増える賞与

「ヅィックラー嬢、食事を一緒にしないか」

 と、公爵に言われたのは雇用されてから一週間ほどが経ってからのことだった。

 エメルダの更迭とグラッド夫人の復帰で屋敷の中が少し落ち着きを取り戻し、各々の使用人は仕事に集中できるようになっていた。母屋だけでなく使用人エリアの厨房もきれいに整えられ、食材は丁寧に洗われて調理されてきて、私としても一安心だ。食事や衛生状況の影響をもっとも受けるのが屋敷の中で唯一の「子ども」であるアメリアだったから。

 大人たちにはある程度の抵抗力があることが当たり前だけれど、子どもはまだあらゆる流行病や食あたりで死んでしまうこともある。屋敷の衛生状況が向上することは、アメリアの命を守ることでもある。それを力説するとグラッド夫人は鬱陶しがることもなく親身になって話を聞いてくれ、近頃体調が思わしくなかったというアメリアの食事は体に優しいものを揃えるように請け負ってくれた。夫人をはじめ使用人の女性たちが、私の大学で学んだことや研究したことに一目置いてくれたのがこの屋敷にきて一番の収穫だったかもしれない。だってハンナなんかは、私が何か言うとすぐにお嬢様は神経質だ、なんて言っていたのだから。

 ちょっとした充足感を得られる数日間を過ごし、午前二時間の授業が終わり部屋に下がろうとしたところで、ちょうど帰宅した公爵と鉢合わせた際のお誘いに私は首を傾げた。

「お食事、ですか?」

「そう。エメルダの件で君にもとんだ迷惑をかけてしまったようだからね。ここ数日、慌ただしかったのでゆっくり話す機会もなかったし、この辺でアメリアの状況も確認したいと思っているんだが」

 どうかな、とほほ笑む公爵の後ろでは、従僕のフィデルが驚愕の表情で目を見開いていた。そして苦虫を噛み潰したような顔でこちらを睨みつけてくる。肩を怒らせ全身で「断れ」と主張しているのがわかるが、こればっかりは私のほうから断れるものでもない。

「え、ええ。光栄です。ですが……」

「では今夜」

 二の句を告げさせず、当たり前のように今夜を指定される。つまり、一緒に食事をとることは決定となったということだ。こちらが拒否するなんて思ってもいないのか、「では」のあたりでくるりと私に背を見せる。尊大な態度ではあるが、少なくとも前世での頃のように憎々しげに対応されることもなく、こちらに対してずいぶんと配慮している様子がわかる。

 今生での公爵と前世で見た公爵。出会い方が異なるせいなのか、二人が同じ人物であると頭の中でつなげられないほどに「違う」ことに頭が混乱しそうだった。私にとっての公爵の記憶は、王子の隣に立ち、呆れたような、あるいは憎悪に満ちた視線をぶつけてくる目つきが全てだ。

 当時はなぜあのような扱いをされていたのかさっぱり分からなかったが、今になって思えばもっとも近しい側近を差し置いて身分の低いぽっと出の聖女が王子の傍に侍っていたのが気に入らなかったのかもしれない。現在における公爵の従僕、フィデルのように。

 それにしたって話したこともない状態だったというのに、ひどい嫌われようだと思ったものだ。

 しかし今の公爵は妹君にも優しく、使用人たちの話を聞くところによると良い主人であると評判だった。妹君の家庭教師となった私に過剰なほどの待遇を示してくれるような、そんな器の広さも持っている。本来の公爵の人柄というのは、こちらが正解なのだろうか。

 詳しいことは分からないけれど、雇用主と考えればアタリの部類だ。

 対するこちらは、とフィデルを見やれば思い切り眉根にしわを寄せていた。何が気に入らないのか、とにかくちまちまと突っかかって来る青年に対して申し訳程度に会釈をすると、フィデルは顔を赤くして回れ右をしたのだった。

 気に入らないなら気に入らないで何か言ってくれればこちらも対処しようがあるのに、はっきりとは言わないところが面倒くさい。虫の一件も彼の仕業かどうか、結局のところはっきりしないし。

「……まったくあの主従ときたら……」

 今夜の給仕にフィデルが付いたら、食事がおいしくなくなりそうだなぁ。

 私は胸の前で教材である本とノートを抱え直し、与えられている離れへと戻った。


 午後の授業は語学にして、ちょっと難しい古語の詩について読み方、時代背景などをアメリアに説明した。あまり得意ではない分野だったから説明が滞らないようにと準備を入念にしていたけれど、うまくいったかは少し自信がない。途中から話が歴史方面に傾いてしまったのは、アメリアの質問がそちらに集中していたからだろう。

 しかし疲れた。終わって部屋に下がり、ひっ詰めていた髪を解いて眼鏡を外すとようやく一息ついた気分になる。でもまだ今夜はもう一仕事あることを思いだすと、気合を全部抜いてしまうわけにもいかない。

 さて夕食まで何をしようと本棚を漁っていると、離れの渡り廊下と居間を隔てる扉の外をこんこんと叩く音がした。

「俺です。ユリウスです。授業が終わったと聞いたので、そろそろ食事をこちらに運ばせる準備をしてもいいだろうか」

「は、はい?」

 私は外して卓上に置いておいた眼鏡を掛け、慌てて扉を開けた。いつもの夕食の時間にはかなり早い。そして常ならば食事は母屋の子ども用の食堂でアメリアと食べるのだが、そこへ公爵が交ざるというのではないのだろうか。運ばせるとは?

 扉の外には普段着のシャツとスラックス姿のヴォルフザイン公爵が立っていて、飛び出した私を見ると相好を崩した。いつも背後にくっついているフィデルの姿はない。

「やあ、ヅィックラー嬢」

 ここはごきげんよう、とでも挨拶をせねばならないところだろう。しかし私は公爵へ膝を曲げることもそこそこに、廊下へ首を伸ばし左右を見渡した。

「こ、公爵様? あの、食事を運ばせるとは、いったい?」

「連日慣れない屋敷で我々に合わせてもらいっぱなしだろう? 君も相当お疲れじゃないかと思ったのでね。今夜は俺の分と君の分をこちらに運ばせることにした」

「あ、アメリア様は?」

「君を休ませるためと言ってソフィに任せたよ」

「そんなお気遣いいただかなくても結構で」

「我が妹が喜々として君の授業の話をしてくる。よほど本だけではなく人に教えを乞い学べることがうれしいのだろう。妹の大切な家庭教師殿に対する、わずかばかりの礼です」

 こちらはれっきとした雇用の関係だ。礼など前金と給与で十分もらっている。やはり一介の家庭教師に対する待遇ではない。

 しかし今更こちらから母屋の食堂に伺うと言っても、関わる給仕の皆さんの迷惑になってしまうかもしれない。戸惑っているうちに公爵はずかずかと居間へ入ってきて、机に置きっぱなしになっていた今日の教材を興味深げに眺め始めてしまった。

「これは、アメリアの字ですね。試験?」

「は、はい。一日おきに、前回分の内容の確認に行っています」

「ごく簡単な内容に見えますが、これで妹の何かがわかるのですか?」

「アメリア様は大変聡明でいらっしゃるので、授業の内容はすっと飲み込んでくださいます。しかしそういったお子様は忘れてしまうのも早いもので、知識を定着させるために繰り返し思い出させて差し上げることが重要なのです。そのため、授業内容を思い出すことを中心にした試験にしております。初等学校内容の基本が一通り終わったあたりで、今度は応用や考察が必要な授業を行っていければと思っております」

 応用編、特に深い考察が必要なものはおいおいやっていくつもりである。十一歳という年齢の少女には、まず初等学校の一年次、二年次当たりの学習内容をしっかり身に着けてもらう必要があるからだ。

 さっと説明をすると、公爵は満足げに頷いた。

「よく考えてくださっている。感謝します。あの子の希望を叶えることができ、俺としても君を迎え入れた甲斐がある」

「恐れ入ります」

 本当にこの公爵は妹君を大切に思っているのだろう。ご両親が早世しているので、親代わりであれば当たり前なのかもしれない。

 アメリアは公爵家の令嬢だから、無理をして学校へ行き学識を得なくても不都合はない。しかしこの先何かしらの形で国政にかかわる立場にならないとも限らないから、というのも嘘ではなく、彼女のそういった身分から考えても高等学校程度のことまでは学んでおいて損にはならないのだ。

 その学びのために家庭教師を、しかも大学を出た女性という稀な人材をわざわざ確保して囲っておくというのは、公爵家、あるいは王家といった経済力があってのことであろう。妹君への深い愛情の賜物、ともいえる。

 実際にアメリアのことを話すときの公爵は、端正な顔をほころばせることが多い。彼女を見つめる目は穏やかで、前世の冷たい視線を寄越していた人と同一人物であるとは信じられないくらいだ。

 今もアメリアの学習内容を眺めて目を細めているが、公爵から見てもなかなか満足のいく成績であることは間違いない出来だ。なにせほぼ全ての問題の答えに二重丸がついているのだから。

 優秀な妹で、さぞかし鼻が高いに違いない。人見知りが過ぎて学校へ行けないという部分を差し引いても、アメリアは十分に優秀で可憐で、どこへ出しても恥ずかしくない生徒だ。

 私は卓上の教材や紙の束を棚へと戻した。明日の授業で、彼女には兄君が褒めていたと伝えてやらねばならないだろう。そういえば公爵は妹君の夢をご存じなのだろうか。

 卓上を片付けていると、じきに扉が叩かれ食事が運ばれてきた。一瞬フィデルが給仕だったら困るな、と思ったがやってきたのは年の若い給仕係のメイドだ。二段になったワゴンに食器や鍋を乗せて部屋へ運び入れると、早速卓上をセッティングしてくれる。今日の主菜は羊だろうか。香ばしい脂の焼けたにおいにおなかがきゅうと鳴りそうだ。

 手伝おうかとしたところ、丁寧に固辞され早々に椅子に座らされてしまったため、私は公爵の話し相手を務めることになった。既に公爵は果実酒のグラスを傾けていて、私にも赤い液体の入ったグラスを勧めてくる。

 お断りすることもできず受け取り一口なめると、甘口ながら後味のほろ苦さが心地よい。アルコール分が濃いのか、ほわっと喉が熱くなるが公爵と席をともにする緊張感をほぐすのにはちょうど良さそうだった。

 公爵の質問はやはりアメリアの興味や成績に関することだ。私はこの一週間ほどで感じたことをそのままアメリアの兄君へとお伝えした。

 アメリアは十一歳という年齢の割に大人びた容姿をしていたが、中身は年相応の少女で数学や科学といった自然にまつわることに強い興味を持っていた。反面、刺しゅうや詩吟といったものは不得手とまではいかずとも、あまり好んで学びたい分野ではないらしい。乳母だったエメルダに代わって淑女教育を受け持つソフィさんがちょっと困っていたっけ。

 部屋の窓を開けていたら入り込んできた蜻蛉とんぼを素手で捕まえ、顔の観察をしていたと聞いたときは驚いた。今度屋敷の庭園にあるという池にいって、蜻蛉の幼生を取ってこようかなんてことも、私の頭の中にはあるけれどこれは内緒だ。令嬢の教育にはふさわしくない、と言われてしまったら困る。

 そのほか、牛や馬、山羊といった農業に関わる動物たちにも興味を示したので、純粋に生き物全般が好きなのかもしれない。だとすると厩や牧場へ見学に行ったり、その作業を実際にやってみせたりするのも興味をもってくれそうだ。近年、開発が進んで新商品が販売され始めた顕微鏡などを使うのもいいだろう。

 そんな話をしながら時折自分の学生生活の話を織り交ぜて会話をするうちに、いつの間にかすっかり夕食は終わってしまっていた。思いもかけず和やかな時間となったことに内心驚きながら食後のお茶を飲み終えると、公爵は卓を立った。

「とても有意義な時間を過ごせたよ。ありがとう、ヅィックラー嬢。いや、エルネスタ先生」

「い、いえ! こちらこそご配慮いただきありがとうございます。大変おいしい夕食でした」

 私も公爵に倣って立ち上がり、頭を下げる。すると、耳元でじゃらっという音がした。

「引き続き妹のことをお願いする。こちらは、先日お支払した手付の残金だ。受け取ってくれたまえ」

 はっと目を上げると、卓上に形の崩れた小袋が乗せられている。ただの小袋でないことは表面に施された刺しゅうを見れば一目瞭然だった。公爵家の紋章だ。ということはこれは公爵家からの正当な報酬、という意味である。

「こ、こんなにいただけません!」

 とっさに大きな声が出た。しかし公爵は意に介した様子もなく、いや、むしろ少し機嫌良さそうに片方の唇を持ち上げている。

「こちらが感謝をして、正当な報酬として支払っているんだ。遠慮なく受け取るといい」

「いけません、公爵様。先日もこちらへ越してくる前に手付をいただいて、それだけでもう十分です。貴族のご子息の家庭教師を務めた学友に尋ねたら、彼女の一か月の給与でさえこの間いただいた手付の半分の額とのことでした」

 私はクロエから聞いた話を持ち出した。

「学友がいたのか。それが何か?」

「あれでもう十分です。向こう三か月は暮らせてしまう額に、上乗せなんてとんでもない」

「それは街で宿を取った場合の金額だろう。仕事をしているんだ。君は報酬を受け取る権利があるし、妹が世話になっている俺から君へ礼をするという意味でも受け取ってほしいものだが?」

「住むところも、食事もお世話になっているんです。それだけでも過分な待遇ですから、本当にこれ以上いただけません!」

 強引に銀貨が入った袋を押し付けられ、私は思わず怒鳴るようにしてそれを突き返していた。

 なんでこの人はこんなにお金を渡したがるのだろう。のらりくらりと理由をつけても断られていると思っていないのか、単に遠慮とみているのかわからないけれど引き下がってくれない。フィデルがいたら「無礼だ」と言われるかもしれないけれど、手に持った袋をぎゅうぎゅうと公爵の胸に押し付ける。

 だって本当にこんなにたくさん払ってもらう謂れがない。むしろ大金すぎて恐怖すら感じる金額なのだ。

 しかし公爵も譲ろうとはしなかった。片手でまとわりつく馬の顔でも払うように小袋を私の手ごと押し返してくる。

「お願いです、こちらはお持ち帰り下さい……!」

「いや、君への正当な報酬だと言っているだろう」

「本当に不要なんです、どうかお持ち帰りくださ……」

「受け取っておけっ……あ」

 お互いに小袋を押しつけ合い、何度目かにお互いの手に力が入った時だった。はっきり言ってやろうと私が顔を上げた時、ちょうど公爵の手が眼鏡の端に当たってしまったらしい。一瞬視界がブレ、カシャンと音がしたかと思うと黒い極太縁の眼鏡が吹っ飛んだ。

「す、すまない!」

 女の顔を手で叩いてしまったと思ったのだろう。泡を食った様子の公爵が大きな声を上げる。その間にもからからと乾いた音を立てながら眼鏡はテーブルの下へと転がって行ってしまった。

「怪我はないか? 当たったのは鼻か? 目であれば……」

「大丈夫です、眼鏡だけですから」

 公爵が慌てた様子で眼鏡を探そうとするのを手で制し、私は膝をついてしゃがみこみテーブルの下に手を伸ばした。拾って矯めつ眇めつしてみるが、レンズも割れていないし大丈夫だろう。どうせ私の眼鏡なんてただの伊達眼鏡なので壊れたところで何の問題もないし。

「割れていませんし、大丈夫です。長く使っているので弦の部分が少し緩んでいたのかもしれませんね。公爵様のお手にお怪我はありませんでしたか?」

「壊れているようであれば修理に出してくれ。費用は俺がもつ。君の方こそ本当に怪我は──」

 手が当たったのは眼鏡の端だけだ。私自身には当たっていない。大丈夫です、と言葉を切って顔を上げようとすると、ざりっという小さな砂を踏む音とともに視界に公爵の黒い靴が飛び込んできた。あれ、と私は動きを止める。

 なんだろう、この景色には見覚えがある。

 どうした、という声にゆっくりと視線を上に動かしていくと、上から見下ろしている公爵と目が合った。その瞬間、公爵がはっとした表情で息を飲んだ。