何故なら私は公爵家令嬢であるアメリアの三食付住み込み専属家庭教師であり、どの科目においても授業の進度は彼女の理解度次第なのだから。

 人見知りが過ぎるために貴族の子弟が通う王立学校に行けないというアメリアのために、せめて人並みの教育を受けさせてやりたいという公爵直々の依頼で家庭教師を引き受けたのは半年ほど前のことだった。

 いきなり屋敷に呼ばれ、戸惑ったのもまだ記憶に新しい。高貴な貴族の家の家庭教師など経験豊富な中流貴族や学者先生の奥方がやるもので、面識もない、しかも職歴もない田舎男爵の娘が就く職ではないはずだった。

 しかし二十歳になり王立大学を首席で卒業したのに就職のアテが外れて途方に暮れていた私を、公爵とアメリアが是非にといって雇ってくれたのだ。

 ありがたい気持ち半分、家庭教師など務まるだろうかという恐れ多い気持ち半分。責任の重さに戦々恐々として公爵家へやってきたが、幸いアメリアはとても優秀な生徒であり意欲的でもあるためやり甲斐がある。ちょっとした助け舟を出すだけで、あとは自力でひらめいてしまうような底力もあった。

 こんなに優秀なのに学校へ行けないのはなんとももったいないことと思った。ただどの課程の王立学校でも教師陣がほぼ男性であり、教室で多数を占めるのが男子生徒であるという環境に馴染めなかったのだ。彼女が真の意味で深窓の令嬢として育っていたことが仇になった形である。

「ありがとうございます、先生。光明が見えた気がしますので、あとは私、自分で計算をしてみます」

「分からなくなったらまたいつでもいらしてくださいね。これから私も本を読みますので、母屋から見てこの窓の灯りが消えていなければ起きていると思ってください」

「本当ですか? では分からなくなったらまた……ああいえ、夜遅い時間に先生のお手を煩わせてはいけないとお兄様に叱られてしまいますわ。今朝も、近いうちにまた何かご相談に伺いたいと言っておりましたし」

 失礼いたしました、と可憐に微笑んだアメリアはお辞儀をしてドアを開けた。

 すると、だ。

 ドアの向こうに人影が見えた。すらりとした長身の男性が一人、腕を組んで立っている。この屋敷の主、ユリウス・カイ・ヴォルフザイン公爵その人だ。

 遅い時間ということもあるのだろう、ゆとりのある絹のシャツにスラックスだけという簡素な出で立ちだ。顔をわずかに伏せているせいか黒い前髪が影をなして表情は窺えないが、ドアが開かれるとさも当然のように室内に入ってきた。

 いくら雇用主であっても、女性の私室に一言も断ることなく入らないでほしい。という抗議は以前に却下されている。

 その公爵は室内のアメリアと向かい合うと、顔を上げてにっこりと微笑んだ。

「疑問は解決したかい、アメリア」

「はい、お兄様」

「それは良かった。いい顔だ」

 公爵は御歳二十一歳。歳の離れた妹君に話しかける声は、際限がない程に優しげである。アメリアが五歳の時にお母上が亡くなったそうで、そこからは兄君が母代わりとなってあれやこれやと世話を焼いていたというのだから、甘くなるのも当然と言えば当然か。

「さあ、では部屋に戻りなさい。遅くなる前に眠るんだよ。俺はエルネスタ先生と二人で、君の授業の進度について少し相談をしておこう」

 授業進度の相談なら、と私は書棚にしまっておいた紙の束を引っ張り出した。

 まだお若いとはいえヴォルフザイン家の当主の身。ご自身のお仕事も忙しいはずである。しかし素人のような私に任せた妹君の学びがどうなっているのか心配でたまらないのだろう。

 であれば兄君を安心させて差し上げるのも家庭教師の務めで、どうせならアメリア本人を交えた方が話が早い。

 私は引っ張り出した紙の束を机の上にさっと広げた。ここ数日行った授業のノートと小テストだ。公爵がわずかに顔をしかめたような気がするが、枚数が少ないと思われたのだろうか。でもそれは仕方ない。アメリアはとても優秀なので、テストの書き損じもあまりないうえにノートも重要事項以外は口頭で説明するだけで理解してしまうんだから。

「それでしたら是非アメリア様もご一緒に。こちらにございますのが本日行った地理の確認テストです。昨日まで学習した内容はほぼ覚えていらっしゃいますし、地域の気候と特産物の関係などもしっかりご理解いただいております」

「そ、そうか。よく頑張っているね、アメリア」

「そればかりではございません。授業前にはきちんと予習もされていらっしゃいますので、わたくしが準備した教材ではやや物足りないと感じられることも多いようです。予習でまとめられたノートを拝見しましたが、とてもよくできていらっしゃってもう少し応用的な内容に踏み込んでも問題ないかと。つきましてはわたくし、明日にでも街の書店と図書館へ行き適した教材を探してきたいと思っておりますがいかがでしょう。ああ、でもお天気が良ければお庭で生物の実物を観察しようということも考えておりまして、ええっと公爵様もお時間があればご一緒にいかがでしょう。涼しくなってきて、お庭の虫たちもとても元気よく──」

「ああ、もう、分かった。分かったから」

 呆れたように眉を下げた公爵の顔が見えたと思った途端、大きな手のひらが視界一杯に広がった。

 まずい、と私は口を閉じる。またやってしまった。

 いろいろ説明をしなければ、と思った途端に口が止まらなくなってしまっていたのだ。

 幼い頃からの私の悪い癖で、興味があることに関する話題ではついつい息継ぎを忘れるレベルで饒舌になってしまう。大人になってもそれは変わらず、むしろ大学で知識が深まった分悪化しているかもしれない。

 首をすくめて縮こまっていると、公爵は私の目の前に広げた手で今度は私の肩を叩いた。ぽんぽんとごく軽く当たるそれは、決して公爵が怒っているのではないと伝えてくれる。しかしそれはそれで気まずい。

 妹君の目の前で、気軽に女性の体に触れないでもらいたい。多感な時期に差し掛かるご年齢だし、勘違いされては困る。

「なるほどなるほど。アメリアがきちんと授業を受けてくれていてお兄様は嬉しいよ。そして先生はよく君のことを見ていてくれるようだ」

「先生、明日のお天気が良かったら、私、お庭で観察をしたいです。少し季節が進んだので、この前とは違う虫が来ているかも」

「ああ、アメリア。分かったよ、エルネスタ先生にそうしてもらおう。しかし今日はもう遅い。子どもはそろそろ眠る時間では? 君の授業の様子についてはお兄様がきちんと聞いておくから」

「お夕食が終わって、もうそんな時間に?」

 いけない、とアメリアはドアの方へと駆け寄った。

「遅くまでありがとうございました。先生、お兄様、おやすみなさい、また明日よろしくお願いいたします」

「ああ、おやすみ」

 優しく微笑んだ公爵に、アメリアはまたお行儀の良い返事をして踵を返した。

「アメリア様……!」

 私は咄嗟に手を伸ばしたが、公爵に手首を掴まれ止められる。ぎくりとして隣を見上げれば、意味ありげに微笑んだ黒い目と視線がぶつかった。う、と私の喉から変な声が漏れる。そこでやっと気がついた。

 授業進度の相談なんて、ただの口実だということに。

 アメリア様、どうかあなたの兄君も一緒に連れて帰ってください。いや、授業の内容や授業態度の話であれば自分も聞きたいと言ってください。

 そう言いたいけれど言えない。言えば理由を聞かれるだろうし、私だって可愛い教え子の天使のような微笑みを曇らせるのは本意ではない。兄に絶大な信頼を置いている従順な妹君は、保護者である兄君が先生と相談するといえばそうなのだな、と何の疑問も持たないに違いないのだ。

 ちょっとくらいは一緒に聞くって言ってくれないかなと希望を持ってもいいだろう。しかし私のそんな願いは聞き届けられるはずもない。小さな背中は振り返ることなく去っていき、ドアがぱたりと閉められた。そしてそれが合図であったかのように、私の体は公爵に抱きすくめられてしまった。

 肩と腰にしっかりと腕を絡ませられ身動きが取れない。それでもわずかばかりの抵抗として身を固くしていると、耳の後ろでくすくすと含み笑いを漏らす公爵の声が聞こえた。

「何なんですかもう!」

「なんだはないだろう? 激務の公爵に癒しを与えてくれても良くないか?」

「ちょっと待って、そこで喋んないでください! それに、昨日夕食をご一緒したじゃないですか!」

「喋るなと言われてもなあ。それに丸一日会っていないんだ。ちょっとは堪能させてくれ」

 耳元で公爵の低い声がすると、吐息がもろに耳たぶに触れた。ぞくりとする痺れにも似た甘い感覚に思わず膝が崩れそうになる。

「やめ、そこで、喋んないで……!」

 自分の口から漏れた声が驚くほど甘い声音になり、私は手のひらで力一杯公爵を押し返した。しかし武芸にも秀でていると噂の公爵の体はびくともしない。私を抱きすくめた姿勢のまま、くくっと可笑しそうに喉を鳴らしている。それが悔しくて、私はがむしゃらに腕に力を込めた。

「どうした? 逃げないのか?」

「逃げ……! 離し……てってば!」

「全く、君は学習しないな。頭を使うことならともかく、体を使うことであれば別だ。君の力で俺の腕は解けないよ」

 面白い余興でも見つけたかのようにはしゃぐ公爵の声に苛立ちが募る。性別の差もあるのだ、敵うわけがない。元から体力には自信がないので、すぐに息も上がってきた。しかし遊ばれたままというのも癪に触る。

「揶揄うのもいい加減に……!」

「揶揄ってはいないさ。我が愛しの婚約者様に愛を囁いているだけだよ」

「って、フリだから! 二人っきりの時には必要ないでしょ!」

 雇い主に、しかも相当に身分が離れている相手を前にしているとは思えないほど語気が荒くなった。

 しかしそれで潮時と見たのだろう。私を拘束していた公爵の腕が緩む。

「フリのつもりはないんだけどなぁ。そう力まないでくれよ。君の澄んだすみれ色の瞳が赤くなりかけているぞ」

 心底残念そうに、しかしくすくす笑いながら両手を上げて降参のポーズを取る公爵に、私はむっとして襟元を直した。髪もそうなのだが、もともと色素が薄い私の瞳はちょっと興奮すると赤みを帯びるのだ。

「力ませたのはどこのどなた様でしょうね。およそ女性に対する態度とは思えませんけど。しかも公爵様、貴方、私のことお嫌いだったじゃないですか」

「いつのことを言ってるんだ。蒸し返さないでくれよ。緊張を解く暇もない王城での仕事を終えて帰ってきて、君とのこのひとときが俺の癒しなんだ」

「付き合わされる身にもなってください。じゃれ合いをお望みでしたらよそを当たってほしいものです」

 こっちだって毎日仕事で疲れている。月に銀貨数百枚という家庭教師としては破格の待遇だけれど、拘束時間は長いし事前準備もすべてやらなくてはいけないというのはなかなかに骨が折れるのだ。

 雇用主の悪ふざけに付き合っている時間があるなら、早く寝るか新たな教材を作る方に時間を回したい。しかし当の雇用主はこうやって時間ができた夜などにこちらの部屋へきて、ひとしきり触れ合う時間を過ごすのが日課になってしまっている。

 ふう、と両手を下ろした公爵は、テーブルの横で椅子に腰かけた。やれやれとでも言いたげに肩を竦め、手元の紙の束をぺらぺらとめくっている。

「だから、君がいいんだって言ってるだろう。俺、相当我慢してると思うけど?」

「は?」

 ちょっと目尻を吊り上げて睨むと、公爵はすぐに首を振った。

「いや、こっちのこと。さて、ではアメリアの授業について、具体的な話を聞こうか」

「……はい」

 そう言われれば異論はない。そもそも、口実とはいえ公爵がここに来る理由の一つはアメリアの学習に関する確認作業なのだから。

 私は気を取り直して今日の授業内容と定着度を中心に公爵へと説明したのだった。