリアの興味の向くものに話題を寄せると、公爵は顔をしかめて身を仰け反らせた。
「あ、あの子は、虫も平気で触るのか? 噛まれたり、刺されたり、危ないじゃないか」
「はい、あまり苦手意識はないようです。むしろお好きかも……。ああ、ご心配には及びません。毒虫などがいればすぐ捨てるようにお知らせしますから」
「そ、そういう問題では……」
しまった、と私は話題の選択を間違えたことに気が付いた。公爵はあまり虫がお好きではないらしい。これは黙っておいたほうが良かったかもしれない。そう思った時だった。
視界の隅を何か黒っぽいものが横切った。そして同時にぶうんという高めの羽音が聞こえる。
あ。蜜蜂。
と思って口に出そうとすると、突然公爵が立ち上がった。
「あ、危ない、ヅィックラー嬢!」
テーブルを挟んで向かい側に座っていたというのに、ばっと両腕を広げて私と蜂との間に体を割り込ませてきたのだ。あっという間に私の視界は黒いジャケットを着た公爵の背に覆われてしまった。
「こ、公爵様?」
「くっ、こっちへ来るな! あっちへ、おいこらっ、あっちへ行け!」
必死の様子で手を振り回している公爵の肩越しに見れば、蜜蜂はその手をかいくぐる様にテーブルの周りを旋回していた。いつまでたってもどこかへ飛んで行ってくれない蜜蜂に、公爵の顔がだんだん青くなっていく。
追い払われてもこの場から離れないその執着ぶりはどういうことだろうと思っていると、蜜蜂がひときわ高い羽音をさせテーブル上の茶器の間に添えられていた花に止まった。なるほど。飾られた花とはいえ公爵家の庭園でつい先ほど摘まれたもので、花の香りに誘われて飛んできてしまったのだろう。
「は、花に……っ?」
懸命に追い払おうとしていた公爵は、息が上がっているようだ。
「蜜を採りに来たんでしょうね。ちょっとお待ちください。片付けますから」
花の中心を凝視したまま動けなくなってしまった公爵の目の前から、そういって私はすぐに花器ごと花を遠ざけた。そのまま花壇へ向かい、蜜蜂が入った花をその植栽の一部へ差し込む。蜂も気が済んだら勝手に巣へ戻るだろう。
そういえば蜜蜂がこんな風に飛んでくるなんてどこかに巣があるのだろうか。あるいは養蜂場なんかがあるのかもしれない。だとすれば一度アメリアを連れて見学に行ってみたいものだ。
「もう大丈夫ですよ、公爵様」
くるりと振り返ると、そこにはいまだ放心状態の公爵が固まったままこちらを向いていた。
「公爵様? もう大丈夫ですよ?」
「あ、ああ……その、蜂……は?」
「花壇に咲いている花と勘違いしたのでしょう。日が暮れる前にきっと勝手に巣に戻ると思いますよ」
ほら、と空の花器を見せると公爵は細い溜息をついて机に突っ伏してしまった。よほど苦手なのだろう。アメリアとは正反対の様子に、なんだかおかしくなってくる。それなのに蜜蜂から守ろうとしてくれたのか。
私は頬が緩みそうになってくるのを堪え、手元の茶器からカップに茶を注いだ。
「……君は、その、蜂も平気なのか?」
突っ伏したままの公爵にそうっとお茶を勧めると、虫嫌いな青年は恨めしそうな目をして顔を上げた。
「あれより大きくて攻撃性の強い種類の蜂に会ったら逃げますが、蜜蜂くらいならば平気です。彼らの仕事は花の蜜を集めて巣に運ぶことですから、仕事の邪魔をしなければとても温厚な虫なんですよ」
「……虫が温厚とか、そんなことがあるもんかね」
「あるんですよ、意外と。先制攻撃をしてくるような凶暴なものもいますが、たいていの虫は自分の身が危なくならなければこちらに危害は加えてきません。慣れると可愛い顔をしている種類の虫も多いんです。公爵様は蜂……いえ、虫がお好きではないとお見受けしますが……」
「すごいな、君は……俺はその、蜂は……いや、虫全般が、ちょっと」
一度刺されてから怖くなったんだ、とものすごく疲れた顔をして公爵はまた卓に突っ伏してしまった。
これは相当だ。しかしこれはよろしくない。アメリアが虫が好きでちょくちょく観察しているのを止められてしまうかもしれない。
「あ! あの! 蜂なんですけど、蜜蜂って蜂なのでみんなに怖がられますけど! けど、あの子たちはただ花の蜜を吸ったり花粉を集めたりして巣に持ち帰るだけのおとなしい良い子たちで! いじめない限り向こうから攻撃してくることなんてないんです。あと、それから、ええっと、あの子たちが蜜を吸うときに花に潜り込んでくれることでちゃんと受粉ができて、果物や野菜の実ができあがるんで、とっても、とっても役に立つ虫なんです。あと、あとですね、ええっと、おいしい蜂蜜を作ってくれて、それに、実はすごく賢くて、仲間内で羽音や巣の中の動きで暗号みたいなことを伝えあって──」
「もういい。もうわかったから……」
一生懸命説明をしていると、視界が公爵の手のひらで遮られた。見える範囲いっぱいに広がった大きな手のひらに、あ、と息を飲む。
しまった。またやってしまった。
謎の使命感に駆られて蜜蜂を擁護するための
ああ、と今度は私が頭を抱えて突っ伏した。興奮すると、早口で知っていることを喋りまくってしまうのは私の悪い癖である。普段はハンナや父くらいにしかやらないのに、どうしたことだろう。
呆れられていないだろうか、それとも余計なことを話しすぎるなと叱られるだろうか。うるさいから解雇、とまではいかないだろうけれど、万が一言われたらどうしよう。内心ビビり散らかしていると、頭上でぷっと吹き出す声が聞こえるではないか。
「公爵、さま……?」
恐る恐る目を上げれば、そこには顔を真っ赤にして口元を抑えている公爵がいた。目が合うとまたぷぷっと吹き出し、そして今度はこらえきれないように口を開けて笑い出す。
「こ、公爵様……? なにか……?」
「い、いや、すまない。君があまりにも一生懸命に蜂を擁護するもので、それがおかしくて」
「申し訳ございません! 無理やり聞かせるような真似を……!」
「気にしないでくれ。むしろなるほどと勉強になったよ。もっと聞かせてほしいくらいだ」
時折笑いを交えながら話す公爵の言葉はつっかえ気味で聞き取りにくかったけれど、とにかく気分を害していないということは伝わった。目の端ににじんだ涙をぬぐいながら笑う様子に嘘はなさそうだ。ほっとして肩の力を抜くと、なんだか私のほうもおかしくなってくる。
前世の印象もあり、会っている間は必要以上に緊張をしていたけれど、この世界では公爵もいたって普通の、いや意外と可愛いところもある同年代の男性なのだろう。冷血漢と世間では噂があるらしいが、いったいこの人のどこがそんな噂に繋がるのかわからないほどだ。王城での仕事の最中と、自宅である屋敷では違うのだろうか。
「そういえば君の卒業研究は虫による人の病気の媒介現象に関するものだったか。学長がそんなことを言っていた気がする。それなら虫が怖くないのも納得だな」
「苦手なものもいないわけではないのですが……えっと、虫にも害虫とされるもののほかに益虫と言われるものがいまして──いえ、なんでもございません。お聞き流しください」
「まだ何か講釈をしてくれるのか? やはり苦手な虫もそれほどいないと見える。そうだ、今度屋敷にいるときに虫に出くわしたら追い払ってもらうか。いつもならフィデルに頼むんだが、あいつもあまり得意ではないようでね。もちろん、その業務にもちゃんと給与を支払おう」
まただ。またお金の話である。
は、と公爵を見ると、嘘や冗談を言っているようには見えない表情を浮かべている。私は慌てて首を振った
ただでさえ貰いすぎているのだ。まだ今月の給与をいただいていないというのに、手元には銀貨二百枚以上がある。クロエの言っていた相場以上を、ほんの半月程度でいただいてしまった計算である。いくら公爵家の屋敷の中に住んでいるとはいえ、部屋にそれだけの銀貨を置いておくことについてもそわそわするし、これ以上受け取るのも怖い。ここはしっかり断るべきであろう。
「要りません。そんなのいただかなくても虫を追い払うくらいわけないことですのでお呼びください」
「そうは言ってもだよ、エルネスタ先生。それも仕事となれば対価が発生してしかるべきだ」
「受け取る側が要らないと申し上げております。虫を追い払うくらい、道ですれ違った赤の他人同士でもできる行為です」
「この間も聞いたが、君は金が欲しくはないのか? 官吏の任用試験を待っているとは言うが、金があれば試験を受ける必要もないのでは? それとも何かほかに俺に願うことでもおありかな?」
「試験までの間、お雇いくださったことは感謝しております。お金に関しては暮らしていけるだけあれば十分です。ほかに願うことなど……逆にお伺いしますが、公爵様はなぜ、そんなに給与、いえ銀貨を私にくださろうとするのです?」
そうだ。
なぜそんなにお金を払いたがるのか、私に銀貨を持たせたがるのか、ずっと尋ねてみたかったのだ。相場の何倍もの給与を支払って家庭教師として雇ったうえ、さらに何かにつけて増額するなどいくら公爵家の経済力があってもおかしい。
私は姿勢を正して公爵を見つめた。
和やかなはずの昼下がりの庭園で、私たちのいる東屋の中だけ少し温度が下がったような気がする。私を見つめ返す公爵の目からは笑みが消え落ち、眼の光に冷気が宿った。一切の感情をなくしたようなその瞳は、前世の刑場で私を睨みつけていたあの目と重なる。怯みそうになるが、この世界での私はあの時の私ではない。俗世から隔絶されて育てられた世間知らずではなく、領地や大学で様々な目に晒されてきたのだから度胸だってついてるはず。
見つめ合ったお互いの視線は、それぞれが相手の心の内を探る様に交わり続けた。
どのくらいの時間が経ったのだろう。先に唇を動かしたのは公爵だった。
「……金が要らないということは、他に目的でも?」
「……は?」
「いくら仕事の依頼をしたいという話でも、あのように不躾な招きにほいほいと応じたのには何か理由があるのでは? 金か、それともこのヴォルフザインと王家との伝手でも狙いに来たのかと考えたんだがね」
ふ、と公爵が鼻を鳴らした。肩を竦めるように首を振ると、その顔からは先ほどの酷薄さは消え、苦い笑みが浮かんでいる。
なぜかその表情を見ると胸が痛くなった。何度か公爵の笑顔は見てきたし、ついさっきは心からおかしそうに笑っていた顔を見たはずだ。何か悪戯を企んでいたり、自信に満ちていたりする笑顔ばかりだったのに、これはいったいどういうことだろう。
そして彼の言葉の意図するところがつかめない。仕事の話にほいほいと軽率についてきたのは認めよう。ただ、お金が欲しかったといえば確かにそうだが、勧誘をしてきたのは公爵だしヴォルフザイン家と王家の伝手とは何の話だ。それが私と何の関係が、と口を開きかけたときだ。
母屋のほうから急ぎ足でやってくる執事のグラッドさんの姿が見えた。いつもは穏やかな笑みを浮かべていて足音もするかしないか、とても静かに行動をするひとだけれど今日は違う。慌てたような様子で、いつものやさしい微笑みは引っ込んでいる。
黒スーツに身を固めた老執事は東屋にいる私たちを見つけるとさらに足を速めた。そして近づくや否や、殿下がお見えです、と告げたのだ。
それを聞いて私の体は硬直した。
「どうしたグラッド。殿下がお見えとは?」
「王城より急ぎの御用とのことで、殿下がご自身でお見えになっております。応接室へお通しするように指示を出しましたが……」
「なんだと……いや、すぐ行く。エルネスタ、君は早く離れへ戻りなさい」
血相を変えた公爵の口調が厳しくなった。しかし私の体はまだ雷に打たれたように自由がきかない。公爵の声が実際以上に遠くに聞こえる。
「……え?」
「早く! 今すぐここから──」
そう言いながら母屋を振り返った公爵が言葉を切った。視線の先など、追わなければよかったと思うも遅い。遅かった。
ひどく見慣れた、それでいて今生では絶対に見たくなかった、そんな朗らかな笑顔で片手を振っている男性が歩いている。陽光をまろやかに反射する黄金色の髪がまぶしい。
「アルベルト……さま……」
彼の顔を凝視したまま私の口からこぼれた言葉は、風にあおられた庭園の木々のざわめきに呑み込まれたのだった。