上から見つめてくる瞳の奥は、呑み込まれそうなほど深い黒だ。私が思わずその色に見入っていると、公爵は無言で膝をついて顔を近づけてくる。ゆっくりと近づいてくるその瞳の中央で、眼鏡を掛けていない私が間抜けな顔を晒しているのが見えた。銀貨を突き返そうと激しく頭を上げ下げしたせいか、食事前に束ねていたはずの髪もぼさぼさだ。

「ヅィックラー嬢、君は……」

 愕然と目を見開いていた公爵は掠れた声で呟いた。

 はっとしたのはお互いほとんど同時だっただろう。唇に吐息がかかり、二、三度瞬きをすると瞳の近さに心臓が一回大きく跳ねた。その反動で身を仰け反らすと、公爵も同様だったようで後ずさろうとでもしたんだろう。避けきれず、ガタンっと大きな音を立てて床にしりもちをついてしまった。

「だ、大丈夫ですか!」

 今度は私が慌てる番だ。こんなところで怪我でもされたらたまったもんじゃない。

 しかし腰をさする公爵に駆け寄ると、当の本人はぷいっと顔を背けてしまった。眉間には深いしわが寄せられ、そして唇がぎゅっと固く結ばれている。この人生で出会ってから初めて見る、険しい顔だ。

 しまった、怒らせてしまったか。不慮の事故とはいえ、公爵を転ばせて怪我をさせてしまったかもしれない。そう思うと心臓がきゅうっと縮む思いがする。

 クビにされたらとりあえず今手元にあるお金でどのくらい凌げるだろう、今からでもエウゼビオの弟君の家庭教師になれるだろうか、いっそダリオおじ様に強引にどこかの部署にねじ込んでもらおうか。

 一瞬のうちに様々な「実家に帰らなくて済む方法」が頭を駆け巡る。

 しかし公爵は特に声を荒らげることもなく体を起こすと、床に落ちたままになった小袋を拾い上げて卓の上に置きなおした。

「こ、公爵様!」

 私の声にしいんと静まっていた居間の空気が震えた。

 君は、と公爵の小さな呟きが零れる。

「……金が欲しかったんじゃないのか?」

「は? え? いや、それは……なければ暮らせないので欲しくないわけではないですが……もともと裕福な家の出でもないので、無ければ無いなりの生活を……」

「……暮らせれば、良いと? そんなことは、いや、しかし……やはり、あれは……。いやでも、まだ……」

 狼狽えたように公爵は首を振った。整えられていた前髪がはらりと額に落ち、戸惑いを含んだ表情に影を落とす。私から外された視線は、当てもなく宙をさまよっているように見えた。

「公爵様……?」

「いや、いい。今のことは忘れてくれ。こちらの話だ。どうか、気にしないでくれ……」

 こちらの話?

 何のことだ。耳に引っかかった言葉に首を傾げる。さっき、やはりとかなんとか言っていた気もする。

 しかし公爵はその後私と目を合わせることもなく、沈鬱な面持ちで背を向けてしまった。肩を落として歩き出すその姿は、食事を終えた時までの自信に満ちた貴族の当主とは別人のようだ。もちろん、銀貨の入った袋はそのまま卓に置き去りである。

 私はその小袋に手を伸ばすこともできず、足取りのおぼつかない様子だった公爵の背を見送ることしかできなかった。