第八幕 【〈魔神〉と〈術神〉】



 リンドホルム霊山はあの日と変わらず厳然としてそこにあった。

 人ではないものの気配。まばらに咲く高山花。山肌に積もる雪は上へ登るほどに濃くなる。

 ──あそこは、俺が昔訓練を逃げ出して隠れた洞穴だ。

 中腹に差しかかるあたりで、メレアの視界に見覚えのある光景が映りはじめる。

 ──あそこは、ヴァンとセレスターが喧けん嘩かをしたとき、余波で崩れた岩山。

 一つ一つ、思い出をなぞるようにメレアは山を登る。

 ──ああ、あそこに〈未来石フユーナス〉があったんだっけ。

 今は懐かしい。すべてが遠く感じられる。

 そんなに長い時は経っていないのに、ひどく長い道のりを走ってきたような気がした。

 ──そこにいるの、フランダー。

 そしていくばくか。

 メレアは見慣れた山頂への道に足を踏み入れ、ついに天に最も近い山の頂へ登りつめた。

「──」

 広がる視界。近い雲。

 切れ目からこぼれる数多の星は、月光と共にきらきらと山頂を照らしている。

 雲が切れ、満月の光が差した。

 それはすべてを露わにする。

 仲間たちと作った百の英霊の墓。

 すべてがはじまったあの日、ムーゼッグの連係術式によって滑らかに削られた崖がけ。

 少し遠くに、幼少時代を過ごした石造りの小屋があった。

 ──ああ。

 そしてメレアは、この山頂の中心で、自分が霊山を下りたときと同じ服で、同じ輝きを持つ赤い瞳で、何度も見たあの優しげな笑みで、自分を待っている男を見た。

 ──そうだ。

 霊山を下りるとき、着ていた服は彼の服だった。

 腕につけた腕輪や、ベルトにつけた装身具、自分が身に着けているものはすべて彼らが生前身に着けていたもの。

 だから、彼があのときの自分と同じ格好でそこにいることは、当然だ。

「やあ、メレア。久しぶりだね」

 フランダー・クロウ・ムーゼッグ。

〈術神〉と呼ばれたかつての英雄が、再び〈魔神〉メレア・メアの前に姿を現した。


◆◆◆


 ──少し若返っただろうか。

 自分が最後に見たフランダーと比べると、年齢がやや下がっている気がする。

 おそらく〈死霊術式ネクロ・フアンタズム〉によって全盛期の状態で呼び出されたのだろう。

 長い灰色の髪は後ろで一本に結っていて、動きやすさを重視しているようだ。

「ああ、フランダー。ずいぶん久しぶりな気がするよ」

 メレアは白い髪を霊山の風になびかせながら、フランダーに笑みを見せる。

「まだ年は変わっていないのに、もう何年も会っていなかったような気がする」

「僕も同じ気持ちさ。君の顔が、とても変わっていたから。造形がとかじゃなくて、こう、いろんな経験をしてきたんだなって、そう感じさせる顔をしている」

「うん、いろんなことがあった。ムーゼッグとも対たい峙じしたし、今のムーゼッグの王子とも会った」

「そうかい。なら、もう僕のことも知っているね」

「──うん」

 フランダーが少し申し訳なさそうに自じ嘲ちよう気味な笑みを浮かべた。

「今のムーゼッグの王子と会って、どうだった?」

「思うところは、たくさんあったよ。結局のところ、敵対する形にはなったけど、俺はあいつもこの時代の犠牲者なんじゃないかって、少し思ったりもした」

 メレアは脳裏にセリアスの姿を思い出す。あの、フランダーと同じ灰色の髪をした、同じ年の頃の青年。

「君は優しいね。彼は〈魔王〉を狩っていたんだろう」

「そうだね。母国のために、魔王を狩っていた。あいつの中にはいくつもの思いがあったんだ。王子として、母国を守ろうとする心。英雄として、民を守ろうとする心。かつての英雄に憧あこがれる少年のような思いと、フランダーへの複雑な思い。まあ、それでも俺は、あいつのやり方には賛同できないから、剣を交えた」

「きっと僕にも責任があるんだろう。僕は、王子としては失格だったから」

 フランダーが苦笑する。

「力ある者の責務から、僕は逃げた。それが正しいと心からは思えなかったから、僕は国を捨てた。でも、もしかしたらほかに方法があったのかもしれない」

「フランダーは間違ってないよ。どれが正しいのかなんて、きっと誰にも決められない」

 それでも、人はなにかに価値をつける。

 正しいか、正しくないか。

 あるいは、自分が違うと思っていても、周りの大多数の人間が自分とは違う意見を示したなら、自分の意見を曲げるかもしれない。それは自分が生き残るための選択かもしれないし、大きな流れに怯おびえるがゆえの選択かもしれない。

 いずれにせよ、人には選択を迫られるときがある。そのときにどういった選択を取れるのかは、それまでの行いや、積み上げてきた功績、そしてみずからの意志の強弱によって決定される。

「国とはなんなのか、僕は何度も考えた。人は一人では生きられない。だから人は仲間を集め、協力し、やがて集団を作る。集団が大きくなると人の意志は拡散しやすくなり、いざ動こうとしたときに足並みがそろえられなくなる。一人では生きられない人間にとって、そういうときに起こる混乱は致命的だ。だから国を作り、法を作り、みずからを縛る形で、たしかな平穏を得ようとする」

 フランダーが身振り手振りを加えながら話し出す。

「しかし国は一つではない。意見の違いや信仰の違いで、まったく種類の違う国を作ることもある。そして互いが互いの意見をぶつからせ、ときに争いにまで発展する。もしかしたら最初は善意からの衝突だったのかもしれない。より良い生き方があるからと、別の意見を重んじる者たちに説明し、それでも納得されなくて、果てに力ずくで招き入れようとする。そこまで行ってしまうと善意は悪意に変わるだろう」

「そうだね」

 押し付けられた善意は悪意と同義だ。

「互いを尊重できればそれが一番良い。ただ、人間には力があった。そして人間には欲求があった。自己を認めて欲しい。安全でいたい。どこかに所属していたい。生理的な欲求が満たされたあとには、社会的な欲求が芽生える。それらを叶かなえるために、人はときに生まれ持った力に訴えかけてしまう。便利で使いやすい道具が近くに落ちていれば、たしかに使いたくなってしまうのが性さがだ」

「でも、それを抑えるために、人間には理性がある」

「そう。それでも人間は理性によって問題を解決しなければならない。力に頼れば、凄せい惨さんな争いが生まれる。命が脅かされる争いだ。それは人の生存本能を刺激して、より苛か烈れつな争いへと人を加速させる。だから、誰かが止めなければならない」

 でも、とフランダーは続けた。

「一度はじまってしまった争いを止めるのには、とてつもない労力を必要とする。だから自然の成り行きに任せて、ことを傍観する者もいれば、今の世を捨て、また新しい価値観の中を生きようとする者もいる。もしかしたら僕は、その両方に当てはまるのかもしれない」

 フランダーの言葉にメレアは首を振った。

「フランダーはそれでも俺を呼んだ。そして俺に希望を乗せた。すべてに諦めていたら、そうはならないよ」

「君は本当に、口がうまいよ」

 フランダーが照れたように頭を搔かく。

「ともあれ、そういう社会的な争いの果てに、今の時代の〈魔王〉は生まれた。そして最初の〈魔王〉が、人の生存本能を直接的に揺るがすような脅威だったから、その言葉は根深く悪感の源となった。〈魔王〉という言葉には人の好まれざる性質のすべてが集約されている。承認欲求、自己尊厳の確保のためにスケープゴートを生み出そうとする性質、安全のために多数へ所属していたいとする所属欲求。あらゆる方面からの脅威へ対抗しようとして、人々は〈魔王〉を囮おとりにした。犠牲を前提としたシステムとしては、ある意味優れているかもしれない。少しの犠牲で多くの人の心を救うから。でもそれは、最初からそういう人の悪い部分にみずから対抗しようとする意志を捨ててしまっている答えだ」

 人は、人の生み出してしまった悪物に対して、抗あらがうことをやめてはならない。

「抗うのは辛つらい。でもこれは人の責任で生み出してしまったものだから、やっぱり放っておくのも違うと思う。自然の成り行きのままに生きるのが上善だとする考えもあるけど、それは自分の責任を投げ出してしまっていいということではない。意識して自然に溶け込むのと、諦めて成り行きに身を任せるのではだいぶ意味が違う。君には後者になって欲しくないと、僕は思っている」

 勝手だけどね、とフランダーは付け加えた。

「まあ、君は僕にそんなことを言われなくても、今こうやって抗い続けている」

 ふと、フランダーが柔らかく笑った。

 メレアはその言葉に小さく首を振る。

「俺だって、すべてに抗っているわけじゃないよ。少なからず俺も今の世の価値観に身を委ゆだねてしまっている部分がある。俺は、この手で人の命を奪ってしまっているから」

 メレアは自分の両手を開いて見つめた。

「俺も、仲間を守るために人の命を奪った」

「そのことを自覚しているのなら、君はまだ大丈夫だ。君には残酷なようだけど、この世界はもう綺き麗れい事ごとだけで生きていけるような世界ではなくなってしまった。──だから」

 フランダーは不意に笑みを消した。

 赤い瞳ひとみに鋭い光を宿し、メレアを見る。

「僕は今、あえて君に残酷な願いを懸ける」

 フランダーが両手に別々の術式を展開した。

「君は、矛盾の中を生きていきなさい」

 右手に白い炎。

 左手に黒い炎。

「僕は僕なりに出した答えゆえに、君に『屍しかばねの道』を提示する」

 一歩、フランダーが前に歩み出た。

「綺麗事だけでは生きていけない。僕は戦乱の時代を生きた。だからそのことを知っている。それでも僕は、次の〈転換期〉の果てには犠牲なくして健やかに成立する世界を夢見ている」

 それは矛盾の果て。叶うか叶わないかすらわからぬ夢の果て。

「そしてその転換のためには誰かが屍の道を歩まねばならない。──責任を負え、メレア・メア。名も知らぬ数多あまたの人間の尻しり拭ぬぐいを、君がしろ」

 二歩。フランダーの腕がギギギ、と意図せぬ動きに耐えるように不思議な挙動を見せた。

「案ずるな、その道の正しさは僕が肯定する。人は誰かに願いを託される。人は己の思いだけでは生きていない。託し、託され、人の系譜は続いていく。そして君は今、たった一人の愚かな〈魔王〉に願いを託された」

 フランダーが右手を前に掲げ、真正面からメレアを指差した。

「その手を血に染めてまでここまで歩んできた君には、もう後戻りの道は残されていない。だから断言する。君は今の世界にとっての〈魔王〉になれ。屍の道を乗り越え、その次の世代へと──希望を遺のこして行け」

 そしてフランダーは大きく息を吸った。

「そのために、まずは過去の屍を踏み越えて行け。──勝負だ、メレア」

 次の瞬間、メレアの眼前に計十八個の術式が一瞬で展開された。

〈術神〉フランダー・クロウ。

 かつて世界最強の術士と呼ばれた男が、〈魔神〉の前に立ちはだかる。


◆◆◆


 ──フランダーは優しいね。

 メレアは目の前に展開された術式を見ながら、内心でそんな言葉を浮かべていた。

 ──俺のために、あえてそんなことを言ったんだろう。

 道に迷ったとき、どうしようもない矛盾に耐えきれなくなったとき、それでもなお進もうとしたときのために、あえて願いを懸けた。

 きっとフランダー以外の誰にもできない役割。世界がどんなに正しくて、自分がどんなに悪くとも、それでもなおフランダーだけは信じると、そう言ってくれた。

 ──なら、俺もその思いに応こたえよう。

 それがフランダーの親としての責任なのだとしたら、自分もまた子としての責任を果たそう。

「俺はあなたを越えて行く」

 思えば、自分はずっとフランダーに憧れていた。きっとその思いはセリアスにも負けない。

 しかし今、自分はその憧れの存在から、対等な勝負を挑まれた。

 もう、憧れたままではいられない。

 同じ地点に立っている。

 彼を越えなければ先はない。

 ならば取る道は一つだ。

「勝負だ、フランダー」

 そしてメレアはフランダーが展開した十八の術式に対して、まったく同じ数の〈反転術式〉を一瞬で展開した。


 十八と十八、計三十六の術式が一斉に衝突する音は、もはや爆砕の音と相違なかった。

 雷が無数に弾けたかのような音のあと、それぞれの事象が残り香のようにその場に漂い、視界を埋め尽くす。

 もくもくとした煙と蒸気が晴れる間もなく、メレアはその向こうから巨大な雷の槍やりが飛んできたのを見た。

「ッ」

 身体を後ろに反らし、鼻先三寸のところで雷らい槍そうを避ける。手をつき、そのまま後ろに倒れ込む勢いを利用して身体を縦に回転させ、着地。すぐさま視界の悪い地点を避けるように横に走り出した。

「〈雷神セレスター・バルカの白びやく雷らい〉」

 拍手を一つ。身体に白雷を装そう塡てんして一気に加速する。

「〈水神セウラ・アウラスの麗刀〉」

 両手に蒼あおい水の刀を召喚し、視界にフランダーの灰色の髪を捉とらえると姿勢を低くして猛突する。

「反転術式──〈雷神の黒こく雷らい〉、〈剣王の白はく剣けん〉」

 後背から近接し、その首目がけて麗刀を振った瞬間、フランダーの動きが加速する。

「ッ!」

 フランダーの身体から黒い雷が弾けた。

 思いもよらぬ速度で回ったフランダーの身体。

 その両手にはあのミハイ・ランジェリークが使うものとよく似た白い術式剣。

 メレアが振るった麗刀は、フランダーが振るった二本の白剣に受け止められ、同時に霧散した。

「術素切断かっ……!」

 麗刀に込めていた術素を切断され、術式が霧散した。

 ──なにが『接近戦はあんまり得意じゃない』だ!

 驚く間もなく、フランダーが次の動きを見せる。

「──〈白はつ光こう砲ほう〉」

 手を開いてメレアの眼前に。膨大な量の術式が瞬く間に生成され、メレアの目の前に白い光がちらついた。

 ──速すぎる。

〈反転術式〉の生成が間に合わない。メレアはとっさの選択で腕を顔の前に構えた。

 メレアの身体はフランダーの手のひらからすさまじい爆音と共に射出された白い光の砲撃に、吹き飛ばされた。


「くっ……!」

 腕が焼けている。

 ──落ちたら死んでいた。

 メレアは〈白光砲〉に身体を持っていかれながら、その途中でとっさに〈土神クリア・リリスの三尾〉を展開し、三本の尾を山頂に突き刺すことで身体を支えた。そのまま〈氷魔システイ・ルースの双そう盾じゆん〉を二重に展開し、計四枚の盾を白光と自分の身体の間に挟み込むことで、フランダーの一撃に耐える。

 崖がけ際ぎわぎりぎり。もし展開が遅れていたらこのまま遠くまで吹き飛ばされていただろう。

「この術式、今ではムーゼッグの術式兵たちの間で連係術式として使われているみたいだけど、もともとは僕が一人で使うために編み出した術式だ」

 発生速度も威力も桁けた違ちがいだった。メレアはかつて受けたことのあるムーゼッグの術式兵たちの〈白光砲〉を思い出して、その差に愕がく然ぜんとする。

「君が来るまでの間に、僕の理性が〈死霊術式〉によって何度か飛んだ際、レミューゼの方角に飛んでいたのもこれだね」

「やっぱりそうか」

「まあ、その前に降ろされた〈魔王〉たちを打ち据えたのもこれだけど」

 フランダーはこの霊山の山頂から、各地に出現した魔王の何人かをピンポイントで葬った。おそろしいまでの精度と威力。もはやたった一人で国家戦力に匹敵するのではないかとすら思えてくる。

「お礼も言われたけど、結構恨み節も言われたよ。『もうちょっと丁寧な葬り方はなかったのか』って。そんな贅ぜい沢たくを言われてもね」