「貴様は希代の悪女として王国の歴史に刻まれることだろう。やれ」
彼の号令がかかると、傍らの衛兵が斧を携えて近寄ってきた。
せめて実家には責任が及びませんように。そう願わずにはおれない。地に伏したまま目を閉じると、瞼の裏に領地で待っているはずの父母の顔が浮かんだ。王子との婚約を伝えた時、恐れ慄きながらも祝福してくれた父と母に心の中で詫びる。
そして。
抵抗を諦めた私を取り押さえていた衛兵が、手に持った斧を振り上げた──。
「うわああああああ!」
どすん、と体が揺れた瞬間、私は絶叫して飛び起きた。全身からぶわっと汗が吹き出る。
「お嬢様? エルネスタ様、どうされました?」
「……え?」
聞き慣れた女の声で名を呼ばれ、私は目を二、三度瞬かせる。そしてゆっくりと手を持ち上げ、首と頭を押さえた。
切れていない。
繋がっている。
身体と、首が。そしてはらりと肩から滑り落ちた銀色の長い髪が頬に当たってくすぐったい。……ということは、感覚があるということで。
斧で首を落とされたのではなかったか。と辺りを見渡せば、そこは砂が敷かれて石壁で覆われた刑場ではなく見慣れた自室であった。でも、王城の一角に与えられていた聖女の部屋ではない。そして代々使われていたと言われているだけの調度品が置かれた、実家の部屋でもない。
座っているのはベッドの上だ。天蓋もないしベールも垂らされていない。飛び起きた勢いでぐしゃぐしゃになっているのは絹ではなく麻のシーツだ。ふと動かした視線の先には木製の本棚がいくつも並び、中には本がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
レンバルト王国の城下にある、王立大学校寮の自室だと気づくのにそれほど時間はかからなかった。
またあの悪夢か、と私は盛大にため息をついた。
「お嬢様、寝ぼけてらっしゃいます?」
声の主を振り返ると初老というにはやや若い、気心の知れた侍女のハンナの顔があった。紺を基調とした仕事着に白いエプロンをつけ、癖のある赤毛は上手に白い帽子にしまい込んでいる。散らかしたままになっていた本を片付けてくれているのだろう、腕まくりをした左右の手には三冊ずつの本が抱えられていた。
「なんですか、ぼうっとして。嫌な夢でも見たんです?」
「……まあ、例のやつよ」
「ああ、あの、聖女になったお嬢様が王子殿下の婚約者だったのに捨てられて処刑されるってやつですか」
「そ、毎回斬首の瞬間に目が覚めるのって、嫌な気分だわ」
そりゃ嫌ですねぇ、とハンナはあまり興味なさげに相槌を打つと、持っていた本を棚の上に置いた。そしてテーブルのコップに水を注いで渡してくれる。小さな頃から身近にいて世話をしてくれる侍女だから、私がこの夢を幾度となく見て飛び起きていることをよく知っているのだ。
つまり、聞き飽きた、ということである。
受け取ったコップの水を一口含み、ゆっくり飲み込むと食道からおなかまですうっと冷たいものが通り過ぎていく。夢見の悪さに高ぶっていた神経が落ち着く感じがして、私はもう一口水を飲んだ。
さて、この悪夢を最初に見たのはいつだったか。それは明確に覚えている。十歳の誕生日を迎えた夜中だ。今と同じように飛び起きてわんわんと泣いた時から数えてもう十年。人生の節目ごとに蘇ってうなされる悪夢の話など聞かされ続けていては、気の置けない仲の侍女とはいえもう耳にタコができると言われても仕方ない。
私も毎回、起きるたびに嫌な夢だったと言って終わらせる。だって現実ではありえないからだ。
そもそもうちの家は歴史は古いが、父は男爵の爵位を持つに過ぎない。貴族の中でも低い身分とされる男爵家の娘が王家の息子と婚約をするなど、たとえ娘の方が聖女に任命されていたとしても難しい話だろう。そしてその男爵家の娘である現在の私の身分は、聖女ではなくただの大学生だ。年齢も学年も違うので、お相手たる王子とは出会いようもない。
でも──実はハンナにも、そしてもちろん両親にも告げていない秘密がある。
この悪夢が、私の前世の最期の記憶だということを。
初めてこの夢を見て目覚めた時、私はベッドの中で震えながら前世の記憶の全てを思い出したのだ。私が大人であった頃の、この国の聖女であった頃の記憶だ。
前世におけるヅィックラー男爵令嬢、エルネスタ・エマ・ヅィックラーは十歳の誕生日を迎えた朝に「聖女の才能を持つ証」とされているあざが発現した。それが発覚すると親元から離れ、修道院に入りおよそ十年にわたり聖女候補生として同期数名の女子達とともに教育を受けた。修行が認められ試験に合格し、二十歳になるとこの国の聖女に任命された。
「聖女」とは神職の一つで、レンバルト王国が成立したおよそ千年前より続く、選ばれた未婚の女子だけが就ける聖なる職業だった。古くは神の声を王や民へ伝え国を正しき方向へ導くものだったらしいが、政が王一人の手で行われなくなり議会が開かれるようになって形骸化したと言われている。
王城内の祭壇を主な仕事場とし、日常的な祈祷と占い、そしてこの国を守護する神を祀る様々な儀式を執り行い五年の任期を終える間際。式典の際に何度か一緒になることがあったせいか、王家の嫡男であるアルベルト王子に見初められ、あっという間に婚約となった。
ここまでならただの充実した幸せな日々の記憶である。しかし甘い時間は長く続かなかった。
この国の祭祀の要である聖女とはいえ元々は身分も高くない男爵家の娘である私に対し、王家や他の貴族の面々、そして議会すら良い顔をしなかったのだ。そんな中でも王子は私を愛していると言い守ってくれていたが、裏切られ、二十五歳の誕生日に反逆罪で処刑された。
これが思い出した内容のあらましである。
恐ろしいほどの臨場感と、これ以外にも生まれたときから続く一生分の記憶があることから、予知夢の類ではないと十歳という年齢だったが直感で理解できた。
そしてこれがただの悪夢や、睡眠不足による混乱ではない証拠もすぐに見つかった。自分が首を落とされる恐怖にべそをかきながら自分の右の内腿を確認すると、そこに前日までは影も形もなかったはずの薔薇の花を思わせるあざが浮かび上がっていたからだ。
夢で見た大人の自分の内腿にあったあざと全く同じものだった。つまり、信じられないことだったけれど二十五歳で処刑されたはずの私は、十歳の頃の私に生まれ変わっていたのだ。
もう一度人生をやり直せる、と思ったのもつかの間だ。私の背には冷たいものが走った。
浮かび上がったあざが両親に知られたらまた聖女にさせられてしまうと気づいたからだ。修道院へ連れていかれ十年修業し、そして聖女となったら二十五歳で処刑されてしまうかもしれない。
そんなことになるのはもう嫌だ。私はきちんと寿命を迎えるまで生きたい。たとえ前世と同じ二十五歳で死ぬのだとしても、訳も分からない理由で処刑されるなどまっぴらだ。
そう思った私はすぐさまそのあざを隠し通すことに決めた。幸いなことに内腿とはいえ足の付け根に近いところにあるあざだったから、服や下着をかなり上までまくり上げなければ見つかることはない。その翌朝から私が一人で着替えを行うようになり、それまで身の回りのすべてを手伝ってくれていたハンナは驚いて大層褒めてくれたっけ。
ベッドに腰かけながら、そっと内腿のあざのあたりに手を添えた。年月が経っても前世の通りこのあざは消えることはなかったけれど、私は今こうして聖女とはかかわりのない王立大学校というところで生きている。
私は両手を胸の前で組み、朝日の昇る東側に向けて祈りの言葉をささげた。聖女の修行中に叩き込まれたもので、生まれ変わっても身体、いやもう心に染みついた動作として十歳のころから続けている。あの頃に祈りをささげる神様を今も信じているかといえば否定できる。だって神様がいたらあれほど熱心に祈っていたはずの私を助けてくれないはずがない。けれどやらないと落ち着かない動作なのだ。
祈りを終えて目を開けると、ハンナがニコニコと機嫌のいい笑みを浮かべていた。
「さ、お嬢様、今日は待ちに待った卒業式と祝賀会ですよ。早く起きて支度をしてくださいまし」
「あぁ、そうだったわね。節目の日だからあの夢を見たのかしら」
「これでようやく領地のお屋敷に戻れますし、ようやく男爵様もお嬢様のお嫁入り先を決めることができますわね」
「ようやくって、私、男の人と結婚する気はないって昔から言ってるじゃない」
私が四年前の入学と同時に王都にある大学寮へ入ると、それに伴って侍女のハンナも王都へやってきた。ほとんど里帰りをしないまま勉強を続けていた私とは異なりちょくちょく用事があると言って領地へ戻っていたはずだけれど、やはり地元の恋しさは別格なのだろう。いざ卒業と退寮が近づくとハンナは目に見えてホクホクとしている。ホクホクついでに、ことあるごとにこうやって結婚を勧めるのだ。
「そもそもね、お嬢様は結婚する気はないとおっしゃいますけどね、そういうわけにはまいりませんでしょう? 男爵家のお嬢様がいつまでも独り身でふらふらしているなんて、妙な噂話のもとになりますよ」
「私、まだ大学生だし、まだ二十歳よ?」
「もう二十歳、でございますよ。まったく、ただでさえ勉強好きの変なお嬢様と言われているっていうのに、危機感のない……」
「そんなこと言うの、ハンナだけでしょ」
「いいえお嬢様。領地の者はみぃんな噂しておりますよ。頭がいいばっかりの女は殿方に生意気と思われてしまいます。大学出なんて、避けられてお嫁入り先がなくなったら大変です。領地に帰ったら本など読めないふりをなさいませ」
ハンナはぶつくさ言いながら、私の持つ空のコップを受け取った。
自身が十四、五で今の夫と結婚し、子どもを五人も育て上げたという彼女にとっては、好き好んで実家を出て大学に行き勉強をしている私のことを理解しがたいのだろう。王都ならまだしも、男爵領がある地方ではハンナの言っているようなことが当たり前の価値観とされている部分もあり、結婚しないという私の価値観は理解してもらえなくても仕方ない。
しかし聖女にならないのであれば、あまり裕福とは言えない男爵家の一人娘である私には将来の選択肢が少ない。年頃になればどこか家柄が釣り合う貴族のご子息と結婚し相手の家に入るか、あるいは夫を迎えて父の領地経営の手伝いをするか、というのが一般的な成人女性の進む道だろう。現に母にも、祖母にも、そして侍女のハンナにも子どもの頃から何度となく言い含められている。
いずれ男の人の妻となって家にいる生活になる。それはなんとなく、いや、たまらなく嫌だった。
妻となって家に入ってしまえば、何をするにしても父や夫の言うことを聞かなくてはいけない。女主人として家を切り盛りしなければいけないとはいえ、個人的な裁量の余地は大きくないしなにより世界が狭くなる気がする
最期は悲惨なものだったが、修行に明け暮れていた日々は充実していたし、王城や季節によっては地方に出向いて行う聖女の仕事は責任が重くやりがいがあった。たとえその仕事が形式をなぞるだけであったとしても、人様の役に立っているという実感はあったし。
そういった家以外の仕事を知ってしまっている以上、家や屋敷に籠って仕事をするというのはひどく退屈に感じるのだ。だから外に行きたい。家のことではなく、社会に役立つ仕事を得たい。
かといって改めて聖女にはなりたくない。前世は祈っているだけだった。けれど、今生では自分の力で運命を切り開きたい。
だから私は十歳を境に必死に勉強をすることにした。週一回やってくる家庭教師が舌を巻くほど勉強し、父に無理を言って十六歳になった時に王立大学校へ入学をした。古今東西、知識は身を助くという。勉強をして大学を卒業すれば、女であっても試験を受けて公的な職に就けると聞いたからだ。
「そんな本当の自分を偽ってまで結婚したいわけではないわ」
「お好きな男性ができれば結婚したくなりますよ。そういえばほら、ご覧になりました? 先週発表された聖女様の占い。鈴蘭の月生まれの恋愛運が高まって、運命の出会いがあるかもしれませんですってよ」
「恋愛結婚ってこと? それも嫌。そもそも占いなんて、そんな非科学的なこと信じられるわけないし、私、もう恋なんてこりごりなのよ」
「恋人なんぞいたためしもないでしょうに、何をおっしゃっていることやら」
ふふっとハンナは肩を揺らした。二十歳になったというのに男性との個人的な交際歴がないことなど、お付の侍女ならばすっかりお見通しというわけだ。
たしかに私には個人的に男の人と交際した経験はない。ただそれは今生では、の話で前世を含めた場合は王子としっかり恋愛して婚約までした実績がある。しかしあの裏切りにあってからというもの、すっかり男の人に対する警戒心が高まってしまい新たに恋をするという気分になれない。
一人の男の人に夢中になって、またあんな思いをするのは怖い。命の危険があろうとなかろうと心が張り裂ける思いをするのはもう散々で、男性と深い仲になりそうなことは意識的に避けてきた。
大学に在籍しているのは貴族の子弟のほか、納税市民の長男や裕福な商人の子女で言ってみれば出会いの機会は豊富にあった。教室の八割が男性であることからお互いに会えば話くらいはする仲にはなるものの、それ以上になると踏み込めない、踏み込ませないという態度をとっていたせいもあり、この年になるまで恋人の一人もいない。ハンナはそれがちょっと面白くないのだろう。
お目付け役でもあるくせに、主人の娘に恋人を作るように勧める侍女もなかなかいない。もし私に恋人の一人でもできれば、ハンナは嬉々として実家の両親にご注進として報告したに違いない。そしてそれを受けた両親は、卒業後に結婚を勧めるため水面下で話をつけようと動いただろう。
結婚したくないという私の意思など、田舎の慣習の前では無力である。
しかしそれを避けるために無我夢中で勉強をしていた結果、私は王立大学校の首席として卒業できることになったのだ。
前世の記憶を持っていた分、読み書き計算、歴史分野、科学分野の知識の蓄えがあったことも幸いだった。ただそれだけで首席を取れるほど大学は甘くない。必死に学び、研究をしたおかげで今日の卒業を迎えられたことは今生における私の誇りになるだろう。
「さて、と。卒業式に着ていくドレスの準備はできているかしら」
「お父上から数日前に届いておりますよ。奥様がお若いころにお召しになっていた式典用のドレスをお直ししたものだそうです」
「ああ、あの赤いベルベットのドレスね。分かったわ。それに着替えます」
「では下着のお召し替えとコルセットの準備をしておいてくださいな。今お持ちします」
そう言うとハンナは寝室から下がった。隣室のクローゼットから彼女がドレスを持ってくる前に、私は急いで寝間着からドレス用の下着に着替える。この時ばかりは手早くやらないと、万が一にもあざを見つけられると厄介だ。
ごく薄い麻の下着を頭からかぶり、腹回りにコルセットを当てて締めているとすぐにハンナが赤いドレスをもって帰ってきた。私が自分でコルセットの紐を締めているのを見て、ちょっと眉をひそめるのはお約束である。
どうしてかといえば、それは私の締め方がゆるゆるだからだ。
「お嬢様? 何度も言ってますけど、その締め方じゃちっとも腰が細く見えませんよ。今日のドレスはベルベットで生地も少し厚めですし、胸と腰の差が出にくくてスタイルが……」
「いいのよ、私、苦しいの嫌いだし」
「そうは言ってもですねぇ……」
ぶつくさ言いながらもハンナはそれ以上紐を引っ張ることをせずに、二層になったパニエをコルセットに装着してくれた。これも普通であればもう少し層を厚くするのだけれど、私がスカートをあまり広げたくないということを知っているから控えめな量である。
「お嬢様は全く、洒落っ気というものがないんだから……」
「だって、ただでさえ髪の色で目立つんだからあまり派手にしたくないのよ」
私はドレスを着せられながら自分の肩に垂れた長い髪をひと房つまみ上げた。父にも、母にも似ていない。珍しい銀の糸のようなそれは屋内に差し込む朝日を反射してきらきらと輝いている。これを小さくお団子のように結い上げず垂らしたままにしておくなら、祝賀会場でどれだけ目立つか分からない。人前に出るときはできるだけ小さくまとめておこうとしていたら、いつの間にか背中の真ん中より長くなってしまった。
「もったいないったらありませんよ。今日くらい、もう少しちゃんとお化粧させていただけません?」
「いつもと同じでいいわ。この目の下のクマくらいはどうにかしたいところだけれど」
「お粉は?」
「軽くお願い」
だって本当に目立ちたくない。自分で言うのもなんだけれど、未来の世界で聖女になって王子に求婚されるだけあって、二十歳の現在でもまあそれなりに美しく育ってしまっているのだ。さすがに王城内で専門の侍女に磨き上げられていた頃と比べれば足元にも及ばないが。
でもだからこそとにかくひっそり生きていきたい。男性の目に留まりたくない。ハンナなんかは毎日のようにもったいないもったいないというけれど、下手に目立って高貴な身分の人に見初められでもしたら、男爵家風情ではお断りすることすら失礼と糾弾されてしまう。であればひっそりと地味にしていたほうがいい。
粉を叩き終え、ささっと眉を描き唇に紅を差したらあとは仕上げだ。私は枕元の卓に本とともに置いてあった眼鏡を手に取る。眼鏡が必要なほど視力が悪いわけではないけれど、これがちょうどいい具合に目元をごまかしてくれる。些細な目の色の変化も気づかれにくいし、眼鏡を着けているというだけでなんとなく他人に踏み込まれない感じがして安心感がある。
式典と祝賀会という晴れの場を迎える日であってもいつもと同じ極太の黒縁眼鏡をかけた私に、背後でハンナは小さくため息をついて見せたのだった。