「……あんた、本当に鈍いわね」
「何が?」
「……やっぱり分かってない」
余計なことしちゃったわ、と首を振ったクロエは扉の近くまで来るとようやく腕を離してくれた。
「ま、人の恋路をどうこうなんて無粋なことはしたくないけど、あいつの自尊心の高さが失敗の元なんでしょうね。負けた腹いせにあんたを、ってところも気に入らないわ」
「だから、何のことです?」
恋路とか、自尊心とか、腹いせとか、やっぱりよくわからない。重ねて尋ねるも、黒髪の美女はひらひらと手を振った。
「いいのいいの。あんたはね、男なんて気にせず、そのまま女性初の大学長とか女性初の宰相とか、そういうのを目指しなさいな」
女性初、というところをクロエが強調する。それらは今まで、いやほんの数年ほど前までは現実味のない、ただの空想にもならない突飛なものだった。
レンバルト王国は王を頂点とする王政を敷いていたが、十数年ほど前に先王によって憲法が制定されると立法権が議会に移り、立憲君主制の国家となった。それに伴いそれまで男性にしか門戸が開かれていなかった官吏の任用試験が女性にも開放された。試験に合格すれば行政機関である各省庁で女性も働くことができるようになったのだ。しかも終身雇用。つまりクビになることがない。
無論、まだ制度として浅いそれらは建前的なもので、実際には女性を門前払いする仕事もある。地方民や高齢者、保守的な女性などによる、女が外に仕事を求めるなんてという風潮もまだ根強い。
しかし時代は確実に、少しずつではあるが動いている。女性初の宰相なんていうのも、私の時代ではまだまだだろうけれど、いつか夢物語ではなくなるかもしれない。
「いやでも、学長とか宰相とかって、どうやって目指すのかもわからないですし、私、官吏任用試験を受けるつもりなんです」
「え?」
「上級文官になると王城にお勤めになると聞いたので、できたら地方に行ける下級文官がいいんですけどね。まあ、試験次第でしょうか」
「ちょっと。学年一の才女様の言うことにしちゃ、志が低すぎない? 地方に行ったらあんた、宝の持ち腐れもいいところよ。しかもその試験って──」
心底残念そうにクロエは眉をひそめるが、そんなに言われることだろうか。
でも制度上、どんな身分でも試験によって一定の能力が認められれば公的に仕事を得ることができる。試験は相当難しいらしいし、合格率だってそんなに高くないのだから受験すること自体が「志が高い」と思う。そしてそれこそ首席で受かれば配属の希望を聞いてもらえるのではないだろうか。
もう考えただけでワクワクする。試験はいつあるんだろう。
呆れ顔をしたクロエとともに大広間の扉をくぐった私の頭の中は、もうすっかり任用試験のことでいっぱいになっていた。
白く輝く大理石の太い柱に支えられた大広間は、ドーム型になった高い天井の効果もあってか実際より広く感じる。威厳や荘厳さを重視する王城とは異なり、教育機関の施設らしく壁画や天井画は描かれていない。彫刻類も控えめで装飾も最小限だ。
けれど実用的だし、広さだけで言えば王城の大広間(前世の記憶で見たきりなんだけど)にも劣らない。広間の中に入れば出入口になる扉と反対側は床が一段高くなっていて、講演会を行うにも楽団の演奏をするにも都合がいい。今日はそこにお城の楽団が来ていて、祝賀会が始まる前からゆったりした音楽が奏でられていた。
「エルネスタ、おめでとう!」
男爵領は遠い。父も母もきっと忙しいだろうと思って卒業式に招待もしなかったのだが、扉の向こうでは懐かしい顔が出迎えてくれた。濃灰色のスーツを着た姿勢の良い男性は、私を見つけるなり両腕を広げて近寄ってくる。
「おじ様!」
父の従兄弟であるダリオ・カンティロだ。
ダリオおじ様は駆け寄った私をしっかりと抱きとめた。齢五十五。議会の書記官をしている文官ではあるが、がっしりとした体格は私がぶつかったくらいでは揺らぎもしない。男爵家で一人っ子として暮らす私と体を使って遊んでくれた頃と変わらない感触にホッとする。
私はおじ様の胸に頬ずりをして顔を上げた。
「ご無沙汰しております。いらっしゃってくださるなんて思いませんでした」
「君を驚かせようと思ってこっそり卒業式も見ていたんだ。しかしすごいじゃないか。首席で卒業するなんて、父上が聞いたら泣いて喜ぶだろう」
ダリオおじ様はすっかり白くなってしまった口ひげに覆われた唇を持ち上げた。さすが、長年王都に住んでいるだけあって仕草も洒落ている。
「こんなことなら父上や母上も呼んでやれば良かったじゃないか」
「お父様もお母様もこの時期は領地の税金計算でお忙しいでしょうし、お手数をかけるわけにはいきませんわ」
「それにしたって娘の晴れ姿だぞ? 俺がしっかり見届けて手紙を書いてやらなくちゃいけないなぁ」
「それはきっとお父様も喜びますね。私が書く手間が省けます」
冗談のように言うと、おじ様もわっはっはと笑い出した。私もつられて声が出る。
家督を継ぐことができない分家の長男だったおじ様は、若いころから王都で書記官を務めている。気風が良く都会者で、帰省するたびに様々な本を持ってきてくれた。私が本を好み、勉強することに対して不思議そうな顔もせずむしろ応援してくれた。そのおじ様が卒業式に来てくれたのがうれしい。
ひとしきり笑いあうと、ダリオおじ様は私を広間の中へとエスコートしてくれた。歩きながら最近読んだ本や使いやすいインクの話をしていると、不意におじ様が立ち止まる。そうだ、と何か思いついたように私に顔を向けた。
「首席ってことに浮かれてしまっていたが、エルネスタ。今後はどうするつもりだ? ヅィックラー領に戻るのか?」
あれ、と既視感に襲われる。ああ、そういえばさっきもエウゼビオに聞かれたんだっけ。なんでみんな同じようなことを聞くんだろう。大学を卒業したんだから、就職するに決まっているじゃないか。
「官吏任用試験を受けようと思っています。できれば文官で、おじ様のように官職を得たいんです」
それはいい、と言ってもらえると思った。
しかし予想に反してダリオおじ様は目を丸くして私を見ている。
「え?」
「だから、文官になって仕事を得たいんです。でも試験の公募がなかなか案内されなくて。そうだ、おじ様。毎年いつ頃に任用試験があるのですか?」
「……エルネスタ、君、聞いてないのか?」
「へ?」
「今年の任用試験は無しだ」
今度は私の目が見開いた。
おじ様はああ、と深いため息をついて私の肩に手をのせる。
「半年くらい前、そうだな、夏には公式に発表があったはずだ。女性の任用で官吏自体の数も増えていてな。人件費不足と退職者の減少で、今年と来年は募集をしないことになったんだ。大学にも通達が行っているはずなんだが……」
「ええ……?」
「その驚きよう……まさか……」
「……き、聞いてない、です……」
聞いてない。任用試験がないなんて聞いてない。なんで、どうして、と思考がぐるぐると回転する。
夏頃と言えば何をしていた。ええっと、卒業研究で大学にほぼこもりっきりになっていた頃だ。寮に戻るとハンナに叱られるからと、着の身着のままで顕微鏡をのぞいていた頃じゃないだろうか。そんな時期に何の発表があったというんだ。そんなの聞いていない。ノミやらダニやらの腹の中身を分析している場合じゃなかったのでは?
でもだからさっきクロエも試験の話に妙な反応をしたのか。ひょっとして、行先が決まっていないのは私だけだったということか、だからあんな風に聞かれたのか。
聞いていない。
官吏任用試験が今年と来年実施されないなんて聞いていない。それじゃあ、いくら大学を首席で卒業したって意味がない。科学誌に論文が載ったからって、仕事が見つからないのであれば役にも立たない。
まさに青天の
「お、おい、エルネスタ……」
「……そ、その情報は確かですか? 任用試験がなかったら、文官になれない……?」
なんとか足を踏ん張ってその場に倒れることは耐えおじ様にすがってみる。しかしまさか私が何も知らなかったとは思っていなかったらしく、おじ様は力なく首を横に振った。
「秋ごろであれば伝手を頼ってくる学生たちを内密に斡旋する働きもあったんだが、この時期ではもうそういった学生を採用できる部門にも空きがないんだ……」
「そ、そんな……」
ずるい、という言葉は口に出せなかった。
「試験の中止が通達されてからも君からの連絡もなかったし、職に就いたという話も聞かないし……だから俺はてっきりお父上のところに戻ってどこかのご子息と結婚でもするのかと……」
「結婚はしないって言ったじゃないですか、私、おじ様に……」
勉強を続けることを後押ししてくれたおじ様には、何度も言っていたはずだ。試験がないことがわかったら、別ルートの就職方法を教えてくれたら良かったのに、と八つ当たりしてももう遅い。遅いことは理解していても感情が追いつかない。
何故、というのはおじ様の説明が全てでそれ以上でもそれ以下でもないのだろう。官吏が増え過ぎて人件費が足りない。だから新規登用を控える。当たり前のことだと普段ならきっと納得するのに、今朝の悪夢のせいか聖女にならなかった私に対し世間が意図的に就職を阻んだような妄想さえ浮かんだ。
祝賀会会場へ学長の入場を知らせる音楽が鳴り響いた。厳かで晴れやかな曲を耳にすると、あちらこちらで歓談していた学生やその家族が一斉に壇上へと目を向ける。激しく動揺する私を見ていたおじ様も、学長相手に無礼になってはいけないと思ったのだろう。一瞬躊躇った後、私から目を離して壇上を振り返った。
視界から一瞬だけれど全ての人の顔が消え、後頭部だけの世界が広がる。全てにそっぽをむかれた気がして、居た堪れなくなった私は逃げるように大広間からとびだしたのだった。
「今年と来年、どうしよう……」
学長の乾杯の挨拶も聞かずに会場を後にした私は、よろよろとテラスに設えられた椅子に腰を下ろした。
目の前が真っ暗になるとはこういうことか。まさか自分が卒業するその年に、主に人件費の問題で任用試験がなくなるなど誰が想像できるというのだろう。これまで毎年行われていたものなのに、なんて運が悪い。と納得できるものではない。
でも考えてみれば公募が遅いと思った時点で調べればよかったのだ。それを怠っていた自分が悪いといえばその通りで、集中すると周りの物事が見えなくなってしまう自分の性格が恨めしい。
はあ、と私は大きく深いため息をついた。
卒業後の計画が丸ごと潰れてしまった。とりあえずヅィックラー男爵領に戻るとしても、あの閉鎖的な田舎のことだ。行き遅れの領主の娘が戻ってきたとわかれば、あらゆる方向から結婚だの養子だのの圧力がかけられるだろう。
父や母は表向きには私の思いに理解をしてくれて官吏になることを認めてくれてはいるものの、田舎特有の圧力に耐えられるかどうかは分からない。ハンナをはじめとするあの地方の女性は皆、結婚して子どもを育てることが女の幸せと信じて疑っていないからだ。
その考えを否定はしないけれど、私自身はもう少し選択の余地が欲しい。が、貴族間や親族間の腹の探り合いに疲弊した父母が、私を結婚させて落着を図ることも十分考えられる。
「それは、嫌だあ……」
私は椅子の上で頭を抱えてしまった。
日が傾いて少し冷たくなってきた風に乗り、広間で奏でられている音楽が耳に届く。学長の挨拶の後はダンスもできる曲に変わったらしく、流れるように優雅な響きとそれに交じった若者たちの笑い声が聞こえた。
絶望に暮れている私とは異なり、あそこに集った卒業生たちは明るい未来に心を弾ませているんだろう。まるで別世界のことのようだ。官吏になりたかった学生もいるだろうけれど、私とは違ってもう別の道を選んでいるだろうし。
卒業式のこの日、行先を見失って途方に暮れている者など私以外にいるわけがない。
きっとおじ様も今ごろは私が姿を消していることに気が付いて探しているかもしれないけれど、ここからあの場所に戻るのは無理だ。みんなのまぶしい笑顔に耐えられる自信がなかった。
長く離れていた故郷に帰りたくないと言えばウソになる。けれど帰ったらおそらく何らかの圧力がかかって再来年の官吏任用試験を受ける前に結婚をさせられる。家の仕事に従事させられる。そう思うと、帰りたくない気持ちが強くなった。
しかしだ。
実際問題、私は今大学寮に間借りをしている。大学に在籍している学生が住むための施設なので、卒業したら出ていかなくてはいけない。それも、近日中に。実家に帰らないとなれば、王都に住む場所を確保しなければいけなくなるということだ。
が、職もない貧乏男爵家の娘に家や部屋を貸そうというもの好きなどそうそういないだろう。ダリオおじ様のところは王城の内部にある職員寮だから転がり込むわけにはいかない。
数日であれば王都のどこかに宿をとってしまうこともできるけれど、それにしたって長居はできない。私が帰らないと言えばハンナもついてくるしかなくなるし、そうすると彼女の分の宿代だって必要だ。
頭の中で大学四年間で貯めておいたお金の残高を思い浮かべるが、ハンナと二人分と考えるとそこいらの宿でほんの数日、長くて一週間が限度である。実家に送金をお願いする、となると帰ってこいと言われるに違いない。ハンナは大喜びで私を引きずって帰ろうとするだろう。
「……詰んだ」
私は膝を抱えて顔をうずめた。はしたない、と言われても仕方ないけど今は周りに誰も居ないし、もういい。どうせみんな大広間で晴れやかな顔をして踊っているんだ。構うもんか。
遠くから流れてくる楽団の音色をうすぼんやりと聞きながら、一体どれくらいそうしていただろう。当たりは薄暗くなってきたし、クッションもついていない固い屋外用の椅子に座っていたせいか、お尻どころか腰まで痛くなってきた。良い仕立てだけれどやや生地が薄くなっているドレスもすっかり冷え、うずくまっていたせいで体もガチガチになっている。
もうこっそり寮に戻って寝てしまおうか。後のことはまた明日、改めて考えようか。
そう思った時だった。
「失礼。エルネスタ・エマ・ヅィックラー男爵令嬢で間違いないでしょうか」
「はい?」
声を出してからしまった、と私は口を押えた。周りに誰もいなかったはずのテラスで突然声をかけられ、取り繕うこともできず素で返事をしてしまったからだ。
はっとして体を起こし辺りを見渡すと、目の前に一人の男性が立っていた。
磨き上げられた革靴はまろやかに夕日の残渣を反射させ、その上にかぶさる黒いスラックスにはピシッとした美しい折り目が付いている。すらりとした上背のある男性だ。燕尾のジャケットの下には真っ白いシャツと真っ白いタイ、そして胸元には叙勲の証と爵位をあらわすいくつもの勲章を着けている。その中の一つに、私の目はくぎ付けとなった。
星をかたどった金色の意匠の中に、強く輝く透明な石が施されているそれは、この国の中でも高位の貴族である証だ。透明な宝石を身に着けられるのは王家と、それに準ずる公爵位を持つ者だけである。
ゆっくりと私は視線を上げた。まさか、いやそんなわけはない。しかし短く切られた黒髪には覚えがあった。男性と目があった瞬間、私の背にぞくりとした悪寒が走る。
こちらを見る鋭い眼光の強さは変わらない。あの刑場で燃えるような憎しみをぶつけてきた漆黒の目だった。私を睨みながら、王子に付き従っていた男性──。
「……ユリウス・カイ・ヴォルフザイン公爵、さま……」
かさつく唇から発せられた言葉は、これ以上ないほどに掠れていた。通常であれば無礼なことである。膝を抱えて着席したまま、不躾に高位の男性の顔を見つめ、挨拶もなく名を呼ぶなど許されない。
でもあまりの出来事に体が動かない。本当なら一目散にこの場から逃げ出したいというのに、抱えた膝を下ろすことも顔を背けることもできなかった。あ、あ、と言葉にならない声が漏れる。
そんな私の無礼を咎めるつもりなのか、公爵は厳しい顔をしながらゆっくりと近づいてくるではないか。公爵に対する前世からの恐怖と、現在の無礼に対して叱られる恐怖がないまぜになって、私の身体はのけ反った。
しかしだった。公爵は私の隣までやってくると、のけ反りすぎてバランスを崩しかけている椅子の背に手をかけた。
「失礼した。取次も介さず急に声をかけて驚かせてしまったようで申し訳ない」
「へ? あ? は、はい?」
「まさかヅィックラー嬢が私をご存じとは思わなかった。お目にかかったことはないと記憶しておりますが、何故私とお分かりになったのです?」
すうっと公爵の目が細くなった。
しまった。今の私はこの男性と面識がないことをすっかり失念していた。つい口走ってしまった私が大慌てで言い訳を探すと、眼の端をさっきの勲章が掠める。
「え? あ、あのっ、その、く、勲章……!」
まったくうまく機能してくれない唇と舌を放棄して、無礼になるが私は公爵の胸を指さした。その意図が伝わったのだろう。ああ、と公爵が得心したように頷いた。
「これをご存じだったんですね。失礼した」
「い、いえ!」
「失礼ついでに不躾なのは承知しておりますが、少々お相手願えるとありがたいのですが、お隣よろしいでしょうか?」
「は! な、なんっでしょう!」
なんでしょう、という声は私史上最高最悪にひっくり返っていただろう。その証拠に、隣の椅子に腰を掛けようとしていた公爵が目を丸くして動きを止めている。
切れ長で鋭い目つきが、一瞬だけひどく幼くなった。
幼いと言っても、公爵は確かアルベルト王子と同じ年だったはずだから、今なら二十一、二歳か。私が処刑された頃が二十六、七。五年も差があれば、あの頃より幼い感じがしてもおかしくはない。
そうか、あれは五年も先のことか。
そう考えると、やっと私の身体から力が抜けた。
そうだ、今の私は聖女でもなければ王子と出会ってもいないので婚約者でもない。王子の側近だったこの公爵とは、たった今まで顔も合わせたことがない、縁もゆかりもない状態だ。出会って数秒で取って食われるなんてことはない。
では、と私は首を傾げた。面識もない一学生である私に、国内でも王を除いて最上位の地位を持つ公爵が何故声をかけてきたのだろう。
「た、大変、ご無礼をいたしました。エルネスタ・エマ・ヅィックラーでございます。ヴォルフザイン公爵閣下」
「どうぞ楽になさってください。ここは大学の卒業に伴う祝賀会の非公式の場です。しかも貴女は今夜の主役の一人でもあるでしょう。首席でのご卒業、大変おめでとうございます」
「お心遣い、ありがとうございます……」
涼やかに微笑む公爵に対し、私は座ったまま会釈をして心の中でまた首を傾げる。こんなに配慮ができる方だっただろうか。
前世の記憶の中で、このヴォルフザイン公爵という方は常に王子の隣に立っていた。王子の御前に召された私に対し、毎回ものすごく、ものすっごく冷ややかな視線を投げつけてきていたのを強烈に覚えている。身分の違いを
そうそう。一度、王子に呼ばれてお部屋に行ったときに、王子が不在で公爵と二人になった時間があった。その時は私を部屋の中央にぽつんと置かれた椅子に座らせ、一挙手一投足に至るまで監視するように見つめられたんだった。公爵本人は扉の近くで仁王立ちをしていて、私がちょっとでも立とうとすると、間髪入れずに駆け寄ってきて座っていろと命じてくれたっけ。おかげで用を足しにも行けなかった。
なんてぞんざいで、尊大で、無礼な人だろうと思ったけど、王子の大事な側近だからと告げ口もしなかった私は人間ができているとこっそり誇ったものだった。
ほとんど口をきいたこともないというのに、なんであんな対応をされたのか今もって謎である。
が。
このように配慮されたらこれはこれで調子が狂う。
一体何の用があるというのだろう。わずかな沈黙すら、そら恐ろしく感じてしまう。
しかしこういう時に女のほうから口を開いて良いかどうか、それが失礼に当たるかどうかもよく分からなかった。大学では建前上はみな平等とされ、身分の上下に関するしきたりが緩かったせいでそこのところのマナーが身についていない自覚はある。うかつに口を開いたら今度こそ無礼であると叱られてしまうのではないか。
きいん、と静寂が耳に刺さる。いや、本当なら広間で奏でられている音楽が聞こえているはずなに、私の耳がそれを受け取れていない。この場の緊張感が五感を麻痺させているかのようだ。
沈黙に耐えられなくなった私が小さく身じろぎすると、公爵は特に何も言うことなく懐から何か取り出してこちらに差し出してきた。見れば彼の胸に輝く公爵家の勲章と同じ紋様が透かしで漉き込まれている封筒だった。
「そろそろ暗くなってきますし、冷えてはいけない。手短に済ませましょう。ヅィックラー嬢、明日のご予定はおありですか?」
「い、いいえ?」
近日中に寮を出なければいけないが、行先について決めかねている私は首を横に振った。ここにハンナがいれば一も二もなく「男爵領へ帰ります」と言っただろう。
「卒業後は、ご実家に戻られるのですか?」
「いいえ……ああ、いえ、まだ決めておりません」
「お戻りにならないのですか? いえ、失礼ですが、ご結婚のご予定などがおありなのでは?」
「ございません……」
「では王都に留まるおつもりですか? 何故? 何かご予定でも?」
「い、いえ、特には……」
「しかしご実家ではご両親がお待ちなのではないですか? 若いご令嬢が、お一人で王都に留まるというなら何か目的があるのかと思うのですが」
公爵の声がやや硬くなる。詰問されている気分になり、私は自分の声が上ずっていくのが分かった。
でも悪いことなどしていない、この人に知られて困ることはない、と一生懸命自分を奮い立たせる。
「実は、ええっと、官吏任用試験を受けて、文官になろうかと……」
語尾はほとんど声にならなかった。ぼそりとつぶやいた独り言のような言い訳が聞こえたのだろう、公爵が小さく驚いた声を出して目を丸くする。
「任用試験?」
重ねて尋ねられ、私は観念して頷いた。もうそれ以上聞かないで、と思ったがもちろん公爵の追及は止まらない。
「……とはいえ、あれは今年と来年実施されないと、夏頃に告知があったかと」
「そうなのです。それが私、その頃は卒業研究に没頭しておりまして、不実施のお話があったことすら知らず……」
「本当ですか?」
訝しげに公爵の顔が傾いた。しかし何を言われようと知らなかったものは知らなかったのだ。
「本当です。つい先ほど、祝賀会が始まる直前に議会書記官をしております親類に聞きまして……それで行先がなくなってしまいまして……」
なるほど、と頷く公爵を前に私は項垂れて小さくなった。
「しかし、ではなおさらご実家にお戻りになればよろしいのでは? 王立大学を首席で卒業されたとあれば、ご両親も縁談の取りまとめに精が出ましょう」
「いえ、結婚は、本当に考えておりませんので……」
「何故?」
「先ほど申し上げました通り、わたくしは官吏任用試験を受けて文官となって、我が国のために働きたいと思っておりまして」
「官吏はここ数年で女性にも門戸が開かれ、確かに女性文官も幾人が知っておりますが、それほど給料が良いとも言えず出世の道も男とは比べようもない状態です。貴族の令嬢がわざわざ目指す職とは、言い難い。城勤めなど、ほかの男たちの好奇の目に晒されるだけですよ」
「い、いいえっ。城ではなく、地方の行政局でよいので……」
「地方など、なおさら女性官吏の職場としてはお勧めしません。しかも今年も、来年も試験はない。確かヅィックラー家は王都にお屋敷をお持ちではなかったと思います。お戻りにならず試験まで二年。王都のどこで二年も滞在されるおつもりです?」
「ええっと……、あの、どこかで何かお仕事をいただいて……と考えていたり……」
「ではご実家に戻って男爵の領地経営をお手伝いされてはいかがです?」
ぐ、と言葉に詰まった。
そりゃ私だって領地経営が立派な仕事だということは分かっている。それを補佐することも、屋敷を維持するために手伝うことだって貴族の仕事の一つだ。長年それを勤めてきた母のことだって、使用人たちに不満を言わせないその手腕は尊敬に値していると思っている。
けれど、帰れば結婚させられる可能性が高い。結婚を強いられて望まぬ人生を歩まされるのは嫌だった。見ず知らずの男のもとへ嫁げというのも嫌だし、恋愛をするのもこりごりだ。女一人でどうにか生きていきたくて、それで文官の仕事をしたいと思っているのだから、実家に帰る選択肢はない。
それをこんな初対面の人にどうこういわれる筋合いなどないだろう。
帰るつもりはありません、と言うとそれまで饒舌に語っていた公爵の口が止まった。
「王都で仕事を探したいのです。試験再開までの間、なにか私にもできる仕事があればそれをやるつもりもありますし」
説教された気分になって伏せていた目を上げれば、まさか反論されると思っていなかったのかぎくりとした顔で公爵が固まっている。
日が落ちて、夜の気配をはらんだ冷たい風が私の頬を撫でた。
「……実家に戻るつもりはございません」
「……なるほど」
では、と公爵は続けた。
「今のところ明日からは、無職ということですね?」
身も蓋もない。が、事実である。私はこくりと頷いた。
なるほど、とまた呟いた公爵の声が幾分明るい気がするのは気のせいか。はて、と思うと公爵がさっき懐から取り出した封筒をこちらに差し出した。
「であればちょうどいい。こちらをお受け取りください」
「え?」
「我が家への招待状です。明日の昼に、我がヴォルフザインの屋敷へおいで願えませんか?」
「……え?」
「詳細はおいでくださったときにご説明しますが。大学を首席で卒業された貴女にお願いしたい仕事があるのですよ」
「し、仕事? 仕事ですか?」
「屋敷の場所はご存じですか? いや、明日、大学寮まで迎えの車をやりましょう」
「ちょ、ちょっと待ってください。いったいどうして……!」
ついさっきまで帰れ帰れという論調だったではないか。それを仕事だと? 全く方向性が変わった話題に頭がついていかない。手に握らされるように押し付けられた招待状には、ずっしりとした肉厚の
見目麗しく独身の公爵閣下のお屋敷にお招きされる、なんていうのは年頃の令嬢たちからすれば天にも昇る心地だろう。そして大きな商家出身のクロエならきっと四方八方に手を尽くして、この機会に絶対相手とその人脈を丸ごと狩ると決意するに違いない。
けど、記憶にある限り今生では何の接点もなかったはずの、どちらかといえば貧乏な田舎男爵家の娘には負担が大きすぎる。というか、目的がわからなくて怪しすぎる。
しかし狼狽して招待状を持ったまま固まっている私に対し、公爵はにやりと口角をあげて微笑むだけだった。どこか悪戯っぽい雰囲気が漂うその微笑みの中に、何故か有無を言わせぬ圧力を感じる。
「大学長からとびぬけて成績が良い男爵令嬢がいると伺っていたんですよ。稀にみる才女である、と」
「いえ、そんな、光栄ですがそれはでも」
「そして貴女は明日以降無職になるとおっしゃった。国王陛下がその情報をつかむ前に、ぜひ我が家にお招きして仕事をお願いしたい」
──何か、口実があれば断れたのかもしれない。本音で言えばこの人に関わることは怖い。アルベルト王子に近い人だし、前世での関わりだって決して友好的な関係ではなかったからだ。国王陛下が情報をつかむ前に、となんだか不穏なことも言っている。いったいどういうことだろう。
しかし「仕事」と聞いて心が揺らいだ。
このままでいれば大学寮を追い出された後、ハンナや実家の者たちに男爵領へと連れ戻されることだろう。そしておそらくは、地元に戻った途端に舞い込む縁談と攻防戦を繰り広げなければいけない。
それを、この「仕事」とやらを引き受ければ避けられる、かもしれない。そう思ってしまったのだ。
まだ王都に留まれる。実家に帰らなくて済む。仕事さえあれば、宿を取ることだってできる。王都に留まっていれば、ダリオおじ様が言っていたような臨時採用にありつける可能性だってある。
私は手に持ったままの封筒をゆっくりと胸に引き寄せた。目を合わせた公爵が、今度こそにやりと分かりやすく笑った。
「……そのお仕事とは? ……いったい何を」
「私には妹が一人おりましてね。その家庭教師をお願いしたいのですよ。王立大学校を首席で卒業された貴女には、きっと造作もないことでしょう?」
公爵に妹がいたとは初耳だ。いったいどんな仕事を言いつけられるのか、無体なことをやらされたらどうしようと思っていたのに、貴族の家の家庭教師と聞いて幾分ほっとしている自分がいる。
家庭教師ならばなんとかなるだろう。いや、やらなくてはいけない。
「かしこまりました。お招きいただき、ありがとうございます。明日、お屋敷までお伺いいたします」
恭しく頭を下げ、そしてまた顔を上げるとそこには満足そうにほほ笑む公爵の姿があった。手のひらで転がされたような、結局この人の思惑通りになっているような、なんか不穏な気配が漂っている気がするがこうなれば腹を括るしかない。
公爵の短い黒髪がすっかり冷えてしまった夜風に煽られ僅かに揺れた。風にのってかすかに聞こえてくる大広間の喧騒と音楽の中、静かなテラスに射す月の薄明かりに浮かび上がった公爵の姿は美しいけれど妖しく見えたのだった。