細い首から手を離す代わりに考え足らずな頭部を掴む。見開かれたその瞳に映る己の顔は、久方ぶりに抱いた殺意に笑むように歪んでいた。

「ああ……せっかく人が弟子の我儘をきいて穏便に、店主は被害者で、加害者の小娘は恥を隠したい家族の手で修道院行き、そのまま幽閉で済ませてやろうと思ったのに。お前は恩人になるはずだったアリアを害した」

生物の個を司る中枢の座標を弄ると、酷く痛むらしい。

愚者が苦しむ姿になど指の甘皮ほどの興味もないが。

一目ずつ個を司る座標を弾いていく。本来なら揺らすことなく動かす座標を盛大に揺らしてやることで個の部分が傷つき、文字通り想像を絶する痛みに四肢を痙攣させながら女が叫ぶが、こちらの良心はピクリとも動かない。

「ひっ、あ、やめ、やめて、やめてぇえ、いだい、いたぃい、いだぃぃいいぃぃい──!!

汚い声で喚く女の記憶を覗いて見たところ、アリアの記憶からでは読み取れなかったあの傷は、背後からゴロツキに殴られたものらしかった。意識がないのもその時の衝撃によるものだろう。振り返り様に正面から受けた傷でなかったのは不幸中の幸いか。皮膚が弱っているこちら側だと、失神するにもかなり痛んだだろうから。

そうして醜く呻いていた女が白目を剥いて倒れる頃、まるで見計らったようにジークが部屋に入ってきた。

「お、こっちも終わったか。小娘も生かしておいてくれたみたいだな。それで? 過保護で過激なお師匠様、こっからどうするよ」

「本当なら処分してしまいたいところだが、表通り側の路地にでも捨てておけ。すでに記憶は改竄かいざんしてある。何よりのこの姿だ。運が良ければ誰か教会に届けて、さらに運が良ければ身内が引き取りにくる。来ない場合はこちらの知ったことではない」

「了解了解。人目につくギリギリのとこにほっとくわ。それでこの小娘はそれで良いとして、アリアの方はどうする?」

「傷自体はもう治療してある。今は気絶しているだけだ。城に戻って寝かせる」

「若い娘がこれ以上身体に傷残すのは可哀想だからな。それを聞いて安心したぜ。あとはお前さんのことだ。残った死体ごとこの倉庫をボーンと吹き飛ばしちまうか?」

そう両手を広げて芝居がかった仕草をするジークの目は、けれど少しも笑ってはいない。生意気にも今この時間も大人として、ギルドの長として、人を観察する目だ。その目を見返すこちらの姿はこの男が十八の頃から少しも変わっていない。

当時こいつと一緒につるんでいたマーロウ魔術狂いの方が、ずっとこちら寄りで付き合いやすかったなと思う。あれは純粋に人の皮を被った狂人だったというのに、この男はあれだけ戦場で人を殺めても人のままで生き残った。称賛に値する。いっそ憎らしいほどに。

「……なぁにジーク。あたしの顔が魅力的なのは分かるけど、そんなに熱心に見つめられたって、この美しさは分けてあげられないわよ?」

「馬鹿、いるか。オレはこの苦み走った男の色気が売りなんでなー……じゃなくてだ。城だと目を覚ました時に何で仕事中のお前がいるのかっつー話になるだろ? 口裏合わせてやるから、寝かせるならうちのギルドに連れて行った方が良いんじゃねぇのかって話だよ。例えば予定外の掃除を頼む代わりに、料金を上乗せしてやると呼び出したとかはどうだ?」

のんびりした口調で至極まともな助言をされ、言われてみればそれもそうだなと思う。どうやら自分で感じていた以上に意外と頭に血が上っていたらしい。

ジークの予想通りの動きを見せるのは癪だったものの、せっかくレンガ造りの廃墟なので、竈に見立てて死体ごと内部を魔術で焼き尽くし、ジークの提案を受け入れてギルドに戻り、アリアを仮眠用のベッドに寝かせた。

そして二人で椅子を並べ、アリアが目を覚ますまでに下らないシナリオを考えていたのだが……不意にベッドに寝かせていたアリアが寝苦しそうに唸り、青白い顔を苦悶に歪めて譫言うわごとを口にした。

「……た、べ、たく……ない、」

苦しげに絞り出された割には極めて不可解な内容にジークが眉を顰める。明らかに拍子抜けしたふうに苦笑して「おいおい、アリアは夢の中でまで何か食ってんのか」と言うが、それだけでここまで苦しげになるとは考えにくい。だとしたら唇から溢れた無意識下の言葉は混濁した記憶の底にあったものだろう。

「ジーク、静かに」

「へいへい、分かったって。そんな睨むなよ」

短い非難の声に肩をすくめるジークは放っておいて、神経をアリアに集中させる。今ここで記憶の座標を弄ればこの娘の精神は壊れてしまう。だとしたらかけていいのは外部からの小さな刺激──……拒絶への理解を示した言葉だけだ。薄氷を踏む気分でそっと「分かったわ。何を食べたくないの?」と尋ねるも、唇を引き結んで眉間に皺を刻むだけで、望んだ答えは返ってこない。

冷たい額に浮かんだ汗を持っていたハンカチで拭うものの、次々と浮かんでくる汗の玉。しかしそれよりも、眼帯の下に辛うじて隠れていた爛れにも似た傷痕がじっとりと皮膚を侵食し始めたことに気付き、慌てて魔力を流し込んだ。

「何だこりゃ……まるでアリアの悪夢を呼び水にしてるみたいだな」

「この様子だと大体その発想で合ってる。ジークお前も部屋の外に出ていろ。あてられるぞ」

「分かった。何か用意しておいてほしいものはあるか」

「温めたミルクを。ハンナムの花蜜も入れておいてやってくれ」

「了解だ。頑張れよアリア。頼むぜルーカス。こいつはうちのギルドの良心なんだ」

さっきまでの気の抜けた声ではなく、本気の労りを含んだ声に無言で頷き返して、背後で閉ざされるドアの音を聞き、眼帯を外して広がった呪いに口付ける。どうかこの娘の眠りが穏やかであれと祈りながら。

***

──……真っ暗な場所だ。

自分の指先すら見えない。

でも持ち上げた手は重く、動かすたびにジャラリと金属の音がする。

ということは、屋内だ。

頭痛がする。

吐き気もある。

お腹は減っているのに、何も食べたくないような気もする。

どこかで誰かの嗤う声がした。心底楽しそうで、耳を塞ぎたくなる声。

えた臭いのする何かを上向けた掌に置かれる。

食べろ、と言われたかもしれない。

嫌だとは、撲たれることが怖くて言えなかった。

──……後頭部にフカフカとした枕の気配を感じる。酷く嫌な夢を見ていた気がするような、しないような。何とも言えない気怠さと後味の悪さを覚えながら目蓋を持ち上げたのだけど……枕元にいたのは、心配そうな表情をした師匠とジークさんだった。

「おはようアリア。どこか痛むところはあるかしら?」

「喉は渇いてないか? 冷たいのも温かいのも用意してあるぞ。ん?」

変だな……この感じ、前にもあったような気がする。ぼうっとした頭でそんな他人事な感想をまず抱いたものの、二人の表情も声音も優しくて本気で心配してくれている様子。ということは、ここで横になっている理由は私が怒られる類のものではない、と、思ってもいいよね。たぶん。

それとも私が寝てる間に理由の分からない超展開とかがあって、素直でなかった二人がついに同棲を始めたとか。あ、待てよ、あの食事会はこの伏線だった!? それで師匠の連れ子の立ち位置にいる私の許可を得たいとか思ってたりする?

だったら心情的には地獄だけど、掃除婦がいるでしょうと売り込めば一生近くにはいられそうだな~……なんて。

「い、痛いところは、ないです、ね?」

「ふふ、何で疑問形なのよ。それじゃあ一度身体を起こすわね。飲み物は飲めそう?」

グルグルと考えの纏まらないまま師匠の言葉に頷くと、背中の下にクッションが二つ添えられ、やり取りを聞いていたジークさんから冷たい果実水と温かいミルクを差し出されたので、ミルクを受け取った。湯気の立つカップに鼻を近付ければ、ふわりとハンナムの花蜜が香る。

もしやまだ夢の中にいるのではと訝しみつつ一口飲む。ちゃんと美味しい。

「おいおいアリア。そんな警戒しなさんな」

「いやー、だってお二人とも何か変なんですもん。それに私は何でこんなところで寝てたんですか?」

できうる限り心への負担は最小限に留めたいので、おずおずと探りを入れてみる。確かジェキルの下準備を城でしていて、それで……あれ? 何だったっけ──と、急にそれまで優しかった師匠が「やだ、あんた忘れたの?」と眉を顰めた。

「あ、やっぱり私が何かやらかしちゃった感じなんですね?」

「そこで一番に〝やっぱり〟ってついちまうのがアリアだよなー。でも大当たりだ。半分はうっかり者のお前さんに仕事を頼んだオレに責任があるんだけどよ」

「今日は本来あんたはギルドの仕事は休みだったでしょう? でも昨日の夜ジークが書類仕事に飽きて飲酒しようとして、執務室の絨毯にワインだか、蒸留酒だかを零したのよ。それを明後日レイラが出勤してくる前にどうにかしてくれってこの馬鹿に泣き付かれて来たの。ここまでは憶えてる?」

「憶えて……ます、かね」

真っ赤な嘘である。本当はまったく憶えていない。ただ怒られる理由を一つでも減らしたいという自己保身を誰が責められようか! 実際にジークさんはレイラさんに怒られる前に証拠隠滅をはかったわけですし? ギルドの顔役がそれならば、私がやらかしたところで無理はない。

推定無罪、よし!

後ろめたさなどないとばかりにベッド上で薄い胸を張ったら、呆れ顔の師匠から「かなり大量に度数の高いお酒を零したらしくて、顔を近付けて染み抜きしてる最中に酒精にやられて倒れたのよ」と、かなり情けないタネ明かしをされてしまった。

掃除婦としてあるまじき失態に項垂れかけたその時、ジークさんが「綺麗に染み抜きをしてもらったし、休日出勤だからな。手当は弾むぞ」と言ってくれたので。

「やった! それじゃあ私もジークさんが仕事中にお酒飲もうとしてたこと、レイラさんには内緒にしておいてあげますからご安心ください。守秘義務ってやつです」

現金が絡むだけにタダでは起きない。だけどどんな汚れもご用命とあらば落として見せます。ルーカス・ベイリーの汚城掃除婦は憂鬱な気分では務まりませんからね!

──……と意気込んでいたのだけど。

その後はジークさんに、中途半端な作業で終わらせてしまった掃除の続きをさせてほしいと申し出たものの、私がうっかりドジって昏倒しただけだったのに大事をとって帰れと言われてしまった。親切で良識的なジークさんとか妙な気分である。

それと変なのはジークさんだけでなく師匠もだった。

帰宅後はやたらと体調を聞いてきたし、数日間は日に何度も傷痕の様子を見せろと迫ってくるしで、まるで何日も離れていた子供を心配する母親みたいに甲斐甲斐しい。

何が一番怖いって部屋も散らかさないことだ。

あの呼吸をするかの如く腐海を広げていく師匠が、使ったものはまぁまぁ惜しい感じに元の場所に片付けるし、洗濯物も汚れの種類を指定した籠に入れている。こんなことは前代未聞だ。

故に師匠がまともなこの三日間の中で仮定を立ててみた。

今から遡ること十日前、師匠は新商品としてダロイオの湯上がりジェルという、悪魔じみた商品の開発に着手したのだけれど、材料は当然これまでのフェイスパックと同じダロイオ。違うのは利用する量だ。

商品化して全身に使える量となると、乱獲一歩手前くらいのダロイオが必要になる。まぁダロイオは繁殖力が高いからすぐにどうこうってのはない。それに一回成功作ができればそこまでのことはない。師匠は天才だし。

でも天才故に完璧主義者で、試作品というからにはその一回の成功作のために結構な回数をこなす。その材料の調達担当は私。でもよく使われる材料だからといって私がダロイオに親近感を抱いたことは皆無。むしろやつは私の嫌悪感をこね回してできたみたいな生き物だ。天敵。

しかし今回の件で一匹ずつ釣り上げる役目はいつも通り私で……実のところ結構疲れていた。いや、腕がね。奴等は純粋に重いから。魔力籠で掬うのは十日前に止められた理由で断念。水鉄砲で穴だらけはちょっと。

連日ダロイオを使ってジェル作りに四苦八苦しているせいで服はデロデロ。この十日間は毎日洗濯物の山だ。おかげさまであんなに嫌がってた靴下も履いてくれてる。嬉しい半面、洗い替え扱いかぁ……と複雑な気分でもあったりと、ここまでの振り返りを済ませてみれば、ふむ成程? いささか細腕な汚城掃除婦には業務過多かな。

ということは、これはあれですよ。もしや師匠ってば超絶珍しく責任を感じて落ち込んで、弟子を労ったりしてくれようって魂胆では? 

でもそんなことをやったことがないから空回ってる感じ?

だとしたらそれは尊いなぁ。天才が天才である限り絶対できない芸当じゃないですか。弟子を気遣ってくれるのは嬉しいけど、不慣れなことで無理して身体を壊されても困るし、むしろすでに元気がないから元気づけたいってことでひと肌脱ごうではないの。なんて偉そうなことを考えたところで、私も人を慰めるなんてことに関してはあまり経験がない。

だから実際のところは現在隣で無表情のまま、ダロイオのジェルに魔力を注ぎ込んでいる師匠と大差なかったりする。でもそんな時に効く魔法の言葉は、師匠に教わったとっておきを憶えているので大丈夫。

「ねぇ師匠。ここ最近我々はこのダロイオに手を焼かされてますけど、誰にでも失敗はありますよ。こういう時は美味しいものでも食べて元気出しましょう。そうしましょう。てことで、今夜は魚料理が食べたいです!!

「……え? 何よ急に」

「クオーツもフェロン食べたいよね?」

「ギャウウッウー!」

「ほらほらクオーツもこう言ってますし、善は急げです。ダロイオを捨てよ、野に出ようってことで、早速釣りに行きましょう!」

「ふっ……なぁにそれ、結局あんたの独り勝ちじゃないの」

突然の提案に一瞬驚いた表情を見せた師匠は、それでもすぐにそう言って笑ってくれたから。下手くそな慰めよりも食い気が勝っている方が私らしい。

「チッチッチッ、それが良いんですよ。いつも献身的な可愛い弟子のお願いごとくらい聞いてくださいってば」

ダロイオの粘液でデロデロになったエプロンと手袋を作業台に叩きつけ、師匠の方に向き直れば、諦めたような呆れたような笑みを浮かべた師匠が立ち上がる。私達のやり取りを聞いていたクオーツは早くも部屋を飛び出して、釣竿を探しに行ってしまった。

「どうせあんたのことだから、お目当てのフェロンでなくてダロイオを釣り上げたりするわよ」

「うげぇ……ちょっとぉ、なんて怖い未来視するんですか。師匠が言うと洒落にならないんですからやめてください」

弱ってても憎まれ口を叩く辺りは、この師匠が師匠たる所以かもしれないなと思ったけれど、手袋を脱いだ手を差し出してくるその手を取って引っ張れるのは、弟子の弟子たる特権なのだ。

***

一体何がどうしてこんなことになったのか。

ここ十日間頭を悩ませる原因となっている馬鹿弟子はこちらの視線に気付くと、釣り糸を湖に垂らしたまま「師匠、良い天気で良かったですねぇ」とへらりと笑う。その隣ではレッドドラゴンのプライドはもうどこにもなさそうなクオーツが、アリアに尻尾の先に巻いてもらった釣り糸を垂らしている。

「ええ……そうね。良い天気だわ」

「これでフェロンが釣れたら文句なしです!」

「そうそう上手くいくかしら」

「そこは気分の問題ですよ。ダロイオ塗れになって室内で鬱々としてるより、こうして夕飯の材料を狙ってる方が健康的じゃないですか」

「ギュルル、ルールウゥ!」

「だ、そうです」

「〝だ、そうです〟って──適当ねぇ。そんなので本当に分かってるの?」

「適当だなんて心外な。以心伝心って言葉知ってます? 心で通じ合っていればそう言ってるように聞こえるってことですよ」

「間違って憶えてるわよそれ。外で言わないでよ?」

「まぁ何だって良いじゃないですか。あ、師匠は釣りの間は寝てても良いですからね。出番はご飯を作る時に取っておいてください」

食い意地の張ったアリアはそれだけ言うと、暢気な微笑みを浮かべて再び湖へと視線を戻す。こっちも戦力に数えられていないらしいということで、その言葉に甘えて近くにあった木の幹に背中を預けて座り込む。

そしてそっと盗み見る拾った頃よりも幼い丸みの取れた輪郭に、人間ならば短くはないのだろう月日を思う。痩せっぽちでボロボロで、哀れで惨めで、そのくせ人の心配をしてしまうようなお人好しだった子供は、見た目は治療でなんとかなったけれど、性格はそのまま大人になってしまった。

あれはもう七年も前のことなのかと、微かに残る人間の時間の尺度で感じる。最初遠目に転がっていた汚い塊が人だとは、ましてや子供だとは思わず近付いて、嫌々爪先でひっくり返したそれがこの小娘アリアだった。

小さな身体が膨らんで見えるほど火膨れた姿に、微かにしか上下しない胸元。明らかに訳あり者のにおいがする子供を見ても、あの時は悪態しか出てこなかった。ここは死の森として有名だ。一度だけ呼びかけて返事をしないようならここに放置して引き返そう。

どうせ三日もすれば獣に食べられているに違いない。薄情と言えばそれまでだが、人間に対して少々嫌気がさしていたからそう割り切って、一言だけ呼びかけた。するとアリアは小さく身じろいで、何故か『ニゲテ』と返事をしたのだ。当時の俺はその答えが理解できなかった。

自分は二目と見られない姿のくせに、大人ですら一人で置いていかれれば死ぬ森で、ましてやまだ年端もいかない子供がそう口にすることが。放置されたら死ぬしかないと分かっているだろうに、何の迷いもなく。その姿に何故かどうしようもなく救われた気分になって。同時にそう感じた自分と、地面に転がるアリアにとても腹立たしさを覚えた。

だから連れ帰った。勿論ただの慈善事業的な心情からではない。呪いの一種であることは分かっていた。けれどこの小娘にそこまでの絶望を刻み込み、そのくせ人間性を奪えなかったものが何なのか。それが知りたかった。知った上で滅茶苦茶にしてみたいような、手に入れて守り眺めてみたいような相反する気持ちが交差した。

けれどこれまで生き物を拾ったことのないやつが生き物を拾うということが、どれだけ無謀なことであるかを知ったのは割とすぐのこと。当然だが飯を与えても素直には食べない。もしくは食べたいという欲求はあるのだが、身体が受け付けないというのがまず一つ。

次に男の言葉遣いが恐ろしいのか、声をかけただけで気絶することが多々あったために、女の言葉遣いを真似る羽目になったことだ。食事を拒絶してリネンの居城を築いていたアリアが女言葉を真似した俺の前に顔を出した時、この見目で良かったと初めて思った。

あまり入手の難しくないフェロンを使った魚料理を口にして、アリアが笑った日のことは、今でも時々思い出す。

あとは夢見が悪いのか独り寝ができず、気がつけば何度ベッドに潜り込みにきたことか。刺客や夜這い狙いの色魔に狙われることが多い生を送ってはきたが、純粋に抱き枕として抱きつかれたことはなかった。ついでに深夜に漏らされた挙げ句泣かれたことも一度ではない。

考えれば考えるだけ、拾ったことが何かの気の迷いでしかなかったと思えるのに、このどこまでも弛緩した時間が続けば良いと思う自分がいる。アリアのことなら知らないことなどもうないという気がしていた。だからこそ今回の件で、それがただの思い上がりであったことに苛立ち動揺したのだろう。

七日分の記憶を改竄する最中に、齟齬が出ないように多少深く潜って覗き見てしまった過去の出来事こそが、今回の喧嘩の起因だった。

あれはアリアが十四歳になった頃。一度だけどこかで住み込みのメイドとして働きたいと言ったことがあった。

あの時は子供のくせに変な気を使うものだと面白くなかったが、そうしたいならさせてみようと街に連れて行ったのだ。結果は当時まだ広範囲にあった顔の傷を嫌がられ、どこの斡旋場からも門前払いを受けた。

でも城に帰って来てアリアが口にした言葉は『困りましたねぇ。これじゃあまだ当分私が師匠の面倒を見てあげないと』だ。可愛げがなくて小生意気なところが自分の弟子にちょうど良いと。

何より俺はアリアを醜いと思ったことがなかった。美人ではないものの愛嬌はあるし、表情もくるくるとよく変わり、下らない話をしては大口を開けて笑う。幼い頃の偏食が嘘みたいな食欲は見ていて気分が良い。有り体に言えば、一緒に生きていても退屈しないところが気に入っていた。

もしも退屈を感じるようになったらどこかで独り立ちさせれば良い。最初はその程度に感じていたように思う。

「……アリア」

「はぁい──って、あれ? まだ起きてたんですか師匠。どうしました?」

「あんたはあたしの顔以外ならどこが好きなの?」

早速餌を取られたらしく、釣り糸を手繰り寄せて餌をつけかえようとしているアリアの横顔にそう問うと、一瞬だけ困惑した視線をこちらに投げかけて、こちらの暇潰しの一環だと思ったのか苦笑しながら作業に戻る。

クオーツが鼻で笑った気配がしたので「夕飯減らすわよ」と脅せば、スーッと少し離れた場所に飛んでいき、尻尾から湖面に垂らされた釣り糸が水面に一本線を引いた。あれではせっかく餌を突いていた魚も逃げただろう。

「えー……それはまた、いきなり面倒くさい彼女みたいなこと言いますね」

「いいからさっさと答えなさい」

「はいはいお待ちを。まずはそうですねぇ、その傍若無人過ぎる性格は嫌いじゃないですよ。凡人には計り知れない自由なものの考え方とかも。あとはご飯を作るのが上手なところですね。これは師匠のことを語る上で外せません。それとあとは……なんだかんだで、趣味じゃないのに弟子からの贈り物を使ってくれるところです」

「ふぅん、そう。分かったわ」

「合格みたいで良かったですけど、結局何の質問だったんですかこれ」

「別に。暇だったからちょっと聞いてみただけよ」

「そんなことだと思いました。さぁもう釣りの邪魔するのはナシですよ。夕飯がかかってる真剣勝負なんですから」

──ということで会話はこれにて終了したが、アリアがこんな性格の悪い師の中身も慕っているという結果は、十日前に覗いた記憶の中の答えとそう変わらないものだった。喧嘩をした七日分の記憶を抜き取られているとも知らずに、日常を繰り返していると信じ込ませる。

いっそ目蓋を閉じて自己嫌悪に酔おうにも、脳裏に浮かんだのは魔術を極めるために自身の姿も手放した狂人マーロウと、店でアリアの傷を見てもらったあの日に交わした会話だった。

『はっきりざっくり言っちゃうと、あの傷痕は呪いの影響だヨ』

『そんなことは七年前に拾った時から分かってるわよ。当初は全身に火傷みたいに広がってたんだから。そのせいかどうかは知らないけど記憶もなくしてるし。専門ならあたしの知らない情報を増やして頂戴』

『記憶は脳が生存本能で飛ばしたとしても……拾って七年? それも当初はあの傷痕が全身ニ? だとしたらあの子は充分長持ちしてるヨ。流石はルーカス』

『どういう意味よ』

『確かにあれは呪いの影響だけど、あの子自身が呪われてる訳じゃなイ。誰かの受けるはずだった呪いを押しつけられてル。あの子は優秀な【呪い避け】ダ。かなり珍しいけどたまにいるんだヨ。魔力を持って生まれなかったのに、魔力を引き寄せやすい体質の子がネ』

『呪い避けって……またえらく古風で悪趣味な魔術じゃない。しかも大陸全土で三百年も前に禁術になったでしょう?』

『だネ。でも事実今この時もあの呪いは生きて発動してル。ただ、おまえが過保護につけさせまくってる護符のせいで、相手側にあの子の座標が辿れなくなってるみたいだけド。あまり深く探れば呪いをかけた術者に座標が辿られてしまうから、深入りはしない方が良イ』

そんなふうにアリアの身にかけられた呪いを言い当てておきながら、その実遠回しでも何でもなく〝諦めろ〟と軽く言ってのけた、俺以上の人非人にんぴにん。だがそれとつるんでいた過去の自分は、恐らく暢気なアリアから見れば人非人以外の何者でもなかっただろうことは、容易に想像がつく。確かにあの当時の自分であれば、マーロウと同じ結論に辿り着いたはずだ。

けれど今はそうもいかない。アリアは俺の拾った弟子で。人に舐められるのが何より嫌いな性格の悪い俺に、弟子をあんな目に遭わせた奴を野放しにしろと言われてそうする道理はない。アリアが見つけられる前に呪いをかけている相手を殺す。それだけだ。

そのためにもあのあとすぐにジークに頼んで情報を集めさせた。充分な金を握らせさえすれば、普段は適当が服を着てぶらついているような男でも、獲物をしつこく追う肉食獣の本性を見せる。

渋るアリアを説き伏せて服を見繕いに行った日。

ジークから受け取った小さなメモには、マーロウが言っていた【呪い避け】に関しての──幼かったアリアが、自衛のために記憶を失うに至った可能性の手がかりがびっしりと書き込まれていた。そこに並んでいたのはすべて、子供の足でも辿り着けそうな近隣の町の名前。

《カラント、情報なし》

《ロイデン、情報なし》

《アトラ、情報なし》

《ジンダス、情報なし》

《グレネータ、情報なし》

特段有力そうなものは見当たらない、ともすればジークに支払った調査金が無駄になったかと歯噛みしかけた。しかし──。

《クスト、複数の子供の行方不明事案有り》

たったそれだけの短い一行の表記と地名。クストと言えばこのランダード王国の端、隣国バシリスとの距離の方が近い街だ。まだ当時十歳だったアリアが、大人の手を借りずに移動できる距離ではない。

でもだからこそ気になった。果たしてこれは意味のある情報なのか、それとも単に捜索範囲の中で引っかかっただけなのか。ただ一つだけはっきりとしているのは、それが厄介事のにおいがする案件であることだけだった。

寝返りを打つふりをして眼帯を外したアリアの横顔を盗み見る。今度は真剣に釣りに取り組んでいるのか、愛嬌のある垂れ気味でクルミ色をした双眸がこちらを向くことはない。

長閑のどかな風が吹いてアリアの狐色の髪をたなびかせ、湖の水面を揺らす。鳥の声、木々の葉音、魚が餌に食いつかないとクオーツが不満気に鳴く声に──ふと、眠気が襲ってくる。

うつらうつらと夢うつつな耳に届いたのは、馬鹿みたいに暢気でお人好しな弟子の「ふふふっ、魚釣りはこういうものなの。それとクオーツ、師匠が寝てるから静かにね」という、どこか弾んだ、なんとも締まらない声だった。