幕間 【とある少女の夢】



 わたしの一生は、たぶん世間一般の人の一生と比較するとそれなりに悲惨なものであっただろう。わたしの一生を大いに彩ったさまざまな不幸が、わたし自身の行いによって招かれたものであるのなら、まだ納得はできたが、その大半は、世の事情と自分ではどうすることもできない生まれゆえにやってくるものだった。

 ──でも、最近はやっと、この一生を愛せるかもしれないと思えるようになっていた。

 父と母の思い。

 祖父母の願い。

 遠い先祖たちの矜きよう持じ。

 今の時代では重荷になってしまうそれらを憎むこともあったけれど、彼らには彼らの考えがあった。

 わたしは世界の歴史というものを学ぶにつれて、憎しみしか抱かなかった彼らの高潔な矜持に、誇りを持てるようになった。

 ──かつて英雄と呼ばれた者たちの行いを、決して間違っていなかったと、『あの人』が言ってくれたから。

 きっかけは東大陸で起こった〈ザイナス戦役〉にある。亡国間近だったレミューゼ王国が、今や最も世界の覇者に近いと言われるムーゼッグ王国に抗あらがった戦い。〈ザイナス荒野〉が幾多の戦士たちの血で赤く染まったあの日、わたしはリンドホルム霊山の外縁を歩いていた。

 ──かつての英雄たちの墓が、あの山の天辺にあるって。

 誰が言ったのだろうか。うわさ話だ。わたしには仲の良い友人もいないから、そういう与太話を聞くには街に出て耳をそばだてるしかない。

 ともあれ、そんな真偽も不確かな話を聞いて、わたしはリンドホルム霊山に登ってみようと思った。

 ──あそこですぐにレミューゼ王国へ向かえば良かった。

 ザイナス戦役の情報が世界に広まってまもなく、〈白はく神しん〉という号が耳に入った。なんでも、ザイナス戦役でレミューゼ側について、かの国に勝利をもたらした〈魔王〉であるらしい。

 白い髪に赤い瞳ひとみ。その人はリンドホルム霊山から黄金の船とともに下りてきて、魔王を虐げる世界を作り上げたムーゼッグに対抗した。まるで、かつての時代の英雄たちが、今の歪んだ世界を正すために使者を送り込んだかのよう。

 ──どんな顔をしていたのかな。

 きっと格好いいに違いない。わたしはずっと、その人に会いたかった。彼がムーゼッグの王子──〈時代の寵ちよう児じ〉と呼ばれる〈セリアス・ブラッド・ムーゼッグ〉に〈魔王〉であることを臆おく面めんもなく誇ったという話を聞いてから、ずっとずっと、会いたかった。

 ──彼ならきっと、わたしのこれからの一生を、もっと誇れるように彩ってくれただろう。

 だからわたしも、そんな彼のために力を貸したいと思っていた。

 たぶんわたしは──まだ見ぬ彼に恋をしていたのだ。

 でも──

「顔を上げろ、〈水すい帝てい〉。殿下の許しが出た」

 きっとわたしの恋は、ここで終わる。


◆◆◆


 黒を基調とした荘厳な広間。

 高い天井に、金の刺し繡しゆうが施された巨大な赤カーテンが垂れている壁。

 広間の床には同じく豪ごう奢しやな絨じゆう毯たんが敷かれていて、それが奥──階段の上に鎮座する玉座のような椅子まで繫つながっている。

 その椅子の裏側には、ムーゼッグ王国の紋章が刻まれた黒い垂れ幕が吊つり下がっていた。

「ハハ、死んだら綺き麗れいになりそうな顔ですねぇ」

 顔をあげると、最初に玉座の手前の階段、その中段に立っている銀髪の男が目に映った。不気味なまでに白い顔と、腰にまで届きそうな長髪。長い前髪の隙間からのぞく目は、ひどく生気が薄い。

「貴様の玩具おもちやじゃない。黙ってろ〈死神〉」

 すると、その男より二段高い場所に立っていたもう一人の男が、わずらわしそうに言った。こちらは高貴な空気が漂うものの、銀長髪の男よりずっと人間らしい。歳もまだ若く、少年に近い印象を受けた。

「おや、コワイコワイ」

「貴様に対する処遇はこのあと殿下みずから決めなさる。せいぜいそれまで首を洗って待っていろ」

 金糸のような髪を持った少年は、妖あやしく笑う銀髪の男を睨にらむ。その目はとても味方を見るような目ではなかった。

「いい、ミハイ」

「は、失礼いたしました」

 すると最後に、玉座のあたりから声が聞こえた。目線をあげると、黒い宝石のような石材で作られた玉座の上に、フード付きのローブを羽織った男が悠然と座っているのが見える。フードを目深にかぶっていて、表情は窺うかがえない。隙間からわずかにのぞく髪は、灰色だった。

「〈水帝〉ミール・ミュール。お前はなぜ自分がここに呼ばれたか知っているか」

 フードの奥から、また声が響いた。

「──わたしを殺すため」

「違うな。間違ってはいないが、正解でもない」

 玉座の上の男は言った。

「お前の術式を喰ったあとで、殺すためだ」

「さして違いはないじゃない」

「いや、大いに違う。お前を殺すだけが目的なら、とっくに殺していた」

 フードの奥から眼光がのぞいた。ひどく冷たい青の光が見える。

 不覚にもその光を美しいと思った。

「つまり、貴様が少しでも長くこの世に生きていられたのは、私がそういう選択をしたからだ」

「……なにが言いたいの」

「人の命はかくも軽い。その尊厳もまた同じく」

 そう言ったときの男の目は、どこか虚うつろだった。見間違いでなければ、たぶん。

「だが、そういう儚はかなく脆もろいものに、人は夢を見る。理想的な偶像や虚像に、夢を乗せる。たかが一人の人間の命など、こんなにも脆いものだというのに」

「たしかに命は脆い。けど、脆いからといって軽く扱われていいものじゃない」

 そんな脆い命が、されどほかの人々の心を照らす。

 脆いからといって、人はなにもできないわけではない。

 ほかの誰かを、幸せにできる力がある。

「〈魔王〉らしくない言葉だ」

 男は鼻で笑ってから言った。その意味は、なんとなく理解できた。

〈魔王〉は人に、絶望しやすいから。

「なら、足あ搔がいてみせろ。人の命が軽く扱われるべきものではないと、証明してみせろ」

 言われなくても。

 わたしは足搔くつもりだ。

 あの人の言葉を聞いたときから、そうしようと決めていた。

「わたしは、あなたに嚙かみつく」

 せめてほんの少しでも、あの人の役に立ちたい。

 たとえ敵わないとわかっていても、ここでただ諦あきらめて死ぬのは、今のわたしには耐えられない。

 だから──

「行きなさい、〈水蛇レルクス〉!」

 床に術式を展開する。無数の半透明な蛇が床から湧き出た。瑠る璃り色いろの水で造形された蛇。それらは本当に生きているかのような動きで床を這はい、玉座の上からこちらを見下ろすあの男に迫る。

 わたしは玉座に座る男──〈セリアス・ブラッド・ムーゼッグ〉を見上げた。

 直後。

「──用済みだ」

 水の蛇たちは、わたしもろとも、その男の左上の空間から突如出現した赤黒い巨手に──

「あ」

 潰つぶされた。

「──」

 ──人の命は、かくも軽い。

 意識が途切れる間際、嘆くような彼の声が、聞こえた気がした。