セリアスはそこで一度目を瞑つぶった。

「いらぬ気遣いです」

「なら、お前の望み通りここで死ぬか」

 瞬間、セリアスが再び術式紋様が浮かんだ目を開けると、続けて正面の空間に無数の術式陣が現れた。この広間を一瞬で焦土と化すに十分な量の術式である。

「それも御免こうむりたいですねぇ」

「貴様の望みはなんだ、ネクロア。魔王を移送中の騎兵隊を突如として攻撃し、捉とらえていた魔王を逃がした訳を訊きいておきたい」

 セリアスが言った。

「おもしろくないからですよ」

「ふざけた答えだな」

「アナタならきっとわかってくれると思ったのですが」

 ネクロアは目の前に自分を攻撃するであろう術式陣を見ながら、なおも軽い調子で答えた。

「ワタシとアナタはある部分でとても近しい。同類とも言える」

「どういう意味だ」

「アナタは、大国の王子という立場にありながら、一般的な社会的価値というものにまるで興味を抱いていない。それどころか、人の倫理的な価値観にすら、まともに共感し得ない」

 セリアスは瞬き一つせずネクロアを見ながら、その次の言葉を待った。

「アナタは自分の国の行先など本当はどうでもいいと思っている。生来そういうものに興味を抱けないから、父親に授けられた呪縛のような価値観の中でしかたなくもがいてみせている」

「……」

 ネクロアは朗々と続ける。

「アナタの望みはそこにはない。アナタの本当の望みはただ強く在ること。そして今は──自分より高みにいるあの〈白神〉を超えることだけを望んでいる」

「妄言だな」

「いいえ、妄言ではない。いい加減に認めたらどうです。アナタは自分が思っているよりずっと壊れている。アナタはワタシと同じように、一般的な人間が生来持つべき倫理観だとか価値観だとかがほとんど抜け落ちている。自分の欲望だけを胸に、そしてそれを満たすことを亡者のように求め続ける狂った獣」

「貴様と一緒にするな」

 セリアスはさらに三つの巨大な術式を展開した。

「ワタシの望みはなんだ、とアナタは問いましたね。いいでしょう、ワタシの望みを聞かせて差し上げます」

 ネクロアは両腕を開き、恍こう惚こつとした表情を浮かべて言った。

「ワタシの望みはこの世の『終わりなき混こん沌とん』。人間は原始的な欲望に身を任せて生きるべきなのです。秩序なんてものは不要だ。個人個人が己の欲望のために邁まい進しんし、それゆえにお互いがぶつかり合うもっとも原始的な混沌状態こそ、この世のあるべき姿。それでこそ人はおもしろくなるし、世界はずっと興味深いものになる」

「赤子の方がもっとマシなことを言う。秩序なくして人は長く生きられない。人がいなくなれば貴様の言う望みも絶たれることだろう」

「それならばそれで構いません。人間がすべて死ねば、次は霊としてまたどこかで無秩序に争えばいい。そういう環境がこの世界にはある」

 ネクロアは濃紫色の瞳ひとみに術式紋様を浮かばせ、天を指差しながら言った。

「……貴様も〈魔眼〉持ちか」

「ええ、アナタには見えないものが見えている。だからワタシはこの世界がどれほど混沌としているか知っているし、それゆえにこの秘術ネクロ・フアンタズムも扱える。ちなみにアナタは、魔眼がどういうものだか知っていますか?」

 知らない。セリアスはメレアに負けたあと、いくばくもせずに魔眼を発現させた。それはかの〈術神〉フランダー・クロウ・ムーゼッグが発現させた〈術神の魔眼〉ともやや異なった眼だったが、それは自分が持つべくして持ったものだと思っている。だが、どうしてこんな魔眼が唐突にして発現するのかは知らなかった。

「これは人の欲望の権化でもある。突出した才能を持つ者が、それぞれにその人格に適した魔眼を発現させるのです。ワタシの魔眼もそうだし、アナタの魔眼もそうだ」

「だったらなんだというのだ」

「アナタは飢えた獣だということです。獣は人の創る秩序など気にも留めない」

 セリアスの中に〈ザイナス戦役〉のときメレアに言われた言葉が蘇よみがえる。

「ワタシはワタシの欲望に忠実に生きる。正直、あれだけの魔王の力をアナタに奪われたのでは、ムーゼッグが強くなりすぎてしまう。それはワタシとしても避けたかった。ムーゼッグが強くなればこの世は平定に近づいてしまう」

 それが〈魔王〉にとって厳しい世の中であっても。

 ムーゼッグが力によって世界を統一すれば、ひとまずは戦乱の世は終結するだろう。

 そのあとに待っているのがムーゼッグによる独裁的な世界であったとしても、混沌は終息する。

「それだけは避けたい。アナタたちムーゼッグによって混沌を削られた世界は、おもしろくない」

 セリアスは眼下の銀髪の男に嫌悪感を抱くと同時に、そうやって後先も考えず自分の欲望のまま生きられることに一瞬羨せん望ぼうを抱いた。そしてそのことに自分自身で気づいていた。

「今、アナタはきっとワタシを羨うらやましいと思った。アナタはワタシのように生きたいと思いながらも、同時に王子であることに矜きよう持じを抱いている。それがアナタの持って生まれた資質なのか、誰かによって植え付けられた呪縛なのかはわかりません。しかし、アナタはどちらも捨てることができない。そうやって惑う姿も、存外見ていて悪くないのが悩ましいところですがね」

「……言いたいことはそれだけか」

 セリアスはついにローブの下から〈悪神の左腕〉を出してネクロアに開いて向けた。

 ネクロアはわずかに驚いたように目を丸くしたが、すぐに不敵な笑みを浮かべ直す。

「あとは、そうですね。これからのワタシの行動のヒントをあげましょう。これは一時でもアナタに世話になったお礼です。まあ、その方がおもしろそうだからそうするんですがね」

 ネクロアは両腕で自分の身体を抱いて恍惚とした表情を浮かべた。

「ワタシはアナタより興味深い混沌の素もとを見つけた。なのでワタシは彼のもとへ行きます。最高のプレゼントを持って。あわよくば──彼を殺しに」

 セリアスの脳裏にメレアの顔が浮かんだ。セリアスの中でメレアの赤い視線と自分の青い視線、そしてネクロアの紫の視線が交差した気がした。

「大丈夫です、死んでもワタシが蘇らせます。なので、ご心配なく。アナタの屈辱はいつだってワタシが払ふつ拭しよくしてさしあげます。ワタシが十分に楽しんだあとで、ですが」

 気色の悪い笑み。セリアスはその表情と言葉を受けて、一瞬眉まゆをぴくりと反応させたが、すぐに表情を戻した。

「やれるものならやってみろ。貴様にそれだけの力があるというのならば」

「ハハハ、ワタシ自身にはそんな力はないかもしれない。──しかし、彼らにはある。なので、ワタシは最も〈魂の天海〉に近いあの場所へ行きます。アナタはここでゆっくりと己の中の葛かつ藤とうに苦しんでいればいい」

 ネクロアがゆったりとした動作で一礼した。

「そうか」

 セリアスが左手を上に掲げた。

「なら貴様はまずここで死んでいけ。ムーゼッグに仇あだなす不穏分子は今ここで私が殺す」

「ハハ」

 ネクロアが笑った。

 そして──

「やれるものならお好きにどうぞ」

 次の瞬間、セリアスの左上の空間から現れた赤黒い巨手が、再び広間の空気を潰つぶし割った。


◆◆◆


「……骨か」

 轟ごう音おんとともに城内が揺れる。セリアスはネクロアを叩たたきつぶしたであろう〈悪神の左腕〉をゆっくりと上げ、広間に散った残ざん骸がいを見た。

「どこまでも悪趣味なやつだ」

 しかしそこには、ネクロアの肉がなかった。弾け散ったのは古びた骨片。おそらくネクロアの〈死霊術式ネクロ・フアンタズム〉によって召喚された素体だろう。

「殿下っ!」

 ややあって轟音を聞きつけたミハイが広間へ駆けこんでくる。

「ミハイ、それは片づけなくていい」

「いったいなにが……」

 セリアスは驚きよう愕がくの表情を浮かべるミハイを制しながら、床に散らばった骨をじっと見つめていた。

「……」

 なぜか、セリアスはその骨に郷愁を抱いた。傍はたから見ても誰の骨なのかわからない。それでも、その骨を自分に近しく感じた。

「ミハイ、リンドホルム霊山にネクロアの追跡隊を出せ。あの男はムーゼッグを裏切った。今後我が国に対する脅威になる。見つけ次第殺せ」

「ぎょ、御意のままに」

 セリアスのただならぬ様相に、ミハイはごくりと喉のどを鳴らしながら頭こうべを垂れる。

「それと、〈バーラミッツ〉の鎖を解いておけ。近々ここを発たつ」

「っ!」

 ミハイはその名前を聞いて、即座に首を振った。

「いけません殿下! アレはまだ私たちの言うことを聞きません!」

「聞かせればいいのだ。カリギュラも同じだった」

 セリアスはそれだけを言って、有無を言わせずミハイを広間の外に追い出す。

 それから数分の間、セリアスはずっと骨を見つめていた。

「英雄、か」

 小さくつぶやく。

「お前は私こそを魔王だと言うのだろうな──メレア・メア」

 セリアスのつぶやきは、眼下に散らばる骨の残骸にだけ、弱く届いていた。