「だが私たちがヴァージリアを脱出する寸前まで同じ場所にいたやつが、果たしてムーゼッグ領の手前まですぐに移動できるものだろうか」

 そこで口を挟んだのはエルマだ。

「言われてみればそうだな。お前、ホント戦いが関わり出すと妙に頭が冴さえるな。普段はメシのことしか考えてなさそうなのに」

「し、失敬だな! 私だってそれなりに考えているぞ! 人を食い物のことしか考えていない食いしん坊みたいに言うなっ!」

「え? 違うの?」

「えうっ……く、食いしん坊は否定しない……」

「中途半端な覚悟で反論するなよ……」

 口をぎゅっと閉じて恥ずかしさに耐えるエルマを横目に、サルマーンはまたひとつため息をついて話を戻す。

「まあでも、エルマの言うことはもっともだ。俺たちだってノエルに乗って割と急いで──金の亡者が製菓都市でこれでもかと交易品を漁りはしたが──帰ってきたんだ。話を聞くかぎりナタリアたちが檻から脱出したのは結構前のことのようだし、時間的になかなか信じがたい状況だな」

「で、できます、よ、〈空帝門〉を使えば……」

 魔王たちがうなりはじめたところへ、ただ一人反論を唱える者がいた。


◆◆◆


「ん? あれ、お前誰だっけ」

「ぼぼぼ、ぼくは〈空帝〉──あ、でも本当は違うかも……ぼくたちは二人で合わせて〈空帝〉だったから、兄さんがムーゼッグに行っちゃった手前、一人で〈空帝〉を名乗るのはなんか違うかもしれません……」

 サルマーンのなにげない問いにびくりと身体を震わせて、がたがたと震えながら自信なさげに言う少年。どこかひ弱な印象をもたらす青白い巻き毛と、だぼだぼのチュニックが少年の気の弱さをこれでもかと如実に表している。

「なに、〈空帝門〉ってなに、すごい気になる! すごい気になる!!」

 途端、メレアが燦さん然ぜんと目を輝かせて少年に迫る。小難しい推論を完全に仲間任せにしていたメレアは、ここにきて自分の好奇心を引かれる話題にこれでもかと食いついた。

「はうっ!」

 そんなメレアの急接近に、少年は大きく身体を後ろにのけぞらせた。「はうって言った」「今はうって言った」「いじりがいのある玩具おもちやが来た」周りの外道染みた魔王たちから各々に気持ちの入った声があがる。

「く、空帝門って、初代〈空帝〉の一族が使う特殊な空間術式があるんです……。ある場所の空間と空間を繫つないで、その間を一瞬で行き来できるようにする秘術です」

「ふぉぉぉ!! 金の匂いがしますよぉぉぉおおお!!」

「ひっ」

「おめえは黙ってろ、そして座ってろ」

 シャウが猛たけり狂いながら立ち上がったが、サルマーンがすぐさまそれを押さえた。

「とと、ともかく、それがあれば『一度行ったことがある場所』であれば、すぐに行き来できるかもしれません」

「さっき、兄さんがムーゼッグに行っちゃった、って言ったけど、それってつまり今ムーゼッグ側にその〈空帝門〉を使える術士がいるってこと?」

 メレアが訊たずねると、少年は悲しげな顔でうなずいた。

「はい……兄さんはムーゼッグの考え方に賛同してました……。それで、ぼくと喧けん嘩かになって、そのまま霊山の麓ふもとで別れたんです……」

「なんで君は──」

 メレアはそこで少年の名前を聞いていないことに気づいて、言いよどむ。

 対し、少年はそのメレアの内心に目ざとく気づいたようで、おそるおそるという感じではあるが、自分の名前を名乗った。

「〈エーテル・エル・キューブ〉です。兄の名前は〈ザッツ・エル・キューブ〉。ぼくたちは兄弟で、かつ二人とも先祖代々引き継いできた〈空帝門〉術式を一人ではうまく発動させられなかったから、セットで〈空帝〉と呼ばれてました」

「うまく発動させられない?」

「はい、時を司る術式や、空間を司る術式は、すごく難易度が高いんです……。空間そのものを繫げる〈空帝門〉も、範囲内の〈世界式〉をすべて計算しなければいけないので、入口を創るだけでもすごく時間が掛かります。しかも入口と出口の構成術式も、実は原理がかけ離れているので、両方を子どものうちに会得するのはほとんど不可能と言われていました。唯一若いうちに両方を自在に扱えた初代空帝は、いわゆる天才だったんだと思います」

「えらい術式があったもんだな。てか〈世界式〉ってなんだ」

 サルマーンが首をかしげながら言った。

「世界の構成術式です。この世界の事象がすべて式によって表現される、というのはご存じですよね……?」

「一応は。でも俺は正確には術士じゃねえから、あくまで言葉としてしか知らねえな」

「そうですか……。この世界はすべてが式で出来ています。それは時間も、空間も、土も、水も同じです。そういう、誰が手を加えたわけでもなく、ただそこに存在する物体や事象の式を、ぼくたちの一族は〈世界式〉と呼んでいました。たぶん、ほかの、世界式に干渉するような術式を扱う人たちや、学者みたいな人たちもそう呼ぶ人が多いと思います。〈空帝門〉は空間を構成する〈世界式〉を分析して、そこに新たな式を加えることによって門を繫ぎます」

 少年──エーテルが身振り手振りを加えて説明した。

「呼び方はいろいろあるけど、たしかに学者は世界に散在する式を〈世界式〉って呼ぶことがあるわね。あとは〈創造主の式〉とか、〈始原式〉、とか」

 リリウムがエーテルの説明を補足するように言う。

「まあ、実際にそれを見たことがある者は少ないし、あまり一般人に理解はされない話ね」

「でもぼくたちには空間内に散在する術式が見えます。最初に分析する空間の範囲を決めて、そこにすごく長い間意識を集中させることで、うっすらと見えてくるんです。もちろん範囲が広ければ広いほど時間はかかりますけど」

「そうやって見えた式をいじるのか?」

 メレアが再度興味深そうに訊ねた。

「直接いじることはできません。いじれたらたぶんそれは神様と同じ力を持つことと同義です。ぼくたちはそこにうまく接続するように術式を付け加えて、それぞれ入口と出口を繫げるんです」

「なるほど」

「だから、空間の世界式に干渉する術式を組んで、外部から変化を加えている、という方が正しいかもしれません」

 エーテルはおずおずとしながら言った。

「で、話によるとその入口だか出口だかの片方を担っていた兄弟が、ムーゼッグ側についたと」

「はい……。兄さんはムーゼッグのやり方こそがもっとも早く世界の平和に繫がると信じて、飛びだして行きました。でもぼくは、ムーゼッグのやり方を好きにはなれない……。ぼくはとても臆おく病びようだし、たいした力もないから、彼らのような、弱者の存在を積極的に切り捨てるやり方が好きにはなれなかったんです。たぶんぼくが切り捨てられる側だったら、納得できないと思ったから。ムーゼッグが都合の悪い存在を、大衆を煽あおることによって〈魔王〉にして無理やりに抹殺しようとするのも、好きじゃないです。ぼくは人と関わるのが苦手だから、まっさきにそういうやり方の餌え食じきになる」

 エーテルはそう言って目を伏せた。気弱そうでありながらもここという部分についてはしっかりと自分の意見を表明する彼は、どことなくアイズを彷ほう彿ふつとさせる。今のアイズはまったく卑屈ではないが、霊山に登ってきた当初のアイズはそうでもなかった。

「とにかく、兄さんがムーゼッグに行ったのなら、〈空帝門〉を使ってその銀髪の人を移動させることができるかもしれない」

「でも入口と出口、それぞれ片方しか創れないんだろう?」

 メレアはそう訊ねて、直後に別の予想を思い浮かべた。

「いや……セリアスが関わっていれば可能性はあるか。あいつがどちらかを担って、二人で〈空帝門〉を発動させたのかもしれない」

 セリアスなら空帝の秘術も理解し、模倣しただろう。今あの黒国の王子がどうなっているかはわからないが、少なくとも退化していることはないだろうとメレアは思った。

「ありえますね……」

 エーテルが重くうなずく。

「ぼくはずっと入口を担当してきましたが、実はぼくは、不完全でもいいのであれば出口も創ることができます。隠していたつもりだけど、もしかしたら兄さんはそれを知っていてぼくにある種の妬ねたみ──あるいは嫌悪みたいなもの──を抱いたのかもしれない……。もっと早くにちゃんと話しておけば良かった……」

「そうと決まったわけじゃない。自分の選択をすべて悪い方に考えるな」

 すると、メレアがエーテルの肩を優しく撫なでて言った。

「エーテルにも言えない理由があったんだろう。それが兄さんへの気遣いだったか、はたまたそれ以外の感情によるものだったか、それはわからないけれど、エーテルなりに悩んでそういう行動を取ったんだろう? ならすぐに自分の非にするな。もしかしたら正直に言った方が喧嘩になったかもしれない。どちらが良いとも言い切ることができない無責任な俺だけど、自分が死ぬほど悩んで出した決断に対する心の持ちようは、少しくらい教えることができる。ともかく早々にそれがダメだったと諦あきらめる必要はない」

「そう……ですね」

 エーテルはメレアの言葉を聞いて深くうなずいた。

「そう言ってもらったのは初めてです。ぼくはぼくの意見を常に否定されて生きてきましたから。悪い癖があるのかもしれない」

 エーテルは、自分が反省をする前に『ぼくが悪かった』と結論を出す癖がついていることを己自身でよく知っている。それはこれまでの生き方や、周りとの関わりが生んだ癖かもしれないが、それでもエーテルにはときおりふつふつと込み上がってくる自分の意見というものがあった。出てきてすぐに否定されるとわかってはいても、なおも心は諦めていない。

「と、とにかく、だからその銀髪の男の人が普通ならありえない時間で二点間を移動したのも、もしかしたら可能かもしれないということです」

 エーテルはそう言って言葉を切った。

「断定するとまではいかなくても、頭に留めておく必要はあるかもな」

 メレアが顎あごに手を置いて思案気に言う。

「あ、もしかしてハーシムが〈三ツ国〉からえらい速度で帰って来たのにも関わってる?」

「はい……。ぼくは止めたんですけど、どうしてもとおっしゃられたので……」

「リスクがあるんだな?」

「はい……出口が不完全なので、出てくるときに身体にダメージを負います。空間の断絶部分に触れて、肉体に亀裂が入るんです……」

 それを聞いて、どうしてハーシムがあれほど衰弱していたのかがわかった。

「ぼくはフィラルフィア王国に一時身を置いていたことがあるので、そのときに創っておいた出入口があったんです。それを使いました……」

「そうか」

 エーテルは申し訳なさそうな顔をしていたが、メレアは彼を責める気にはならない。むしろ、少し不ふ憫びんに思った。自分のせいで誰かが傷つくのに無む頓とん着ちやくでいられるほど、この少年は図太くない。優しいがゆえに人並み以上に心が傷つくタイプだ。

「気にするな、ハーシムはときどき自分の苛か烈れつすぎる意志を持てあますときがある。その発散に巻き込まれた方はいい迷惑だが、かといってあいつもそういう前への思いを無駄に使うことがないだけに、巻き込まれた方も断りづらいんだ。まあ、それはそれとして、今後俺たちに降りかかるであろう災難についても今のうちに考えておこう。もしネクロアというあの男が俺たちに対しても無差別に敵対したとして──」

 メレアはあの男と対たい峙じして抱いた己の考えを、そのあと魔王たちに話していった。


◆◆◆


 会議が終わったのはその日の夕方である。

 メレアは別室にて新しく加入した魔王たちとそれぞれ会話をした。

 そうやって大方の人物像や希望を聞き、あとでどの班に加えるかを吟味する。

 その後魔王たちには一時の休息を言い渡し、自分もまた自室で一休みしようと階段を上っていた。

 不意の来客があったのはちょうど五階への階段を上っていたときだ。

「メレア」

 階段の踊り場の、開け放された窓から、声が聞こえてきた。

 振り向くとそこに、

「ハーシム」

 白国の王がいる。

 いつもメレアがやっているように星樹城に巻き付く太い枝の上になにげなく立っているハーシム。アイシャに怒られるのではないかと一瞬自分とマリーザのやり取りを重ね合わせるが、どうやら近くにアイシャはいないらしい。ハーシムは何食わぬ顔でそこに仁王立ちし、手招きをしていた。

「お前、唐突に破天荒だよな」

「お前が言うな。──話がある、夜に白王城の蔵書室に来い」

 そう言ってハーシムはその場から飛び降りた。足を滑らせたかとも思ったが、急いで窓に駆け寄って下をのぞくと、ハーシムが器用に大星樹の枝から枝へ飛び移っているのが見える。

 ──あいつもあいつでなかなかに野生児だな。

 礼装に身を包んでいるときの彼を思うと考えられない姿だが、そもそもこの国はハーシムの庭だ。前王が生きていたときに疎まれていたということを思い出すと、良くも悪くも自由にこの国の中を放ほう蕩とうしていた姿が想像できる。

「話、ね」

 いったいなんだろうか。

 メレアは疑問に思いながらも、夜が来るのを自室で待つことにした。


◆◆◆


 夜。

 メレアはハーシムの誘いどおりにレミューゼの王城──〈白王城〉へ向かい、あらかじめ話が通されてあった門番の前を軽く会釈しながら通り抜け、星樹城のものによく似た巨大な蔵書室へと足を踏み入れた。

 メレアが蔵書室の扉を開けると、中は真っ暗だった。凝った意匠の施された壁の隙間に、窓があり、そこから差しこむ満月の月明かりがほのかに広間を照らしている。

「こっちだ」

 すると奥の方からハーシムの声が聞こえた。メレアは白王城の蔵書室の美しさに感じ入っていたが、おもむろに歩き出す。白王城の蔵書室は六角形を描くように本棚が配置されていて、その中心部が古びた時計台を置く広間になっていた。時計台は小さな塔のような立方体で、四面に盤面と針がついた物珍しい骨こつ董とう品のようだ。

「この時計には精巧なからくり細工が施されている」

 ハーシムはそんな古時計の傍に普段着で立っていた。

「四面の時計がそれぞれ別の時を刻むようになっていて、正午までに一分ずつずれるが、それから次の日の切り替わりまでに再度同じ時を刻むように調整されているのだ」

「そんなからくりに意味があるのか?」

「さあ? たぶんないだろうな。ただそういう繊細で微妙なからくり細工を自慢したかった技師の希望で、つけられたんだろう。一昔前にからくり細工が流行はやった時代があるしな。当然その時代の産物だ」

 メレアの苦笑とともに放たれた疑問に、ハーシムもまた困った笑みで答える。

「で、話ってなんだ」

「珍しく結論を急ぐな、メレア」

「帰ってヴァージリアでつかんだ術式の感覚を反はん芻すうしたいんだよ」

「勤勉でなにより」

「いつにも増して憎たらしい皮肉だ」

 と言いつつもメレアもハーシムも笑っている。こういう皮肉のやり取りは、もはや挨あい拶さつのようなものだ。いつからか、あるいは初めからこうなっていた。

「案ずるな。お前を呼びだしたのは無駄話をするためじゃない。お前にもためになる話をしてやろうと思ってな」

 と、ハーシムが真面目な表情を浮かべてメレアの眼を指差した。

「お前、自分の眼に起こった変化についてまだなにも知らないだろう」

「……ああ、知らない」

 かといって調べるとっかかりもつかめずにいる。倒れる寸前に見るものすべてに式が見えたのは覚えているが、そんなものがわかったからとてなにを調べればいいかも皆目見当がつかない。仲間たちにはそれを伝えたが、リリウムでさえもそのことに関してこれという参考文献の存在は知らなかった。

「おれはお前の眼に起こった変化について、いくつか見当をつけている」

「本当か?」

 どうやらこちらから聞くまでもなく、ハーシムの方から情報を提供してくれるらしい。

「もしこれからおれが言う書物をお前が自力で見つけることができたなら、十中八九おれの予想は当たっているだろう」

 そう言ってハーシムはぐるりと蔵書室を見回した。

「ここには千冊以上の本が貯蔵されている。こうして見えるもの以外にも、地下と、天井の裏にも本が眠っている。その中からお前に、一冊の本を見つけてもらおう」

「なんていう本だ?」

「それは教えられない」

 一瞬、不可能だと返したくなった。タイトルすら知らない本をどうやって探せというのだ。

「だが、わかるはずだ。今日は満月だからな」

「満月? どういう意味だ?」

「見つけたときのお楽しみだ」

 ほとんどヒントらしいヒントもない。

「ひどい話だ。本当に俺はそれを見つけられるのか?」

「目を凝らせ。おそらくお前は見つけるはずだ。〈白帝〉レイラス・リフ・レミューゼと同じように、お前はその本が自分を呼んでいることに気づく」

 唐突にレイラスの名前を出されて、メレアはわずかに困惑した。無論、ここがレイラスの母国であることは知っているが、かといって今回の件にレイラスが関係しているとも考えづらい。レイラスはとても美しく、誰よりも明るくてみなに好かれていたという話は知っているが、しかし彼女はほかの英霊たちのように特別な力を持っているわけではない──はずだ。

「まあ、お前がそこまで言うのなら少し付き合おう」

「ぜひそうしろ。それがお前のため──ひいては世界のためだ」

 大仰な言い回しをする。内心でそう嘆息しながら、メレアは近場の本棚から蔵書探しをはじめることにした。


◆◆◆


〈剣帝〉エルマ・エルイーザはメレアから一時の休息を言い渡されたあと、なんだかんだと落ち着いて部屋にいられなかったのでレミューゼの街に繰り出していた。

 ──私がいない間になにか依頼でも増えていないものか。

 向かう先は街の中心からやや西に外れた場所にある『依頼掲示板』。レミューゼの住人たちが種類を問わず困りごとの解決依頼をそこに書きつけ、請負人を待つという一種の互助組合的なものだ。

 エルマは以前からここにある荒事依頼を選んで受け、暴れている魔物の駆逐などを行っていた。

 ──大物、大物。

 できれば大きめの、おいしそうな、肉のついている。

 エルマはレミューゼの住人たちの間でひそかに『超強い食いしん坊のねーちゃん』として評判になっている。無論エルマが『魔王城』に住む魔王の一人であることは彼らも知っているが、レミューゼにおいては滅亡の危機を救った彼らは忌避の対象ではなくむしろ英雄として見る傾向が強い。

 加えてエルマに至っては住人たちの困りごとを直接的に解決しているので、より人気があった。

「お、依頼紙がいっぱいあるぞ」

 依頼掲示板のあたりは基本的に昼の方が盛況だ。ふらっと掲示板を見てはその日のうちに依頼を受けて、その足で解決に向かう者が多いのだ。夜から動くにしても依頼人との調整もあるため、やはり時間があるうちに動き出した方がいい。エルマが掲示板の付近に到着したとき、人影もほとんどなかったため、遠くからでも依頼紙がたくさん貼られているのがわかった。

「おいしいやつを探そう」

 金の話ではない。そういうのはあの金の亡者に任せている。

 エルマはわくわくしながら掲示板まで近づく。

「ずいぶん食いしん坊みたいね」

 と、もう少しで紙面の文字が見えるというところで、不意にエルマは後ろから声を掛けられた。なぜ自分が『焼いたらおいしそうな獲物』の討伐依頼を探しているとバレたのか、まったくわからないが、とにかく状況が良くない。自分が人よりよく食べるというのは仲間たちに言われて最近自覚してきたところだが、一方で女として少し恥ずかしいと思う気持ちもある。リリウムやアイズが少量の食事を丁寧に、さらにとても綺き麗れいに食べているのを見ていると、つい女らしさとはああいうものかと羨うらやましく思ってしまうこともあるのだ。

「ち、違うぞ! 別に肉がおいしそうなやつを探しているわけではない!」

 普通なら報酬金が相対的に見ておいしいやつ、と判断しないだろうか。少なくともこういった依頼を、副産物である獲物の肉目当てで選ぶ人間はあまりいないはず。というか今まで自分以外に見たことがない。

「あら、そうなの、残念。私と同じ考えしてるかと思ったのだけど」

 振り向くとそこにぼろぼろのローブを着こんだ女がいた。今にもすり切れそうなフードを目深にかぶり、隙間から長い黒髪をのぞかせている、同じくらいの背丈の女。おそらく同業者だろう。立ち姿が明らかに常人とは違う。いうなれば──戦闘者のものだ。

「あ、やっ、うん……。あ、あの……もしかしてあなたはそういう考えなのか?」

 否定しなければ良かったと少し思った。もし同じ考えで依頼を受けようという者なら、たぶんすぐに友達になれる。同志。良い響きだ。今自分はそうなる芽をみずから摘んでしまったのかもしれない。

「そりゃそうよ。お金なんてある程度あればいいもの。獲った獲物がおいしいかどうかの方が私にとっては重要」

 ローブの女は言った。その言葉を聞いてエルマは意を決する。

「す、すまん。さっきのは噓だ。実は私もそうなのだ」

「あら、良かったわぁ」

 女は綺麗な声で楽しげに笑った。そのときフードの下からのぞいた紫色の瞳ひとみが、自分とよく似ていてなぜかドキリとする。

「ちなみにあなたならどれを選ぶ?」

 そう言いながら、女が依頼掲示板に近づいて壁に貼られた依頼紙を眺めはじめた。

「む、そ、そうだな……」

 エルマもそれにならって掲示板に近づく。

「これなんかどうだ、『満月熊の討伐』。熊肉だぞ!」

「あー、なかなかいいわね。今日は満月でタイムリーだし、なによりおいしそう、熊肉」

「いいよな、熊肉」

「いいわね、熊肉」

 友達になろう。エルマは強い決心を胸に抱いた。

「そ、その、もしよかったら一緒に行かないか?」

 エルマの口は自然とそんな言葉を彼女に投げかけていた。

 すると彼女はまた楽しそうに笑って、

「いいわね。本当にいいわ。まさか未来の自分の子孫からそんな嬉うれしい誘いを受けられるとは思わなかった」

 ふと、彼女がフードを払って顔を露わにしながらエルマの方を振り向く。

 自分と同じしっとりとした黒髪と、紫色の瞳。目鼻立ちはまるで自分の姉妹と言われても納得してしまいそうなほど似ているが、自分と比べて彼女には年相応の色気があった。仮に本当に姉妹であったのなら、彼女はたぶん姉だろう。

「え……?」

 エルマは彼女の言葉を反芻して、あっけなく混乱した。

「今、世界はずいぶんとおもしろいことになっているみたいね。本当はもっといろいろ、あの暗黒戦争時代が終わってからどういう道筋をたどってここまで来たのかとか聞きたかったけど、そろそろ限界ね」

 あっけにとられていたエルマの胸の谷間のあたりに、彼女が指を差しこむ。

 相手が女でなかったら思わず剣を抜いていただろう。けれど今の呆ぼう然ぜんとしたエルマにはとっさに彼女の行動に対してリアクションを取る余裕がなかった。

 ぞくりとするほど艶なまめかしい手つきで胸の中心を指先で撫なでられ、ふとその指が心臓のあたりで止まる。

「抜きなさい、〈エルマ・エルイーザ〉。栄えある〈剣帝〉家の当代当主を務めているという自負があるのなら、その腰の〈魔剣クリシューラ〉を抜いて、私を斬りなさい」

 エルマはなにを言われているのかわからなかった。

「そうしないと、エルイーザ家はここで滅びることになってしまうから」

 しかし、次の瞬間に彼女がローブの裾すそを翻して、その腰から見まがうことなきもう一本の〈魔剣クリシューラ〉を抜いたとき、エルマは直感的に状況を悟った。

「ッ!」

〈死神〉ネクロア・ベルゼルート。

 さきほどメレアから聞いたあの銀髪の男の名前が、脳裏を過よぎっていた。


◆◆◆


 メレアは途方もない数の蔵書の中から、ハーシムの言った本を探すために蔵書室の中を歩き回っていた。

 目的の本はまだ見つからない。

 思わず手に取って読んでみたいと思う本はいくらでも見つかるが、どれもハーシムの言う本ではないだろう。十歩ほど離れた位置をゆっくりとついてくるハーシムは、特段反応を示していない。

 それからさらに十数分の間、メレアは蔵書室内を歩き回った。

 そうしてちょうど、中央の古時計から数えて七列目の本棚に捜索の目を入れたあたりで、メレアは初めて異変らしい異変に遭遇する。

 ──光が……

 七列目の本棚の入口に差しかかって、まず大雑把に本の背表紙を見回したとき、その一角で淡い光を発する本を見つけた。同時、メレアは目元に違和感を覚えて、反射的に手の甲で拭ぬぐう。

 金色の涙が付着していた。

「見つ……けた」

 目を凝らせば凝らすほど、その本の光が濃くなって見える。また、それに伴って本の周囲にぞわぞわと微動する術式が見えはじめた。

「あったか」

「あった。あの光る本のことか。なんだあの本は。あれだけ内包されている術式の次元が違う」

「そうか、そう見えるのか」

「そう見える?」

 メレアは首をかしげてとっさにハーシムの方を振り返る。

「お前には見えないのか?」

「ああ、おれにはほかの本と同じに見える」

 ハーシムの顔や体に術式が見えないことにひとまず安あん堵どしつつ、メレアはまた本の方を見る。

「メレア、やはりお前には〈世界式〉が見えるようだな」

 ハーシムの口から出てきた言葉に、メレアは昼間の〈空帝〉エーテルの話を思い出した。

「おれたちにとっては理解しがたい話だ。しかし、ごく一部の優れた術士は、部分的に世界の構成術式を見ることがあるという。一説にはそれが〈魔眼〉と呼ばれるものの根源らしいが、まあ、正否はわからん」

 メレアはハーシムの言葉を耳に入れながら、一歩、光る本へ近づいた。

「この世に存在するあらゆるものが式で構成されている。時間、空間すらも。そう考えると、たしかにその式を見ることができれば世界の真理を見たことにほかならないというのも、うなずける話だ」

「至極バカバカしい話に聞こえるかもな」

 メレアは震える手で光る本に手を伸ばしながら言った。

「そう、だからその本は〈パラディオンの狂書〉と呼ばれた。常人にはなにが書いてあるかわからない。ただ、見る者が見るとそこに意味ある文章が見えるらしい。かのフランダー・クロウはその本の中の数ページを解読した」

「フランダーが──」

「ああ、しかしあの〈術神〉と呼ばれた男でさえも解読できたのは数ページのみだ。そしてフランダー・クロウは〈パラディオンの狂書〉に関して多くの言葉を残さなかった」

 初耳だった。メレアはフランダーからこの本について聞いたことは一度もない。

「『人が読むべき書ではない』と、のちにフランダーはレイラス・リフ・レミューゼに話したが、結局のところレイラスはその本を解読した」

「レイラス? レイラスがこれを読んだのか?」

 むしろ、読めたのだろうか。フランダーですら数ページしか読めなかった本を。

「ああ、半分ほど解読したらしい。そして本を読んでいた二日間の間で、レイラスは餓死同然の段階までやせ細り、その後一週間もの間、眠り続けた。簡単に言うと死にかけたということだ」

 光る本に手を伸ばしていたメレアの手がぴたりと止まる。まじまじと背表紙を見て、蠢うごめく術式言語で『世界の真理』と書いてあるのを息を吞のみながら見た。

「そこにならお前の眼のことについて書いてあるかもしれない。だが、レイラスがその本を読んでどうなったかも頭に入れておけ。おれから強要もしない。──だが、もし読むというのなら万全の態勢を整えよう。おれはあと二日の間はレミューゼにいられる。その間はあらゆる手を尽くしてもしものときの用意をしてやる」

「二日?」

「ああ。二日後、おれたち〈四王同盟〉はサイサリス教国へ向かう。ムーゼッグがサイサリスを獲とるために動き出しているのだ。お前でもわかるだろう、もし東大陸の南端にもっとも近いサイサリスがムーゼッグに奪われたらどうなるのか」

 メレアはハーシムに言われ、その状況を想像した。

 北にムーゼッグ、南にサイサリス。東大陸は後背を完全に取られる形になる。

「そうか、ムーゼッグは海路を使うのか……」

 メレアはマリーザに叩たたきこまれた世界地図を思い出して、自分がムーゼッグだったらどういう経路でサイサリスを獲りに行くのか、一瞬で答えをはじき出した。

「そこまでわかっているのなら話は早いな。そうだ、ムーゼッグは北大陸の諸国を併合し、あの大陸で盛んな造船技術を早速実戦に投入してきた。東大陸の東端の海を大艦隊で進み、そのまま大きく迂う回かいして東大陸と南大陸の海峡へ侵入する。周りからの敵援軍をその海峡で遮断しながら、自分たちは一気にサイサリスとその周辺国家を侵略する。理論的には無難な策だ。だがその実行には莫ばく大だいな戦争資源を要求される。今のムーゼッグでなければできないやり方だろうな」

 ハーシムにレミューゼの方針を聞き、メレアはすぐに自分たちが歩むべき道を考えた。

「なら、俺たちもサイサリスに向かおう」

 もともとヴァージリアでの一件があったのでサイサリスには行くつもりだった。

 サイサリスはおそらくほかの魔王を懐に縛り付けている。ジュリアナやザラスのように、断れない条件を前提に作った上で、彼らの意志に関係なく協力を強要している可能性がある。すべてがすべてではないかもしれないが、メレアにとっては無視できない国家だ。

「そうか。まあ、好きにしろ。レミューゼにもこちらで最低限の防衛戦力は残していくし、〈三ツ国〉のそれぞれが結んだ西側諸国との同盟を利用して東大陸にはそれなりの追加戦力を投入しておく」

「西側諸国と同盟を結んだのか」

「交換条件で、という側面が強いがな。ムーゼッグが西側諸国にも手を出しはじめたおかげで、逆にこちらも同盟を取り付けやすくなった。西側諸国でムーゼッグが暴れるときには〈三ツ国〉も救援に向かわなければならないが、逆に東側諸国でムーゼッグが暴れるときには向こうが救援に来る。条件はそれぞれの土地で直接ムーゼッグの大本隊と交戦しないこと。つまり自分たちが大本隊に向けて攻撃を仕掛けるときの防衛くらいはしてやると、そんな条約を主にした同盟だ」

「なるほど」

 メレアは納得したようにうなる。

「でも、それなら多少は攻撃にも戦力を割きやすくなるな」

「そう。もともとおれたちは戦力という点で圧倒的に不利だ。ゆえにムーゼッグの大本隊とやり合うには全力をもって臨むしかないが、そうすると自国の防衛がおろそかになる。そうなるとムーゼッグの余剰戦力で瞬く間に国を落とされるだろう。たとえムーゼッグの侵攻を妨げるという目的を達したところで、戻る場所がないのではまるで意味がないからな」

 ハーシムが言い切ったところで、メレアはまた本の方へ意識を戻す。視界の隅でちらつく術式が光量を増していた。

「ハーシム」

 そしてメレアは〈パラディオンの狂書〉を本棚から取り出す。

「二日というのも限界まで延ばした時間だろう。本当はすぐにでもサイサリスに向かって、向こうで迎撃の準備をしたい。お前は素っ気ないようでいてよく気を遣うやつだ」

 メレアはおもむろに手を伸ばし、パラディオンの狂書の表紙に手を掛けた。

「だから、俺もできるかぎりでそれに応こたえようと思う」

「いいのか」

「俺も俺のことが知りたい。たぶんフランダーやレイラスは俺に隠し事をしていた。もしかしたらそれこそがこの本に関わることなのかもしれない」

 メレアはパラディオンの狂書の表紙に手を置いて言う。

「なぜその二人がお前にそんな隠し事をしたのか、とは考えたか」

「ああ、大きな意味があるんだろうという気はしている。でも、二人はそれを探すなとも言わなかった。今、こうして俺がここにたどり着いたのが、契機なんだろう」

 そしてメレアはついにパラディオンの狂書の表紙をめくろうとして──

 しかし、このときメレアがその本を開くことはなかった。


 メレアが本を開こうとした瞬間、レミューゼの街に轟ごう音おんが響いた。

 まるで近くに巨大な雷が落ちたかのような地響きと揺れが次いでやってきて──

 最後にレミューゼの住人たちの悲鳴が、二人の耳をついた。