プロローグ~公爵家令嬢の家庭教師~

「エルネスタ先生、夜分申し訳ございません。数学の、予習の範囲なのですがお伺いしたいことがあります」

「まあ、なんでしょう、アメリア様」

 まろやかなはちみつ色の長い髪を首の後ろでひと束に結んだ、花のように可憐な美少女がノートとテキストを抱えて部屋を訪れたのは夕食が終わって間もない時間だった。食堂でテーブルを挟んでいた時も、そういえば少し浮かない顔をしていた気がする。

 勤勉で努力家であるこの教え子は、どうやらずっと解けない問題に頭を悩ませていたらしい。自宅用とはいえ仕立ての良い絹のドレスの胸に抱えた筆記具は、着ているものの華やかさとは対照的に実用的かつ使い込まれた感があるものだ。

 母屋からこの離れにある私の部屋までは渡り廊下で繋がれているとはいえ少々遠い。しかし妹思いのこの娘の兄君が、彼女が怖がらないようにと取り付けさせた最新式のガス灯のおかげもあって、週に一度は夕食後にこうやって質問に来てくれる。

 頑張り屋さんだなぁと私──エルネスタ・エマ・ヅィックラーは頬を緩ませた。下ろしていた銀の長い髪を、邪魔にならないようアメリアと同じく後ろでひと束にまとめる。難しい質問であっても付き合うつもりだ。

 困った顔をしながら机にテキストを広げ、アメリアは一つの問題を指さした。オレンジ色に近いランプの灯りでも白いことがわかる指の先を見た私は、おお、と息を漏らした。

 多項式の因数分解に関する計算問題の一つに、何回か書いたり消したりした跡が残っているではないか。今日の午前中にやった授業では整数の素因数分解までだったけれど、その後も興味の赴くまま予習範囲に突き進んでしまったのだろう。

 まだ十一歳だというのにやはりこの子は好奇心が旺盛なのだなと感心する。それとともに、さすが歴代でも優秀と名高いヴォルフザイン公爵の妹だと納得してしまった。現国王の妹君でもあるお母上も相当に学識の高い方だったという話だし、血筋とでも言うのだろうか。

 そう言えばこの子の兄君である公爵は、武芸も達者で知恵もあるといって王子の側近にもなっていたっけ。


 五年ほど先の世界では。


「アメリア様、こちらは因数分解の問題です」

「いんすうぶんかい?」

「素因数分解は今日の授業で練習をしましたね?」

「はい。素数で割り算をして、割り切れないところまで続けて計算して掛け算の式に変形することです」

「そうですね。では、このように+やといった符号がついていて、二つ、三つの単項式が繋がっている式をなんと言いましたか?」

「多項式です」

 打てば響くように返ってくる回答が心地よい。私は合っているという意味を込めて頷いた。

「良く覚えておいでですね。因数分解とは整数や多項式をいくつかの整数や多項式の掛け算の式に変形する計算方法です。それぞれの項を素数で割るのではなく、全ての項を見て共通して掛けられている数字や文字を考えることが必要なんです」

 ん、とアメリアは頷いた。

 これは次回の授業内容にと考えていたことだけれど、別に今教えたってなんの問題もない。夕食後の時間ではあるけれど、勤務時間外と言うこともない。