三食昼寝、賞与付き
住み込み、三食付、午前二時間、午後二時間の座学、それ以外の時間も生徒の望むままに授業を継続すること。
これが公爵に提示された家庭教師としての勤務体制だった。給与は月に銀貨五百枚。拘束時間は確かに長いが、家庭教師の身分の給与としては破格中の破格だということは未経験の私にも分かる。
条件を聞いたとき、ダリオおじ様は卒倒せんばかりに驚いていたし、寮に戻ってハンナに説明したらこっちは本当に腰を抜かしていた。
「お、お、お嬢様……、これはまさか結納……公爵様からのご求婚なのでは……」
「なわけないじゃない。れっきとした雇用契約よ」
「で、でも、ハンナは長く男爵家で使用人をしておりますけれどね、そんなお給金の額、聞いたことがありませんよ」
「そりゃ、うちは裕福とはいいがたいから……」
すいませんね、と心の中でハンナに舌を出す。うちの経済状況と公爵家のそれとは、桁がどれほど違うのか。あのお屋敷を見た者でなければこの気持ちは共有できないのではないだろうか。
「でも悪いんだけれど、使用人が侍女を連れていくわけにはいかないの。ハンナは男爵領に戻ってお母様にその後の指示を仰いでくれる?」
「そんな、ますますお輿入れのようなことを……」
「何言ってるのよ。結婚だったら自分の侍女連れていけるでしょ?」
「まあ、そうでしょうけど……」
一人で男爵領へ帰されることが不満なのか、それともまだ私が公爵と結婚するのではという妄想が諦められないのか、ハンナは渋い顔をする。
とにかく、と私は外出用の帽子を被った。今日は公爵家へと引っ越すため、入用のものを街で買い集めるつもりだった。当座の着替えや本などはもう公爵家へと送ってしまったが、寮生活では自前のものが必要なかった簡単な食器や初等学校用の本などを見繕わなければいけない。
「夕方までには帰るわ。明後日にはここを引き払うから、ハンナも自分の荷造りをしておいて頂戴」
眉を八の字にしたハンナにそう言い残し、私は寮を出て街へと繰り出したのだった。
そして。
──街に出た私はなぜか本屋で鉢合わせたクロエとお茶を飲みながら向かい合って座っていた。
ちょっと顔を貸しなさいよ、とおよそ良家の女子が言わないような台詞とともに露店の前まで連れていかれると、クロエはおもむろに葡萄を絞った果実水を注文した。
「話が長くなるかもだから、あんたも何か頼みなさいよ」
「……おごり?」
「なわけないでしょ」
ですよね。
私は露店の示すメニューから一番安い帝国産の紅茶を指さした。湯気が立ち上るそれを受け取ると、クロエが待つ卓に着く。すると椅子に腰かけるが早いか、クロエが身を乗り出してきた。
「ちょっとあんた、ヴォルフザイン公爵様とどういう関係なのよ」
「は?」
「昨日、公爵様のお屋敷に呼ばれたんでしょう?」
隠すことではないが思わずぎくりとした。彼女が聞きつけたら面倒なことになりそうだ、自分の商会を立ち上げたい、よりよい人脈を得て商売に繋げたいというクロエにバレたら面倒だと思っていたのにまさかあっさり知られてしまうとは。
「な、なんでクロエさんがそれを……」
見くびらないで、とクロエが胸を反らした。
「寮住まいのお友達が教えてくれたのよ。しかし何よ、わざわざ大学寮に馬車が迎えに来たっていうじゃない。しかも、一緒に後見の男性も乗って言ったって聞いたわ。いったいどういうことなの? まさか貴女、ヴォルフザイン家のご当主とそういう仲だったりするの? いつのまに?」
ああ、と私は彼女の友人たちを思い浮かべた。王都に実家があって大学に通えるクロエのような学生もいれば、私のように実家が離れていて寮にいる学生もいて、その中にそういえば地方の出の女子学生がいたんだった。卒業式後に寮に残っているなんてもの好きが私以外にもいたらしい。
「貴女、文官の任用試験がないからって結婚するつもり? 自分の夢を早々に諦めたっていうの? しかもそれにしたってヴォルフザイン家なんてところによく狙いを定めたものね。競争率はものすごいはずよ」
「狙っているとかじゃなくて、実は仕事をいただいたの。あの日は契約のお話を伺いに行ったんです」
「そんなこと言って、ヴォルフザイン公爵はまだ独身よ。仕事にかこつけて近づいてあわよくばって思っていたりするんじゃないの? そもそも貴女、男爵家と公爵家が釣り合うと思っているの? ヅィックラー家といえば王都に屋敷を構える資産もないような田舎男爵でしょ?」
なんと答えようかと思案していると、クロエは畳みかけるように質問を続けてきた。だんだんとその内容が失礼な方面に走り始めている。公爵家に男爵家が釣り合わないのは承知の上だけれど、そんなことを私に言われてもどうしようもない。
「卒業後すぐに結婚なんておよしなさいよ。宝の持ち腐れって言ったじゃない。貴女も私も、大学で得た知識や教養をもっと活かすべきなのよ? 貴女の能力なら国内で有数の科学者になることだって大学で教鞭を執ることだってできるでしょうに」
「科学者や大学の先生って、女はまだまだお断りって風潮が強いじゃないですか。明確に募集してるわけでもないですし。なにより研究を続けるにはお金もいるし」
「なに頭の固いこと言ってんのよ」
これは困った。
すっかり煮えたぎってしまったクロエは、卓に乗せた私の手を握りながら身を乗り出してきた。親身になってくれるのはありがたいが、なぜこう皆して話をちゃんと聞いてくれないのだろう。
いや、クロエの場合は私の実家に対してちょっぴり失礼なことを言っていたし、話を聞いていないのではなく聞く気がないのかもしれない。人脈づくりにあまり興味を示さなかった私が、彼女の持つ人脈よりはるか上の存在である公爵とつながりを持ってしまったのが癪に障ったのだろうか。
いや、違うな。私は眉と肩を怒らせたままのクロエを横目で見た。姉御肌な彼女のことだ。本当に何かしらの心配をしてくれているんだろう。口が悪いのはご愛敬だ。
「本当にこの件はお仕事なのよ。公爵様は私にとってただの雇用主。王都に残って再来年以降に官吏任用試験を受けたいと言ったら、お情けで雇ってくれることになったの」
「はあ? いったいどういうことなの? その試験って、たしかしばらく開催されないのよね? 卒業式の日、貴女が知らない様子だったからびっくりしちゃって言いそびれたけれど」
「そうなのよ。全然発表を聞いていなかった私が悪いの。でも私、どうしても試験が受けたくて、実家に戻りたくなくて。帰ったらどこかの方と結婚させられてしまうかもしれないでしょう? 王都に残るならなにか仕事をして宿代を稼がなくちゃって思っていたら、たまたまそれを公爵様が聞いて憐れんでくださったの」
とりあえず、憐れまれた、情けをかけられたという線で話をすると、少しだけクロエの勢いがトーンダウンした。卓に乗り出していた体を起こし、椅子に深く腰掛けて不機嫌そうに腕を組む。
そして冷たい果実水を一口飲んで気を落ち着けたのか、で、と話の先を促された。
「家庭教師を頼まれたのよ。公爵様の妹君の」
「公爵様の妹君って今いくつ? なんだって貴女に?」
どこまで経緯を話して良いものか一瞬考えたが、下手に隠すことでもないだろう。
「十一歳のとても内気な姫君で、女性の教師を探して大学まで紹介してもらいに来ていたらしいわ。そこに学長が私を推薦してくださったようなの。それだけのご縁よ。婚約とか、結婚とか、そういう話ではないんです」
なあんだ良かった、とクロエは破顔した。単純と言えば単純、裏表がないといえば裏表がない人柄がにじみ出る笑顔である。普段のキリッと凛々しい雰囲気とは違う、可愛らしい様子に私も思わず顔がほころぶ。
上背もそこそこで黒い髪を持つ彼女は、その外見から少し下級生にも怖がられていたし男子学生からも少し距離を取られていたっけ。商売にははったりが重要といって、本人もあえて化粧や装いでキツめの女性を演じていたようだったけれど、本当の彼女はこんな風に素直で優しく可愛らしい。
そういえばこうやって同期の女子学生と語り合ったことが少なかったな、と私はお茶に手を伸ばした。まだ熱さが残るお茶を一口すすり顔を上げると、クロエは何か空を見上げてぶつぶつとつぶやいている。
「どうかした? 何か商売のタネでも?」
つい興味が勝って話しかけると、クロエはうんと頷いてまた身を乗り出した。
「心配して損したって思ったんだけど、でもよく考えたらこれは好機よね。これを機会に、貴女に私を公爵様に紹介してもらうっていう手もあるわね」
「紹介できるほど公爵様とお話をする機会もないと思いますけどね。話をするにしたって、お仕事に関する指示を受けるだけでしょうし」
「ひょっとしたらってこともあるでしょ。その際にほら、ちょっと名前くらいはお耳に入れておいてくれると嬉しいわ。そうだ、お給料はどのくらいの契約なの? 貴女がうちのお客になってくれてもいいのよ」
本当に商魂
「いやあ……お給料は、その、相場が分からないもので……」
あいまいに笑ってごまかそうとすると、クロエの目がきらりと光った。
「私が以前伝手で伯爵家のお子様の家庭教師を請け負ったときは、月に銀貨百枚程度だったわよ。初等学校前のお子様だったからそんなもんだったけれど、公爵家ならもっと出してもらうんじゃないの? ねえ、お屋敷に外商を向かわせるから何か買いなさいよ」
伯爵家の子息の家庭教師で銀貨百枚。私の喉はひゅっと詰まった。やはり月に銀貨五百枚という待遇は破格である。
急激に動悸が激しくなった私は、バッグに入れたベロア地の巾着の存在を思い浮かべた。給料が支払われるまでの手付として渡されたものだったが、その中に入っていた金額にびっくりして腰を抜かしかけたのだ。
その金額、銀貨三百枚である。
引っ越しに伴うもろもろの買い物や馬車代などを賄えとのことだったが、それにしたって払う金額が大きすぎる。
そこいらの安宿に一泊すると銀貨一枚程度の出費になる。もちろん素泊まりで、だ。朝食、昼食は合わせたって銅貨四、五枚程度だからいいとして、晩御飯に少しいい食堂でいいお肉を注文すると銀貨二枚程度。つまり、支度金としてもらったらこの銀貨だけで、つつましくしていれば向こう三か月以上は王都でぶらぶらと暮らせてしまうのだ。
いったいなんだってこんな大金を払うのだろう。というか、こんな大金を持っていることが改めて恐ろしくなってくる。やっぱり盗まれたり、お金を持っていると思われたりする前に帰ろう。
「夏休みの間だけの短期契約だったけれど、遊び相手もさせられてくたくたになったわ。ヴォルフザイン公爵様の妹君なら、そこまで重労働にはならないでしょうけど。……で、お給料って」
「そ、相場くらいですわねっ、そのくらい」
あらそう、とクロエはあっさり引き下がる。銀貨百枚の収入では買えないものでも勧めようとしていたのかもしれない。
しかしレニ大商会ならさぞ珍しいものを仕入れられるだろう。最新式の顕微鏡やガラスの培養瓶などいくらになるか問い合わせてみようかなと思いながらも、どうしても鞄の中の銀貨が気になってしまってお尻が落ち着かない。
「では、私はそろそろ……」
これ以上一緒にいていろいろ探られる前に退散するべきだ。そう思って腰を浮かせかけると、クロエは私の手首をがっしりと掴んだ。にやりと笑う顔は、どこか猛禽類を思わせる。こういうとき、クロエのような強い色の瞳や髪は迫力があるなと妙なところに感心していると、ちょいちょいと手招きされた。
「まだ話は終わってないわよ」
「な、なんでしょう……?」
「妹君の教材はどこから仕入れるつもり? よかったらうちを通さない? 注文の連絡を受けたら、その日のうちに配達してあげる」
「でもそれは私の一存では……」
「配達のついでに公爵様に繋いでくれたら、配達料は無料にするしうちの商品も貴女に限って全品五割引にしてあげる」
なんという逞しさだろう。話の流れで一瞬のうちにこれを打ち出し、勝負に出てきた。一般人一人に対する割引を大きくしても、公爵家との繋がりと定期注文があれば十分以上の利益が見込めるというわけだ。
「それは、私の一存では決められないわ」
「いいのよ、とにかく私を公爵に繋いでよ。そしたら何かしら貴女にも得なことがあるって言いたいの」
ふふふ、とクロエが微笑んだその時だ。露店と隣り合う市場の一角で客がざわめいた。
「そんな金額になるわけないでしょ!」
ざわめきの中ひと際高く響いたのは、おそらく年配の女性客の声だった。ふと声のする方へ視線を走らせると、野菜売りの荷台の前でどこかの小間使いらしい少年が一人の恰幅の良い女性に胸倉をつかまれているではないか。
「そんな誤魔化しなんてこのアタシには通用しないよ! 差額をせしめようっていうんだろう! この店の回し者なのかね!」
「い、いや、僕はそんなつもりはなくって……単価と割引率が違うから、奥さんの出した金額じゃ買えないですよって言っただけで……!」
「そんな言い訳が通用すると思ってんのかい! アタシはね、ずっとこの市場で買い物してるんだよ。そのアタシが今までそんな金額になったことがないって言ってるんだ!」
「お、奥さん、落ち着いてください……。この野菜は似てるけどきっと奥さんの言ってる種類とはちょっと違って……!」
少年は耳の下で揃えられている赤みがかかった黒髪と、日に焼けた肌が南の海の向こうにある帝国風の容貌だけれど、話している言葉は流暢なレンバルト語だ。
大声で罵る女性と、必死に抵抗する少年の周りにはすぐに人だかりができた。しかし女性の方の剣幕がすごくて誰も止めに入ろうとしていない。少年は青い顔をしながらも一生懸命首を横に振っている。そのすぐ隣で、店番をしていたらしい少女がおろおろと二人の間を行き来していた。
「お前みたいな貧乏な異国の子どもの言うことなんて信じられるもんか。ぼったくるつもりなんだろう! このコソ泥が!
「いや、僕は王国民ですって。あと奥さんの出した金額じゃ、かなり少ないと思うんですよ……! その金額で売ったらこの子の店が損になってしまいますし……!」
どうやら買い物をしている際に少年が女性の計算間違いを指摘した、というところらしい。指摘が本当か嘘かはまだ分からないけれど、女性の側の高圧的な態度が目に余る気がした。
価格の行き違いなら落ち着いて計算しなおせばいいだけなのに、女性は小綺麗な身なりをしているがやっていることが恫喝に近い。コソ泥扱いされた少年の方も別にみすぼらしい服装をしているわけでもなく、身に着けているエプロンはまだ厚みが失われていないいい生地だ。あんなものを身に着けられる子が、わざわざ詐欺のような手口で小銭をせしめようとするだろうか。
しかし熟考している間もなく、女性は大声でわめきながら抵抗する少年の襟首を捕まえて引きずろうとし始めた。
「まっ……」
待ってください、と腰を浮かせかけたところで、私の手首をつかんでいるクロエの手に力が籠められる。
「……やめときなさい。首を突っ込んだって、貴女が晒し者になるだけよ」
「それはそうかもしれないけど……あの子が嘘をついているという訳でもなさそうですし」
「最近多いのよ。自由競争になって店側が価格を自分達で決められるようになってから、細かい計算できないご婦人が問題起こすの」
「なら分かる人が教えてあげないと。お店の人は何をしてるんです?」
年端もいかない子どもが理不尽な目にあうなんてとんでもない。私はクロエの手を振り払って、人の輪に分け入った。
「お待ちください奥様」
少年を掴んで振り回さんとする腕に縋り付くと、女性はハッとしたようにこちらに目を向けた。低い位置でまとめている白髪交じりの髪はやや乱れ、少し日焼けした肌とぎょろっとした大きな目が特徴的な老婆だった。実家にいる母よりかなり年上に見える。
私が間に入ったことで、青くなっていた少年の顔がややホッとしたものに変わる。
「邪魔しないでおくれ。アタシはこのコソ泥を警吏に突き出してやるんだ」
「お話は少し聞こえました。金額について行き違いがあるようですが、奥様がお買いになりたい野菜と金額はどちらですか? 私が代金を計算します」
「なんだって? アタシが計算を間違えているっていうのかい!」
「誰にでも計算の間違いはございます。落ち着いて改めて数えてみたら、ということもありますので」
ね、と私は双方に微笑んで見せた。笑顔が引き攣っている自覚はあるが、なんとか子どもたちを落ち着かせてあげたかった。
やっと大人、とはいえ私もまだ二十歳でしかないが、大人のような者が間に入ったことで店番の少女も少年も少し落ち着いたようだ。こくこくと頷いて、店番の子は赤みのある太くて長い茎から大きな平たい葉が伸びている野菜の束を持ち上げた。
「こ、こちらです……。お父さんが、ひとつ、銅貨三枚だって言っていて、十本の束だから銅貨三十枚だけど、二束買ってくれたら三割引って……そう説明しろって……」
「いつもだったら一本で銅貨二枚だろう!」
「ち、違って! これは、その……いつもの畑で採れたんじゃなくて、聖女様がお祈りしてくださったちょっといい土でつくったやつで……」
「聖女様のお祈りで単価が変わるの? 土が変わるの?」
「え、ええ……とても貴重な土だからって……」
「だとしても二束で銅貨四十二枚はぼったくりだろう!」
「ちょっと待ってください。ええっと……」
奥様、と私は前置きをして手提げのバッグから小さなノートとペンを取り出した。さらさらと野菜の金額、一束の金額などをメモして計算式を立てる。
「こちらの野菜、一本が銅貨三枚、十本一束で三十枚、二束で六十枚です。で、二束買ったら三割引ということは、代金は銅貨四十二枚ですね」
「はあ?」
「で、いつも奥様が買ってらっしゃる野菜が一本銅貨二枚、十本一束で二十枚、二束で四十枚。割引は?」
「いつもなら二割……ってお父さんが」
「じゃあ二割引きとすると、四十に八掛けして銅貨三十二枚。確かに銅貨十枚の差がありますが、これは単価の違いから出た差額ですね」
え、と女性が瞬きした。紙上の計算式をじっくりと見つめ、指を折って数え始める。
「単価が五割増しの価格になっていたので、買値が高く感じたのかもしれませんが計算上は正しい数値です。割合の計算は初等学校の生徒さんでも間違いやすいものなので、暗算だと混乱しやすいですよね。きちんと紙などに書いてやってみるといいですよ」
私はノートをちぎり、店番の少女に手渡した。店主である父親も、子どもに店番をさせるならもう少し計算方法などを教えておいてくれればよかったのに、というのは黙っておく。
官吏任用試験などで民間からも役人を登用する制度ができたこの国では、一昔前と比べ市民の間でも識字率が上がり計算能力が高い人たちが増えた。一方で年配の方は文字を学ぶ機会を得られない人も多いし、あまり教育に興味がない家庭では子供たちは家業の手伝いだけさせておけばいいという風潮も根強い。多くの人が金銭や品物をやり取りする市場では計算力が必要だろうに、店番をさせる子に教育を受けさせていないのは親の方針か、それとも親もその必要性に対して無頓着なせいかというところか。
やっぱりある程度は国内の教育水準をそろえることが大切なんじゃないだろうか。そんなことを考えながら市場の中で店番をしている子ども達を見ていると、背後でぎりっと歯がきしむ音がした。振り返れば老婆が顔を真っ赤にして立っている。
「なんなんだいあんたは! 一体どこの誰なんだ! 小娘の分際で、貧乏人に手を貸していい気になるんじゃないよ! そもそも、女のあんたがそんな計算できるなんておかしいじゃないか! これもいかさまなんだろう!」
「はあ? いや、これは初等学校内容の数学で……」
説明が足りなかっただろうか。もうちょっと言葉を足そうとすると、傍らにいた小間使いの少年が割り込んでくる。
「そ、そうです。この子が詳しい計算が分からなかったようなので、僕からこちらの奥様にそう説明して金額が違いますって言っただけなのに……。でもお嬢様、すごいです。こんなにすらすらと……」
キラキラした表情で見上げられれば悪い気はしない。しかしありがとう、と言いかけた時、相手の女性が大きく足を踏み鳴らした。
「学校学校って、それがどうしたっていうのさ! 長年市場で買い物の経験をしているアタシに説教なんて、家でどんなしつけをされてるんだい!」
「しつけは関係なくてですね、これは割合の計算というもので、多くの初等学校の生徒さんが
「やかましいわ! 学校に行ったことがないアタシに当てつけるんじゃないよ!」
しまった。
当てつけるとかいうつもりはなかったけれど、知らないうちに何か彼女の癪に障ることを言ってしまったらしい。
激昂した女性は手に持っていた野菜の束を振りあげた。それはまだ代金未払いだ、という暇もない。小間使いの少年が私をかばうように前に出た。あっという間に野菜は地に叩きつけられ、それを受け止めようとした店番の少女の顔に破片が当たる。
きゃあ、という悲鳴が周囲を取り囲む人の輪に広がった。いつの間にかクロエもその輪に加わっている。慌てたような表情で何やら叫んでいるようだ。この際警吏の人でもいい、クロエの実家の従業員でもいい、誰かこの奥さんを止めてくれ。
「全員まとめて警吏に突き出してやる!」
「うちの使用人が何か失礼でも?」
錯乱状態の女性が怒鳴ると、それに応じるように男性の声が頭上から降ってきた。その声には聞き覚えがある。いつの間に停まっていたのだろう、背後には一台の馬車があった。きぃっという金具が軋む音がしたかと思うと、そこから一人の男性が降りてくる。
「坊ちゃま……!」
私の前に立っていた少年の顔が輝いた。助かった、と言わんばかりにホッとした表情を浮かべ、即座に頭を下げる。
「アロンソ、花を買うのにいつまで時間を食っているんだ。しかもそこにいるのはヅィックラー嬢じゃないか。何の騒ぎだ」
やってきたのはトレス伯令息、エウゼビオだったのだ。ということはこの少年はトレス伯の家の使用人ということになる。
私を見て一瞬顔をしかめると、エウゼビオは少年とともに私の前に立ちぐちゃぐちゃになった野菜を手にする女性に礼を取った。上背もあり体格も良いので、ものすごく様になる。つい先日まで同じ教室で過ごしていた相手だというのに、もうすっかり立派な紳士の風情だ。
「使いに出したうちの使用人が戻らないので様子を見に来てみたのですが、なにやら騒ぎを起こしていた様子。失礼があれば私の方からお詫びしますが、いかがでしたかな、奥様?」
「……な、なにも……」
優雅な物腰ながら有無を言わせない圧力をかけるエウゼビオに、女性は圧倒されたように口をつぐんだ。小娘と子ども相手ならまだしも、エウゼビオが出てきて相手が悪いと思ったんだろう。
「そうですか。お手元の品物の代金はこちらで持ちましょう。ただ、これ以上何かおっしゃるようでしたら……」
「い、いえ、結構よ!」
女性はそう吐き捨てると、ぐちゃぐちゃになった野菜を持ったまま踵を返した。どう見ても納得はしていないが、肩をいからせたその背が遠ざかっていくと私の身体からも力が抜けていく。
通りの向こうで女性の姿が角を曲がるまで見送り、私はようやく胸の奥から細い息を吐きだした。人の輪が興味を失ったように散っていくと、その外からクロエが駆け寄ってくる。
「エルネスタ! もう! 貴女って人は見かけによらず向こう見ずで危なっかしいったら!」
「ごめんなさいクロエさん。まさかあの女性があんなに興奮するとは思わなくて」
「最近多いって言ったじゃない。ああいう女性って自尊心は高いくせに人に教えを乞おうなんてしないんだから、正規の金額を突き付けてやればいいのよ」
そうしたらぼったくりって言われちゃわないかな、と言いかけたけどやめた。まずはこっちだ。
「危ないところをありがとうございます、エウゼビオ様」
私は小間使いの少年と並んで立つトレス伯令息に頭を下げた。あっと口を押えたクロエも、面倒くさそうではあるけれど私に倣う。エウゼビオは照れたように頭を掻いた。
「いやぁ、レニ商会のご令嬢も一緒だったとは。こちらこそうちのアロンソが世話になってしまったね。遅いので様子を見に来て正解だったよ。さあ、アロンソもお二人にご挨拶をしなさい」
ありがとうございました、と頭を下げる小間使いの肩にはさっきの野菜の破片がくっついていた。あんなに激昂していた女性の前に飛び出し、引っ叩かれそうになった私を庇ってくれた勇気はたいしたものだ。私が手を伸ばして茎のかけらをつまむと、小間使いはびっくりしたように瞬きした。
「お、恐れ入ります……」
「おいおいアロンソ、君はどこまでヅィックラー嬢に手間をかけさせるんだ。お気遣い、この子に代わって感謝するよ」
「いいえ、出過ぎたことをしてかえってエウゼビオ様のお時間をいただいてしまったようで申し訳ございません」
あのままだったらどうなっていたことか、と今になって身震いする。言葉は通じているのに話が通じない、という経験は初めてだった。
私が改めて頭を下げると、エウゼビオは鷹揚に笑って私の肩を叩いた。往来で女性の体に触れるとは、随分と馴れ馴れしい。しかし大学で机を並べていた間柄だし、気安い同期としての距離感であれば分からなくもない、か。
いまいち納得しきれない気持ちで首を傾げそうになっていると、エウゼビオはそれには気づかない様子のまま小間使いの背もぱんぱんと叩いている。そしておもむろに、ふむ、と頷いた。
「そうだ、うちの使用人を助けてくれたお礼がしたい。近々、屋敷に招待してもいいだろうか。父も君の話をしたらぜひ会ってみたいと言っているんだ。レニ嬢もいかがですか?」
「私はご遠慮申し上げますわ」
私が答えるより早く、棘のある声で答えたのはクロエだ。何が気に入らないのか、結構分かりやすく顔をしかめている。
まあ私の方も簡単にはお約束することができない。こちらにも都合というものがあるし、この先いつお休みがもらえるかもわからないのに安請け合いなどできないからだ。
「遠慮することはないよ。明後日あたりはどうだろう。食事でも一緒に──」
「しばらく予定が立て込んでおりますの」
ごつっとわき腹にクロエの肘が入る。早く断れということだろう。痛みをこらえて膝を曲げると、エウゼビオはそれを了承ととらえたのか顔をほころばせた。
「申し訳ございません。わたくしもしばらくの間予定が立て込んでおりまして、ご遠慮させていただきます」
「なんだって? 何がそんなに忙しいんだい? 卒業式も終わったし、あとは領地に帰るだけだろう?」
常であれば私も礼儀に反する真似はしたくない。けれど今は新たに予定を入れる余裕がない。ここははっきり言っておくしかないようだ。
「領地には帰りません。職が決まりましたので落ち着くまでは少々……」
「職だって?」
職と言った途端、エウゼビオが真顔になった。卒業式の時にも話した気がするけれど、真に受けていなかったのかもしれない。まあそこは仕方ない。裕福な貴族の坊ちゃんには、貴族の令嬢が働きたいなんて意思があるとも思わないだろう。
「はい。卒業後、運よく雇用してくださる方が見つかったので、今しばらく王都に滞在できることになりました。お誘いは誠にありがたいのですが、しばらく忙しくなるかと思いますのでまたそのうちということに……」
「男爵領には戻らないのかい?」
「ええ。個人的に王都に残っていたい理由もありますから」
へえ、とエウゼビオが顎を撫でた。満足そうに笑みを浮かべ、何度もうんうんと頷いている。
「……やっぱりそういうことなんだね。よしわかった、それなら早く父に話を通そう」
「は?」
「いやいや僕はいつでも歓迎だよ。領地の経営も商売も、君みたいに頭の良い女性とならうまくやっていけそうだし、研究に没頭しているときのように一生懸命僕を支えてくれるだろうし」
「は?」
もう一度、特大の「は?」が出た。
何故私がこの男を支えるという話が出てくるのだろう。何か盛大な勘違いをしているのではないだろうか。
そもそもなんでこの人はこの間から友好的なんだろう。もともとは私の成績が良くて妬んで絡んできていたのに、卒業式あたりからどうにもおかしい。
相手の意図するところが分からず私が口をつぐむと、エウゼビオは豪快に笑って隣の小間使いと顔を見合わせた。小間使いの少年の方もにこにこと笑みを浮かべ、主のいうことにいちいち頷いている。
「照れることはない。いっそのこと、決まったというその職はやめて、早々にうちに来てしまったらどうだろう。お父上にもそのように使いを出そう」
いや困る。
せっかく決まった職を今更断るなんて不義理はできない。私は大きく首を振った。
「結構です。私、ヴォルフザイン公爵様のところで家庭教師になることになってますから。もう手付けもいただいてしまっていますし、父にもそのように伝えておりますし」
「そういうことですわ、エウゼビオ様。さ、行きましょう、エルネスタ。まだお買い物も済んでいないのでしょう?」
そうだ、買い物。本屋でクロエに捕まってすっかり忘れていた。今日中にノートや当面の衣類などをそろえなければいけなかったんだった。
そう思ったのに、エウゼビオは公爵の名前を聞いて顔を険しくした。
「あの冷血と噂の? 王子の腰巾着の公爵のところへ? やめておきなよ。家庭教師なんてそんな仕事は男爵家の令嬢がすることじゃないよ」
「いえ、でも既に妹君のアメリア様にもお会いして、お仕事を受けるとお返事しているものですから」
腰巾着、と聞いて刑場に立つ公爵の姿を思い出した。観衆もおらず、そして極めて少人数で行われたあの処刑に居合わせた様子からも、公爵は王子と深いつながりがあるのだろう。それは今生でも変わらないのか。そう思うとちょっとだけ公爵家へ行くのが怖くなる。王子には会いたくない。
心のどこか奥底で、ひょっとしたらと言う気持ちがくすぶっていることに私は気づかないふりをした。胸の内に蓋をし、そこから漏れ出てこないようにしっかりと封をする。
しかしエウゼビオはそんな私の気持ちなどお構いなしに首を横に振った。
「いやいや、あそこはやめておいた方がいい。もしどうしても教える仕事がしたいのなら、うちの弟の家庭教師になってくれればいいじゃないか。その方が父にも紹介しやすい」
へえ、弟がいるのか。そう思って隣を見ると、クロエが忌々し気に顔を歪めていた。こっちもこの間からやけにエウゼビオに当たりがきつい気がする。二人の間に何かあったんだろうか。まさかクロエの実家の商売で何か問題でも起こしたんじゃ。ありえそう。
ぼんやりとそんなことを考えていると、エウゼビオは業を煮やしたように拳を握った。
「ここまで言って分からなければはっきり言おう。僕は君に求婚したいんだ」
「……は?」
往来の真ん中で、この坊ちゃんは何を言い出したのだろう。訳が分からず隣のクロエに助けを求めて視線を投げ、そして固まった。黒い前髪の下の瞳が、心底汚らわしいものを見ているかのように細められているではないか。唇からは大音量の舌打ちが漏れている。
「く、クロエ……さん?」
「やっぱり、そういう魂胆だったのね。だから嫌いなのよ」
そういう魂胆ってなんのことだと聞き返したいけれど、ぎゅっとクロエが私の手首を握った手に力を込めた。痛いくらいの力に、下手な対応をしたら食われそうな恐怖すら感じる。もう帰りたい。
しかしエウゼビオは私達の間に流れる微妙な空気を無視して、
「君がいつも僕を意識していることは分かっていたよ。いつもいつも必死に勉強して、そして僕の気を引くために目の前に立とうとしてくれていたこともね。最初はその態度が気にいらなかったけれど、卒業しても健気に王都に残って僕の傍にいてくれようとする君の気持ちに応えたいと思っているんだ」
「ちょ……と、それは、あの、勘違いというか……私にそんなつもりは……」
「しかしだね、公爵家の令嬢もわざわざ家庭教師をつけるなんて無駄なことと思わなくてはいけないよ。女性の幸せは結婚にあると相場が決まっている。いいご主人に嫁ぎ、そして子どもを産むことが最上の幸せだと思わないかい? 君が子どもに教えたいというのであれば、自分の子が生まれたときで十分だよ。君の能力は素晴らしい。その知性をぜひ我が子へ伝えてほしいと思っているんだ」
体格もいい、そして身なりもいい男性が高らかに演説をし出した、と周りにはいつのまにか市場の客が集まってきている。何事かと耳をそばだたせ、そして一様に何か得心したようにうなずき合い、私の方へと視線が集まってくるのが分かる。
仮にも貴族の娘に対してなんという辱めだろう。私の頭は一瞬で熱くなった。
「お気遣いありがとうございます。ですが、私、あなたと結婚するつもりは一切ございませんので!」