新顔と軋轢と
そして、数日後。迎えの馬車に乗って公爵家へ行くと、私は早速部屋に通された。
しかしそこは使用人部屋の集まる母屋の一角ではない。通された部屋を見渡して、私は開いた口がふさがらなかった。
そもそも与えられたのは部屋ではなかったのだ。母屋に隣接した別棟、つまり離れである。しかも一棟丸ごと。寝室だけでなく空の本棚がたくさん備え付けられた書斎、ソファとテーブルがある居間、簡単な料理であればできてしまう小さめの調理場、そしてちょうどよいサイズの食堂。それらが全て揃っている、まさに一軒の家である。
母屋からは屋根付きの渡り廊下で繋がれ、夜でも真っ暗にならないように柱ごとにガス灯が付いていた。室内もオイルランプとガス灯のいずれも使えるように整っており、蝋燭用の燭台もそこかしこに置かれている。夜になったら明りは蝋燭数本、という寮生活とはまるきり違ってこれは本が読み放題だ、と喜んだのもつかの間。部屋ごとの設備を見て、すぐに圧倒的な経済力に恐怖した。
給料の件といい、手付の件といい、もはや貧乏男爵家の娘には理解しがたい待遇だ。
「あ、あの……?」
私は行儀が悪いとは知りつつも、部屋を指さし隣に立つ仏頂面の青年を見上げた。
歳の頃は私や公爵と同じくらい、背は踵の高い靴を履いた私より頭半分ほど高く公爵とよく似た短い黒髪の青年は、どうぞ中へと私を誘う。事前に運んでもらったわずかな荷物は既に寝室の隅にまとめられていた。
「あ、あの……このお部屋は……誰かと一緒に使うことになるのでしょうか……?」
「いえ、こちらは公爵閣下が男爵家ご令嬢のヅィックラー様にお使いいただくようにと。不十分でしょうか」
「逆です逆です! ひ、広すぎませんか……?」
「そうですね。貴女一人には広すぎです。しかし閣下がどうしてもとおっしゃっているのでお使いください」
「……え、ええ」
「私も父から、公爵閣下の先代であるお父君や、その更に先代の公爵様がお客様を招いた際、宿泊していただくために建てたものと聞いております。しばらく使われなくなっていたので、このように、掃除が行き届いておりませんが……」
青年がすぐ近くの窓枠を指で撫でると、確かに日の光に埃がキラキラと舞い上がるのが見えた。足元を見れば、青年と私の靴の痕がくっきりと床についている。一瞬こちらを横目に見て、ふうっと指先の埃を吹いた青年は機嫌が悪そうな顔をさらに険しくさせた。
「……掃除は、ご自身にお願いしても?」
「は、はい! できます、やります!」
「左様ですか。メイドを一人寄こしましょうか?」
「いえ、大丈夫です。掃除、好きですから!」
こんな広くて立派な建物を与えられた上に掃除まで人の手を借りるなんて、雇われた側の待遇ではない。なぜかこの青年の言葉の端々に棘を感じなくもないけれど、私はぶんぶんと首を振って手荷物をテーブルに置いた。
しかしこんなに広くてお部屋の数もあるのであれば、ハンナも一緒に来てもらえばよかったと今更ながら後悔する。使用人が使用人を使うわけにはいかないと言って領地に帰らせたけれど、さすがにこれは想定外である。
「左様ですか。では、そのほかに何か入り用なものがあれば、その時にお申し付けください」
「ありがとうございます……ええっと」
「礼は不要です。私はフィデルと申します。公爵閣下の従僕を務めさせていただいております」
「ありがとうございます、フィデルさん」
「……本日は閣下が執事のグラッドとともに会議に出ておりますので、私がヅィックラー様をご案内するようにいいつかっております。何かあれば私に」
そう言うとフィデルは表情も変えずにさっと会釈をした。そのきびきびとした動きに、さすが公爵家の使用人であると感心してしまう。父の従僕は歳がいっているせいもあるけれど、もっとのんびりとしていたはずだ。
今いくつだっけ、と父の従僕の顔を思い出していると不意に郷愁に駆られた。大学に行くからと実家を出てから四年、満足に領地へ帰ることもせず、卒業したのにまた顔を見せることもなく職に就いた私は、やはり不義理な娘なのだろう。
「それでは次は母屋へ参ります」
「は、はい!」
物思いにふける暇はない。くるりと踵を返したフィデルに大急ぎでついていくと、渡り廊下から母屋の裏口へとたどり着いた。屋敷の裏庭に面しているが、植えられている庭木はどれも見事なほどきれいに刈り揃えられている。
大きなお屋敷はどこもかしこも手抜かりがないなと思いながら裏口の扉をくぐると、そこには公爵が待ち構えるように立っていた。
「やあ、来ていたか」
「ユリウス! 会議はどうしたんだ。お前の手は煩わせないと言っただろう」
「会議は手短に済ませてきた。今日はヅィックラー嬢を迎える日だ。いくらなんでも俺が不在のままという訳にはいくまい」
公爵の姿を見つけると、フィデルは慌てたように主のもとへと駆け寄っていった。それまで険しかった表情が、まるでご主人を見つけた犬の様に輝いて見える。
しかし本来使用人たちしかいないはずの区域に主がいたことによほど驚いたのだろう。呼び名から敬称が抜けて呼び捨てだった。歳も近いし、それをすぐさま咎めない程度には、この主と従僕の関係は近しいのかもしれない。
歳は離れているけれどうちのハンナもたまに口調が砕けるしな、とまた領地を懐かしんでしまう。つい今朝まで一緒にいたというのに、初めて身内と離れて暮らすということに少し緊張しているのだろうか。そんなことに気が付くと、なんとなく鼻の奥がつんとしてしまう。
まだ何か言いたげに口を開こうとしたフィデルだが、公爵はそれを遮るようにして私を手招きする。
「どうかな、ヅィックラー嬢。離れは少し古いが、君が来てすぐ不自由なく使えるよう手入れをするように言っておいた。気に入ってもらえましたか?」
「え? 手入れ……?」
さっきの広い離れのことか。
建物自体に損傷はないようだし、使うには問題ないはずだけれど、得意そうに手入れをしたと言われるとあの埃の量に疑問が浮かぶ。その時、公爵の背後に立ったフィデルがものすごく眉を吊り上げたのが見えた。喜びにあふれていた犬が、天敵を見つけて威嚇するようだ。主に自分が見えていないのをいいことに、声を出さずに「はいと言え」と唇を動かしている。
あ、と何かが腑に落ちた。
「なにか?」
「あ、はい、はい。とても広くて、その、あんな広いところを使わせていただくのが心苦しいほどで」
小首を傾げた公爵に向かってちょっと言い訳がましく告げると、フィデルの眉がゆっくりと下がる。
なるほど。そういうことか。
「なあに、気にしないでくれ。君は俺が雇用したとはいえ我が家の使用人ではない。客人の待遇で迎えさせてもらうつもりですよ」
にっこりと微笑む公爵に、フィデルは困ったように首を振った。
「ユリウス。それではほかの者に示しが……ただでさえ、ほら、今はエメルダ様がいい顔をしないのに……」
「確かにな。まあこれは当主の俺が決めたことだし、話はグラッド経由で夫人にも確認している。これからみんなに紹介か? エメルダ含め、皆には俺から言おう」
「お前の立場を思って言ってるんだぞ」
「構わん。この屋敷の当主は俺だ」
行くぞ、と公爵は廊下に連なる一つの大きな扉を開けた。その瞬間、ふわっとした油や小麦粉を焼いたときのにおいが広がる。食べ物のにおいがするということは、どうやらそこは使用人たちの食堂らしい。足元には数段、下に降りるための階段があった。公爵は私の手を取り、ゆっくりと室内へ案内してくれた。
「今日からアメリアの家庭教師を務めてもらう、ヅィックラー男爵令嬢だ」
そう公爵が告げると、数人からまばらな拍手が上がった。
半地下で薄暗い食堂に集まっていた屋敷の使用人はざっと数えて三十人は下らない。上級職、下級職の順にずらりと並んだ年齢も様々な使用人たちが、前に立つ私を物珍しそうにじろじろと見つめてくる。公爵の話によればこれでも今日は少なめで、集まっていない下級職もいるらしい。領地には百人を超える使用人がいるというから、本当に格差を感じてしまう。
その中に一人だけメイドのエプロンを着けていない女性がいた。上級職の、おそらくこの人がいわゆるメイド頭なのだろう。年はハンナより上か。険のある顔の中央には、細いけれど大きい鷲鼻が目立っていた。しゃんと伸びた姿勢に黒いけれど厚手で上質なシャツとスカート、そして肩からは鍵の束をぶら下げたサッシュを掛けている。
ともかく屋敷の中で仕事をする以上、この人にはちゃんと筋を通しておかないといけないだろう。私はそのメイド頭に向かって深々と頭を下げた。
「本日より、公爵家にお世話になることになりました。エルネスタと申します。以後、よろしくお願いいたします」
「まあまあ、これはこれはお若い先生ですこと」
煙草か、酒か。いずれにせよ喉に何らかの不都合がありそうな
「この屋敷のメイド頭をしていますエメルダですわ。坊ちゃまが急にお話があるから集まるようにと言っていたのは、あなたのことでしたのね」
「そうだ。雇用の話が皆に事後報告となってしまって悪かった。急な話だったんでな。ただグラッド達には話を通してある。こちらは王立大学を首席で卒業された才女で、俺とアメリアが無理を言って来てもらった先生だ。いわば客人。くれぐれも皆、失礼のないように頼む」
事後承諾?
いくら公爵家の当主であっても、使用人の雇用に関して家令やメイド頭に事後承諾でいいのだろうか。男爵家ですら雇用に関しては一応メイド頭にお伺いを立ててからというのが通例である。
しかしエメルダと名乗った女性は公爵の言葉にうんうんと頷きながら、にっこりと浮かべた笑顔を崩すこともない。そこであれ、と気が付いた。
エメルダって、さっき公爵とフィデルが言っていた人か? いい顔をしないとかなんとか言ってなかったっけ?
「ヅィックラー嬢。屋敷内のことはこのエメルダに聞くといい。離れに足りないものがあればすぐに用意させよう」
「あ、で、ではあの、お掃除に必要な道具をお貸しいただけますか? 掃除は自分でやりますので」
「かしこまりました。お任せくださいませ、坊ちゃま」
エメルダは微笑んだまま公爵に向かって礼をする。他の使用人たちもそれに倣って頭を下げた。
ちっとも嫌がられている雰囲気はない。しかし、なんだいい人じゃないか。と、思ったのもほんの数分のことだった。
ざっくり私を使用人たちへ紹介すると、公爵はまた仕事があると言って厨房から急ぎ足で出て行ってしまったのだ。仕事の合間を抜けてきてくれたというのだからそりゃ戻っていくだろうが、そのタイミングをもう少し遅らせてほしかった。
公爵が姿を消したその瞬間から、場の空気がさあっと冷え込んだのが分かったからだ。
気配が変わったことに振り返ると、それまでにこやかに微笑んでいたはずのエメルダの表情から、一切の友好的な色が剥がれ落ちていた。下がっていた目尻はぎゅっと吊り上がり、顎をあげて私を一瞥するとふんっと鼻を鳴らす。
「さあ、て……」
底冷えするようなエメルダの声に、年若いメイドたちが弾かれた様に背筋を伸ばした。ぴんとした緊張感どころの話ではない。中には青い顔をしている少女もいる。
「何ぼさっと突っ立ってるんだい! 早く仕事に戻りな!」
荒々しくエメルダが手を叩くと、使用人たちは蜘蛛の子を散らすように足早に厨房から出て行ってしまった。あっというまに厨房には私とフィデル、そしてエメルダの三人だけが取り残される。
他の使用人たちがいなくなったタイミングで、エメルダは苦々し気に表情を歪めて私を振り返った。
「全く、あたしに話も通さず新しい家庭教師を雇うなんて、坊ちゃまも面倒なことをしてくれたもんだよ。お嬢様の教育はあたしが請け負うって言ってんのにさ」
「……は?」
急にはすっぱな口調になったエメルダは隣に立つフィデルに顎をしゃくった。
「マナーもダンスも音楽も、詩集も読み書きも、全部あたしが教えられるって言ったのにさ。乳母だったあたしのいうことなんて何一つ聞きゃあしない。あんたもしっかりご主人を止めてくれないと困るじゃないか」
「申し訳ございません、エメルダ様。しかし閣下のご決断でしたので」
「朝から晩まで金魚の糞みたいについて歩いているくせに、使えないったらないよ」
吐き捨てるようなエメルダの言葉に、フィデルは澄ました様子で頭を下げる。
「では金魚の糞として、私はユリウス様のお供をせねばなりませんので失礼します」
にやりと意味ありげに口元を歪め、フィデルは踵を返した。足早に立ち去っていくその後ろ姿は、わずかに肩が怒っているようにも見えるがどうだろうか。
というか、だ。こんなに私に対して好意を持ってくれていない人と二人にしないでほしい。そしてお掃除用具。
エメルダと二人で厨房に取り残されたと気づいた私は、恐る恐る彼女を振り返った。
「あ、あの……」
「今のあたしの話を聞いてなかったのかい? あたしはね、あんたがこの屋敷に来ることなんて認めてないんだ」
「そ、そうはおっしゃいますが、公爵様からの直々のご依頼で……」
「それがどうしたのさ。あたしはね、坊ちゃまが赤子のうちから乳母としてお仕えしてるんだよ。どこの馬の骨か知らないが、ちょっと成績が良かったくらいでしゃしゃり出てこられたら迷惑なんだよ。世の中ね、女が知恵付けたってろくなことになりゃしない。うちのお嬢様だって学校なんぞに行くくらいなら、修道院で聖女様の修業をしたほうがよっぽど役に立つ礼儀作法が身につくってもんさ」
威圧的な物言いに怯んでしまった私だったが、ちょっと成績が良かったくらいでと言われればカチンとくる。必死に勉強して大学を卒業したことを、なんだか馬鹿にされた気分だ。
そもそも私がここに雇われたのは、当主とその妹君が家庭や自力で行える勉強以上のものを望んだからだろうに。あなたにそれを提供できる力があるのかと問いただしたい。
しかしエメルダは私の言葉が途切れたのを反論できないと解釈したらしく、くるりと背を向けた。
「分かったらさっさと辞表を出して出ていくこったね。いくら坊ちゃまでも、自分から出ていくといったものを引き留めることはしないだろうよ」
「そんな」
「あとね、あんた、離れの部屋に傷一つつけてごらん。承知しないよ。あんたみたいな小娘にあの離れを使わせるなんて、前のご当主様がお聞きになったらどんなに気分を害されることか」
ふんっとまた鼻を鳴らしてエメルダが厨房を出て行ってしまうと、一人取り残された私は大きく息を吐いて肩を落とした。
挨拶だけしかしていないのに、とんでもなく疲れた。
エメルダは長年この屋敷で乳母として働き、育てた兄妹が当主になったためメイド頭に就任したということか。当主を育てたというプライドがあるのか、人事権を無視されたことが相当気に食わないんだろう。
とはいえ、それをこちらに当たられても困るし、アメリアの望む教育については彼女から得られるとは思えない。本音を言えば公爵とエメルダの間で解決してほしい問題だ。しかしなにより私は手付金も頂いている上に、この幸運な職を手放すわけにはいかない。
「……まあ、気長にやるしかないか」
職場環境に馴染むのも勤め人ならでは、ということなのだろう。大丈夫。大学に入りたてのときも、なんだかんだいって貴族の坊ちゃんたちにいやな顔をされたし、都会のお嬢さんたちとはなかなか話せなかったし。言い方は悪いがこういうのは慣れているし、馴染み方を知らないわけじゃない。やっぱりハンナを連れてこなくて良かったかもしれない。
そしてそこで私ははたと気づいた。
「……お掃除道具、借りられなかった……」
慌ててきょろきょろと辺りを見渡してみるが、棚にあるのは銅や鉄の鍋や水差し、めん棒に包丁といったものの他、雑にたたまれた布巾ばかりだ。でもこっそりこの布巾を雑巾代わりに借りていくわけにもいかない。
部屋の隅にでも箒や桶でもないものかと探してみるが、該当するものは見当たらない。そういったものは掃除用具のお部屋にしまわれているのだろうか。ちょっと汚れたから掃除しよう、という時に不便だと思うんだけど。
それにしても、と私は手のひらをみてため息を吐いた。ちょっと物を探そうとしただけで随分と手が汚れてしまっている。いくら使用人たちの厨房とはいえ、もう少しお掃除をした方が良いのではないだろうか。手近なところにちょいちょいっと掃除できるものがあれば、手間を感じずにいつもきれいにしておくことができるのに。
茶色っぽい埃やごみがうっすらと付いた指先をスカートの後ろで払った私は、厨房から廊下に出て使用人さんを探すことにした。下働きをしている子の一人でも見つければ、掃除用具のありかを聞けるかもしれない。
──が、その目論見は見事に外れた。
厨房を出てすぐにさっき並んでいた使用人の少女の一人を見つけて声を掛けようとしたところ、顔を見るなり脱兎のごとく逃げられてしまったのだ。声をかける隙なんてない。はっとした顔をして一目散に走り去っていく少女の後姿はまさにおびえる兎のようだった。
おそらくエメルダの機嫌を損ねることを危惧しているんだろう。屋敷に仕える下級の使用人にとって、滅多に会わない当主より直属の上司であるメイド頭のほうがよほど恐ろしいらしい。その気持ちが分かってしまう程度には、エメルダのことを怖いと思っている自分がいる。
しかし困った。
私は部屋の床に残されたくっきりとした靴跡や、棚に降り積もった埃の山を思い浮かべた。いくらなんでも、あのままの状態で今夜眠ることはできない。なんとか寝室だけでもお掃除したい。
でも現状、お掃除用具を借りる当てがない。どうする、持ってきている古い服を一つ切って、雑巾にするか……でもただでさえ少ない服を切ってしまったら、洗濯に困るかもしれないな。新しいものを買うという手もあるけれど、と思っていた時だ。
「……あの」
ちょいちょい、と袖を引かれて後ろを振り返ると、柱の影でお仕着せのエプロン姿の一人のメイドさんが辺りを窺いながら手招きしていた。
「離れのお掃除ですよね。すみません、お手伝いはできないのですが、こちらをお使いください」
口元に手を当て、声を潜めて話す女性は私より少しばかり年上のようだ。栗色の前髪の下で、辺りを注意深く見回しながらこっそりと雑巾、手桶、箒を手渡してくれた。
「ありがとうございます、ええっと」
「ソフィと申します。一応、アメリア様付きの侍女です」
「ありがとうございます、ソフィさん」
礼を告げて掃除道具を受け取ると、ソフィさんはまたきょろきょろと辺りを窺った。
「エメルダ様に見つかるとうるさいので、これくらいしかできませんが」
「いえ、助かりました。さすがにお掃除なしでは眠れそうもないお部屋だったので……」
「まあ……」
ソフィさんは眉をひそめた。掃除の件に関してはどうやらフィデルの差し金のようだけれど、というのは黙っておく。
とはいえ彼女も私と話しているところを見られたら立場がないかもしれない。掃除用具を手に私が会釈をして立ち去ろうとすると、ソフィさんはまた私の袖をちょいっと控えめに引いた。
「エメルダ様はああいう風におっしゃっていますが、アメリア様も当主様も、ヅィックラー嬢がいらっしゃるのを大変待ち遠しく思われていました。明日から、どうかアメリア様のことをよろしくお願いいたします」
「ありがとうございます。そう言っていただけると、心強いです」
メイド頭兼乳母が何と言ったところで彼女の学習意欲を支える気持ちは変わらない。そこへアメリア付きの侍女という彼女のような存在がいることが分かって、私は実のところかなりほっとしていた。上司の思想に染まって女に教育は不要だという人ばかりであれば、アメリアはさぞつらいだろうと思ったから。
できることならもうちょっと彼女からアメリアの様子などを聞いておきたいと思ったけれど、彼女も仕事があるだろうしエメルダや若い使用人たちに見つかると厄介だ。
私が掃除用具を手に会釈をすると、意図が伝わったのかソフィさんはわずかに微笑んで仕事に戻っていった。
そして結局その後私はたった一人で、約半日かけて離れの寝室と居間を掃除した。
運動不足を思い知らされながら箒をかけ、雑巾で棚や床を拭き上げた。とりあえず今日眠ることができそうな程度まで掃除を終え伸びをすると、体中から変な音が漏れるほどだ。これほど動いたのはどれくらいぶりだろう。
しかしエメルダの言動を忘れるために無心で掃除をしたおかげで、その晩は夢も見ずに泥のように眠れたのだった。
そして翌日の朝。
いよいよ初授業である。
簡単に朝食を済ませた私は離れで身支度をすると、事前にフィデルから教えてもらった通りにアメリアの部屋へと向かった。
広い公爵の屋敷は客を迎えるエリアと、当主たち家族のエリア、そして使用人のエリアに分かれて建てられているらしい。この間ダリオおじ様と伺った応接室は、まさに「お客用」のエリアで調度品なども最上級のものが並んでいた。しかし指示された通りに向かった当主たちの家族エリアはそこまでの豪華さはなく、調度品も装飾も上品ながら華美にならない程度に並べられているだけだった。
とはいえ、わが男爵家とは雲泥の差ではあるが。
このくらいであればこの前ほど粗相をしてはならないと極度の緊張をすることもなさそうだ。幾分安心しながらアメリアの部屋までたどり着くと、私は扉を叩くべく手をあげ──そして止まった。
足元にうごめく何かを見つけてしまったからだ。
それも一つ二つではない。黒っぽくて、長かったり丸かったり、イガイガしていたりと様々な形をしていて、ひとつ残らずもぞもぞと奇妙な動きをしている。
私は自分の頬が一気に持ち上がったことに気が付いた。扉を叩こうと持ち上げていた手が即座に足元に向かう。そして落ちている物体の一つを顔の高さまで持ち上げた。
「……虫! あ、こっちはまだ幼虫!」
うわあ、と思わず歓声が漏れた。思わず廊下にしゃがみ込み、落ちている虫たちを両手で掬い上げる。
「何の幼虫かしら。季節的には蛾だと思うけれど、色味がくすんでるし栄養が足りてないのかしら。ああ、こっちはこんなに大きなムカデ……珍しい……でもちょっと弱ってる? あ! あなた、コオロギ? どうしたの、後ろ足が一本なくなってるじゃない。ずいぶんと大柄ね。これじゃ飛べないでしょうに。やだ、このお屋敷の庭って、こんなに大きく虫が育つの? やったぁ」
うれしい、うれしい。街中じゃこんなにたくさんの虫に出会うことが少なくて、研究を続けるときに観察対象を探すのに苦労していたのがうそのようだ。なんでこんなところに落ちているのかというのはもはや頭の中からどこか遠くへ飛んで行ってしまっている。
「やだもう、ちょっと箱持ってくればよかった。どうしよう、ちょっとあんたたち動かないで。いい子に待っててよ」
言って聞かせて分かる相手ではないということは十分承知の上で、でも浮き足だった気持ちのまま虫たちに話しかけていると、ぎいっと何かが軋む音がした。音にハッとして口を噤み、顔を上げるとそこには薄く開いた扉の影から覗いているアメリアがいる。
時間になったのにやってこない私を心配したのか、それとも私の狂喜する声が聞こえたのか。しまった、と思うがもう遅い。恐る恐るといった風に扉からこちらを見ていたアメリアが、ゆっくり目線を下ろして固まってしまった。
「あ!」
しまった。
私は慌てて手に持った虫たちの上にノートをかぶせた。若い少女にこんな大きな虫たちを見せるものではない、ということを大学時代にいやというほど経験したからだ。卒業研究に明け暮れていた際、飼育していた虫が同期の女子学生に見つかり大騒ぎになったのはまだ記憶に新しい。
学生でさえそうだったのだから、深窓の令嬢であるアメリアがこれを見たらどんなことになってしまうだろうか。背中に冷たいものが走る。
しかしだ。
アメリアは目を丸くしながら扉の外に出てきて私と同じようにしゃがみ込み、かぶせたノートに手を伸ばした。
「あ、アメリア様、それは……!」
「……まあ……」
私の制止より早く、アメリアの手がノートをめくってしまった。来るべき悲鳴に覚悟を決めるが、当のアメリアは目を輝かせて私の手の中を見つめている。そしてあろうことか、中の一匹を白い指で摘まみ上げた。
「エルネスタ先生……この虫は、なんていう虫ですか?」
「……えっと、大まかにいえば、コオロギという種類の昆虫です……」
「すごく、長い脚がありますね。短い脚と、長い脚で六本?」
「……そう、ですね。昆虫なので胸部から三対六本の脚が生えています」
「胸部とは、虫は胸から脚が生えるのですか? あ、でもそちらの長い体の子は脚がいっぱいありますね」
「そうです……あの」
平気なのですか、と尋ねると、アメリアはきょとんとした顔で小首をかしげた。
「いえ、女性は虫があまりお好きではない方が多いので……」
「先生はお好きじゃないのですか?」
「いいえ、私は好きです」
いや、むしろ大好きだ。彼らの生態にも興味があるし、彼らと人間との関係も興味深い。野菜や果物を作るためには昆虫が不可欠な半面、周期的に流行する感染症にも昆虫がかかわっている可能性がある。家畜たち同様に人の生活にかかわっていることが分かり始め、研究しがいのある生き物たちだと思っている。
でも一般的な好みではないのは理解しているから、だから高貴な身分のアメリアだってきっとと思ったのに、目の前にいる少女がにっこり笑ってコオロギを見つめていることに驚きを隠せない。
「……アメリア様、もしかして虫はお好きですか?」
「え……あ、はい。でもこんなに近くで、たくさん見せてもらったことがないので珍しくてつい……」
ぽっと頬を赤らめ、アメリアが目を伏せた。長いまつげが彼女の白いなめらかな頬に影を落とす。恥じらいが混じったその可愛らしい姿に倒錯的な何かを感じそうになり、私は頭を振って邪念を追い払った。
「小鳥や猫は近くで見せてもらえることもあります。あと、馬も、馬車から覗くくらいですが。でも、エメルダさんや他の皆さんが虫はすぐに追い払ってしまうので、こんなに近くで見たことがないのです」
「アメリア様は生き物がお好きなんですね」
うれしそうにこくりと頷いた、アメリアはまた私の手の中にいる芋虫やムカデを興味深そうに覗き込んだ。
「その黒っぽい緑色の柔らかそうな虫は蛾の幼虫です。ランプに寄って来る蝶のように羽が大きい虫をご覧になったことはありますか?」
「はい。でもこの虫は羽がありません」
「蝶や蛾という虫は、子どものときはこういった形をしているんです。成長して時期が来ると羽が生えたあの形になります」
ぱあっとアメリアの顔が輝いた。なるほど、こういったことに興味があるのか。初回の授業の内容は初等学校で学ぶ歴史や数学を、と考えていたけれどこのまま生物の授業を続けてしまうことにしよう。
芋虫を人差し指でそうっと撫でたアメリアは、続けてその隣のムカデを指さした。
「では、こちらの足がいっぱいある虫は……」
「触らないでくださいね。そちらはムカデと言って、噛まれると大変です」
「噛むんですか?」
一瞬ぎょっとしたように指を引っ込めたアメリアだが、かといっておびえた様子もなくまじまじとムカデを覗き込んだ。
「ムカデは肉食で小さな虫や小型の動物を食べてしまうんです。とても強力な顎を持っているので、噛まれたらケガをしますし毒を持っているのでうかつに触れてはいけません」
「……まあ。先生は大丈夫なのですか?」
「手のひらに載せている分には大丈夫ですよ。つまむと怒って噛むことがあるので気をつけてください」
「足がたくさんあるということは、これは地面の上を歩く虫なのですね。だから平らにしている手の上なら、地面と思って噛まないということでしょうか」
「そうですね。上から触ろうとすると頭を持ち上げて威嚇することがありますよ」
ほうとアメリアはため息のように長い息を吐きながらムカデを見つめ、そしてまたその隣の大ぶりな芋虫を指先で撫で始めた。余程生き物に興味があるのだろう。確かにこんな都会に屋敷を構える高貴な貴族のご令嬢であれば、家の中で虫が出ても使用人たちがそそくさと片付けてしまうし実物を見る機会もない。田舎育ちの私でさえ、屋敷に虫が出たらハンナや厩番が履物で手早くつぶしてしまうのを何度も見ている。
でもそこではたと気が付いた。
なんでアメリアの部屋の前で、こんな大きく育った虫たちが、しかも基本的に嫌われ者と言われる種類の子たちがたくさん落ちていたのだろう。本来一か所にいるはずのない組み合わせもある。
つまり、と私はあたりを見回した。これらは誰かがわざと、私がここに来ることを想定してばら撒かれた虫たちなんだろう。私が大量の虫を見て悲鳴を上げて逃げると思った、誰かの嫌がらせなのではないだろうか。
第一に思いつくのはフィデルだ。私がこの時間にここにやってくることを知っているうえに、一応男性だし虫を集めてばらまくくらいのことは簡単にやりそうだ。昨日までに部屋の準備をしていなかったのも故意のようだし、余程私が気に入らないと見える。
犯人がフィデルだったら、いやそうでなかったとしても残念だったわね、思い通りにならなくて。
「さあ、アメリア様。お部屋に入りましょう。今日は虫の身体の観察と、虫にかかわるちょっとしたお話からにしましょうか」
「はい!」
アメリアは頬を赤らめながらも元気に返事をした。
公爵家令嬢とともに入った部屋は、もともとは書斎だったのだろうか。壁一面に作りつけられた本棚と、窓辺に面した簡素ながらも天板が広くて使いやすそうな机が印象的だった。本棚にはかつてぎっしり本が詰め込まれていたんだろう。すっかり日焼けしてしまっている柱と比べて、ぽっかりと空いたいくつかの棚の奥はまだ木目もしっかり見えるほどに無垢な色のままだ。
すうっと息を吸い込むと古い紙の香りで胸がいっぱいになる。どんな香水より今の私にとってはいい香りだ。
机のところまで案内してくれたアメリアは、ここが亡き母上のお気に入りの部屋だったと教えてくれた。
「お母さまは私が幼い時分に亡くなってしまってあまり共に過ごした記憶がないのですが、とても本がお好きだったとお兄様がおっしゃっていました」
「そうでしたか。どおりで、少し古い本もあるようですけれど、とてもきれいに保管されていますね。いい本棚、いいお部屋です」
「あまりにも古すぎる図鑑や辞典はお兄様が片付けてしまって、ちょっと寂しい本棚なのですが……」
「これからはアメリア様のお好きな本や、新しい図鑑なども入れていきましょう。じきに片付けるところがなくなってしまうかも」
冗談めかして言うと、アメリアはくすくすと肩を揺らして笑った。私は手に持ったままの虫たちを大きな机の上に並べた。
もともと弱っていたのか、それとも手のひらの温度のせいか、どの虫も動きが鈍い。観察するにはちょうどいいけれど、このままではすぐに死んでしまうかもしれない。もっと早く紙で箱でも作ってその中に入れておけばよかったか。
さてどうしたものか、とアメリアを振り返ると少女も虫たちの動きが良くないのが分かったのだろう。ちょっと心配そうに見つめ、そして私に視線を向けた。
「先生、この子たちはもう逃がしてあげましょう」
思いもかけないほどきっぱりとした提案だった。
「いいのですか?」
「はい。実物をこんなに近くで見られてとても興味深かったです。でも、本棚には虫の図鑑もありますし、それを見ながら先生にお話を伺うこともできます」
「でも、外に逃がしても足がなかったり弱っていたりですぐ死んでしまうかもしれませんよ?」
「あ……でも……」
一瞬躊躇ったアメリアだったが、すぐさま真剣なまなざしで虫たちを見つめる。そして、やっぱり逃がしてあげましょう、とつぶやくように言った。
「たとえ死んでしまうとしても、自分たちの家や土の上の方がきっと……」
私は頷いて虫たちをノートの端に乗せた。意図を察したのか、アメリアは机に身を乗り出し窓を開ける。風とともにふわりと流れ込んできたのは、爽やかな新緑の木々の香りだった。窓の隙間からそっとノートを傾け、虫たちを地面に落とした。
「彼らが生きられるかどうかは分かりません。しかし、私はアメリア様のお優しいお気持ちを嬉しく思います」
照れくさそうに笑ったアメリアは、本棚の下の方から大きな図鑑を取り出した。最新版とまではいかないが、それなりに新しそうな図鑑である。
それから私達はしばらくの間、図鑑を眺めながら逃がした虫やその近縁種の説明を読みあった。
今日のところはまずアメリアとの距離を縮めることが目的だったのだが、もうほとんどそれは達成されたと言っていいだろう。まさかこんな風に虫談義から話が弾むとは思わなかった。
「そういえば、先生は大学で虫が病気を伝える可能性について研究されていたとか……」
小さな羽虫のページを見ていると、ふと思いついたようにアメリアが尋ねてきた。奇しくもそのページに載っている虫は人間や動物の血を吸うタイプの虫である。近年、これらが感染症を媒介するという可能性が示唆され、研究者によって少しずつ解明が進んでいる分野だ。
「よくご存じでしたね。ご興味がおありですか?」
頷きながらアメリアを見れば、それまで興味深そうに輝いていた表情が少し陰っている。
「……お母さまも、お父様も、流行病で亡くなったので……。その、私、病気を治す薬を作れるような、そんな勉強をしたくて……」
消え入るようなほど小さな声で告げられたそれに、私の胸がぎゅっと締め付けられた。
「ただ、私はこのように公爵家に生まれてしまい、将来、そういったお仕事ができるわけでもないと思うのです。けれど、病気に苦しむ人を少なくするための勉強には、その、興味が……」
ご立派です。
そう言ってあげたかったのに、胸が詰まってうまく言葉が出てこない。話す代わりに私は少女の肩をそうっと抱きしめた。馴れ馴れしいと叱られるかもしれない、不敬であると罰せられるかもしれない。けど、そうせざるを得ないほどに、わずか十一歳の少女の言葉が重かった。
「先生?」
急に抱きついた私にアメリアが心配そうに手を添えてくれる。なんて優しい子なんだろう。鼻の奥がつんとしそうになって、私は慌てて笑顔を作って体を離した。
「ご立派です、アメリア様。微力ながら私もお手伝いいたします。理科や数学といった分野はこれから科学技術が発達する社会では絶対必要になる学問です。女性であっても、学んでおけばきっと役に立ちますし、将来の夢がおありでしたらぜひその道に──」
お進みください、と続けた私の言葉は外から扉を叩く音にかき消された。ドンドンドンという、上品とは言い難い音が数回続いたかと思うと、名乗りもせず用件も言わないまま扉が開けられる。そして現れた女性は私を見てまあと大きな声をだした。
「お嬢様! お作法の時間ですよ!」
転びそうな勢いでワゴンを押しながら大股で駆け寄ってきた女性は、私を認めないと言っていたエメルダだ。ワゴンの上はなんだ、お茶の道具か。公爵家のお高い茶器をあんなに乱暴に運んで、と私の喉がきゅっと締まる。
もし割ってしまったらどうするんだ。いったいいくらになるか、と想像もしたくない。
「貴女、お嬢様にいったい何を見せているんです!」
机の近くまでやってきて私達が開いていた図鑑を見たエメルダは、血相を変えて本を閉じた。襟足のおくれ毛がわずかに逆立っているところを見ると、どうやら彼女は虫がお嫌いらしい。ということは、あの嫌がらせもどきはやはりフィデルか。
しかし本を乱暴に取り扱われてはたまらない。おまけにこれはアメリアの大切なお母上の本である。投げつけられてしまう前に私は図鑑を胸に抱え、エメルダに向かって頭を下げた。
「授業の一環です。アメリア様と昆虫についてお話をしておりました」
「知らないお話ばかりで大変おもしろかったです、エメルダさんもご一緒にいかがです?」
先ほどまでの少し曇った顔つきを一変させ、姿勢を正したアメリアはにこやかに微笑んだ。ただ、あの花が咲いたような笑みではない気がする。先日の面談の時や、ついさっき虫をつまみ上げた時とはどこが違う。付き合いが浅すぎて、まだどこが違うとは言い切れないんだけれど。
しかしさすがにお屋敷のお嬢様だ。乳母兼メイド頭という、言ってみれば頭が上がらない相手に対しても私に接している時より幾分大人っぽく、はきはきと話すじゃないか。虫が苦手そうなエメルダはちょっと怯んだように言葉に詰まっている。
内気で人見知りというだけではないアメリアの一面を垣間見て、なんだか少し感動してしまった私は机の上に再び図鑑を広げた。
「これからの季節、蝶などはお庭にたくさんやってくるでしょうね」
「結構です。そちらの本はお片付けなさい」
親切心でそれまで見ていたムカデや蜘蛛ではなくきれいな蝶のページを開いたというのに、エメルダはそれすら見たくもないといった風に拒絶した。しっしと手を振り、私を机から遠ざけようとする様子にアメリアは眉をひそめる。
「エメルダさん、お兄様から聞いていませんか? 今日から午前と午後に二時間ずつエルネスタ先生の授業が──」
「お嬢様の教育に関してはあたくしの裁量で行います、本日はこれよりお作法のお時間にしましょう」
「エメルダさん!」
「お作法です」
有無を言わさぬ迫力だ。あからさまに眉間のしわを深くして怒った表情を見せれば、アメリアもそれ以上反論できない。
そりゃアメリアは身分の高いお姫様だ。社交界でうまくやるためにはしっかりとした礼儀作法が必須だと思う。これは一朝一夕で身に付くものではないので、繰り返し体に叩き込まなくてはいけない。かくいう私も、前世では聖女候補生として修道院で修行しているときは、実際に王家の方や身分の高い方にお会いするとも限らないのにしっかりと仕込まれた。貴族とはいえ田舎育ちの私にとっては、堅苦しいと思ったものだ。
しかし彼女はもともと公爵家の令嬢としての立ち居振る舞いを弁えているように見える。今更授業の時間を削ってまで練習をする必要があるかといえば疑問だ。
アメリアは勉強したいって言っていた。緊張で顔を真っ赤にしながらも、自分の意思をはっきりと私に伝えてくれた。そして今だって好きなものと、そして将来の夢を教えてくれた。虫を見てあれこれ質問をしてくるほどに探求心だってある。こちらの話を聞いて、理屈や背景を理解する力もある。
淑女教育ももちろん必要だけれど、勉強だってこの先の世界では大切だと思う。学校に行けなくても学びたいという彼女の意思を無視するなんて権限、誰にだってないはずじゃないか。ついでに言えば公爵から正式に依頼されている私の仕事時間を奪われるいわれもない。破格の給料分にはどうしたって届かないだろうけれど、だからこそ仕事はしっかり果たしたい。
しぶしぶといった風に少女が椅子に座ると、エメルダは大きな机にガチャガチャと音を立てながら茶器を並べだした。
「この机でやるのですか? お茶の作法であれば、テーブルがあるお部屋で……」
「ここでやるんですよ。時間がもったいない」
エメルダはぞんざいに返事をすると、一枚板の天板の上を拭きもしないまま次々に皿やポットを置いていく。
昨日の離れほどには埃も積もっていないし、比較的きれいに保たれている書斎だけれどその机はさっきまで本を置いていたり虫を置いていたりした机だ。一応拭いておいた方が、と私がワゴンの布巾に手を伸ばすと、エメルダはその手をぴしゃりと払ってきた。
「邪魔するんじゃないよ」
「いえ、邪魔をしたかったのではなく、ちょっと拭いた方が良いのではと」
「はあ?」
忌々しそうなエメルダだったが、拭くのを忘れていたのを思い出したのだろう。軽く舌打ちをするとワゴンにかけてあった布巾をポイッと投げて寄こした。お前が拭け、ということか。お嬢様の前で物を投げて寄こすなど、信じられない態度だ。落とさないように空中でそれを掴み、ぐしゃぐしゃなのを畳み直すために広げた私だったが、手元で布巾に目を落として息を飲んだ。
「……!」
厚手の麻布でできた布巾は所々が真っ黒に変色しているばかりか、水洗いすらされていない様子の汚れやごみが付着していたのだ。お世辞にも清潔とは言い難く、まるで昨日の掃除で借りた雑巾みたいなにおいもする。
「こ、これ、洗ってないのでは?」
思わず布巾を広げたままエメルダを振り返ると、質問が気に障ったらしく怪訝な顔をした彼女の眉が勢いよく跳ね上がった。
「どうせ拭いたら汚れるんだよ! 汚れてない面を使ってお拭き!」
「いや、でもこれは明らかに不衛生ですよ。こんなので拭いたってちっともきれいになりませんし、逆に机の方も汚れてしまいます」
「では拭かなければいいわ」
ええ、と思った私の顔は、きっと貴族の娘らしからぬ状態に歪んでいただろう。アメリアは私の顔を見て目を丸くすると、机とエメルダとに視線を行ったり来たりさせていた。
メイド頭という、いわば屋敷の内向きのことを管理するべき立場の人間がこれか。この屋敷の衛生管理はどうなっているのだろう。割と大雑把なところがあるハンナでさえ、食卓の上や食器についてはきれいに整えていたのに。
なんか変だな、という違和感に私は首を傾げた。
先日、公爵の招きに応じて応接室に通されたときは、屋敷の大きさや調度品の豪華さに圧倒されたのはもちろんのこと、食器も高級品で驚かされた。緊張のあまり口を付けることはできなかったけれどどの食器もちゃんと手入れがされていたはずだし、さすが公爵家と思うほどに使用人たちに教育が行き届いているように見えた。
お客を招くエリアと、自宅エリアでは使う食器も違うし、手入れもそこまで気を張る必要がないということなんだろうか。それにしてもあまり衛生的とは言えない。
意識の違いに困惑しながらも、一応は手伝うことにした私はワゴンの上に手を伸ばした。
茶器とともにワゴンに載っていた物のなかにはジャムが添えられた小さなパンや焼き菓子の他、野菜の盛り合わせのようなものがある。テーブルに華を添える緑の飾り、のようではない。私はその青い葉野菜がたっぷりと盛り付けられているボウルを指さした。
「あ、これ食べるためのものですか? 飾りではなく?」
「あら貴女、大学を出ているというのにサラダをご存じないの?」
「はい?」
「あらあら、教養があると言っても、やはり頭でっかちで世間知らずですこと」
エメルダは私が発した疑問の言葉を、「これが何だか分からないから」と判断したようだった。途端に丁寧な、それでいてこちらを小馬鹿にしたような言葉遣いに変わりくすくすと肩を揺らした。
「近頃はね、王都ではこのように青い葉野菜を煮ずにそのまま食べることが流行してるんですのよ。なんでも、自然のままに食べることで肌やおなかによい栄養を余さず入れることができるんですって。最近はお嬢様も体調を崩されることが多いので、今日からは夕食にも出しますからね」
ほほほ、と上品ぶって笑うエメルダはサラダを小皿に取り分けた。やっぱり食べるものらしい。いやいや、と私は首を振った。
「それ、食べない方がいいですよ」
「……は?」
私の指摘にエメルダの声が一段階低くなる。一瞬で上品ぶった笑顔が消え、眉間に深いしわが寄った。
とはいえ、ここはちゃんと教えてあげるべきだろう。近年、確かに野菜を生で食べるという流行ができあがっているが、それはちゃんと下処理をしている野菜に限ってそのような食べ方ができるというだけなのだ。
取り分けられた葉野菜は色こそ青々としているものの、ところどころに土のような茶色い粒が付着している。しかも窓から差し込む光の加減で、葉の裏側にはきらきらとした線のようなものが見えた。どの野菜も鮮度が良いとは言い難く、皿からはみ出た部分がくたびれたように垂れ下がっている。見るからに下処理不足、鮮度不足といえた。
「もの知らずの小娘は黙ってらっしゃい……?」
「いえ、私もサラダというものは存じています。生で食べることで体に良い影響があることも知っています。でもそれはすべて清潔で新鮮な野菜でなければいけないんです。ここにある野菜はそうやって食べるには少し古くなってしまっているようですし、ちゃんと洗えてないみたいですし」
まさかサラダを知っていて反論されるとは思っていなかったのか、エメルダは顔を真っ赤にしてぷるぷると拳を震わせている。
「あ、えっと、でもせっかくなので、ちゃんと洗って茹でてお夕食に使ってもらいましょう。火を通せば大丈夫ですよ」
捨ててしまうにはもったいない、と提案をするがそれでもエメルダの表情は変わらない。椅子に腰かけたままだったアメリアが机の上の小皿を覗き込んだ。
「サラダは近頃エメルダさんが朝食で良く出してくれるので食べていますが、食べてはいけないというのはどういうことですか?」
「高確率でおなかを壊します。あと、最悪の場合は高熱が続いて死んでしまうという例もあります」
ええ、とアメリアの目が見開かれた。そして自分のおなかに手を当てて、さするような仕草をする。
「あの、本当にここひと月ほどですがお腹が痛いことが多い日が続きました……季節の変わり目ですしそのせいかと思っていました……だからちゃんと食べないといけないとは思っていたのですが」
「あー、えっと、では食べないでください……いえ、サラダがだめなのではないのですが」
ぽかんとしているアメリアに、私は小皿に入った野菜の葉を一つつまんでひっくり返して見せた。
「見てください。土がついていますね? 畑の土にはとても小さな虫が住んでいて、野菜に目に見えないほど小さな卵を産むことがあります。野菜を洗わずに卵を食べてしまうと、人の体の中で虫が孵化して病気になってしまうんです」
「まあ……!」
「あと、裏を見るとキラキラしたものが付いていますね? これ。蛞蝓か
「聞いたことがあります。寄生虫、というものですね」
病気の可能性を説明するとアメリアは顔色をなくして野菜から顔を離した。賢い子だ。私は頷いて見せたが、エメルダの方はまだ納得がいかないらしく両手で机を叩いた。
「そんなの聞いたことがないよ! 今までだって生で野菜を食べる料理があったじゃないか!」
「生で食べた場合に重い病気にかかる可能性が高いと、最近の研究で改めて分かってきたんです」
「城勤めをしている友人に聞いたんだ。城で出される料理がそんな、体に悪いわけがないじゃないか!」
「丁寧に洗って泥や虫が付いていないことを確認し、適切に扱えば生でも食べられる、ということです。お城の調理場であれば食材の管理もきちんとされているでしょう。でもこのお屋敷の、特に使用人エリアの衛生状況とこの食生活では、遅かれ早かれ病人が出ます」
「何を根拠に!」
激昂したエメルダに、私はさっき放られた布巾を広げて見せた。
「テーブル用、食器用、そのほか用、と布巾は用途を分けていますか? 昨日皆さんにお会いした厨房も、埃やごみが溜まっていました。あれでは食器や料理にゴミが混ざってしまいますし、ネズミが入ってノミやダニが繁殖してしまいますよ」
ネズミやノミ、ダニといったものは様々な病気を媒介する。流行病というのはこいつらが原因で引き起こされることもある。父母を病で亡くしたというアメリアは、はっとしたように口元に手を当てた。
「でも埃なんかはそんなに昔からのものではなさそうですし、食材も今言ったことに注意してよく洗っていけば大丈夫です。今日から少しずつ気を付けて掃除などを徹底していくとよいと思いますよ。大きな病気をする人が出てからでは遅いですから」
ね、と同意を求めるがエメルダは返事もせずにこちらを睨みつけてきた。単に大雑把なだけであればこれから少し意識をして、他の使用人たちに気を付けるよう声をかけてくれるだけで良いのだけれど、私のそんな意図は伝わっていないらしい。完全に自分が責められたと感じさせてしまったのかもしれない。
ええっと、と別の言い回しはないか頭の中の語彙を探してみるが、それをうまく繋げる前にエメルダが両手で机を叩き始めてしまった。癇癪を起しているかのような様に、アメリアは怯えたように首を縮める。そしておずおずといった風に口を開いた。
「近頃、おなかの具合が悪かったり少し熱っぽかったのがサラダのせいかどうかは分かりませんが、掃除や食材のことについて目が行き届いていない理由は分かります。おそらく、三カ月ほど前からでしょう」
「お嬢様!」
顔を上げたエメルダから鋭い声が飛ぶ。心なしか焦っているように聞こえるが、表情は険しいままだ。アメリアは静かに首を振って私を見上げた。
「お母さまが亡くなってからずっと屋敷の内向きのことを取り仕切っていた、グラッド夫人が冬の半ばから体調を崩されてお休みをしているのです」
グラッドさんというのは確か、公爵の執事だったか家令だったかの人のはずだ。その夫人、と聞いて昨日の公爵とフィデルの会話が蘇る。私の雇用の件で話を通したといっていたっけ。つまりグラッド夫人とやらがこの家の正式なメイド頭ということか。
「エメルダさんはグラッド夫人がお休みの間、代理でメイド頭としてお仕事をしてくださっているのです。でも、慣れないお仕事のせいでしょうか、ちょっと困ってしまうことも続いていて……」
語尾を濁したアメリアが目を伏せる。言葉にはしないけれど、きっと生活するうえでの不都合がいくつか、いや結構な頻度で発生していたのだろう。エメルダの名誉を損なわないための配慮が感じられる。慎み深い彼女の様子に感心していると、部屋の外からどたどたと足音が近づいてきた。そして扉の前で何事か言い合っている様子が聞こえる。
「本当なのか?」
「お疑いならご自身でお確かめください。いくら閣下のご命令でも、仕事をすっぽかすような女性は閣下にはふさわしくないと思いますがね」
「ふさわしいとかふさわしくないとか、何の話だ」
「私は前からずっと言ってますよ。どうせお近くに置くならもっと家柄のいい女性を──」
「だから何の話をしてるんだ。おい、アメリア、アメリアはいるか?」
扉を叩く音に交じって聞こえるのは公爵の声だ。しかし反射的に扉へ向かった私よりも早く、エメルダが走っていく。そして扉を開けるなり、エメルダは公爵の胸に縋り付いた。
「坊ちゃま! 坊ちゃま!」
「え、エメルダ? 急にどうしたんだ。アメリアは……あれ? ヅィックラー嬢?」
「こちらにおりますが」
胸にまとわりついているエメルダの背を叩きながら顔を上げた公爵は、私と目が合うと驚いた様子で動きを止めた。傍らに立っていたフィデルも同様だ。信じられないものを見たかのように、目を見開いている。
「どういうことだ、フィデル。彼女は授業に来ていないと」
「え……? えっと、いらっしゃいました、ね。おっかしいなぁ」
「指定されたお時間ちょうどにお伺いしておりますが」
「それはよかった。どうやら私の勘違いだったようで。いやあ、よかったよかった」
私がフィデルをじっと見つめると、公爵の忠犬はわざとらしく微笑んだ。
しかしそんなことよりもエメルダだ。メイド頭は公爵のシャツを掴んで大げさに泣きながら私を指さした。
「坊ちゃま! あの小娘を今すぐ追い出してください! あの子、このあたくしを散々侮辱して、ひどい言葉を……!」
さっきまでの剣幕はどこに行ったのだろう。おんおんと声を上げて泣きじゃくり、嗚咽の合間に私を指さし糾弾しようとするエメルダにはあきれるばかりだ。
「ぶ、侮辱とは何を」
「ひどい言葉で! あたくしのことを役立たずと! こんなに坊ちゃまやお嬢様にお尽くししておりますのに!」
「いや、だから一体なにがあったというんだ。それになんで机に茶の用意がしてある?」
「エメルダさんが、これからお作法の練習をするとおっしゃって並べられたんですが……」
「午前中は君がアメリアに授業をする時間だろう。しかもなんだ、そのしなびた葉は」
いや、まあそうなんだけれど。
公爵も話が見えないようで、困惑した表情のまま胸に縋り付くエメルダと、室内にいるアメリアとに視線をうろうろさせている。毅然とした態度に出られないのは、乳母だったというエメルダに遠慮しているせいだろうか。困ったな、どう説明しようかな、と私が隣に立つアメリアと顔を見合わせた時だ。
「エメルダ。貴女、いい加減になさい。ご当主様を困らせるなんて使用人として恥ずかしくはないの?」
ぴしっとしたメリハリのある声がしたかと思うと、 公爵の後ろから一組の男女が姿を現したのだ。男性の方は見覚えがあるグレイヘア。執事のグラッドさんだ。ということは、女性の方は夫人だろうか。深い紺色のスカートにオリーブ色のジャケットを着てしゃんと伸ばした背筋が上品な雰囲気を醸し出しているが、物騒なことに両手が腰に当てられている。
泣きじゃくっていたエメルダは女性を見ると、ひっと一声あげて固まってしまった。そんなエメルダに対して女性は眉をひそめてため息を吐く。グラッドさんはエメルダの手を公爵から引き剝がした。
「お嬢様の家庭教師の先生と顔合わせをするからと、坊ちゃまに連れてこられてみれば一体何の騒ぎを起こしているんです? しかもちょっと目を離している間に、ご当主のご一家が住む大切な屋敷のあちこちが埃だらけではないの。貴女、ちゃんとみんなに指示を出せていなかったのではなくて?」
女性の厳しい声音にエメルダの顔は真っ青になっている。直接指摘されているわけでもないのに、私までどきどきと胸が苦しくなってしまう。恥ずかしい恥ずかしいと繰り返す女性はそのまま室内に入ってくると、ワゴンの中を見てまた眉を吊り上げた。
「これはいったいどういうことなのです。貴女、まさか厨房にもこんな布巾を置きっぱなしにさせているのじゃないでしょうね。こんなものを恥ずかし気もなくお嬢様の前に出すなんて、自ら仕事ができませんと言っているようなものじゃないの」
「こ、これは! あの、洗濯係が怠けて──」
「人のせいにしないの! たとえそうであっても、それを何のためらいもなくこちらのエリアに持ってくるなんて、どういう神経をしているのかと言っているんです! 貴女は使用人をちゃんと指導して監督する地位にいるのですよ!」
とうとう堪忍袋の緒が切れたのだろう。がつんと女性が雷を落とすと、エメルダはその場に崩れ落ちた。女性の迫力はすさまじく、その場にいた全員が首を竦めたのは言うまでもない。なんと公爵はもちろんのこと、おそらく夫であるはずのグラッドさんまで一瞬ぴたりと動きを止めてしまっていた。
「しかも何なのですか。お嬢様のお勉強の時間に図々しく割り込んで、貴女がお作法を教えると? いったい誰がそれを貴女にやれと言ったんです? 年齢だけを重ねていまだにきちんとしたお辞儀の一つもできない貴女に、お嬢様を教えられるわけがないでしょう。身の程を弁えなさい」
女性が、坊ちゃま、と公爵を振り返った。
「わたくしごとで長らくご不便をおかけしておりましたこと、お詫び申し上げます。本日よりまた仕事に戻りますわ。つきましてはエメルダの処遇ですが、お許しいただければ一から鍛え直すために掃除係からやり直させたいと思います。いかがでしょう」
「そ、そんな! グラッド夫人、あたくしが掃除係なんて、そんな仕事!」
「お黙り、エメルダ。解雇されるのとどちらが良いか、自身の仕事ぶりと照らし合わせてよくお考えなさい」
ぴしゃりと言い放った夫人に、エメルダはぐっと言葉を飲み込んだようだ。彼女の年齢を考えれば、クビになるのと下働きだろうが公爵の屋敷に務めるのとではどちらが良いかなど分かり切っている。粗相をしたエメルダを解雇して恨みを買うより、という計算もあるかもしれない。長年公爵家の中を取り仕切っているという経験は伊達ではないということだろう。一から鍛えなおすって、逆にすごく優しい対応だ。
公爵は夫人の提案に首を縦に振ることで応えた。つまり、これでエメルダの処遇が決まったということである。茫然としてへたり込んでいるエメルダの腕を取ると、公爵はそれを傍らに立つフィデルに預ける。公爵の忠犬は一瞬たじろいだが、主に顎をしゃくられると黙ってうなずきエメルダを連れて奥へと去って行った。
「グラッド夫人! お体の具合はいいのですか?」
二人の背中を見送ると、いち早く立ち直ったアメリアが華やいだ声を上げた。するとそれまで怖い顔をしていた女性の顔が緩んだ。
「ご心配おかけしました、お嬢様。お元気でいらっしゃいましたか?」
「ええ、とっても。夫人もお顔の色が戻っていらっしゃいますね。よかった」
「まあ、ありがとうございます」
まるで孫に会ったおばあ様のようにアメリアを抱きしめ再会を喜ぶと、グラッド夫人はおもむろに私を振り返った。
「貴女がお嬢様の家庭教師の先生ですね」
「ご挨拶が遅れて申し訳ございません。エルネスタ・エマ・ヅィックラーです」
私が改めて膝を曲げ会釈をすると、グラッド夫人もそれに応じるように膝を曲げた。お体の具合が悪かったというが、動きにはまったくぶれるところもなくお手本のように上品なお辞儀である。
「坊ちゃまや夫からお話は伺っております。女性ながら王立大学を首席でご卒業されたとか。このたびはお嬢様の家庭教師をお受けくださりありがとうございます。使用人一同、貴女のような才女お迎えできたことをうれしく思っておりますわ。是非、お嬢様に良い学びを体験させてあげてくださいませ」
「そんな、とんでもございません。こちらこそ、新たにお仕事をいただけて大変ありがたく思っております」
「先生は文官を目指して大学にいらっしゃったと聞いて、頼もしいことと思っておりましたの。これからの若い人はそうでなくっちゃ。私ももう少し若ければ、お嬢様とご一緒させていただいてお話を聞かせてもらいますのに」
「まあ。グラッド夫人も図鑑で勉強を?」
「それはいい。では夫人には眼鏡を新調しなきゃならないかな?」
おどけたように公爵が言うと、グラッド夫人とアメリアは顔を見合わせてふふっと笑った。
本など読まずに刺しゅうやダンスの練習をしなさい、と言いがちなこの年齢の女性にしては珍しい。実家の母より年上だろうけれど、女性が勉強をすることや社会に出ることに対して肯定的な考えを持っているようだ。
アメリアの傍には公爵のほかにソフィという侍女やこのグラッド夫人のように理解ある人たちがいてくれるのだと思うと、なんとも心強いじゃないか。昨日の朝に屋敷の使用人たちに紹介された時は、みんなおどおどしていたりつんけんしていたりしてどうなることかと思ったけれど、案外うまくいくかもしれない。
私は笑い合う公爵家の兄妹を見ながら、ひとまずほっと胸をなでおろしたのだった。